あなたに花を

08

店長と葉奈がを懸命に守り、商店街が常にを大事に大事にして、そうやって悲運の中にあるになんとかして笑っていてもらいたいと努めた結果、は辛くても悲しくてもそれを誰にも見せられなくなってしまった。こんなに助けてもらってるのに、愚痴なんか言ったらいけない。そんな思いに縛られた。

その縛めは、花形に名を呼ばれたことで全て緩み、解け落ちてしまった。

の中の花形に対する想いは、どう大きく見積もっても「ちょっといいな」くらいしかなかっただろう。それでも、思わぬ災難に見舞われて以来、人の顔色に過敏にならざるを得なかったには、花形の言葉に自己満足の善意や勢いの同情など感じられなかったに違いない。

花形の「ちょっといいな」は「けっこういいな」になり、を大事に思っている商店街の小父さんたちに混ざりたいと願った。じゃなくてと呼びたい、手を繋ぎたい、それはなぜか。――好きだから。

「お前が嫌じゃなかったら、そういう怖いこととか、つらいのとか、オレに分けてくれよ」
「花形くん……

部屋の中はエアコンで冷やされていくのに、の顔は熱くなるばかり。花形も目の奥が燃えるように熱い気がしている。本心をそのまま言っているだけなのに、過剰な演技でもしているような錯覚に陥る。

「べ、別に付き合ってくれとか言わないし――

これは本心ではなかった。が、花形の鎖骨辺りに顔をうずめたは首を振る。

「嬉しい、ありがとう、私も花形くんのこと好きになれると思う。ていうかたぶんもう好きだよ」

そんなことをぐずついた声で言われて、頭が爆発しそうになって、それでも本能に負けたくない花形は殊更にを強く抱き締めた。そうでもしなければ何をするか自分でもわからない。しかし、もやしとは程遠い花形が力を入れて抱き締めたら、そりゃあ痛い。

「んっ、花形くん、痛い」

鼻にかかる声がくぐもって、腕の中のは身を捩る。ただでさえ狭く何もないアパートの一室、静かなふたりきりの空間だ。色々思考が飛躍したり反転したり落下したり上昇したりして、その結果花形はの肩を掴んで力任せに引き剥がした。は目を剥いている。

「ど、どうしたの、急に」
「いや、なんでもない……

理性が吹っ飛びそうだとは言えない。は不思議そうな顔をしつつ、ふにゃりと微笑む。

「去年、あんなことがあったから、誰かと付き合うとかそんなの絶対無理だって思ってた。嬉しい」

涙が滲み、潤む目のは肩にある花形の手にそっと触れる。そして、肩をすくめて頬を摺り寄せる。葉奈の言うように、恋愛をする資格などないと思っていた。誰がこんな不安定で危険な女の子と一緒にいてくれるだろう、好きになってくれるだろう。

まあそれはともかく、花形は大変である。せっかく冷静になろうと引き剥がしたのに、手に頬擦りされながら「嬉しい」などと言われてしまっては、クールダウンしたくても出来ない。エアコンが効いてきて涼しいのだが、熱い。肌は冷えていくけれど、中身が沸騰しそうだ。

「オレ、帰るわ!」

もう少しましな言い方はなかったのかと後になって大変後悔する花形だが、このときは何しろ焦っていて、とにかくから離れなければならないということしか考えられなかったのだ。普段試合でもない限りは穏やかなだけに、一度舞い上がってしまうと自分でも御しきれない。

「え!? なんで!?」

立ち上がりかける花形の手には思わずしがみつく。にとってはいい感じの時間だったのに。

「まだご飯も食べてないよ!」
「すまん、マジでごめん、オレ変なことするかもしれないから帰る!」

本当に言い方というものがある。花形はしがみつくを引きずって玄関まで来た。

「へ、変なこと!? 花形くん落ち着いて!」
「変なことっていうか、その、こんな状況で何もしない自信がない! ごめん!」

足を突っ張って花形の腕を引いていたは、手を解放すると、花形がドアに手をかけないうちに背中にしがみついた。逃げることしか考えていなかった花形はびくりと背中を震わせる。

……頼む、離してくれ」
「こんな状況で置いていかれたら私だって嫌だよ」

花形がとりあえず足を止めたので、は静かに腕を緩める。玄関のドアに手をついて背中を丸めている花形を回転させると、右手で顔を覆っていた。腹を抱いている左手には手をかける。

「もう少し一緒にいてよ。へ、変なこと、してもいいから!」
「いやお前何言ってんだ!」

この辺が花形の頭の固さである。だが、据え膳を食わぬことが恥になるのは、相手に恥をかかせるからだ。花形はの背中に手を伸ばし、ゆっくりと引き寄せた。玄関の三和土との段差で、15センチほど距離が縮まっている。が少し爪先立ち、花形は首を伸ばして屈み込む。

……お前がいいって言ったんだからな」
「言ったよ。さっきから言ってるよ」
「後悔しても知らないからな」
「後悔なんかしな――

が全部言い終わらないうちに、唇を押し付けた。ああだこうだと言い合っていたのが、潮が引いたように静まり返る。安っぽい冷蔵庫が身を震わせて音を立てる。どこからかテレビの音が聞こえている。家具も家電もないの部屋には、そんな音がよく響く。

「オレ、商店街の小父さんたちに袋叩きにされそう」

照れて何も言えないをまた両腕に抱き締めながら、花形は大きくため息をついた。

翌日から期末開始なので「変なこと」はキス止まりだった。だが、心の縛めが緩んだは花形が驚くほど甘えてきた。これもおそらくは抑圧された生活の反動だろう。わがままを言うわけではないのだが、傍を離れたがらず、この日花形は甘い誘惑に耐え続けた。

例外はあるにせよ、テスト期間中は午後に有料コートで練習を入れることが多い。たかだか2週間前後の部活停止期間でも練習出来ないと不安になってくる。それを蹴るつもりはないが、有料コートの誘いがなければまたと一緒に勉強したいと考えている。それには誘惑に勝たねばなるまい。

色々考えた挙句、花形は良案を思いつく。

「ふたりでいいのに」
「誘惑しないで下さい」

はふくれたが、花形は取り合わない。藤真と長谷川が商店街の南ゲートで待っていた。

「勉強なんかふたりでやればって言ったんだぜ、オレは」
「藤真に同じ」
「私もそう思ってるけど、まあこれ、食べていってよ」

花形はひとり知らん顔である。とりあえず藤真と長谷川がいれば「変なこと」をしたい気にもならないはずだ。その上全員でお勉強出来て一石二鳥。今日も大漁の惣菜は冷蔵保存に回ることなく全部片付く。一石三鳥だ。

の部屋が「女の子の部屋」だと考えているとなかなかにショッキングであることは、予め説明してある。なおかつ、少々勢い任せだったとは言え、すんなり付き合い始めたことも当日の夜には話が行っていた。藤真と長谷川の正直な感想は「なんかホッとした」であった。

そしていざお勉強を始めてみると、花形以外の3人は成績がほぼ横並び状態で、結果的に花形先生によるお勉強会になった。それはそれでなんだか楽しかった。しかも食べるものにも困らない。

「オレ夏休みの間、昼は商店街行こうかな」
「おいでよ、うちのバックヤードで食べればいいじゃん」

春巻きに噛り付いていた藤真が言うと、は嬉しそうに手招いた。インターハイの成績如何に関わらず、お盆の学校閉鎖期間が過ぎると翔陽バスケット部は体制が変わる。3年生が全員夏で引退してしまう場合はそのときから2学年体制になってしまう。

お盆の学校閉鎖期間以降は、そんな変化の中を基本的に1日中練習が続くのだが、昼休憩は普段より長く取るよう指示されている。熱中症予防の意味もあり、水分補給と共に少し体を横にするよう指導もされているが、今のところそれをちゃんと守っているような生徒はあまりいない。

夏休みの間も学食は開いているのだが、夏休み措置でメニューが半分以下に減る。これが生徒たちには非常に不評。しかし、利用者は半分以下どころか五分の一以下になるので、文句を言ったところでどうにもならない。盛夏のことなので弁当持参も人気がなく、コンビニ頼りになりがちだ。

長い昼休みは2時間半。藤真の言うように商店街で昼を済ますのはいい考えだった。

「でも、そんなことしてたらみんな着いてくるんじゃないのか」
「バックヤード、入りきらないだろ」

花形だけでなく長谷川も頭が固い。と藤真はため息をつく。

「別に全員入れることないだろ。人数が多かったら外行けばいいじゃないか」
「全員で同じところ行かなくたっていいんだし。少ないときだけうちにおいでよ」
「ふはは、みんな葉奈ちゃんの洗礼を受けさせてやる」

藤真は不敵な笑みで亀屋謹製のきゅうりの一本漬けを食い千切った。

無事に期末を乗り越えた花形たちは、一週間の合宿を挟み、8月に入るとインターハイへ出かけていく。

花形はもちろんのこと、ちょくちょく顔を出す藤真と長谷川も商店街ではお馴染みになりつつあり、インターハイと言っても通じないお歴々にも「高校総体神奈川代表」なのだとが説明すると、にわかに色めきたった。

特に最近脱サラをしてフローリストの近くで「うどん あさひ屋」を始めた小父さんは目の色を変えた。小父さんと言ってもまだ30代だが、過去にインターハイ出場経験があるらしい。種目はハンドボール。本人は「惜しかった」と言っているが、奥さんは「1回戦負け」だったと教えてくれた。小父さんは壮行会を開こうとまで言ってくれた。

しかし合宿からインターハイまでは時間があまりない。壮行会はありがたいのだが、そんなことをしている時間があったら練習したいのが本音である花形たちは、にとりなしてもらい、出発前日の夜にだけ顔を出した。結果、また惣菜を主とした各種差し入れを両手に抱えて帰る羽目になった。

「まあでもタオルとかは助かるよな」
「粗品だけどいいの? 思いっきり『瀬戸物 鈴屋』って書いてあるけど」
「いや持っていかないよ。家で使うって」

それでも一旦閉店後のフローリストのバックヤードで差し入れを全て並べ、誰が何を持って帰るか協議した。藤真が軽く10枚はあるとかいう瀬戸物屋の粗品タオルでジャグリングしている。店長はに内緒の商店街護衛チームと定例会議兼飲み会のため不在である。

「これもまあ助かるけどな」
「ちょっ……あのオッサンなに考えてんの。ごめんね長谷川さん」

藤真には風当たりが強い葉奈だが、長谷川には懐いている。長谷川がビニール袋から掴みだしたのは、これまた近所の接骨院の先生がくれた湿布である。この先生も柔道家で、インターハイと聞いてテンションを上げたひとりである。何も販売していないので、湿布を掴んで寄越したらしい。

「っていうか、葉奈ちゃんはなんかないの」
「どうしてこう顔のいい人間て言うのは図々しいのかな。まあいいけど、はい、これあげる長谷川さん」
「って一志かよ!」

つい本気でツッコむ藤真の前で、葉奈はバッグから取り出した絆創膏を長谷川に手渡した。葉奈お気に入りのゆるキャラデザインである。ないならないでいいものを、こう区別されると面白くない。藤真は粗品タオルで長谷川をペチンペチン叩きつつ、悔し紛れに矛先をに向けた。

は? なんかないの」
「えっ、ええーと、その」
「藤真、花形にはあってもオレたちにはないだろ」

これだから葉奈にバカにされる。しかもは妙にどぎまぎしている。花形には用意してあるということだ。

「やっと合宿から帰ってきたと思ったら、もうインターハイだもんねえ。今日はふたりで帰りなよ」
「葉奈ちゃん!」

は顔を真っ赤にしている。花形とのことは、今のところ葉奈と藤真と長谷川と花形父だけが知っている。元々このふたりをくっつけようと目論んでいた店長は、葉奈の一存で選考から外れた。航とメルヘン母も花形の意見を考慮して外されている。

「そういや合宿の間の送りとかどうしてたんだよ」
「航が毎日来てたらしいけど」
「基本的には花形弟とアタシー。花形父の許可が下りたとかで、ママさんもよく来てたよ」

または申し訳なさそうな顔になる。花形は自分の身内なので、好きでやってんだから好きなようにさせとけと思っているが、付き合い始めてしまったので余計に気兼ねしてしまうのだろう。

「じゃあインターハイの間も心配ないな。そろそろ帰るか、一志」
「アタシ長谷川さんのチャリ乗せてってもらうの。イケメンはひとりで帰んな」
「一志この裏切り者……!」
「じゃ、じゃあ藤真、途中まで一緒に帰ろ」
もそういう気遣いやめてくれる? 泣きそうになるから」

葉奈の精神攻撃で脆くなっているところにの悪い癖が出て、藤真は余計に惨めになっている。が、そんなやりとりで騒いでいると藤真の携帯が鳴り出し、ぶすくれながら出ると藤真の母親の怒鳴り声がけたたましく響いてきた。明日は出発だというのに時間はそろそろ21時である。

それを潮に花形と、藤真、長谷川と葉奈に分かれて店を出る。藤真は母親の機嫌を取るために少し多めに惣菜を持って帰った。彼の母親はフルタイムで働いているそうで、惣菜類は殊の外喜ばれるのだとか。

花形とは、焦って帰っていった藤真と自転車の長谷川と葉奈を見送りつつ、静かに歩き出した。21時ともなるとほとんど人のいない商店街であるが、アーケードの切れ目から延びる幾多の路地には飲食店が多く、夏の夜を楽しむ客で賑わっている。店長もこの辺りにいるはずだ。

「なんかみんないつも通りで、私の方がドキドキしてきちゃうな」
「今から緊張してると本番までに疲れるからな。意外と気にしないもんだよ」
「花形くんは試合出るの?」
「うーん、まあそれは状況次第。藤真は出るよ」
「あんなにいっぱいいるのに、なんかもったいないね」

翔陽バスケット部の100人近い部員は、素人のにはストック戦力に見える。

「でも、無事に帰ってきてくれたらそれでいいや」
「そりゃお前の方だ。また航が来ると思うけど、気をつけてくれよ」

商店街が遠くなると、花形は荷物を片手にまとめ、の手を取った。は小さく息を吐いて、繋いだ手をふらふらと揺らした。

「なんかさ、ちょっと前まで色んなことが実はどうでもよかったり、かと思えば何でも怖かったんだけど、今ちょっとそういうの、ないんだ。どうでもよくないし、あんまり怖い気もしなくて。あ、油断してるわけじゃないからね」

店長と葉奈たちへの遠慮や、自分の両親への恐怖、それが花形をはじめとする護衛チーム新入りの存在によって薄らいできている。中でももちろん花形が想ってくれるというのが一番大きい。しかし、なぜかまだ「」に「花形くん」のままである。ふたりきりでもそれは同じ。石頭と遠慮しいなので進展がない。

アパートの前まで来ると、はバッグの中から包みを取り出して花形に手渡した。藤真と長谷川にはない、差し入れである。中身は塩飴と冷却スプレー。花形が自分で買えないような物はかえって迷惑になるだろうと考え、この地味なラインナップに落ち着いた。

しかし中身など問題ではない。自分にだけ用意してくれたということが堪らなく嬉しい。花形は素早く周囲を確認すると、ギュッとを抱き締め、静かにキスした。インターハイから帰ってきたら、どうにかして「」呼びになろう。にも「透」と呼んでもらおう。そう考えながら。