あなたに花を

07

店番をしたがるを監視する意味もあって、花形は期末テストまでの間、毎日フローリストに立ち寄って一緒に勉強した。勉強をしていると葉奈もうるさく言わないし、部活のない兄が毎日来ていると知った航は寄り付かなかった。

は勉強が苦手なわけではないようだったが、どうも心ここにあらずといった様子で、何かに付けて店の方を気にしては花形に注意される、ということを繰り返していた。遠慮しつつも代わる代わる顔を出す周辺店舗の小父さんたちも、それを面白がり始めた。

「葉奈に比べたらは落ち着いてると思ってたけど、そうでもねえなあ。透兄ちゃんの方がうわ手だな」
「アタシに比べたらってどーいう意味よ」

航がしょっちゅう出入りしているせいで、とうとう花形は「透兄ちゃん」になった。兄弟、そして母まで入り浸っているので、苗字で呼んでも誰が誰やらになってきたのである。しかしさすがにメルヘン母は「花形さん」であるから、自然と息子ふたりは名前で呼ばれるようになった。

「透兄ちゃんが朴念仁なだけでしょ」
「葉奈ちゃんが無頼漢なだけだろ」
「アタシは女!」

葉奈も「透兄ちゃん」になった。ということは店長もそう呼んでいるので、未だに「花形くん」と呼んでいるのはただひとりである。もちろんで花形以外には「」だの「ねーちゃん」だのと呼ばれているので、このふたりだけ呼び名の距離が縮まらない。

もっとも、たかが数日を経ただけで距離が縮まらないのはごく自然なことである。メルヘン母や葉奈の方が少しずれているだけ。それでも「ちょっといいな」が「けっこういいな」に変わりつつある花形は、堂々とリストバンドを着用するようになった。

すぐにそれに気付いたには、「左手が疎かになりやすいんだ、オレ。これちょうどいいよ」などと白々しい言い訳をしてみた。はコロッと信じたが、葉奈には通じない。さんざん突っつかれたが、藤真も長谷川も色違いをもらったのだと説明したら逆に慰められた。

そんなこんなですっかりフローリスト周辺でもお馴染みになった花形は、閉店時間までとバックヤードで勉強し、そのままを送って帰っている。1度だけ店長に連行されて商店街路地店舗の隠れた名店、中華の梅月で食事をして帰ったが、基本的には惣菜責めにあう毎日である。

そのたかが数日の繰り返しても、は玄関前まで送られることには慣れてきた。慣れたと言っても謝らなくなったというだけのことだが、にとっては大した進歩である。

店長の方も高校生らしく過ごして欲しいと願っていたわりには、学生の本分である勉強する時間がに足りないことをやっと自覚したようで、期末初日前日の日曜には店に来なくていいと言い出した。商店街の人々は寂しいだろうが、のことを思えばそれも致し方ない。

とはいえ、フローリストを出てしまうと、ふたりで勉強するような場所がない。日曜なので図書館などは休みだし、学校は人の目がありすぎる。仕方なく商店街最寄り駅近くのカフェになったのだが、午後に入ると混み始め、長居出来る状況ではなくなってしまった。

行き場のなくなったふたりはとぼとぼとフローリストに戻って来た。少し面白くなさそうな店長だったが、こればかりはどうしようもない。夕方頃まではバックヤードに置いていたが、日が傾き始めると、帰れと言い出した。店長の目論見がなんとなく見える花形だったが、もいることだし、それは突っ込まなかった。

夏の夕暮れの中を今日も惣菜片手にを送っている花形は、店長の思惑とは関係なく、ぼんやりと考えている。「」ではなくて「」と呼ぶにはどうしたらいいか。この送って帰る間だけでも手を繋ぐにはどうしたらいいか。どちらも正しい手順がまるでわからない。

遡ること約1年前にほんの数週間付き合った彼女は、「彼女いないなら彼女にして」と言われ、断るに断れないまま頷いてしまい、そのままにしておいたらいつの間にか自分が振られたことになっていた。手を繋いで歩いたのはたったの2回。それも向こうから繋いできたので、今、非常に困っている。

メルヘン母に今もベタ惚れである父に聞いてみようかと思ったこともあったのだが、28歳のときに知り合った17歳の高校生に一目惚れして、29歳のときに18歳の女の子を嫁に貰った父のケースなど参考にならない。

しかし今日はそんな花形の静かな煩悶に追い風が吹いた。

ちょうど暗い路地に差し掛かるかという頃、の携帯にメルヘン母からメールが届いた。本人の印象とは裏腹に固い文章を書くメルヘン母のメールをは口に出して読み上げた。息子が隣にいるのに、内容を隠すのは申し訳ないという、いかにもらしい理由からである。

「明日から期末テストですね、透と、勉強を頑張っていると聞いたので、先ほど、洗濯機の中に差し入れを入れておきました、全て加熱してあるし保冷剤をいっぱい入れてあるけど、早めに食べるか冷蔵庫に入れてね、だって」

ふいうちで名前を呼ばれる事態になった花形は、の読み上げる内容があまり頭に入らない。

「わ、悪いなうちの親唐突で」
「どうしよう、これ」

軽く動揺している花形に気付かないのか、は片手にぶら下げているナイロンのバッグを持ち上げた。いわゆるエコバッグの類であるが、その中身は商店街のお歴々が次から次へと持ってくる惣菜類である。店長親子と分け合って持ち帰ってはいるが、それでもかなり大量になる。

「冷凍出来るものはいいけど……夏だし、あんまりもたないよね。困ったな」

にとって、もらった惣菜もメルヘン母の差し入れも、食べきれなければ捨てるという選択肢はない。花形は母に、は食べ物は間に合っていると言っておいたのだが、メルヘン母は基本的に「手作りの家庭料理至上主義」なのである。さてどう母に自重させたものかと考えていた花形に、が小さな声で呟いた。

「は、花形くん、ご飯、食べて行く?」

背に腹は代えられないということなのかもしれないが、その少し戸惑った声に、花形は即答した。

「食べてく」

そのあまりの早さには頬を染めた。店長の目論みの経過は実に順調である。

2階建ての木造アパートはだいぶガタが来ているようだが、得体の知れない住人が潜んでいる風でもない。三輪車やおもちゃが階段付近に散乱していたり、枯れていない鉢植えが玄関に並んでいる部屋があったりと、さすがにまともな住人が暮らすアパートのように見える。

階段の最下段あたりにかかる不動産屋のスチール看板に花形は見覚えがあった。商店街の中で見た覚えがある。の事情をわかって斡旋してくれたのだとしたら、ボロくても地域環境が良い物件なのかもしれない。

「コンビニの少し先が交番だから、ここがいいよって」

花形の考えを読んだわけではないだろうが、はぼそりとそう言った。

「バス停も近いし、道路挟んで向こうに大きい病院があるのね。だからコンビニはいつも人がいるし」
……そうだな。袋小路になってないし、ここは夜も交通量が多いから」
「少しうるさいけどね」

上下4つずつ部屋があるアパートの、2階の手前から2番目がの部屋だった。表札などはない。

「この中かな。あった。うわ、冷たっ!」
「最近急に暑くなってきたからな、ガンガンに冷やしておかないとと思ったんだろうな」

洗濯機の中からメルヘン母の差し入れを取り出したは、冷気の立ち上る保冷バッグを花形に預け、鍵を開けた。少し、いやけっこうドキドキしながらの後について部屋に入った花形は、部屋の中の光景に息を呑んだ。そして、を預かりたいと泣いた母を一方的に責め立てたことを後悔した。

部屋の中には、本当に何もなかった。家具も家電も、何も。

キッチンとユニットバスの奥に横並びの二間、という部屋の中にかろうじてあるのは小さな冷蔵庫と小型のこたつのようなテーブル、そしてきちんと折り畳まれている寝具が2組。メルヘン母が嘆いたカーテンは遮光性の高い灰色で、を守ると同時に部屋を薄暗くさせていた。

「昼間暑かったからなあ。せっかく花形くんいるし、堂々と窓開けちゃおうかな」

はにこにこしながら窓を開け、締め切っている間に篭ってしまった熱気を逃がす。だが、まだ明けない梅雨の空の下、さわやかな風など入って来ない。はつまらなそうに窓を閉めてエアコンをつけた。きっとこの半年というもの、窓もカーテンも怖くて開けられなかったのだろう。

に座るように促されて、花形はテーブルのある部屋に腰を下ろすが、寝具の傍らにまとめて置いてあるボストンバッグひとつとスポーツバッグ2つに胸を締め付けられる。の私物はそれだけしかないらしい。

「なんか何もなくてちょっと恥ずかしい。ごめんねテレビもなくて〜」
「そんなこと気にするなよ!」

が照れ笑いながらそんなことを言うので、花形はつい声を荒げてしまった。ふたりとも言葉に詰まる。

「黙ってようと思ってたけど、もういい。この間、うちの親が泊まっていったろ」

許容量をオーバーしてしまったのだろう、花形は片腕を伸ばして正面に座っていたの手を掴む。

「次の日、帰ったら、母親が泣いてたんだ。父親も航も呆れてて、何があったのかと思ったら、お前と葉奈ちゃんをうちで預かりたいってごねてたんだ。さすがにふざけんなと思って、父親も航もそんなのはダメだって怒って、だけど母さんはちゃんが可哀想だって何度も何度も言ってて、大袈裟なって思ってた」

エアコンの風にそよと前髪を揺らしながら、花形はもう一方の手もに手に重ねた。

……ごめん」
……なんで花形くんが謝るの。それは間違ってないよ」

普段冷静な花形が動揺しているので、逆には落ち着いているようだ。花形の大きな手をそっと持ち上げて膝の上に置き、両手で覆った。それでもまだ花形の手の方が大きい。

「驚かせちゃってごめん。いつどうなるかわからないから、その、いつでも逃げられるようにしてあるんだよ」

花形は忙しなく首を振った。そんな逃亡者のような生活をなぜお前が。

「あっ、これしか荷物がないわけじゃないんだよ。母親のものとか、とりあえず必要ないものはお店の上にね」

フローリストは古い商店街ではごくありふれた店舗併用住宅になっている。小間物屋、弁当屋ときて三代目がフローリストである。店舗併用住宅と言っても、昭和の遺物だ。風呂もなければ2階は2間しかなく、当然店長と葉奈は一度もそこに住んだことはない。花屋を開いて以来、ずっと物置になっている。

「花形くん、お客で来ただけなのに、いつの間にか航くんやお母さんまで巻き込んじゃってごめんね。こんなの、びっくりするよね。怖いよね。私も大袈裟なって思うよ、今のこんな生活」

花形はゆっくり顔を上げた。普段の何事も遠慮から始まるの声ではなかった。

「みんなが助けてくれればくれるほど私もつらい。店長も葉奈ちゃんも、みんなみんな大袈裟だよ」
「でもそれは――
「こんなの、いつ終わるかもわからないんだよ。何十年も続くかもしれないんだよ」

花形の手を覆うの手のひらがきゅっと縮まる。

「父親は見つからないかもしれない、お母さんは意識が戻らないかもしれない。だけど時間はどんどん過ぎていって、再来年には高校卒業しなきゃならない、その先どうするのかも考えられない、ずっとずっと店長と葉奈ちゃんに寄りかかって生きていかなきゃならないのかと思うと怖い」

こんな状況のに、自立の道をひとりで勝手に模索しろというのは酷だ。誰か大人が手を差し伸べてやらなければ、まとまる考えもまとまらないだろう。しかしだからこそ本人は不安が消えない。店長だって自分の仕事と子育てで本来なら手一杯のはずだ。を守る以上に手をかけてやる余裕はないだろう。

「ねえ、だから、花形くん、あんまり深入りしないで。バスケ頑張ってるのに、こんなことに煩わされて――

いつかのように笑顔を作っているが、目だけは笑えていなくて、泣き出しそうなを花形は抱き寄せた。いきなりだったせいもあるが、花形が想像していたよりもずっとすんなりとは腕の中に納まった。突き飛ばされるかもしれないと反射的に考えた花形だったが、はおずおずと背中に手を伸ばしてきた。

「もう、無理なんだよ」
「は、花形くん」
「オレ、お前のこと好きだから、無理だ。気にしないなんて、出来ないよ」

の腕を背中に感じる。それが花形の口を滑らせた。腕の中のがびくりと体を震わせる。

――――

それでも躊躇った唇から、零れ落ちた。は花形のその声を引き取るようにして泣き出した。