あなたに花を

11

商店街大捕物は、高校生たちの身元を明かさないという徹底した緘口令により、騒ぎに発展せずに済んだ。しかし警察はそういうわけにいかないので、は当然ながら、花形たち3人も事情聴取を受けた。花形たちは場所があさひ屋だったので、ごくごく簡単な聞き取り程度だったのだが、危うく感謝状を貰う羽目になる所だった。

一方、指名手配犯であるの父は、逮捕されたものの、即座に病院送りとなった。の前に突然現れたのも、体の不調を感じてのことだったそうだ。だからに「助けて」と言った。検査の結果、重篤な肝機能障害に陥っていたことが判明する。逃亡中も酒を飲み続けていたようだった。

そうして夏休みが終わる一週間ほど前に、突然息を引き取った。葬式もやらない、火葬だけにすると連絡を貰ったは、止める店長を振り切って父親の生まれた町まで出かけていった。葉奈は林間学校で留守だったので、花形が付き添った。はひとりでいいと言ったのだが、花形は勝手に付いていった。

制服姿のは、棺の中の父親の顔を見ても泣かなかった。父親の姉だという伯母に誠意のない謝罪を投げつけられても、顔色ひとつ変えなかったし、震えだすこともなかった。けれど、お骨上げを終えて斎場から出ると、黙って花形の手を強く握り締めた。

夏の午後の下り列車はほとんど人もいなくて、静かだった。シートもがら空きだったのだが、ふたりはずっとドアの辺りで立っていた。が花形に抱きついて離れなかったからだ。途中の大きな駅で乗客がたくさん乗り込んでくるまで、花形はをゆったりと抱き締めてやりながら窓の外を見ていた。

そしてこの日、花形はのアパートに泊まった。

何もしなかった。何かをしようという気も起こらなかった。何もない部屋で布団を並べ、向かい合って手を繋ぎ、他愛もないことをずっと話していた。安心して開け放っておける窓からは、赤い夏の月がよく見えた。

その翌日のことだった。は花形の腕を抱きかかえて眠っていたところを携帯の着信音で起こされた。かけてきたのは店長で、なんとの母親が意識を取り戻したと言う。後で店長に散々突っ込まれることになるのだが、つい花形も病院まで着いて行ってしまった。

意識が戻ったからといってすぐに退院出来るわけではないが、ともかくこれでを取り巻く暗い影の原因は全て取り払われた。困難がないわけではない。それでも常に心を苛む事態が好転した。それだけでは充分だった。これなら自分の将来と向き合えそうだと花形に零した。

だが、の受難はこれで終わりではなかった。

夏休みが終わり、とりあえず危険と隣り合わせという状況ではなくなったは、店長と葉奈の住むマンションの近くに引っ越した。母親がいつ退院してきてもいいように、明るく静かな部屋を選んだ。

学校は始まっていたが、荷物が常に最小限にまとまっていたおかげで引越しはスムーズに片付いた。その上商店街や花形家からも応援が出たので、フローリストの2階にある荷物も含め、移動作業は土曜日の朝に始まり午後には全て終わった。花形たちが手伝うまでもない早業だった。

こじんまりとしたアパートだが、家電も入り、は半年以上ぶりにテレビのある生活に戻った。

「ねえもしかして、前より花形家が近いんじゃないの」
「相当近くなったよ」

引っ越した翌日の夜、身長を当て込まれて花形は新しいカーテンをレールに取り付けに来た。かつてメルヘン母が嘆いたカーテンは、明るく柔らかなピンクベージュになり、女性の部屋らしくなった。隣でカーテンフックを手渡す手伝いをしている葉奈は花形の横顔を見上げるとにたりと笑った。

「ママの退院はまだまだ先だし、よかったねえ兄ちゃん、ラブラブし放題だ」

淡々と言う葉奈の言葉に花形は激しくむせた。

「葉奈ちゃん、あのな」
「でもな〜兄ちゃんの気持ちを疑うわけじゃないけど、今までがちょっと特殊だったからなあ」
……どういう意味だよ」
「出来れば仲良くしていて欲しいって話」
「そのつもりだけど」
「それならいいんだって。アタシはあんまり世の中の事象を信用してないからさ」

また葉奈は陶酔気味なことを言い出した。だが、葉奈は言葉の選び方が可愛くないだけで、勘は鋭いし年齢の割に物事を見極める能力が高い。花形は少しだけ不安になった。何か葉奈にしか見えていない凶兆でもあるのだろうか。今のところ全て丸く収まっているように思えるのだが。

「信用出来ないかもしれないけど、オレはのこと、好きだよ」
「わかってるって。アタシ、いいことが続くと疑心暗鬼になるんだよ。それだけ」

食事の仕度をしていたに呼ばれて、ふたりは話を切り上げた。

それからまたしばらく経って、も新居に慣れ、花形たちは部活に精を出し、フローリストも商店街も全て穏やかに元通り、という日々が続いていた。残暑が厳しいので、花形たちは部活が終わるとあさひ屋にやって来てはかき氷を食べて帰ることが多い。花形はそのままの部屋に行く回数が増えた。

葉奈の言うようにラブラブし放題というところだが、ふたりをくっつけてたまには楽をしたいと目論んでいた当の店長が、くっつける必要がなくなったことで急に口やかましくなってきた。むしろ、最初はまるで否定的だった葉奈の方が応援してくれるという有様。なので、と花形はまだ清い交際を続けていた。

そんな風にして過ごしていた9月も末の土曜日のことである。午前中で練習が終わったので、花形はぶらぶらと商店街に向かっていた。商店街で少し時間を潰してからまた藤真たちと有料コートに行くことになっていた。

暑いけど、えどやのおでんが食べたいとぼんやり考えながら歩いていた花形は、突然響いて来た葉奈の悲鳴を耳にして、反射的に走り出した。一瞬で全身が冷たくなる。もう何も危険はないはずなのに、全て終わったはずなのに。フローリストが見えてくると、旭さんが花形を見つけて声を上げた。

「ああっ、透くんいいところに!」
「旭さん、今度はなんですか!」

亀屋の辺りで速度を落とした花形に旭さんが話しかけようとしていると、フローリストの中から葉奈が飛び出してきた。あの恐怖の陶酔中学生・葉奈が真っ赤な眼をして泣いている。

「兄ちゃん、助けて、が、が死んじゃう!」

その声に花形と旭さんはフローリストに飛び込んだ。は作業台の下で体を丸め、真っ白な顔で歯を食いしばりながら喘いでいた。花形は既視感を覚えてふと立ち止まる。慌てたのは旭さんである。遅れて亀屋の小父さんも飛び込んできたが、飛び上がってレジ台にすがりついた。

「おおおい、どうしたんだ、きゅ、救急車か!?」

亀屋の小父さんの胴間声に、花形は記憶が蘇る。

「葉奈ちゃん、この間のときと同じだ! 岩間先生のところ行こう。その方が早い」
「この前って……え!? 嘘!?」

長谷川が言っていたように、の体はあまりに冷たく固く、そしてぶるぶると震えていた。葉奈は病院に駆け付けて事情はわかっているが、痛みに硬直して悲鳴を上げている現場は見ていなかったのだ。

「葉奈ちゃん、店長どうしたよ」
「今ちょっと銀行に」
「いっつもいないじゃないかあの人は! すみません誰かここお願いします」
「お、おう、オレがいるからいいよ」

だいたいいつも暇なので、亀屋の小父さんはすぐに引き受けてくれた。花形は葉奈にの荷物を持ってくるように言い残すと、を抱き上げて走り出した。を軽々と抱き上げて走る花形の姿に、商店街の人々も今度は一体何だと騒がずにはおれなかった。

さて花形の読み通りは所謂生理痛であった。とは言っても、月経が直接の原因で強烈な痛みを引き起こしているというだけで、はそもそも卵巣に持病を持っているということだった。だが、問題は普段はそれを薬でコントロールしているはずなのに、症状が出たということだ。

「だって、以前もこんな風になったと言うけど、それからしばらく間があるんでしょ」

白髪の岩間先生の孫だという若い医師が首を傾げた。岩間医院を継ぐので東京の勤務先を辞めてきたばかりだというその若先生は、手早く処置を済ませると葉奈に話を聞きながらしきりと首を傾げていた。

だがその頃、処置室で花形はがっくりと肩を落としていた。は薬をずっと飲み忘れていたのだという。

「その、色々あったし、ずっと調子よかったから、平気かなって」
「そういう問題じゃないだろ! ちゃんと部屋に帰れなかった日なんかなかったじゃないか」

薬でコントロール出来ていたことを知らなかった花形は、つい声を荒げた。

「色々あったのはもちろんわかるけど、薬くらい飲めるだろ。葉奈ちゃんわんわん泣いてたんだぞ。旭さんも亀屋の小父さんも真っ青な顔して心配してた。オレがここまで運んだからみんなに見られてるし、そしたらまたみんなにも心配かけるだろ、何考えてんだよ!」
「そんな言い方しなくたって……迷惑かけたのは悪いと思ってるよ!」
「悪気のあるなしは関係ないだろ、ちゃんと薬を飲んでればこんなことにならなかったのに、こうやって具合が悪くなったらまたみんなに心配かけるってわかるだろ!? オレだってまたお前になんかあったんじゃないかって、息が止まるかと思ったよ!」
「だから悪いと思ってるって言ってるじゃない! なんでそんなに怒るのよ!」

自分も含め大勢の人が心を砕いているというのに、薬を飲み忘れて症状を出してしまったに花形は腹が立って仕方なかった。葉奈を始め商店街の人々はあんなにを思っているのに、軽率極まりない。

「怒るに決まってるだろ! みんなのお前を思う気持ちを踏みにじったんだからな!」

花形はそう言うと、の言葉も待たずに処置室を出た。怒鳴り声を聞いて飛んできた葉奈と若先生と出くわしたが、何も言わずに岩間医院を飛び出した。むっとした熱気がこもる路地を花形は走り出し、自宅へ帰った。部屋に入り、リストバンドを外すと、力任せに壁に投げつけた。

のことは好きだけれど、のことでいつも心配ばかりしている。不安や恐怖は分けて欲しいと思っているし、が笑っていてくれたならそれでいい。だけど自分から人に心配をかけるようなことをして、照れくさそうに笑っていたに苛立って仕方なかった。

みんなみんな、のことが大好きなのに、は本当にそれをわかってるんだろうか?
オレだって誰よりが大好きなのに、本当にわかってるんだろうか?

リストバンドを拾い上げた花形はそっと机の上に置くと、背を向けてベッドに倒れ込んだ。葉奈の言葉がぐるぐると回る。単なる吊橋効果だったのか、それとも本当に好きだったのか、自信がなくなってきた。

その日を境に、花形は商店街に現れなくなった。

花形が商店街に顔を出さなくなって臍を曲げたのはではなく、店長や葉奈を始めとした商店街の人々だった。特に葉奈は珍しくに説教を垂れた。常にを甘やかす葉奈が怒っているので、当のもつい意地を張って素直に話を聞こうとしない。

「別にね、お金のことじゃないのよ。だけどさ、あれから誰も来なくなっちゃったのよ。すごい寂しい」

店の前の縁台でため息をついているのは旭さんである。隣でスイカバーをペロペロやっている葉奈も、ふんと鼻を鳴らした。花形が商店街に来なくなってからというもの、翔陽バスケット部員は誰ひとりとしてやって来なくなった。葉奈はメルヘン母まで顔を出さなくなったので余計に機嫌が悪い。

「しかも毎日毎日『アレ』が来るでしょ。アタシも店にいたくないんだよね」
「店長もあんまりいい顔してないのに、気にならないのかしらね」
「3回に1回くらいは本当に買うから無下に出来ないんだよね」

花形が現れなくなったのと入れ代わりにフローリストにやって来るようになったのは、岩間医院の跡継ぎである若先生だ。どうやらを気に入ってしまったらしい。

兄のことなど気にしない航は顔を出していたのに、若先生の登場で彼も来なくなってしまった。葉奈と航は護衛チームの中でも特に勘が鋭く思考は至ってロジカルである。それを敏感に察して遠ざけようと思ったか、若先生は極端に子ども扱いをした。航は「あいつ嫌い」と言い残し帰って以来、顔を見せていない。

「だいたい年はいくつくらいなの、あの人」
「御年29歳、今度30歳、だそうだよ〜」
「それが女子高生にちょっかいかけてるっていうの? あー、私なんか岩間医院嫌いになってきた」
「あれは自分がハイスペックだってことを自覚してるタイプの人間だから、遠慮がないんだよ」

葉奈の言う通り、若先生はまんべんなくハイスペックな人物であった。医師になれる頭脳、中高6年間は水泳部でエースという過去があり、身長は推定180cm、控えめな逆三角で長い足、そして何より顔は藤真並に整っていた。藤真にメロメロになっていたご婦人のうち何人かは早速乗り換えたという噂だ。

「だいたいちゃんは何であんなに簡単に懐いちゃうのかしら」
「若先生の方が一枚うわ手なんだよね。なんか手のひらの上で転がされてる」

今のところ店長が防波堤になって必死で防衛しているが、何せ3回に1回くらいは本物の客であるし、要領のいい若先生はあからさまに誘ったり口説いたりは決してしない。ただを褒めたり、自分をアピールしたり、世界は学校だけじゃないと思わせるようなことを囁きかけてくる。

「透くん、このこと知ったらショックだろうになあ」
「仲直りどころか、全然顔合わせてないらしくて。長谷川さんともあんまり口きいてないみたい」

同じクラスの長谷川ですらその有様である。葉奈は一応藤真にも連絡を取ってみたが、藤真は花形の肩を持つ立場なのでに同情してやるつもりはないと返してきた。葉奈はそれも友情であり、大捕物で活躍した藤真にはそう言う権利があると思った。

「別にさ、人の色恋に干渉するつもりなんかないんだけど、あまりにあっけないもんだから」
「しかもはっきりと別れたわけでもないのに絡んでくるバカがいるからね」

常にの味方だった商店街の人々だが、今回ばかりは花形の肩を持つ向きが多い。分けても大捕物以前からを案じて手を尽くしてきたフローリスト周辺の小父さん小母さんたちは、旭さんの言うように「わかっちゃいるけど釈然としない」のである。

だいたい、小父さん小母さんたちの目には10代の高校生など殆ど子供だ。些細な諍いで気まずくなったくらい、さっさと仲直りしてしまえと、いささか乱暴に考えてしまう。本人たちにとっては深刻な問題なのだが、そのあたりはあまり汲み取ってもらえない。

また、の件がとりあえず色々片付いたことと、それに絡んで翔陽バスケット部員の評価がうなぎのぼりだったことが花形への同情を誘った。評価上昇の要因はもちろんの彼氏でもないのに大活躍した藤真と長谷川である。とはいえそれもと花形の問題には無関係のはずなのだが。

「透くんはどうかわからないけど……ちゃん、本当にもう透くんのこと、どうでもいいのかなあ」
「あんまりちゃんと聞いてないんだけど、お互いそんなことないと思うよ」
「ほんと?」

旭さんは胸の前で手を組んで葉奈を覗き込む。童顔の旭さんは仕草が少女っぽくて可愛い。

「今はただ吊橋効果だったのかどうかって、自問自答してるよふたりとも」
「やっぱり吊橋効果だった、ってことになっちゃったりしない?」
……透兄ちゃんは、決意の恋なんだ。揺らぐことなんかないよ」

葉奈はスイカバーの棒を咥えたまま、少し遠い目をした。

にとっては、救いの恋なの。それと気付かないだけで。バカだね」