処置をしてもらって眠るの傍らで、花形は葉奈と母親に何が起こったのかを説明していた。
「結果的に誰も怪我してないし、よかったんじゃないか」
「フローリストは真ん中あたりにあるから、交番遠いんだよね」
南北のゲートと交番は遠いが、商店街は枝のようにいくつもの路地を伸ばしている。アーケードを勝手に継ぎ足して魔窟のようになっている路地もあり、昼間は営業していない店ばかりが並ぶ通りなどは、どんな人物が入り込んでこようと防ぎようがない。
「それにしても、商店街の皆さん、かっこよかったのね。見たかったなあ」
「何をのんきなこと言ってるんだ。無事に済んだのは一志のおかげなんだからな」
「ほんとに、長谷川さんの方がよっぽどイケメンだね」
葉奈は口元に手を当てて、ニタニタと笑った。最終的にの父親を踏ん縛ったのは藤真なのだが、商店街にいた全ての人の避難を最優先して走り続けた長谷川の行動は尊い。葉奈はまたこれを餌に藤真をいじめられるという寸法だ。
「今回はオレ、何もしてないからなあ」
「あらあ、透ちゃんが忙しいのはこれからよ」
「え、どういう……」
メルヘン母と葉奈は顔を見合わせてニタリと笑う。
「いいですか、透兄ちゃん。は心に傷を負っているのですよ。だけどまた遠慮して私は大丈夫とか言いまくるわけですよ。でも全然大丈夫じゃないじゃん。超無理するじゃん。透兄ちゃんの出番じゃん」
葉奈は思いっきりニヤニヤしている。
「……葉奈ちゃん、チクったな」
「チクるなんて、そんな内容でもないでしょうが〜。幸せはみんなで共有しないとね」
葉奈は、花形家では父親しか知らないことになっているとの関係を、メルヘン母にばらしてしまったらしい。
「もう、何で話してくれなかったのよ。透ちゃん水臭いわ」
「話したら今以上におせっかい焼くだろ」
「まあそれは否定しないけど、葉奈ちゃんの言う通りよ。幸せは共有するものよ」
花形は、幸せを共有したいのではなくて花形やを突っつくネタが欲しいだけじゃないかと思うが、黙っておいた。今更足掻いてもどうにもならない。ため息をつく花形の肩をメルヘン母がパチンとひっぱたく。
「ちゃんはつらい思い、いっぱいいっぱいしてるのよ。悲しいとか怖いとか、そういうのがなくなるくらい、あなたが幸せをあげなきゃ。時間はかかるかもしれないけど、きっと伝わるわよ」
いくら異次元に生きる若いメルヘン母でも、親である。花形は素直に頷いた。
それからしばらくして、が目を覚ますと、葉奈とメルヘン母は処置室を出た。身内は葉奈なのだが、今きっとに最も必要だと思われるのは花形だろうと考えてのことだ。
「あれ、花形くん? ええと、私――」
目を覚ましたは、少し記憶が混乱しているらしく、しばらくきょろきょろと処置室の中を見回していた。だが、記憶が戻ると、がばりと体を起こして顔を両手で覆った。花形はベッドに軽く腰をかけて、を抱き寄せた。もう震えてはいないが、弱い空調だというのに肌がとても冷たかった。
「もう大丈夫、何も怖いことないから」
「だけど、だけど、花形くん、あれは――」
手を顔から離したは、わななく唇で花形にそう言いかけて、ぐっと飲み込んだ。
「何も見てなかったもんな。みんなかっこよかったんだぞ。亀屋の小母さんの糠ミソ液攻撃だろ、えどやの小父さんのおでん汁攻撃だろ、栃木屋の小父さんが投げてたのはなんだったかな、なんか丸めてビシバシ投げつけてたな。向かいのおじいちゃんなんか両手にデッキブラシだぞ。今思い出すとちょっと腹筋がヤバい」
の背中を腕を擦りながら、花形は努めて気楽に話す。
「一志が追いかけて、こっちに向かってた藤真が合流して、またふたりで追いかけて、だけど最後に打ち負かしたのはうちの母親なんだぜ。実は剣道の有段者だったとか意味わかんねえよな」
は花形があんまりにこにこと話すものだから、きょとんとしている。にとっての悪夢が、とんだ武勇伝で打ち砕かれてしまったというのか。
「……捕まったよ。ちゃんと警察も来た。もうお前を怖がらせたりする人間はどこにもいない」
「花形くん……」
「お母さんのことはまだこれからだけど、それはよくなるに決まってる。だからもう、なんっにも怖くないんだからな」
花形の肩に顔をうずめて、は泣き出した。か細い泣き声が処置室に響く。
「ほんとに? ほんとにそうなるのかな? そんな風になってもいいのかな」
「いいに決まってんだろ。ていうかみんなそれを一番に願ってるのに、お前が諦めてどうするよ」
「だって、私――」
「言ったろ、つらいこととかはオレに分けろって。これでも一応、か、彼氏なんだし」
照れて口ごもる花形に、は少し頬を緩ませる。
「あの人が目の前に現れて、あのとき、ああ私ここで死ぬんだって思った。お母さんみたいに刺されたりして、私は殺されるんだって、そう思った。それが悲しくて、泣きそうだなあ、なんて変にのんびり思ってた。そしたら、花形くんの声が聞こえたの。花形くんが私の名前、呼んでくれて、抱き締めてくれて」
その瞬間に自分の運命はここで終わらないことを悟った。
「ああ私死ななくてもいいんだって思って、だけど怖いことには変わりなくて、どうにかして頭を空っぽにしようと思って、ずっと頭の中で花形くんの名前、呼んでた」
話しているうちに、は少しずつ落ち着いてきて、涙も止まった。手のひらには温かさが戻ってきている。
「花形くんに名前呼んでもらって、嬉しかった」
「ええと、それはオレも同じなんだけど。頭の中で呼んでた、ってどっちの名前よ」
「えっ、ご、ごめん、苗字」
ふたりは吹き出した。花形はの体を改めて引き寄せると、ゆっくりと顔を近付けた。
「オレの名前、知らないんじゃないのか」
「そ、そんなことないよ、えっと、あの…………透、くん」
ひょいと眼鏡を頭に押し上げた花形は、静かに唇を押し付けた。
「ずっとそっちで呼んでもらえるとオレも嬉しいです」
「でもなんか恥ずかしい!」
「夏休みの間に慣れておけよ」
すっかり落ち着いた様子のは、恥ずかしさのあまりタオルケットを掴んでバサバサやっている。そこにノックの音がした。花形が返事をすると、静かに開いたドアの隙間から、ふたつ顔が覗く。
「おお、、藤真と一志来たぞ」
「〜大丈夫か〜」
が起き上がっているのが見えたふたりは急いで処置室に入ってきた。銭湯帰りなので髪が濡れたままだ。特に普段ツンツンと髪を逆立てている長谷川は違和感がある。
「……って、お前らダサ!! 足りてない!」
「そこはいじってくれるなよ花形〜。久保洋品店のじいさんのご厚意なんだからよ」
「着てた服は旭さんが洗濯して乾かしてくれてるんだ」
旭さんは「あさひ屋」の奥さんである。ハンドボール小父さんは花形父と同じく愛妻家なのである。藤真と長谷川を銭湯に連れ出したハンドボール小父さんは、自分はともかくふたりに着替えがないことに気付いた。そこで一番話の早い亀屋の親父さんに着替えの用意を頼んだ。
亀屋の小父さんは、よし任せとけと近所の久保洋品店に駆け込んだ。自分がそこで服を買っているからである。扱っている洋服は基本的に紳士向け。ヤングが着るような服は置いていない。そんなわけで藤真と長谷川は丈の足りていない青竹色の作業ズボンとおっさんシャツでペアルックになっている。あまりにも無残だ。
「……、声を殺して笑うのはやめろよ」
「ほんとだぜ、オレたちすげえ走ったんだぞ。見せてやりたかったよ、オレの雄姿」
「ご、ごめ……」
きれいにツボにはまってしまったらしく、はタオルケットに顔を押し付けてヒィヒィ笑っている。だが、藤真も長谷川も銭湯が楽しかったらしく、上機嫌の様子。作業ズボンにおっさんシャツもどこかコスプレを楽しんでいる風だ。
「で、でもほら、それに雪駄とか下駄とか、履けば、昭和レトロっていうか」
「無理するなよ。てか藤真、傷はいいのか。頭洗っちゃって」
「おう、だからここ来たんだよ。さっき先生に取り替えてもらった。傷の経過いいねって言われた」
「まだちょっと商店街騒がしいしな」
その言葉にぴたりと笑うのを止め、顔を上げただが、長谷川は困ったように笑う。
「そういう意味じゃないよ。ええとその、みんな興奮しててさ」
「オレたちヒーローだからな」
「おばあちゃんが藤真にメロメロだしな」
はまた吹き出した。
商店街の騒ぎもだいぶ落ち着いたから戻っておいでと亀屋の小父さんが顔を出したのは、もう15時をすっかり回った頃だった。旭さんが乾いた服を届けてくれたというので、藤真はぴょこんと立ち上がった。
「そういやオレら何も食ってなかったな。思い出したら腹減ってきたよ」
「はっはっは、そうだろうと思ったよ。帰ったらびっくりするぞ」
「小父さんそれどういう……」
亀屋の小父さんはニヤニヤ笑いを残して帰ってしまった。よくわからないけれど食べ物絡みとなるとあまりいい予感のしない花形たちだったが、ともかく一旦戻ることにした。そろそろタイムリミットであるメルヘン母は岩間医院の前で別れた。
岩間医院から一行が戻ると、フローリストの中は案の定食べ物で溢れていた。
バックヤードのテーブルにいっぱいになっていた、なんていう普段のような光景ではない。作業台の上にも小さなレジ台の上にも山と積みあがっている。のみならず、なぜかブランドもののジャージのトップスとTシャツが3つとジーンズが3本店先にぶら下がっている。その真下にはクロックスがこれまた3足。
「これは一体……」
花形がそう呟くと、亀屋の方からわらわらと人が出てきた。
「おかえりなさい! 服、乾いてるけど、こっち着たら?」
「旭さん、どうなってるんですかこれ」
「透くんたちへ、商店街から感謝のしるし」
は口元に両手を当てて、ぶら下がる服を見上げている。粋な計らいに目が潤む。
「……いやいや、ちょっと待って下さい、こんな高価なもの受け取れません」
「透兄ちゃんはほんとに石頭だな」
「いや石頭とかいう問題ですか、藤真と一志はともかく、オレは何もしてないです」
「まあいいじゃねえかよ、オレたちがやりたいんだよ。やらせてくれろや〜」
花形は亀屋の小父さんと栃木屋の小父さんに挟まれて突っつかれている。
「じゃーオレはお言葉に甘えてもらっちゃおうかな。一志、着替えようぜ」
藤真は午前中まで非常に機嫌が悪かったのだが、そう言いつつくるりと振り返り、おそらくそれと自覚してにっこりと微笑んだ。ここで藤真に恋をした女性がさらに3人追加された。
旭さんがどれが誰のものかを説明すると、藤真はそれを引っ掴んでさっさとバックヤードに入って行った。まだおろおろしている花形を置いて、長谷川も一揃い掴んで藤真を追う。こうなると残されるのは恥ずかしくなってくる。を旭さんに預けると、花形もバックヤードに飛び込んだ。
「ジャーン!」
そう言いながらバックヤードから飛び出してきたのは藤真である。また贈られた取り揃えがよく似合う。それを追って花形と長谷川も出てくる。ジーンズの裾上げをしていないので藤真は少し丈が長いが、190cmオーバーふたりはほぼジャストサイズだ。
「すごいなこれ、サイズぴったりなんだけど」
「足のサイズまで合ってるぞ」
不思議がる3人を満足そうに眺めていたのはサイズを看破した久保洋品店の先代である。作業ズボンにおっさんシャツがあまりにも可哀想になったので、勇敢なる少年たちに何かしたいと騒ぐお歴々に洋服を贈ってはどうかと提案したのもこの人だ。90近い先代であるが、見立てはまだまだ現役らしい。
「わー、みんなかっこいい!」
「ちゃん、そういうことは透兄ちゃんにだけ言わないと」
「葉奈ちゃん!」
「長谷川さん、かっこいいですね!」
「またオレだけのけ者かよ!」
勢いあまってツッコミを入れた藤真だったが、最悪のタイミングだった。本日フローリスト周辺には藤真少年に心ときめかすご婦人が大挙して押し寄せている。藤真はあっという間に取り囲まれ、おば様方に撫で繰り回されるという栄光に預かることになった。
どうにもギャラリーが減らず、たくさんの差し入れも落ち着いて食べられそうにない状況に困っていると、今日はもう商売にならんとあさひ屋に招かれることになった。全員で差し入れを運び込み、遅い昼食を取っていると、真っ青な顔をした店長が帰ってきた。着慣れないスーツの襟元がひしゃげている。
もうすっかり落ち着いているたちだが、店長は葉奈から連絡を貰ってすっ飛んで帰ってきたばかり。そのまま花形と藤真と長谷川の前に滑り込むとクシャリとくずおれて土下座した。亀屋夫婦やあさひ屋夫婦、フローリスト周辺の方々と和やかに食事をしていた花形たちは泡を食って店長を止めた。
「いや、止めないでくれ、本当に申し訳なかった。君たちがいなかったら僕は葉奈に殺されるところだった」
「まあそれは否定しない」
「葉奈ちゃんてば!」
そして花形と長谷川に腕を引かれて立ち上がると、ぺこぺこと頭を下げ、の姿を認めると、感極まって洟をぐずぐず言わせながら力任せに抱き締めた。
「店長、ここにお店出しててよかったねえ」
「そんでお前を翔陽に行かせてよかったよ、ほんとによかった」
この日、差し入れによる祝宴は遅くまで続いた。なんとか営業していた近所の小父さんたちも店を閉めると続々とあさひ屋に顔を出した。とうとうあさひ屋店内だけでは席が足らず、外の縁台にまで人が溢れた。お盆休み中のことなので、藤真と長谷川も帰らず最後まで付き合うと言い出し、小父さん小母さんたちに喜ばれた。
大人たちは酒がだいぶ入っていたが、祝宴の中でも今後のことについての話が出た結果、勇敢なる高校生の身元については警察を除いて一切漏らさないことという取り決めが出来た。なんとなれば、どこから聞きつけたのか、早くも亀屋に取材交渉の電話が入ったというのだ。
例えばそんなことで報道されてしまって、例えばテレビに映ってしまったりなんかしようものなら、花形たちは、それを自分たちと面識のある全国のバスケット選手に見られてしまうかもしれない。特に藤真は一部ではとても有名な高校2年生なのである。それはご免蒙りたい。
ましてや商店街の人々にとっては善意の高校生、いくら大きくても少年である。好奇の目には晒したくない。そんなわけで、明日から例え誰に「どこの学校の子?」と聞かれても白を切りとおすことになった。事件自体は母子に関わることでもあるから、翔陽の生徒であることを伏せるのはのためでもある。
話がまとまると、今度は花形との話になってしまい、とうとう店長にもバレた。バレたというか、あの様子では付き合ってませんと言っても誰も信じまい。商店街の小父さんたちはちょっぴり寂しそうではあったけれど、石頭の花形でいいのだと太鼓判を押してくれた。
「でももう透兄ちゃんがいなくてもは安全なんだけどなあ」
「店長、ほんとにゲスいわ」
「安全だけどオレたちはまた来るよ」
「しばらく昼飯に困らなそうだもんね……」
人懐っこい藤真は小父さんたちにも大人気である。葉奈の言う通り、藤真と長谷川はこの先1年くらいこの商店街では食べ物に困らないかもしれない。それに、夏休みの間は昼を商店街で済ますつもりだったのだ。フローリストのバックヤードが使えないことがあっても、あさひ屋を始めいくつも居場所はある。
ただ、こう顔が知れてしまうと、他の部員を連れてきてやろうとは思えなくなってきた。特に藤真。おばちゃんに可愛がられている所など誰にも見られたくない。
「なんかアレだな、花形、自主的に巻き込まれてよかったなオレら」
すっかり機嫌の直った藤真はそう言うと、今日一日で何人ものご婦人をよろめかせた笑顔で焼き鳥をかじった。