あなたに花を

12

10月の後半に翔陽高校の2年生は京都へ修学旅行に出かけていった。そもそもクラスの違う花形とは行動日程が重ならないので、例え何事もなく付き合っていたのだとしても、自由行動の日になるまでは会うことも出来なかった。だが、現状ではその方がいい。間違って顔を合わせてしまうことがないならそれでいい。

移動日を除くと中3日の旅である。さらにその中の2日はクラス行動と班行動。カップルにとっては、クラスが違うとこの日程は軽く地獄である。何しろ普段と違って学校が終われば好きに会えるということもない。ホテルも移動厳禁。具体的な問題行動が起きやすい年代なだけに、小学生の修学旅行より厳しく監視されている。

も事務的に割り振った班で行動していた。たまたま気安い面子が揃ったので、想像していたよりは楽しく過ごしているが、授業で習う程度の日本史の知識しかないたちに大した興味は湧かず、基本的には予定を消化しているだけ。お土産になりそうなものがないなら、あとは喋り続けていた。

2日目、班行動のこの日、は班のメンバーと行動予定表に沿ってだらだらと歩いていた。その途中、適当に神社を参拝して敷地を出ると、同じクラスの別の班とばったり出くわした。同じクラスなので行動予定は同じなのだが、どこをどう見るかという順番は自由だ。

は少し顔を伏せた。その班には長谷川がいたからだ。

次はどこだの既にどこを見ただの言い合いつつすれ違う2班はそのまま別れていくはずだったのだが、は制服の袖を引っ張られて足を止めた。顔を上げると、長谷川が見下ろしていた。

……なに?」
「悪い、ちょっと借りる」

の方など見もせずに、長谷川はの班に声をかけた。班のメンバーは少しだけ怯み、そしてニヤニヤしだした。それは長谷川の班も同じだ。

「あれ、付き合ってんだっけ?」
「付き合ってないよ。ちょっと知り合いのことでトラブルがあるから、話しておきたいんだ」

四角四面の長谷川に淡々と言われてしまうと、ニヤニヤ笑いは萎れて消える。長谷川がそう言うんならそうなんだな。それはも例外ではなく、にこりともしない長谷川の横顔に何も言い返せなかった。

何も勘繰らずに送り出してくれた班員たちを後に、長谷川はの制服を引っ張ってその場を離れた。そしてしばらく歩くと、オープン席のある全国チェーンのカフェに入った。長谷川はカウンターで「いらっしゃいませ」と声をかけられて初めての制服から手を離した。

「何がいい?」
……豆乳ミルク珈琲」
「それとアイスティー、両方ともMで」

いつかの葉奈と航のようだ。もこの状況では遠慮するには至らない。オーダーが揃うと、はトレイを長谷川に持たせたまま先に歩き出し、ソファ席にすとんと腰を下ろした。

……長谷川くんも私のこと、怒るの?」
「えっ、なんで!?」

そう言ったに、ソファに落ち着いたばかりの長谷川は珍しく素っ頓狂な声を上げた。

「違うの?」
「オレが怒る理由がないと思うけど」
「だって、藤真には怒られたよ」

それを聞くと長谷川は明らかに笑いを堪えて唇を震わせた。

「ふ、藤真はほら、カーッとなりやすいというか、まあ気にしない方がいいと思うよ」
「でもバスケ部なんだし、透くんの味方じゃないの?」

長谷川はの言葉に目尻を下げた。透くん、か。

「オレはどっちの味方でもないよ。どっちもどっちという気がするし」
「じゃあなんでこんなことしてるの。みんな私が悪いって言ってるのに」

は居たたまれなくて、俯いた。自分が悪かったという意識はずっとあるけれど、の肩を持ってくれる人はいない。少なくともふたりの事情を知る近くて親しい人々は悉く花形の味方をした。

「ええと、そう、みんな花形の肩を持ってて、が悪いんだって確かに言ってる。けどオレはどっちもどっちだと思ったんだよ。そしたら、の話聞けるのオレしかいないんじゃないかと思って」

元々喋るのは得意な方ではない。長谷川の言わんとすることがピンと来なくては首を傾げた。

「首を突っ込むのもどうかと思ったんだけど、今のままだとの言うことは誰も聞かないんじゃないかと思って。あ、でも、オレは花形や藤真に告げ口するのが目的じゃないからな」
「じゃあ何の目的なの」

長谷川はアイスティーを一口飲んで、大きく頷いた。

「これだけ花形にばかり同情が集まって誰もの言い分を聞かないままだと、きっと憶測での気持ちを代弁する人が出てくる。本当なら花形とが一対一で話すことなのに、偏った情報しか持たない第三者が間に入る。オレはそれがどうしても嫌なんだ」
「嫌って……だけどそれは」
が言ってもいないことを花形に吹き込んで欲しくない」

長谷川はきっぱりと言った。

「お互いの考えてることや思ってることは、正しく伝わってないとダメだ」
「長谷川くん……
「誰も余計なことを言わないならそれでいいけど、出来ればちゃんとの話、聞いておきたかった」

やっぱりに味方はいないのだが、中立の立場でも話を聞きたいと言ってくれたことが嬉しくて、は俯いた。気をつけないと泣き出してしまいそうだったからだ。花形に怒られて以来、誰もこんな風に話をさせてくれた人はいなかったから。

「あと、これは先に言っとく。花形、急にちょっかい出され始めたからな」
「ちょっかいって?」
「忙しいバスケ部は誰かと付き合ったりしないと思ってたんだろ。それが2年の誰かと付き合って別れたらしいって噂になって、そしたら急に女子がうろうろし始めた。別れてないって言ってんのに聞かねえんだよ」

別れてないって、そう思ってくれている人がいた。マズい、泣きそう。は眉を掻くふりをして目元を押さえた。力を入れて堪えないと涙が押し出されてきそうだ。

……さ、自分が身を引けば花形は解放されるとか思ってる?」

長谷川の言葉にしんみりしていたは、勢いよく顔を上げる。完全に図星だったのだ。

「葉奈ちゃんが連絡くれてさ。岩間先生の孫とかいう人に言い寄られて、コロッと懐いたって聞いた」
「そ、それは……!」
「わざと懐いて周りを騙して、自然消滅させる気だったのか」

ため息をつく長谷川の目の前で、の右目から涙が一筋零れ落ちた。

明らかに様子のおかしい父親と我慢の限界を超えてしまった母親が離婚して以来、の日常はずっと非日常なままだった。母親が依然入院中でリハビリに励んでいる今もそれは変わらないのかもしれない。しかし、花形家はそんなの生活とは対極にある。

妻を溺愛する父親に、脳内がお花畑だが愛情豊かな母親、文武両道の兄、少し捻くれてはいるが聡く男気のある弟、それが花形家だ。それを自分の特殊な非日常に引きずり込んだことを改めて後悔した。きっとメルヘン母や航は自主的に首を突っ込んだのだと言うだろうが、それはの後悔とは関係ない。

花形と恋に落ち、それが周知され、諍いを起こして初めては取り返しのつかないことをしたと気付いた。

このままだと花形とは、自分たちの意思で離れてはいけない関係になってしまう。

それを許さないのはもちろんふたりを取り巻く人々だ。大捕物を経た花形とがまるで「運命の恋人」にでも見えているのかもしれない。吊橋効果に囚われているのはふたりを暖かく見守る第三者たちの方だ。

どんなにドラマチックな出来事があったとしても、ふたりは純粋な恋心が結びつくままに手を取り合っただけの高校生同士。付き合うのも自由なら別れるのも自由だ。なんといってもまだ10代なのだから。はその呪縛から花形を解放しなければならないと思った。

「透くん、進学、するでしょ。そこには新しい出会いがいっぱいあるよ。だけど、私は進学なんか出来ないし、今のまま商店街に入り浸ってたら、私と別れて他の女の子と付き合うなんて言えなくなるよ。透くんが悪者になる」

は指先で涙を払うと、窓の外を見ながらそう言った。

「若先生ちょうどよかった。利用してる。しばらくしたら別れよって連絡するつもりだった」
「だった?」

長谷川の方に向き直ると、は悲しげに微笑んだ。

「どうしても出来なかった。まだ好きなんだもん」

今度は両目からぼたぼたと涙が溢れた。

長谷川は静かに息を吐き、丸めていた体を緩めてソファに寄りかかった。今のこのの言葉を、彼女の涙を花形に見せて聞かせてやりたいと心から思った。始めに想いを寄せたのは花形の方だったけれど、彼の献身やひたむきな心がを惹き付け、今なお実を結んでいる。

長谷川がわざわざ修学旅行中に強行手段に出たのにも理由がある。ひとつは部活がないから時間があること。ふたつはに言ったように花形の周辺を急に女子がうろうろしだしたこと。長谷川が部活を覗きに来る女子に何度「別れてない」と言っても信用してもらえなかった。修学旅行は彼女たちにとって最大のチャンスだ。

迷っている暇はないと思った。のんびりしていると、花形はが思ってもいないことを聞かされたり想像で補ったりして、自分で自分を洗脳してしまうだろう。本気で別の女の子を好きになったとか、修復不可能なすれ違いがあったというならともかく、ただちょっと喧嘩をして気まずくなっただけなのに。

花形もずっと気落ちしていた。も痛みで苦しかっただろうに、強く言い過ぎてしまったんじゃないか。その後悔はすぐに襲ってきたのに、ふたりを知る周囲の人々はが悪い、君は悪くないと余計なことを言った。

だからといって、わらわらと群がってくる女子に簡単に篭絡されるとは思えないのだが、と話をしないまま情報操作されてしまうのは最悪だと長谷川は考えた。それに、顔に似合わず熱血体育会系である藤真はこの手の情報操作に騙されやすい。隣にいる藤真が一番危ない。

、もしさ、たまたまそんな話になったら、今のこと、言ってもいいか」

詳しい説明はともかく、が今でもこんなに花形のことが好きなのだということくらい、伝えてはだめだろうか。花形がそれすらもうどうでもいいというなら、それを止めるつもりは長谷川にはない。だが、はふるふると首を振った。

「言わないで。そんなこと聞いたら絆されちゃうかもしれないから、だめ」
……それで、花形がいつか誰かとくっついたりするのを待つってわけか」
「そ、そんなこと思ってないよ」
「でも自分からは別れようって言えないんだろ。花形を解放したい、でも別れたくない」

その通りだ。はがっくりと肩を落として両頬を手でさすっている。長谷川は少し面倒くさくなってきた。何か正しく伝わらないような感情があれば把握しておこうと思っていただけなのに、蓋を開けてみたら「今でも好き」だけしか出てこなかった。

「なんかちょっと中立失格なんだけどさ、、花形も同じなんだけど」
「え、何が?」
「あいつも今でものこと好きだよ」

涙で赤い目をしているは、今度は頬まで赤くした。

「嘘、そんなこと……
「ふたりの場合、外野が多すぎるしうるさすぎるよな。こんなことふたりで話すことなのにな」

だから余計こじれたとも言う。長谷川はアイスティーをすすって少し笑った。心配なさそうだ。

、花形って冷静で穏やかで優しいだろ」
……うん」
「でもそんなの見た目だけだって、知ってるよな」
「うん」
「もちろん本当に穏やかで優しいけどさ、すごく不安定なときもある」

それは当たり前のことなのだが、花形はなぜか年齢に似つかわしくない落ち着いた人物と思われがちだ。そんなこと言わない、そんなことしない、そんなこと考えない。それは勝手なイメージに過ぎないというのに。

「送っていくって言ったのに、途中で分かれて帰っちゃって、葉奈ちゃんに怒られたときもそうだった。まだにどんな事情があるのか知らなかった頃だけど、危険と隣り合わせの女の子放り出して帰っちゃったことが相当ショックだったみたいで、けっこう落ち込んでたんだよ」

懐かしく回想する長谷川の正面で、は驚愕に口を閉じられないでいた。

「そ、そんな前の話、ってか長谷川くんなんでその話知ってるの。葉奈ちゃんに怒られたって何?」
「え。まさかこの話何も聞いてないって言うのか」

長谷川は第一次葉奈突撃のことを簡単に説明した。はテーブルに額を打ち付けて、また首を振る。

「葉奈ちゃん、なんてことを!」
「いやあ、なかなかの迫力だったよ」
「ごめんなさい、ほんとになんかもう、図々しいよね、ごめんね」

こうなればものはついでだ。長谷川は第二次葉奈突撃with航の件や、に内緒でこそこそと連絡を取り合っていたことなど、洗いざらい喋ってしまった。は今度は恥ずかしさで顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。この勢いでは次は店長葉奈と喧嘩だ。

「まあでも、それだって今となってみれば楽しかったよ。商店街、オレは好きだけどな」
「でも今来ないよね」
「さすがに今はね。でも行きたくないからじゃない。藤真だってそうだよ」

情報操作されやすい上に熱しやすく冷めにくい男・藤真は強がるだけ強がって商店街など行かぬとそっぽを向いているが、だいたい毎回買って食べている好物の「惣菜 樹林」のコロッケから離れて久しく、若干禁断症状が出ている。先日もコンビニのコロッケを齧って首を振っていた。味に納得がいかないらしい。

「けど、オレらのことなんかどうでもいいから、は花形とちゃんと向き合うべきだと思うよ」
「それはそうなんだけど」
「怖いだろうけど、そこは花形を信用してやったら?」

やっとは笑った。豆乳ミルク珈琲を少し飲むと、赤みの引いてきた目をこすっている。

「そうだね……。ありがとう長谷川くん」
「いや、別に何もしてないよ」
「なんか長谷川くん、最近妙に大人っぽいよね」
「えっ、そうかな」
「長谷川くんて彼女いたっけ。好きな人いないの?」

深く考えずに聞いただったが、長谷川はグラスを手にしたまま窓の方へ視線を逸らした。表情が消えて、目は遠いどこかを眺めているようだ。は思わぬ長谷川の眼差しにぎくりとする。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。

「ご、ごめん変なこと聞いて」
……いるよ、好きな人」

恐縮するの方を見ずに、ぼそりと呟いた。

「だけど、好きになったらいけない人だから」
「え?」

の耳から店内のざわめきがすうっと消えていった。視線を戻した長谷川は静かに微笑む。

「相手が、いるんだ。だから、オレが好きになっちゃっただけの、つまんない話だよ」
「長谷川くん……?」
「あっ、じゃないぞ。これでもオレはふたりを応援してるので、それはない」

はそんなことは考えていなかったが、長谷川が妙に明るく振舞っているように見えて、動悸が激しくなる。こんな風に助け舟を出してくれた本人は、そんな苦しい思いを抱えているというのか。

「翔陽の子……?」
「それは、内緒」
「ごめん……
が謝ることないだろ。困ったもんだよな、こういうのって。立場とか関係ないんだもんな」
「素敵な人なんだね」
「ああ……うん、きれいな人だよ。手は届かないけど、好きになってよかった」

は、そう言ってテーブルの上に置かれた長谷川の大きな手を見つめた。

「これは、透くんのお母さんの受け売りなんだけど、花を贈るっていうのはね、贈った相手の心の中に花を咲かせるということなんだって。それが例え一輪の花でも、本当に相手を想っていたら、心の中を花で埋め尽すのは簡単なことなんだって。だから人は花を贈るんだって、そう教えてくれたの」

メルヘン母はと葉奈に挟まれながら、そう言って一輪の花をくるくると回していた。

「付き合うとか付き合わないじゃなくて、その人の中に花がいっぱい咲くといいね」
……ああ、そうだな。も、花形に花咲かしてやったら」
「花だらけでわけわかんないね」

商店街からも学校からも遥か遠い京都の小さなカフェで、と長谷川はやっと肩の力を抜いて笑い合った。