美しきこの世界

14

ふたりがコンビニに入り商品を見るふりをして深呼吸を繰り返していると、息の上がった長谷川が飛び込んできた。彼は交番とコートを往復した上、またここまで走ってきたのだ。普段から走り込みは嫌というほどやっているけれど、異常な緊張が伴ったせいで疲弊している。

「大丈夫、その場で説教して終わりじゃなくて、パトカー来るって」
「すまん、巻き込んで」
「お前らが謝ることじゃないだろ。災難だったな」

もちろんはまだガタガタ震えているし、目は真っ赤だし、長谷川は花形を促してコンビニを出ると、コート方面とは別のルートで駅へ向かって歩き始めた。いわゆる飲み屋街であり、の高校からは通ってはならないとされている通りだ。

「本当に大丈夫なのか、向こう」
「藤真がペラペラ喋ってたよ。あいつも色々喚いてたけど、誰も信じないしな」
「もうほんとわけわかんねえよ、オレが湘北戦でここに怪我したことも、知ってて」
……どういう気持ちなのかわからないけど、執着があったのかもな」
「執着って、別にが好きとかそういうわけでもないだろ」

信号待ちの間に長谷川は間に挟んだの頭上の向こうの花形に苦笑いをしてみせた。

「執着って、プラス感情だけのものじゃないだろ」
「プラス感情だけじゃないって、それどういう――
……例えば、復讐とか。そういうのは執念って言った方が正しいかもしれないけど」

あまりにも簡単な言葉で例えられて、花形は空気を抜かれたように肩を落とした。

「クスリやっちゃったくらいだから、単純な……例えばさんが羨ましいとか、付き合ってるふたりを見てムカついたとか、そういう話ではないかもしれないけど、あいつにとって、なぜかお前らふたりが目につく存在になっちゃったんだろうな。学校でも、放課後でも」

それが違法薬物やストーキングやナイフにまで発展してしまう気持ちはわからないけれど、理屈としては理解できなくもない。花形は結び目を解いた風船のようにため息を漏らした。

……さん大丈夫?」
「ごめん、大丈夫じゃない、かも」
「藤真も言ってただろうけど、隠しておいた方がいいと思うんだ」
「それは、わかってる」
「お家に帰ってからはひとりでやらなきゃならないけど……

ホームに降りてすぐに電車が入ってきたので、3人はそのまま乗り込む。帰宅ラッシュで車内は混雑しているが、デカいのと巨大なのが並んでいるので、はその間にすっぽり収まった。長谷川に促された花形はを引き寄せて肩を抱く。顔が真っ白だ。

「寝不足で疲れたって言って、すぐに部屋に入る」
「それがいいよ。もしさっきのことを知られても――
「予備校からまっすぐ帰ってきたって、言い張る」

ガタガタ震えている割にの目はしっかりと一点を見据えていたし、このことは藤真の言うように彼に任せて知らぬ存ぜぬを通す覚悟もできているらしい。安心した長谷川は緩んだ表情をして、の肩を抱く花形の手をポンポンと叩いた。

「さすがに頼もしいな。大丈夫、これでもう終わるよ」

だが、は首を振る。

……あいつがいなくなっても、あんな風におかしくなるやつは、いなくならないよ」
「そうかもしれないけど、一志の言いたいのは――
「だから、だからそういうバカの入ってこられないところに、行きたかったのに」

国家公務員になって社会の上澄みの中にさえ潜り込めれば、汚いもの怖いものとは関わらなくて済む。そういう輩とは街ですれ違うくらいで、言葉を交わしてコミュニケーションを取らなくてもいい日々を過ごしていける。友達もパートナーも職場も、全て上澄みの中にあれば、安心して生きていかれる。そう思っていた。

それなのに、その場所へ続く道は先細り、中学生の頃にはクリアに見えていたゴールは遠く霞んで、不確かな陽炎のようにゆらめいている。襲いかかるのは苦しいこと怖いことばかり。

混雑した電車の中、じっくり話せる状態でもなく、長谷川はまた表情が消えて俯き、花形も肩を落としてを強く抱き寄せた。せっかく文化祭を経て周囲とも馴染んできたと言うのに、これでは逆戻りだ。しかしあまりにも怖い思いをしたになんと言ってやれるだろう。

違法薬物もストーカーもナイフもない世界なんて、どこにもないじゃないか。

も花形も、あのキッキッという笑い声が耳にこびりついて離れなかった。

藤真の機転によりの親にトラブルが知られることはなく、また、藤真の言うように、片や県内屈指の強豪校のキャプテン、片や逮捕歴もある無職の10代、誰もニヤリ顔男子の言うことなど信じなかった。それ以前にと花形への嫌がらせのために虚偽の証言をした前科もあるので、余計に信用されなかった。

さらに、再度警察署に連行されていった彼は隙をついてボールペンで体を刺し、現在入院中。以後の様子をが耳にすることはなかったのだが、夏休みのさなか、突然花形に呼び出された。

コートで待つと言いたいところだけれど、まだ行く気にはならないだろうから、と県立の自然公園を指定された。いわくお盆休みで部活がなく、学校が使えないのでランニング用のコースのある公園を利用しているとのこと。

午後から予備校であるは乗り気がしなかったのだが、最近模試の結果が上向きになってきたせいもあって、気晴らしがてら出かけていった。

「よ! 暑いな」
……そりゃそうでしょうね」

がやって来るなり手を上げた藤真は顎からボタボタと汗を滴らせていて、それはもはや水も滴るいい男とかいうレベルではなく、真っ赤な顔をしていて、しかも全員同じような状態で、は5人を追い立てて手洗い場まで連れていき、頭から水を被らせた。

「熱中症起こしたら元も子もないんじゃないの」
「だから一応外で走るのは午前中のみにしてるんだけど」
「気温既に30度ですが」

手洗い場の近くに時計塔があり、その足元にはデジタルの気温計がついている。今日も暑い。

……来ないかと思ってた」
「どうせ午後から予備校だし。そのついで」

頭から水を被ったせいでオールバックになっている花形のボソボソした声に、はきっぱりと言い返す。

「どうせ藤真くんの発案かなんかで、一緒に走ろうぜとかそんなんじゃないの」
「何でわかったんだよ!」
「でなきゃこの状態で呼び出さないでしょ!?」
「まあそうだけど。よし、じゃあ走ろうか!」
「ちょっと待って走るなんて言ってない」

花形に宥められたはしかし、珍しくふにゃりと笑った。

「あんたたちと一緒にしないでよ。予報では猛暑日になるっていうのに、普通運動は厳禁だからね」
「まあそうも言っていられない事情もありまして……
「透まで何言ってんの? 昭和のスポ根じゃあるまいし」
「まあまだ30度だからいいかな、と」
「そういう素人考えが命を危険に晒すんだよ」

お小言を言っているが、は少し楽しそうだ。花形たちも水で頭や首を冷やしたおかげで少しクールダウンしている。そして全員オールバックだ。

、ここまで何で来たんだ」
「何って、自転車だけど」
「じゃあ並走しないか?」
……まあ、そのくらいなら」

まだ呆れ気味だっただが、にこやかな花形の提案に、まあいいかと頷いた。全員ニヤリ。

この公園はランニングコースの外周に並ぶようにして幅の広い歩道があり、交通量の多い車道に囲まれているせいか自転車の通行も多い。ランニングコースのスタート位置に花形たちと一緒に並んだは、藤真の合図でのんびりとペダルを漕ぎ出した――のだが、

「ちょっと待って! 何でそんな速度で走るの!」
「いつもこんなんだよ」
「おいおい自転車だろ! 置いていくぞ!」

先頭を行く藤真はそう言うなりスタコラと駆けて行ってしまい、少しの間並んでいてくれた花形もニヤリと笑うとを置き去りにして走り去ってしまった。は焦る。いくら花形たちが日々の鍛錬で脚力があるのだとしても、自転車の方が遅いなんてことが本当にあるとは。

暑さのせいだったんだろうか、なぜかカッとなったは帽子を取るとカゴの中に突っ込み、大きく息を吸い込むと腰を浮かせて自転車を漕ぎ出した。肌に痛いほどの夏の日差し、それに暖められた焼け付くような風、その中をは走り抜ける。

やがて汗が額を伝い、風に吹き飛んでいく。息が上がる。体の中が燃えるように暑い。

真っ青な空と真っ白な雲の下、苦しそうなのにどこか楽しそうな花形たちを追いかけたは、ゴール間近で先頭をひた走っていた藤真を追い抜き、自転車を真横に止めて行く手を塞いだ。

「これでどうよ!!!」

真っ赤な顔で汗を滴らせているは、ぜいぜい言いながら怒鳴った。不敵な笑みでゴールしてきた藤真はサムズアップで通り過ぎ、次に入ってきた長谷川はハイタッチ、その後に続いた花形は同様に息も荒く、自転車に跨ったままのを抱き寄せて頭を撫でた。後続の高野と永野がヒューと囃し立てながら通り過ぎていく。

「ほんとになんなのよ……私これから予備校なんだけど」
「でもちょっと楽しくないか?」
「楽しくない」
「どーよ、生きてるって感じ、しないか?」
「しないよ!」

再度手洗い場に戻ってきたは髪をまとめて水で肌を冷やし、汗を流す。

「じゃあどんな時に生きてるなって実感するんだ」
……数学の問題解いた時」
……もバカだな?」

ものすごく嫌そうな顔をして藤真が言うので、花形は思わず吹き出し、もつい笑った。

「やだやだ、IHないからってそこの副主将は期末で1位取るし」
「えっ? 透、1位って……
「もちろん学年」
「アベレージ」
「94.3」

藤真の嫌そうな顔は高野と永野にも伝染ったけれど、はそれを聞くなり飛び上がって抱きついた。

……あの頃の透、まだ残ってたんだね」
「IH行かれないし、テスト期間部活できなかったからな」
「チョロかった?」
「チョロかった」
「そうだよね、翔陽だもん、チョロいよね」
「チョロいに決まってるだろ」

もはや長谷川まで嫌そうな顔をするふたりの会話だったけれど、が弾んだ声を上げているので誰も突っ込まなかったし、明るい表情で駅に向かった彼女を笑顔で見送った。

「気晴らしになるかなと思ったけど、結局期末の順位かよ」
「まあ、そういう世界で生きてきた子だから」
「やっぱりお勉強してるお前じゃないとダメなんかな」
……それは、どうだろうな」

それが気になったわけではないが、が午後の授業が終わったら一度食事と休憩のために家に帰ると言うので、花形は予備校まで迎えに行った。真夏の夕日がギラギラと町に差し込み、ありとあらゆるものをオレンジ色に染めている。

午後の授業が終わり、合格実績がベタベタ貼り出されている予備校の前は学生でごった返している。それをガードレールに寄りかかりながら見ていた花形は、ぼんやりと考える。もし中学でバスケットと出会わなかったら、こうしてせっせと予備校に通っていたんだろうか。

とふたり、進学校で勉強に明け暮れ、高校3年間を大学受験のために全て費やしていたんだろうか。

もはやそんな想像すらうまく出来ないほどに「バスケット部員」になってしまった花形の目の前で、が何やら茶髪の男に追いかけられながら出てきた。しきりに何かを話しかけている男を手で追い払いながらは早足で出てくる。花形はちょっとだけカチンと来て、へ歩み寄る。

「向こうだって忙しいんだから――

「ファッ!? ――透! いいところに! 助かった!」

急に声をかけられて驚いたはしかし、花形だとわかると素早く腕に絡みついてきた。普段のならこんなことは自発的にやらない。花形は無言で茶髪の男をじろりと見下ろす。花形に身長で勝てる男はそう滅多にいない。茶髪の彼は途端に怯んで後ずさった。

「これで納得した!? そんなことしてるから浪人するんでしょ」
「わ、わかったよ、じゃーな……てかデカすぎんだろ……

茶髪の男が退散してしまうと、花形はそのままを促して並んで歩き始めた。午後の太陽を目一杯浴びた町は未だ焼けるような暑さだが、ふたりは手を繋いで歩く。オレンジ色の夕日が頬を染めて、夏の風が髪をそよがせている。

「だいたい想像つくけど」
「お察しの通りで間違いないと思うよ。じゃあ証拠見せろってうるさかったから助かった」
「予備校に何しに来てんだ」

つまり浪人生に付きまとわれていたわけだ。

「学校に近くて国立に強いところを探したっていうのに……
「でも国立とか有名所の私立って何浪もしてる人多くないか?」
「あれはまさにそれ。現在3浪中で、ひとり暮らししてなんか楽しそうでさ」
……勉強ができても、クズはクズだよな」

ため息混じりの花形の言葉に、もつられてため息を付き、頷いた。

「さっきのは、医学部志望なんだって。実家が病院で、一族みんな医者ばっかりで、別に何浪しても父親が死ぬまでに医者になってればそれでいいんだって。この間の1件以来、やっぱりああいう捻くれたようなのがいないところで生きていきたいって思ってたんだけど……こっちはこっちで普通に腐ってた」

大きな通りを越えるため、ふたりは歩道橋に登っていく。下を通る車が舞い上げる熱風で息が詰まりそうだ。その上を歩きながら、は繋いだ手を揺らして大きく息を吸い込む。

……出来るかどうかわからないけど、透、私、やっぱり国家公務員目指す」
……そうだな。それがらしいよ」
「それで、その次は、厚生労働省、目指す」

花形は思わず足を止め、後続がいないことを確かめつつ、端に寄った。

……もしかして、麻薬取締?」
「安易だと思う?」
「いや、まさか」
「私あんまりメンタル強い方じゃないみたいだし、夢のまた夢みたいな感じだけど、でも、今は」

手を繋いだまま、は歩道橋の手すりにもたれて眼下を過ぎゆく車を眺めている。

「この間、すごく怖かった。怖かったけど、同時にものすごく腹立ってて、未だに許せなくて」
「あいつを曲げたのはクスリだったのかな」
「違うと思う。だけど、逃げ場になったことは確かだと思う。そういうの、奪ってやりたい」

積極的に知ろうとしないせいもあるが、現在入院中らしいニヤリ顔の彼が、一体どんなことがきっかけで不貞腐れ、そして薬物という誘惑に負けるまでになってしまったのかということは、ふたりの耳には入ってこない。

藤真あたりは「理由なんかない、理由がないから面白くないんだ」などとうそぶいたが、とにかく謂れのない執着でと花形はだいぶ迷惑を被った。の言うように違法薬物が逃げ場になっていたのだとしたら、それは彼らにとって安息のひと時であったろうし、そんな安息をも奪ってやりたいと思ったようだ。

事件直後だから余計に気が立っているのだろうが、の意志は不貞腐れている連中を根絶したいのではなくて、彼らの逃げ場をなくしてしまいたいという方向に出た。

「私だって透だって藤真くんたちだって、みんなみんなこの苦しくて過酷な、つまんない世界で頑張ってるのに、自分がつらいからって、自分が面白くないからって、そうやって逃げただけじゃなくて、人に迷惑かけて、巻き込んで、それで自分を保とうとしてるなんて、どうしても許せない」

花形は一生懸命話しているの横顔を眺めながら、少しだけ頬が緩む。良く言えばそれは、自分たちのように真面目に生きている人々の安寧な生活を脅かすものを許すまいと言ってるに等しいのではないだろうか。言い方は可愛くないけれど、、それは優しい世界だよな――

そんなが急に誇らしくなった花形は距離を縮め、通行人がいないことを確かめると、背中を屈めてぎゅっと抱き締める。夏の夕日に焦がされたの肌が暑い。

「ちょ、こんなところで――
「きっと出来るよ。なら出来る」
「透……

真横から突き刺すような夕日がふたりを焼く。も静かに手を伸ばして花形にしがみついた。

……実は来月、国体に出られるかもしれないんだ」
「えっ?」
「それで、ある大学の監督が、そこでオレをじっくり見てみたいって、言ってくれて」

元々翔陽バスケット部とは付き合いがあったそうだが、今年まさかの敗北により予選で散った翔陽に顔を出した監督は、国体の話を聞くや、花形に直接声をかけてきてくれたのだった。じっくり見てみたいとは言うけれど、つまりはアピールしてみろ、ということだ。もちろん望むところだ。

「オレも予選で負けた時は、こんなクソみたいな世界消えてなくなれって思ったよ」

けれど、逃げなかった。花形だけじゃない、も、藤真を始め翔陽の仲間たちも、不貞腐れて逃げて他人も自分も傷つける道は選ばなかった。それは誇っていいことだ。

花形はの頬に手を触れ、そっとすくい上げる。

「だけど、オレはこの世界、好きだよ」

ゆっくりと唇を重ね、ふたりは間近で見つめ合う。

クソみたいな世界かもしれないけれど、消えてしまうのは困るのだ。バスケットが大好きだし、仲間と過ごすのは楽しいし、死んでしまいたくなるほどのつらい思いはあっても、本当に消えてしまうのは嫌だ。そして何より、

が、いるから」

この世界で君と一緒にいたいから。

END