美しきこの世界

01

3年間のほとんどが受験のために費やされる――花形透が通う私立中学はそういう学校だった。

授業は受験対策だったし、殆どの生徒が学校が終わってからも塾に通っていたし、そんな風だから部活動などはささやかで最低限の活動しかしないものばかり。この学校は新たなるステージへのステップであり、最終的にはそれぞれが目指す難関大学に合格するため、それに適した高校に入るための中学、そんなところだった。

学年の半数近くが小学校も私立であり、しかし3学年どこを見ても成績トップは公立出身、最下位も公立出身であった。入試の時点では中々の偏差値を誇る学校だったけれど、中学3年にもなると、努力だけでは如何ともし難い「元々の頭脳性能の差」が現れてきて、気力を失う生徒も多かった。

ちなみに花形は公立出身。家も割と近くて、チャレンジしてみたら受かったので入学した、という「先天性の高性能タイプ」である。なので、成績の維持は難しくなかった。が、そんな学力重視の学校にあって、なぜか部活ばかりやっているという異端児でもあった。

入学した時点で既に身長が174センチあった彼は、担任の「背が高いからバスケットなんかいいんじゃないか」という安易な一言でバスケット部に入った。これが運命の分かれ道だった。

それまで授業で何度かやったことがあるだけだったバスケットの魅力に取り憑かれた花形は、「毎日必死で勉強して宿題をこなし定期考査の時も寝ずに勉強してひたすら上を目指す」という同級生たちの間で、バスケット三昧の果てに疲れて毎日爆睡、運動してはよく食べよく眠る、という日々を過ごしていた。

そのせいかにょきにょきと身長が伸びて、3年生の春の測定では185センチを記録。勉強ばかりで運動不足の生徒たちの中では当然一番大きく、その上毎日バスケットが楽しくて仕方なかった花形は健康そのもの、ただ学校の中ではあまりに異分子というか、これで成績が底辺だったらどんな扱いを受けていたかわからない。

幸運にも「先天性の高性能タイプ」だったので、そんな毎日でも彼は成績トップクラスを維持していたし、なので彼がバスケットばかりやっていることに対して誰も文句を言えなかった。

その上、これまではただのレクリエーションでしかなかったバスケット部だが、花形の強い希望によりまずは彼が2年生の時に地区大会に出場。それほど大きなトーナメントではなかったけれど、なんとベスト8に入賞。これに味を占めた花形に引きずられるようにして、出場できる大会には片っ端から申し込んだ。

結果、これまで参加すらしてこなかった中学が突然現れ、ひとりポツンと背の高いセンターがいるワンマンチームがさくさく勝ち進む……という摩訶不思議な光景が2年ばかり続いた。

花形はバスケットにすっかり心を奪われ、小学校6年生の時点では「国家公務員」だった将来の夢が「バスケット日本代表」になってしまった。普通逆だろと後々突っ込まれることになるわけだが、とにかく彼は国家公務員になるためにこの先の数年間を費やす、ということを半ば本気で放棄したくなっていた。

彼の場合、国家公務員もバスケット日本代表も、どちらも完全に本人の意志によるものであり、第三者の思惑が絡んでいなかったことは、これも幸運だっただろう。学校では得体の知れない生き物を見るような目で見られていたけれど、家族は「どっちでもいいから全力で頑張れ」という寛容な姿勢を示してくれた。

そんなわけで、彼は同級生たちが毎日受験勉強に没頭しているさなか、「難関大学に入るための難関高校」という、この学校では当たり前の進路ですらどうでもよくなり、自宅から通える範囲にある「バスケットが強い高校」を探し始めた。幸い勉強は得意なので、どんなところでも合格できる自信はあった。

秋頃になり、未だに志望校がはっきりしない花形だったが、彼の中ではだいぶ「バスケットが強い高校」が絞り込まれていた。自宅からの距離を考えると一番近いのは七久保高校だったが、バスケットの成績の方は今ひとつ。それよりは少し遠くなるが、翔陽高校の方はバスケットの成績はばっちり。花形の心がぐっと傾く。

さっそく翔陽へ学校見学に出かけた時も、この身長を持って「バスケ部を見学したいです」と言うと、とても喜ばれた。中学時代の実績に乏しいから推薦では厳しいだろうけれど、その代わり翔陽では役不足であろう学力を持っているのだから、単願が可能なら特待生に挑戦してみたらどうだと薦めてくれた。

そもそも、古くからバスケットが強い翔陽からは毎年有名大学への進学があるそうだが、もしその中に入れなかったとしても、花形の成績ならそれ以上の大学への進学も可能だと思われたのかもしれない。見学を終えて帰る頃には、教頭とバスケット部の監督がやって来て、ぜひうちにいらっしゃいと肩を叩いた。

しかしこの時花形は既にバスケット部の練習風景に心を奪われていて、この高校に絶対入ると心に決めた。

偏差値だけ見ても、同級生たちのような受験勉強は必要なさそうだったし、面接にしても、何を聞かれてもバスケットやりたくてどうしても翔陽入りたいです! という方向一本で事は済む。その上バスケット部の監督と教頭はわざわざ名前を聞き返していた。花形の期待がどんどん高まる。

花形が進学校に進まないことを渋ったのは中学の担任、学年主任、さらにこちらも教頭、そしてそこそこ親しい同級生たちだった。中3も秋頃になるとバスケット部の仲間はそういう花形の決意を受け入れてくれたけれど、部活と関係がない友人や親しいクラスメイトなんかは揃って渋い顔をした。

中でも、1年生の時からずっと同じクラスで、毎年学年はじめには揃ってクラス委員をやらされてきた相方であるは相当渋い顔をした。彼女もまた3年間成績トップ圏内であり、つまり学年はじめに揃って任命されるのは成績上位者だからだ。この学校ではまだ成績による優遇が当たり前であった。

「翔陽……聞いたことないなあ」
「まあ、有名なのはバスケだけみたいだからな。普通の高校だけど」
「やっぱり考えなおした方がいいんじゃない?」
「またそれか。いいんだよもう、決めたんだから」

事あるごとにはまだ遅くない考え直せと花形に進言している。彼女の方は県内公立で一番偏差値の高い高校を目指している。本人的には私立の進学校である女子校に行きたかったそうだが、現在の中学よりもさらに学費が高いとかで、とうとう親が音を上げたと愚痴っていた。

……同じとこ行くんだと思ってたんだけど」
「そうだなー。オレもバスケなかったらたぶんそこにしたと思う。いいよなあそこ、駅からも近いし」
「バスケの選手って、誰か有名な人いたっけ」
「そりゃいるけど、お前スポーツなんかまったく興味ないだろ」

はこの学校では典型的な「高校受験のための中学3年間」を過ごした。ほんの気晴らし程度の趣味ならあるけれど、それも基本的に深入りしない。彼女もまた現時点では公務員を目指しており、それを実現させるには大学に入学するまで余暇はないものと思え、とどこかで刷り込まれてきている。

深まる秋空の下、翌日に期末を控えたふたりはたまたま日直で一緒になったので、そのまま一緒に下校していた。家は割と近い。駅まで出て、一度乗り換えたら同じ路線である。駅も2つ離れているだけ。

スポーツに興味がないどころか、体育の授業以外ではほとんど動きもしないは邪気のない笑顔の花形をちらりと見上げるとこっそりため息をつく。彼女だけでなく、バスケット部員以外の花形と親しい生徒は全員「後で絶対に後悔するバカなことをしている」と思っている。

「野球とかサッカーならともかく、バスケってあんまり稼げないんじゃないの」
「昔のスポーツ選手の話とか読むと稼いで親に楽させたいとかあるけど、今ってそういうの聞かないよな」
「だから、稼げないんじゃないの」
「そりゃ金が目当てでバスケやってるわけじゃないから、当たり前だろ」

なんとかしてその「バカなこと」から目を覚まして欲しいはちくちくと突っつくが、この頃の花形は完全に心が翔陽一色に染まってしまっていて、まさに暖簾に腕押し状態だった。の言葉にも怒ったり苛ついたりする素振りはなく、何を言われようと自分は翔陽でバスケットをするのだという覚悟ができている。

「そんな強豪校で部活やりながら受験もしなきゃいけないんでしょ」
「あのな、スポーツの世界にはな、推薦てものがあるんだぞ」
「そのくらい知ってるよ! だけどそれだってバスケの強いところでしか無理でしょ」
「いいじゃん。六大学かもしれないぞ」

効果なし。は肩を落とした。どうしたらわかってくれるんだろう。

「オレのことなんか気にしてる場合かよ。期末終わったら確か全国模試だろ」

いっそ爽やかな笑顔が小憎らしい。花形のでっかい手に背中をバチンとやられたはよろめき、ずいぶんと高いところにある彼を睨み上げた。こっちは心配して言ってやってるのに……

「私はちゃんとやってるもん。あんたが心配だから言ってるんでしょ」
「心配なんか何もないだろ。本番近いんだし、そんなことでイライラしてると余計に疲れるぞ」

あんまりがカリカリしているので、花形はまたその大きな手で頭をワサワサと撫でた。はその手を振り払い、足を止めてまた睨む。もう中3の二学期も終わるし、冬休みから受験までは余計なことを考えている暇はない。はスッと息を吸い込むと腹に力を入れて低い声を出した。

「透のこと好きだから心配してるんじゃん」

花形はの異変に気づいて足を止め、しかしその言葉にポカンとしている。

……一時の感情で将来何の役にも立たないことに夢中になってたら後悔するに決まってる。あとでやっぱりちゃんとやっとけばよかったって思ったって、現役外れたらもう取り返しがつかないんだよ。透、そういうこと全然わかってないじゃん。同じ高校、行かれると思ってたのに……

の予定では、同じ高校を受験、合格、そしてほんの少しだけ余裕のできた3学期末に付き合おうよって話をして、春からは毎日一緒に学校に通い、また同じ大学を目指して勉強を頑張る――というところだった。

いくらバスケットが楽しくてもスポーツ選手なんて芸能人みたいなもので、例えオリンピックに出るような選手になったのだとしても、日本の場合アメリカのNBAとは市場規模が桁違いなのだし、それは大人になって社会人が得る「職業」ではない。言わば夢ばかり見ているダメな人間の道楽。それがの理屈だ。

それと花形への思いがごっちゃになっているあたりがまだ中学生というところだ。花形もため息をつく。

……オレもお前のこと好きだよ」
「えっ、だったら……
「だけどお前のこと好きなのとオレの人生はまだまったくの別物だろ」

はひょいと首を傾げる。別物じゃないよ、という顔だ。

「女子ってそういうところすぐ飛躍するよな。例えばオレたちが結婚してて子供がいて、それでオレが仕事辞めてバスケット選手目指すって言い出したんならお前が正しいだろうけど、一応付き合ってもいないんだし、それはお前の価値観であって、オレとは違うだろ。そのくらい、わかる女だと思ってたけど」

花形も首を傾げる。思い違いだったな、という顔だ。

「オレがバスケットで高校選んで後で後悔しても、お前は何も困らないじゃないか。1年の時から一緒にいること多かったし、お前のことは好きだけど、自分のことは自分で決める。オレは自分の選択を後悔しない」

良かれと思って、また自分たちはきっといいカップルになれるという思い込みから自信満々でいたは、冷静な花形の切り返しに何も言い返せずに呆然と立ち尽くしていた。

……好きになってくれてありがとう。受験、頑張れよ」

そう言って少しだけ笑った花形はどこか寂しそうだったけれど、そのままを置いて立ち去った。

冬の匂いが足元から忍び寄る道の上、はじわじわと冷えていく体を微動だに出来ないままぽたりと涙を零した。どうしてこんなことになったのか、さっぱりわからない。花形の言うことも、意味はわかるが理解が出来ない。そのくらいわかる女だと思ってた? 私、何がわかってないの。けれど、

透、国家公務員より私より、バスケットを選んだんだ。

それだけはわかった。

同じクラスでも受験は目の前、冬休みが明けても教室は殺伐としていて、休み時間でも毎日ピンと空気が張り詰めていた。どう考えても余裕で合格できる花形はその重苦しい空気に混ざる気はないようで、朝も昼も体育館でひとり練習をしていた。受験勉強は帰宅してからでも充分。

はどうしても必要がないなら花形とは挨拶もしないようになり、勉強に没頭している。

始業から2日ばかりはと仲のいい女子の不思議そうな視線が気になったけれど、それこそ彼女たちも受験のことだけを考えていなければならない時期、すぐに花形のことなど気にしなくなった。

というか、みんな必死で勉強しているというのに、ひとりバスケットで進路を決めてしまった花形の周りからは人がどんどんいなくなっていった。何も変わらないのは元バスケット部員の男子だけで、花形の決意が揺るがないことを知る彼らは受験本番が目前に迫ると「試合とか見に行くから」とまで言い出した。

そして入試、花形は面接ではバスケットのことを延々語り倒し、面接官も進学校ではなくバスケットを選んだ理由などをどんどん聞くし、もはや入学審査ではない雰囲気になっていた。もちろん筆記試験は全く問題なし、全教科とも時間を余らせてしまうほどだった。

なので、もちろんちゃんと合格したし、合格発表をぼんやり見上げていたら件の教頭にとっ捕まり、筆記はほぼ満点のトップであったこと、それを受けて特待生が通ったことをわざわざ口頭で知らせてくれた。出身中学が学力偏重なことは承知していたけれど、まさかここまでとは、という顔を隠しもしなかった。

教頭の話を聞きつつ合格発表の人だかりを見ると、頭ひとつ飛び出たのが何人かいる。

それを言うと、教頭はうんうんと頷き、一般受験では花形と同じようにバスケットが目的で受験してきたのが何人もいるんだよと教えてくれた。そして、それでも今年はものすごく上手い選手が推薦で入ることが決まっているから、勉強の方は心配していないけどバスケットの方は努力しなさいと念を押された。

自分が学力以上にバスケットの方で期待されているとは思っていなかったけれど、敢えてそのことを自分に言ってくるくらいだから、よっぽどすごいのが入ってくることになっているんだろう、と花形はまた期待に心が踊った。何しろ団体競技、チームには優秀な人材が多い方がいいに決まってる。

これでもう高校3年間をバスケットの強いところで過ごすことが確実になった。何もかも自分の望んだ通りだ。

のことが好きだったのは嘘じゃない。ただ、あんな勉強以外のことは全て子供の遊び、というような場所にいては恋愛をしようという気にならなかったし、の理屈は彼女だけのものだったし、自分の道と重ならない以上は手を取り合うことはないのだと割り切っていた。

同じ学び舎に過ごした同級生としては本当に好きだった。可愛い女の子だと思っている。もしこんな状況でなかったら彼女になって欲しいと思う。けれど、花形はバスケットを、は公務員を目指す道を選んだのだ。

それを後悔はしていない。花形の目の前には県下にその名を轟かす強豪校の門が開けている。

意気揚々と翔陽を後にした花形は勢い余って走り出した。

その数日後、「ちゃんとやってる」はずのは第一志望に不合格、踏まねばならないステップをいきなり躓いた。そして、全くもって不本意な私立高校に入ることを余儀なくされ、春からの新生活に心を踊らせている花形とは真逆で、終始絶望した顔をしていた。

しかも不運なことに、が春から通う高校は、翔陽とは最寄り駅が隣。

それをわかっている花形は卒業の日、「またな」と言って別れた。は、返事をしなかった。