美しきこの世界

05

二度あることは三度ある以前にとてもご近所、期末が迫る梅雨空の下、はまた花形に遭遇してしまい、一瞬で嬉しくなってしまう心をギリギリと縛り付けていた。ああ、この人のことを嫌いになりたい。嫌悪して怖気が立つくらいに嫌いになりたい。

まあ、それが簡単に出来るなら誰も苦労しない。

……なんか顔変わったな?」
「どういう意味よ」
「前よりいい顔してるぞ。何かあったのか」

花形の方はちょっと見ない間にまた身長が伸びていた。それによる気のせいだろうが、なんかちょっと上から目線な感じ……は思いつつ、しかしそれでもときめいてしまう心をグーで殴りつけたかった。

「べ、別に。何もないけど」
「あっ、そうかごめん、顔変わったとかオレもアホだな〜」
「顔なんか……
「アレだろ、こういう時は『きれいになったな』って言うもんなんだろ」

息苦しさを覚える湿気の中では勢いよくむせた。ヘラヘラしながら何言ってんだ!

……女口説く練習なら自分の高校でやれ」
「そういうことじゃ……そんな怖い顔するなよ」
「人の顔の話から離れろ」
「言葉遣いも変わったなあ。普通の高校生みたいじゃん」

電車待ちのホームで、はガックリと肩を落とした。期末が近付いてきているが、もはや学年1位の座が定位置のに焦りはなく、むしろ春の模試の結果が目標より低かったのでそちらの方が気になっていた。いくら2年生とは言え油断していたら3年生に響く。

しかもは塾や予備校に通えていないのだ。もちろん予算オーバーのため。それが何を意味するかは重々承知しているのだが、無理なものは無理だ。志望している国立がどんどん遠のいていく。一応親にはせめて高2の秋から通いたいという希望を伝えてあるが、いい返事は返ってこなかった。言葉遣いも荒れよう。

余裕の花形と仏頂面のの前に電車が滑り込んでくる。いずれにしても方向は同じ、気まずいけれど一緒にいたい気持ちもあって、は渋々一緒に乗り込む。

「あ、そうか、もうすぐ期末だもんな。どうよ」
「期末は別に。てか期末忘れてたの?」
「お前とは違う意味で、期末は別に。もうすぐIH予選の決勝だからな。そっちの方が大事」

花形が翔陽の定期考査で苦労するわけがないのはわかっているが、だからといってテストを軽視しているような発言を聞いてしまうと、胸がチクリと痛む。バカじゃないのと思ってしまうし、しかし担任との話も思い出すし、中学生の頃に描いていた夢が日ごとに遠のいていく自分の現実がつらい。

……なあ、お前なら、学年1位、余裕なんじゃないのか」

吊革に掴まった花形が体を屈めて声を潜めるので、はついぞくりと背を震わせた。

「まあ、確かにずっと1位だけど……
「だよな? じゃあさ、月末の試合、見に来ないか」
「はあ!?」

電車の中だということも忘れてはひっくり返った声を上げた。なんでそうなる!

「なっ、なんで私がそんな」
「なんでって……テスト余裕だろ。週末の午前中くらい空けられるかなと」
「期末はともかく、受験の方もあるんだけど」
「あー、そっちか。なるほどね」

体を起こした花形はフッと鼻で笑って、目を伏せた。

「もしかしたら試合出られるかもしれないし、かっこいいところ見てもらおうかと思ったんだけどさ」

なんでこの人こんなこと言うんだ。そりゃ、私のこと好きだとか言ってたような気もするけど、こんなテストも中途半端に放り出して部活ばっかりやってるような人のくせに、私も好きだけど、どうしても好きって思っちゃうけど、私たちの道は絶対に交わらないのに――

そう考えながらもの頭の中では月末のスケジュールが舞い踊る。お出かけ英会話レッスンの予定が入っているはずだ。どこに出かけるかはまだ決まってない。先生はアメリカ出身でスポーツ観戦は大好きと言っていたから、喜ぶかもしれない。だけど、だけど。

が返事をせずに俯いているので花形はそれ以上月末の試合については何も言わなかった。しかし、彼の最寄り駅に到着すると、の肩にそっと触れてまた声を潜めた。

「試合、もし見に行ってもいいなって思ったら連絡して」

思わず顔を上げて花形を見上げると、彼は優しい表情で微笑んでいた。また返事のできないを置いて、花形は降りていく。もはや屈まないとドアを抜けられない長身が遠ざかっていく。走り出す電車、その車窓から花形の背中をずっと見ていた。そして、小さくため息をひとつ。

試合を見に行く、そんな勇気、ない――

もちろんがIH男子バスケットボール神奈川県予選を見に行くことはなく、いつものように期末を1位で終えるとそのまま夏休みに突入、相変わらず勉強ばかりの日々を送っていた。だが、塾に通えていないことが徐々に響き始めて、模試の結果が思わしくない。気持ちが落ち込む。

しかも夏休みが明ければ今度は迫りくる文化祭で気が重くなってきた。の希望では文化祭の準備が始まる頃から予備校に行きたかったのだが、彼女の両親はその話をしてくれない。

塾や予備校は無理だ、とは言わない。ただ、の感覚で言えば自分が望むコースを目指している同世代は中学も高校もビッシリ隙間なく塾での指導を受けて、なおかつ自分でも机に向かうのが普通という感覚であり、そういう環境に身を置けないということは、既に脱落しているのでは、と思えてきた。

超難関校に合格できる子は部屋ではなくて居間で勉強しているという話をニュースの特集で見たことがある。進学校であった出身中学ではトップクラスの成績だっただが、とてもじゃないが居間でなど勉強できない。

これは、もう自分が思い描いていた大学への進学は、無理なんじゃないだろうかという気がしてきた。

結局、の人生設計は全て数珠つなぎの倍々ゲームなのだ。そのファーストステップがあの中学だ。高い志を持つものだけが入ることを許される学び舎、将来に対する高い意識、折れない心、ブレない目標、何もかもがハイエストだ。それを起点に人生は上昇していく。難関校、難関大、そして国家公務員。

なので逆に辿ると既にはそのコースから外れているし、彼女の理屈で言えば軌道修正は不可能に近い。何しろセカンドステップで転んでしまった。セカンドチャンスは認められない。

が、それをも認められない。まだ燻っている。

さて、そんな風にがブスブスと消し炭から煙を立ち上らせている秋のことだ。2年生の秋は忙しい。修学旅行と文化祭がまとめて襲い掛かってくるからだ。しかもこの学費が高い私立校は修学旅行もゴージャス、はカナダへ連れて行かれた。

修学旅行自体、選択ぼっちのせいで気乗りはしなかったのだが、英語圏に入るやは突然覚醒、担任と修学旅行管理委員が気を使って振り分けてくれた班で実践英会話に挑戦、失敗もあったけれど、生活の中の言語に自分の言葉が通じた嬉しさで興奮気味だった。

最初こそ英語でガンガン突っ込んでいくにやや引き気味だった班のメンバーも、最終的には便利なのでに頼るようになった。男子など簡単なセンテンスを教えてもらって、自分でも使い始めた。

これが高校入学以来初めてがクラスメイトと楽しく過ごした時間だった。の英語力くらいしか通じるもののない異国の地にあって、定期考査の順位などなんの意味もなかったからだ。それにカナダは公用語がふたつ。フランス語圏に入ったらも何の役にも立たない。

そういう旅を経て、文化祭である。旅を共にした班員以外は未だにに対しては話の通じないガリ勉ぼっちという認識しかなく、嫌々ながらも実行委員を引き受けた彼女に対しては協力する姿勢を見せなかった。が、にとってこれは事故を起こさずに完遂させるべきプロジェクトである。甘ったれたことは許さない。

「食べ物ダメ、演劇ダメ、バンドもダメ、お化け屋敷もダメ、って他に何があるんだよ」
「ひとつひとつダメな理由を説明してほしい?」

定番どころに尽くダメ出しをしたに苦言が出たが、言われるまでもなくこの手の定番どころは話が大きくなりすぎて中途半端に終わる可能性が高い。この件に関してのみ高い志など皆無のは淡々と会議を進める。やる気や戦力を分析した結果、クラスの半分が非協力的になっても実行可能な「無難案」で行くのが一番安全という結論が既に出ているし、なんとか無事に終わらせたい生徒はそれに頷いている。

「Dはメイドカフェやるらしいけど」
「Fもカレー屋やるって言ってた」
「サッカー部は巨大迷路だっけ」

飲食店やアトラクションはダメだとは言っているが聞かない。この高校ではクラスクラブの別なく展示に対する表彰があり、2年生は特に勝ちを目指して大ごとにしたがる。ため息をひとつ挟んではペシペシと手を叩いた。お前ら気持ちだけで先走ってんじゃないよ。

「じゃあ説明するけど、うちは文化部所属でクラス展示に時間を使えないのが13人もいるから、作業できる人数がすごく少ないの。ついでに、普段の授業ですらサボりがちな人が何人もいるんだから、作業量の多いアトラクション系の展示は絶対間に合わないからダメ」

そんなのやってみなきゃわかんないだろ、というツッコミは無視。は続ける。

「次に飲食店がダメなのは、さっきの文化部離脱組がほとんど女子だから。飲食やりたがってるのは男子が多いみたいだけど、君ら女子をアイコンにした店をやりたいだけでしょ? 飲食物の模擬店は衛生管理が何より大事。ゴミ箱すらまともに使えないのに何言ってんだ」

このクラスのゴミ箱は昼休みが終わると溢れていたりして悲惨な状態になっていることが多い。じゃあどうすりゃいいんだよ、という空気になったので、は咳払いをして続ける。

「それにバンドは練習時間がどう考えても足りないでしょ。部活で音楽やってる人はそっちから離れられないし、このクラスの中だけでバンドが成立するの? 演劇もおなじことだよ。台本決めるだけで何日もかかって役決めるのでまた揉めて、人数足りないのにセット作って衣装作って、間に合う? 1ヶ月ないんだよ」

実行委員を引き受けた時から改めて自分のクラスを観察分析して導き出した答えだ。理屈としては完全に正しい。だからもそう説明している。だが、完遂を目的としないなら別だ。

「それでもいい、オレたちには無限の可能性があるのだから頂点を目指してデカいことやろうぜ! っていうなら止めない。予算内時間内で収めてくれればそれでいいし、当日間に合わなくても完成しなくても女の子だけが働く羽目になっても、それが思い出になる! っていうならそれでもいいよ」

一転、それはちょっと……という空気になった。なんかそれすげえダサくね……? そもそもはこの文化祭のクラス展示はミニマルで済ませるべきと考えていた。その最大の敵は「陶酔」である。それを潰さなければ手に負えない「デカいこと」を目標にブチ上げて、おそらく途中で飽きる。悲惨な当日を迎えるだけだ。

このクラスに必要なのは、限られた予算と人数で「実行可能」な案であり、それも作業日として当てられる10日間の放課後と週末、合わせて最大でも30時間程度で「確実に完了する」案であった。

ダメ出しだけして代替案も出さないとか、という反論を受けるのは想定済みなので、条件に一致する案はいくつか用意してある。それが面白いか面白くないかはまた別問題だ。はそんなことを基準にしていない。

だが、さてそろそろ代替案を言わないとダメかな……が考えていると、窓際の席の男子がひとり、スッと手を上げた。D組にメイドカフェを取られて面白くないらしい彼は、手を宙に浮かせたままどことなくニヤついた顔で声を上げた。

「じゃあさ、うちのクラスが主催するバスケの交流試合なんてどう?」
……は?」

も虚を突かれてぽかんとしているが、みんな同じ顔をしていた。何の話?

ってさ、確か翔陽に男いるよな?」

彼の発言でクラス内が一気にざわつく。は血の気が引いたが、静かに息を吸い込んで首を振る。

「いないけど」
「オレ見たんだよな、この間駅で翔陽のバスケ部のジャージ着た男と一緒だったろ」
「あれは同じ中学出身の友達だけど」

と同じ中学出身、でさらにざわつく中を、ニヤリ顔の男子は続ける。

「だから、そいつと仲いいんだろ? 交流試合、取り付けてこいよ。盛り上がるぜ。準備もいらない」
「それはクラス展示じゃなくてバスケ部のやることじゃないの」
「違うね、見世物だよ。レベルが違うのは誰でもわかってる。ショーだよショー」

が潰してしまおうと思っていた陶酔による「文化祭ノリ」、飲食店やアトラクションの方がいいと考えていた何人かがうんうんと頷き、雲行きが怪しくなってきた。ちらりと見渡してみれば、作業を押し付けられてしまいそうな女子も数人、文化部で抜けなければならないのも何人か賛同したげな顔をしていた。マズい。

「そんな失礼な申し出を受けてくれると思うの? 相手は何度もIH出てるような学校なのに」
「残念。翔陽は部員数が多くて、練習試合を積極的に引き受けてくれるってとこなんだよな、これが」
「だったら自分で――
「そういう事務的なことをやるのが実行委員の仕事だろ!」

ニヤリ顔のまま彼は語気を強めた。

「クラスで実行可能な何かを決めて、その手配をするのがの役割だろ。オレは作業もほとんどいらない、金もそれほどかからない、場所は体育館を2時間位借りるだけで済む、観客を入れられるようにすれば誰でも楽しめる、そういうアイデアを出したんだ。賛成多数で決まったら取り付けてくるのはだろ」

それこそ、「やってみなければわからない」アイデアだ。の憶測だけで断定できないアイデアであることは間違いない。その上具体的なメリットを連発されて返す言葉がない。予算は学校からの補助の段階で数万あるが、例えば翔陽からの移動費に充ててしまってもまだ余る。

「賛成の人〜」

飲食もバンドも演劇もアトラクションもダメとぶった切ったが答えに詰まっているのが面白いようだ。男子の中からすぐに手が上がった。そしてややあって「楽に済むなら」というタイプからも手が上がった。手の数を数えていたニヤリ顔の男子は、をひたと見つめて眉を吊り上げた。

「過半数。じゃああとはよろしく、実行委員。ダメだったらまた会議だから早めにな」

「一応ダメということはないんだけど、確かに本来ならバスケ部がやることだよな」
「そうでしょうね」
「結果的に負担を増やしたことは悪かった。先生も完全に明後日の方向から来られてなあ」

会議のあった日の放課後、見事な渋面のと職員室で差し向かいになった担任は申し訳なさそうに首筋を掻いた。翔陽の方がNGを出してくればそれまでなので急いで確認を取ってみたところ、ニヤリ顔男子の言うように、バスケット部は練習試合の申し出には積極的に応えることになっているので一度おいで下さいと返ってきた。最悪だ。はいっそ退学して高卒認定試験で受験に備えた方がいいような気がしてきた。

しかも、こちらの男子バスケット部も歓迎だそうで、に逃げ場は残されていない。

「先生はの分析、すごいと思うぞ。だいたい文化祭のクラス展示なんての言うような結果に終わりがちだし、地味で強く言えないような女の子が押し付けられちゃうのもよくある話だし、そういう結果にならないように確実な手段でいこうっていう戦略はすごくいいと思う。だからに任せたかったんだよ」

「戦略」という言葉に心をくすぐられたは頬が緩みそうになるのをグッと堪える。そんなことで褒められても意味ないから。嬉しくなんかないから。そんなの誰だって思いつくし考えられるし、私がすごかったからじゃなくてみんながバカなだけだから!

「けどまあ、しょうがない。先生と一緒に翔陽行きますか」
「えっ!? あの、私ひとりで大丈夫です」
「えっ!? 平気なの!?」
「それは別に……
……お前変なところで強いよな」

先生は感心と呆れのないまぜになった顔をしているけれど、担任とふたり連れで翔陽の、しかもバスケット部に乗り込むなどとんでもない。道々花形と中学が同じでどうのこうのなんていう雑談をせざるを得ない状況など言語道断、絶対阻止である。おひとり様大変結構、選択ぼっちナメないで頂きたい。

いずれにしても花形を窓口にしなければならないのは事実だが、そこから先の話は監督や顧問や、3年生の主将になるはずだ。そうしたら2年生とは関わらなくて済む。

その日、自宅のベッドで30分ほどグズった挙句に、は花形へ連絡を入れた。かくかくしかじか、こういうことで最悪の結果になってしまったので、顧問の先生にご挨拶しに近々翔陽まで行きます。当日先生のところまで案内だけお願いしたい。それだけでいいから。

すると、間髪入れずに返信が帰ってきた。その速さにはウッと喉が詰まる。

「了解、待ってるよ。話が終わったら練習見ていきなよ。それで、一緒帰ろう」

そんなことこんな速度で返して来るんじゃねえバカ!!!

だいぶお言葉遣いが乱暴になってしまったは真っ赤な顔でバタバタと暴れた。