美しきこの世界

12

薬物使用疑惑事件の尾が長く引いていて、と花形のプライベートは年が明けても中々落ち着かなかった。特には両親が心配のあまり学校を変えたらどうだと言い出すなど、本人は早く忘れたいのに周りが騒ぐせいで日常に戻れないという日々が続いていた。

そういうわけでふたりで会える時間は減っていたし、翔陽バスケット部は監督が見つからないし、はまだ予備校に行かれないし、で本人たちの気持ちはともかく、ふたりの環境はいい状態になかった。

しかし3学期も終わろうという頃になって、正式に逮捕された男子生徒の退学が決まったと知らされると、やっとの両親は我に返り、もう3年生が目前ということも思い出し、今後1年間のことを春休みの間によく話してくれるようになった。

そんな春休みを経て新学期、晴れては予備校に通い始めた。

経済的には相変わらず厳しいようだが、事件があったことで「うちの娘は本当に勉強に熱心で一生懸命やっている」という認識を新たにしたらしく、元々目指していた国立だけでなく、私立も視野に入れて構わないと言い出した。驚いたのはの方だ。どうしたいきなり。

「あんな風にクスリで逮捕されるようなこともない、うちの子は立派だ、応援してやらねば、とね」
……そりゃまあ、そうだけど。逮捕されない方が普通じゃないか?」
「ショックが強すぎたんだろうね。私は助かるけど、借金はどうなんだろう」

学資ローンなど珍しい話ではないが、はなんとなく両親のテンションが定まらないので、私立なら借金してでも、という勢いは少し不安が残る。花形も難しい顔をして頷いた。以前からそのつもりがあるならともかく、急にそんなことを言い出すのはどうにも危なっかしい気がしてしまう。

どちらも始業式直後、まだ部活が解禁にならない花形は珍しく制服のままで有料コートまでやって来ていた。今日はコートに入らない。ただと会うためだけに休憩所に来た。

「よく聞くじゃん、大学で学んだのとあんまり関係ない仕事に就いたりすると文句言われたりとか」
「あるな。オレの叔父さんがそれだ。国立の医学部入ったのに、なぜか林業やってる」
「飛んだね」
「生命というものとはなんぞやと考えてたら植物に行き着いちゃったそうだ」
「あー……
「祖父さんは医学部出たやつがチェーンソー振り回してどうするんだと激怒したらしい」
「まあ、医学部じゃね……てかあんたん家やっぱりそういう家系なんだね……

花形はまるで他人事のように言うが、お前もだろ、とは心の中で突っ込んでおく。

の場合は目標の方が先にあるから、そういう心配はないと思うけど」
「大学に通ってる間に軌道がずれたりしなければ、ね」
「そういう予感があるのか?」
「今は何も。だけど、自分のことでも『絶対』はないような気がして」

中3の時に一度振られて、そして受験に失敗した時から、「好き」という気持ちを捨てられないまま、しかし花形と付き合うなんて天地がひっくり返ってもありえないことだと思ってきた。だが気付けばいつの間にやら付き合っていて、あの頃の固い決意や揺るがないと思っていた意志は一体何だったのかと首を傾げてしまう。

絶対にブレないしっかりした芯も大事だが、自分の意志などお構いなしで押し寄せてくる事象を受け流せる柔軟性も持っていないと疲れるばかりだ。は最近そんな風に考え始めている。

現在通っている予備校には、やたらと大きな声で生徒たちを煽る講師がいる。上を見ろ、頂点を目指せ、勝ちを掴め、天井をブチ破れ、ブレイクスルー! それはいいのだが、自分が先天性の高性能タイプではないという自覚のあるは、この煽りに乗れる気がしなかった。

と一緒に3年生になってから通い始めた生徒のひとりはこれに大乗り気で、現在よりも偏差値を10は上げたいと盛り上がっている。元々学びたいと思っていた分野があったけれど、それは放棄してしまって、よりランクの高いところを目指したいと言い出した。たかだか3日ほどの間に。

現状維持は怠慢に他ならぬ、と予備校は大騒ぎしているが、のそもそもの希望進路は安全圏などではなく、だいぶ挑戦を必要としていた。だが、何が何でもトップオブトップを目指して落ちてしまったら、の場合は浪人という手段がない。しくじったら最後、全ての現役から外れてフリーターである。

それでも自分の可能性を試すのだ、失敗は許されない! と煽るのは結構だが、一度受験に失敗しているはこの「挑戦」という意義のリスクの大きさに賭けるだけの立場にはないと思い始めていた。幸い、妙に乗り気な親は私立でも構わないという気になっている。滑り止めも熟考せねばなるまい。

どうしても「社会の上澄み」の中に入りたい、突き詰めて言えばの願いはそこだった。省庁なら上澄みそのもの、民間ならどんなに学力や資格がなくともコネがあればなんとかなろうが、国家公務員はそういうわけにはいかない。選ばれし者が選んだ者のみが集う場所、そこに行きたかった。

花形が不思議そうな顔をしたように、どこかへ曲がっていってしまいそうな予感があるわけじゃない。あるわけがない。の目的はその選ばれし者のみの世界であり、何かの分野ではないのだから。

「もしかして、道を逸れてみたいとか、思ってる?」
……どうなんだろ。誘惑が目の前にあって、それに惹かれても、怖くて行かれない気がする」

人は無責任に失敗を恐れるものに成功なしと言うけれど、それに踊らされて失敗した後にはやり直せるチャンスなど残らない。取り返しのつかない現実を嘆いても、時間を巻き戻せない限りは失敗は失敗のまま、未来永劫成功に転じることはない。にセカンドチャンスはない。

挑戦という名のリスクを選べるのもまた、選ばれし者のみの特権であろう。は確実に進学をし、国家公務員を目指せる道を模索しなければならない。だが、花形の言うように、絶対に道を逸れないとは言い切れなくなっていた。安全な道などどこにもなく、誘惑に出会うかどうかも運次第だ。

ただ想像の中でいえば、それは怖くて近寄りたくないというだけだ。

「透はどうなの。スカウトとか」
「うーん、具体的には言われてない。見学に来てた監督とかに褒めてもらったことはあるけど」
「藤真くんも?」
「あいつはもう決まってる」
「ひとりだけ?」
「そういう選手なんだよ」

しかし翌月には予選が始まる花形は、藤真が監督をこなさねばならない翔陽にあってはチームの中心であった。はそれに思い至ると、自分とは相容れない進路を選んだことへの怒りがほとんど残っていないことに気付いた。バカなことをしたと思っていたけど、頑張ったんだね――

するりと絡めたの指を花形は優しく握り返す。

「どうした」
……中学の時、バスケバスケってこいつバカだなと思ってたんだけど、だけど透はちゃんとここまで来て、チームの真ん中にいて、透が目指したことはちゃんと近付いてきてるなあって、思ってさ」

ひやりと冷たい春の風が足元を吹き抜け、花形は手を解くとの肩を抱き寄せた。

「大丈夫だよもオレも、全部うまくいくって」

頷くしか出来ないの肩をさすりながら、花形は頭にキスを落とした。

だがその翌月、翔陽は昨年1回戦負けに敗北、IHどころか、予選ブロックも突破できなかった。

……IH、行かれないの」
……そう」
「行かれないとどうなるの」
……何も。ただ行かれないだけ」

予選ブロックの試合から1週間、体調を崩して練習を休んでいるというので、は初めて花形の家に足を踏み入れた。きれいに整った部屋だった。余計なものはなく、飾り気もなく、勉強以外では寝るだけにしか使わない部屋、という感じだった。

熱が出たという話だったが、風邪ではないらしい。熱以外の症状が何も出ていないという。

ぼんやりした顔でベッドにひっくり返っている花形を立って見下ろしながら、はぼそぼそと声をかけていた。すぐ近くに寄り添い、手を触れて、そして優しい言葉をかけて慰めてあげるやり方がわからなかった。なんと言えば花形の慰めになり、少しでも気持ちが楽になるのかなんて、さっぱりわからない。

「引退、するの」
「しちゃたやつもいるけど……オレはまだ決めてない」
「スカウト、どうなったの」
「元々ちゃんとしたスカウトなんか来てなかったからな」

花形が体調を崩していると連絡をくれたのは藤真だ。いわく「頭でっかちでストレスの発散がヘタクソだから熱になって出た」んだそうだが、要するに落ち込んでるから慰めてやってくれ、と言いたいようだった。しかしは友達付き合いも薄く、人を慰める方法などよくわからない。花形もそれはよく知っている。

……、無理しなくていいよ、藤真に何か言われたんだろ」
「無理はしてないけど、藤真くんはすごく落ち込んでるって言ってた」
「落ち込んでるのなんか、みんな同じなんだけどな」

仰向けになった花形はメガネを外して前髪をかきあげ、ぼんやりした目で少しだけ笑った。

の言うことなんかにしか当てはまらないことで、オレはバスケットを頑張るんだって、そういう気持ちだけで翔陽に来て、夢見たとおりのバスケット生活でIHにも出て、オレたちが、翔陽が負けるかもしれないなんて、考えたことなかったからな。そりゃ、落ち込むよ」

は一歩進み出ると、遠い目をしている花形を覗き込む。

……透、挫折したの、初めてでしょ」

にはもう何度もそういう苦しみがあった。しかし花形は中学時代からバスケットを目的に生きてきて、こうして予選で負けるまでは順風満帆、せめてもの敗北と言えば1年2年のIHを途中で敗退したことくらいだ。

「苦しいでしょ」
「苦しい」
「死にたくならない?」
「なったな」
「これで終わりじゃないとか言われると、殴りたくならない?」
「なるな」

はまたベッド近寄ると屈み込み、真上から花形を見下ろす。

「ちょっとざまあみろって、思ってる」
……だよな」
「だけど、これで同じになったかなって、そういう気もする」

まだ虚ろな目をしていた花形だったが、手を伸ばしての頬に軽く触れた。

「失敗するって、こういうことなんだな。よくわかったよ」
……私、慰める方法とか、わかんないけど」
「慰めるつもりだった?」
「一応」

頬を離れた花形の手が指を引くので、はベッドに腰掛ける。体を起こした花形の腕がするりと巻き付いてきて、ぎゅっと締め上げる。暖かい腕だった。

「そういうの、得意じゃないのに、ありがとう」
「苦手ってわけじゃないよ、ただどうやったらいいかわかんないだけで」
「それでも嬉しかった。ちゃんと自分で乗り越えるから」
…………私じゃ、慰められない?」

花形は鼻で笑い、の髪に顔を埋めた。

、状況わかってないだろ、こんな、ベッドの上で」
……言葉の意味を、取り違えないで」
「そういう繊細なことに気を使う余裕はないよ。熱もあるし、投げやりになってるんだから」

どうにもからかっているような声色には少し苛ついたが、挫折を味わっている最中に人のことを気にする余裕がないことはよくわかる。目の前にあるもの全てが憎らしくて壊してやりたくなる、そんな衝動も理解できる。彼の言う「投げやり」、それは思い出すだけで痛むほど覚えがある。

……そういうことすれば、気が晴れるの?」
「晴れないだろうな。ただむしゃくしゃしてるから、発散したいだけだ」
……したいの?」
「そりゃそうだ」

しかし花形はの肩を掴んで引き剥がし、両手を取って包み込んだ。

のこと好きなんだから、それは当たり前だ。いつも思ってるよ。だけど、こんな状態でそんなこと、ぶつけたくないのも本当。だから、、ありがとう、送っていかれないけど――
「してもいいよ」

半分くらいは、売り言葉に買い言葉だった。男と女じゃ事情も感情も違うし、成り行き任せで一線を越えるなんて嫌だろう? そんなこと出来ないだろ? と言われているように聞こえてしまったのだ。そしてもう半分は、言葉や心からの気持ちで花形を慰めてやれない己の未熟さが悔しかったからだ。

言葉通り慰めることが出来るなら、もはやそれでも、と思う気持ちがどこかにあった。

だが、花形はゆっくりと首を振り、穏やかに微笑んでいる。

、捨て鉢になるな。が至らないからとかいうことじゃない。オレだって試合に負けて落ち込んで熱出して、その挙句に見舞いに来てくれた彼女とセックスして元気になりました、なんての、嫌なんだよ。ただ今は精神的に疲れてるから、コントロールするのも面倒くさいし、できそうにないから」

言葉を切ると花形は長めのキスをして、そしての肩を押して立ち上がらせた。

「こんな絶望めいた感情なんか初めてだけど、だから思う存分浸っておくことにするよ。自分の中がこんなに真っ黒になるんだって、そういうの、じっくり見てみる。それはには見せたくない。まだかっこ悪いところは見られたくない。だから、、今日はありがとう」

はしっかり頷くと、花形の頭を抱えこんでギュッと抱き締め、すぐに解放した。

「いつか、今思ってること、全部教えて。透のかっこ悪いところも、知りたいから」

そして返事も待たずに踵を返して部屋を出ていった。

階段を降りていく足音が遠ざかると、花形はまたゴロリとベッドに横になり、母親の声との声がかすかに聞こえるだけの部屋で目を閉じた。うっすらと漂うの匂いが鼻をくすぐり、肌が少しだけ粟立つ。

今思ってること、だって?

死ね、みんな死ね、何もかも壊れて消えろ、死にたい、死にたくない、時間が巻きもどれ、全部なかったことになれ、もう1回やり直させろ、今度は必ず翔陽が勝つから、そんなこと無理に決まってるだろバカか、嫌だ、ムカつく、腹立つ、なんでオレがこんな思いを、全部全部消えろ、こんな世界なんか消えてなくなれ!!!

それから、とやりたい、嫌がっても泣いても暴れても構わず押さえつけて、満足するまで好きなだけを蹂躙して、辱めるようなことでも、なんでも、この絶望を忘れられるくらいに激しく犯したい。

花形はベッドの上で体を丸め、両腕で頭を抱えこんでうめき声を上げた。

――――そして、こんなことを考えてしまう自分が本当に嫌いだ。こんな自分も世界も、もう嫌だ。