美しきこの世界

06

「へえ〜へえ〜なるほどね〜あの子がね〜」
「一志、こいつ殴っていいか」
「藤真の顔もうちの大事な戦力だから勘弁してやってくれ」

から連絡を受けた花形は、顧問や監督には既に連絡が行っているだろうと踏んで、先に藤真たちに話した――ら、夏のIHで怪我をして以来ずっと不貞腐れ気味だったその藤真がにんまりとチェシャ猫のような顔から戻らない。それはそれでイケメンなので余計に腹が立つ。

最近藤真の顔という武器は女子のみならず男子にも大変有効で、威圧的な対戦相手と距離を縮めてにっこり微笑むと向こうが後ずさるなどの妙な効果を上げ始めている。学年が下だと更によく効く。

「交流試合ね。そうか、あの子がそんなこと考えるようになったのか」
……いや、押し付けられたっぽいぞ」
「あー、そっち」

ニヤニヤ顔のまま藤真は腕を組んでうんうんと頷いている。同情している風だが楽しそうだ。

「で? 文化祭で試合すんのオレたち」
「どうだろうな。お前はスタメンだから行かないんじゃないか……何だよその顔」
「なんでスタメンだとダメなんだ」
「自分の学校のバスケ部がボロ負けするところが見たくて企画したわけじゃないだろどう考えても」
「県予選の成績は最高で3回戦突破、それも8年前」
「試合経験のない2年生が中心のチームになるだろどう考えても」
「オレは?」
「年末で主将になるやつがそこに入れるわけないだろ」
「仲間はずれかよ……
「そういう問題か」

藤真はてっきり自分も試合に出るのだと思っていたようで、トレーニングマットの上にごろりとひっくり返った。

「別にそんなのいつものことだろ、何言ってんだ」
「そーいうなんか面白そうな試合なのにスタメンだっていうだけでオレだけ仲間外れ」
「いやたぶんオレたちも入れないって……

藤真はもちろん、2年生の主力部隊である花形や長谷川たちはベンチ入りする機会も多いし、翔陽と同クラスの強豪校の2年生同士の試合などでは必ず出場しているし、いわば「次期スタメン枠」なのである。とてもじゃないが、の高校など相手にならない。

監督の采配次第だが、これまで試合経験もなくベンチ入りするでもなく、淡々と練習に励むだけだった2年生部員だけで構成されるに違いない。まあ、おそらく藤真は野次馬的好奇心でグズっているだけだし、本人が期待するような面白い展開などにはなろうはずもない。

「で? なんだっけええと」
「何が? ああか?」
「そうそう、ちゃん、ほんとにひとりで来るのか」
ちゃんて。明日の放課後来るらしい」
「へえ〜へえ〜」
……やっぱり殴っていいか」

予定では授業が終わり次第は翔陽にやってきて、顧問の先生と話をして帰るという。花形は練習見ていきなよ一緒に帰ろうと言ってあるが、それについては反応がない。残念に思っていた花形だったが、藤真の様子を見るに、さっさと帰ってもらった方がいいような気がしてきた。

「そんな取り澄ました顔してんなよ。好きな子にかっこいいとこ見せたいとか思わないのか、気合入れろ」

藤真はそう言ってマットの上でゴロゴロしているが、花形は相手にしない。最近の彼の信条は「ツッコミはつっこむ価値のあるボケに対してのみかます」であり、このような戯言は相手にしないのである。なぜならば、藤真の言うことなど、至極当たり前だからだ! オレだって出たいよ!

私立である翔陽高校だが、見たところは県立高校と大差ない外観をしている。の高校の方がいかにもお金をかけています! という印象がある。翔陽のように強くないというのに運動部の施設はやたらと豪華だ。

その翔陽の正門にたどり着いたは、私こんなところで何やってんだろう……というちょっとした絶望とともにあり、そのせいでやや自暴自棄になっていた。志望校にも入れず、塾にも行かれず、独学では成績は伸び悩むばかり、終いには文化祭実行委員などというものを押し付けられてこんなところに。

そして正門に向かってくる花形に気付くと、今度はどきりと跳ねる胸に苛立ちが混ざる。

「すまん、待たせたか」
「いや、今来たところ。練習中に、ごめん」
「そんなこと気にするなよ。大変だったな、文化祭なんて。翔陽行って来いって押し付けられたな?」
「お察しの通りで」

ため息ひとつで気持ちをリセットしたは花形のあとについて翔陽に足を踏み入れた。担任に監修してもらいながら作成した資料の入ったバッグを肩にかけ直し、顧問の先生に確認しておかなければならない事項を反芻する。そして要件が済んだら速やかに退去する。帰宅後、予算の計算をし直し。

「中間どうだった」
「中間? いつもと変わらないけど……
「まあそうだよな。愚問でした」
……あんただってどうせそんなところでしょ」
「いや、オレは1位にはならないようにしてるから」
「はあ?」

事情をよく知るでもイラッと来る物言いだった。わざと成績落としてるっていうの?

「しょうがないだろ。部活忙しいし、部員たちはその間で必死に成績維持してんのに、国公立クラス抜いて1位になったら色々面倒なことになるだろうし、だいたい30位くらいをキープするようにしてるんだよ」

そんな理由で頂点を放棄するという意識の低さがにはよくわからない。だが、それに今更グダグダと文句を言ってもしょうがない。クリアーでクレバーな頭脳の花形はバスケバカになってしまったのだ。

花形の案内では顧問と監督が待つ生徒指導室にやってきた。ペコリと頭を下げ、許可を得てから教室の中に入る。ふたりともにこやかに迎えてくれたが、あんたらがOKさえしなきゃこんなことには、と思ってしまった暗黒は深呼吸をして笑顔を作る。

「えっ、そうか、君もあの中学の出身で。なるほどね」
「花形くんとは3年間同じクラスでした」

あとはと顧問と監督だけでいいはずなのだが、花形が出ていかない。はそれが気にかかりながらも、文化祭での交流試合についての話を進めていく。基本的に翔陽は電車で来て試合をしてくれればいいだけだ。クラブ棟にシャワーはあるし、控え室は体育館にくっついているミーティングルームを開放する。

話が出なければ言わないでおこうと担任と取り決めてあるが、なんなら昼食くらいは用意できなくもない。何しろこれで済めばのE組は学校から出る予算だけでクラス展示が出来てしまう。

「ええと、2日間でしたか?」
「文化祭が2日間行われるので一応そう記しましたが、1日だけでももちろん構いません」
「いえ、両日とも行かせていただきます。試合経験のない部員が多いので、出してやりたいのです」

真剣な顔の監督の言葉に迫力負けしたは、カクカクと頷いた。すると監督は少しだけ身を乗り出して、長机の上で手を組み、低い声を出した。

「花形、ここだけの話にしてくれ。さん、正直に申しますが、うちのスタ……レギュラーメンバーでは試合にならないと思います。トラブルで敗退を余儀なくされましたが、今年もIHに出場しているし、そちらは県予選2回戦敗退。それに合わせた選手の派遣になりますが、それでいいですか?」

これは誰でもわかることだし、むしろたちの方も望むところだ。しっかりと頷く。

「そのようにして頂ければ助かります。八百長の出来レースをしたいわけではないのですが、2日間、お互い一勝一敗で終われるような形がベストなのではないかと考えています」

これが藤真を中心としたスタメンであればとんでもない話だ。だが何しろ翔陽は3学年フル在籍の状態で100人近い部員を抱えているのが割と普通。勝たねばならぬ試合には出られない選手がゴロゴロといる。なので翔陽は練習試合を断らないし、小規模な大会でも積極的に参加する。

そもそもたちはこの交流試合を「クラス展示」と考えている。あのニヤリ顔の男子の言うところの「見世物」だ。例え格下でもフルパワーでブッ潰すという姿勢で来られたらどうしようか……と考えていたくらいだ。助かる。ぜひそうしてください。

「では2日間、30人程度の2年生チームで参ります」
……えっ、2年生!?」
「はい」
「3年生ではないんですか?」
、3年生は普通引退してるだろ」
「そっ、そうなの!?」
「すいません監督、彼女部活経験がなくて」

3年生対3年生だとばかり思っていたは焦った。てことはまさか花形も来たりするの……

「おそらくそちらの3年生も全員引退しているだろうし、こちらには3年生残ってますけど、引退してないのはスポーツ推薦で大学進学するようなのがほとんどなので」

そこにも考えが至らなかったは汗をかいてきた。想定外だ。

「ですが、そちらに3年生がいても構いませんよ。そこはご都合に合わせてどうぞ」
「わ、わかりました、そのように伝えます」
「ではよろしくお願いします」
「はい、突然のわがままを聞いてくださってありがとうございます。よろしくお願いします」

こうして打ち合わせは30分ほどで終了。知識がないばっかりにが慌てた場面もあったけれど、事前に用意してきた資料は不備もなくわかりやすく、蓋を開けてみれば双方の利害も一致、事はスムーズに進みそうな気配だ。あとは体育館の準備などでしくじらなければ問題なかろう。

だが、サッと立ち上がったに、監督が声をかけてきた。

「そうださん、せっかくですから練習、見ていきませんか?」
「ファッ!?」

変な声を出したのはではない。花形だ。監督何言ってんすか藤真のバカがいるんですよと言いたいのに、言えない。さっさと帰りたいも戸惑っている。が、監督はさあどうぞどうぞと手を差し出す。

「バスケに出会わなければ東大だって入れたかもしれない花形だけど、これもいい選手なんだよ」
「か、かんとく……
「うちも年末には3年生が引退するけど、そしたらこいつは副主将だからね」
「あの、その、かんとく……!」
「何恥ずかしがってんだ」

そうじゃない、同学年のやつらにイジられるから嫌なんだ! と思っても口に出せない体育会系縦社会。花形がうまく断ってくれなかったのでも断れず、困った顔をして体育館まで連行されてしまった。3年生が8割方引退しているので総勢70人ほどの男子部員が一斉にを見る。なんかかわいい制服キター!

そして傍らには翔陽バスケット部が誇る高偏差値メガネセンター花形もイルー!

それまでありとあらゆる人を虜にする真剣な表情で練習をしていた藤真が一気にチェシャ猫と化す。おいおいちゃん久しぶりじゃん、相変わらずその制服かわいーね、いやいや中身もかわいいよ、花形が好きとかもったいないねー! という顔をしている。

監督は体育館の隅で2年生に集合をかけ、軽く事情を説明する。

「で、こちらが実行委員のさん。花形と同じ中学らしくて、それで今日わざわざ来てくれました。花形が連絡担当でいいと思うけど、さん、これが一応次期主将なので何かあれば彼に。藤真といいます」
「監督、面識あります。さん久しぶり!」
「ひ、久しぶり……
「えっ? あ、そう、まあそんならいいか。選抜メンバーはその内発表するけど――

笑顔でひらひらと手を振る藤真、そのせいで視線が集中して顔色の悪いは苦笑いを返していた。だが、突然監督が言葉を切ったので、すぐ横にいたが振り向くと、監督は喉と胸を押さえて背中を丸めていた。2年生たちは一瞬事態が飲み込めずに、ぽかんとしていた。監督なにそれ?

だが監督はそのまま前のめりに傾き、花形と長谷川が手を伸ばしたけれど間に合わずに倒れた。

慌てる2年生、何事かと走ってきた3年生、その中ですばやく監督の傍らに膝をついたのはだった。

「監督、監督聞こえますか! 監督、聞こえますか! ……透、救急車呼んで」
「えっ、救急車!?」
「意識なくて呼吸が殆どないって言って。あと誰かAED持ってきて! 監督!」

おろおろする花形たちをよそに、は監督のジャンパーを脱がせて胸の辺りを圧迫し始めた。

「3年生の方、職員室へ報せてください。救急車を呼んであるので同乗する人を用意するよう言ってください。AEDまだですか! 透、携帯ないの? じゃAED来たらこれ代わって。誰か救急車呼んで下さい! 職員室は報せるだけでいいから今すぐ呼んで! 意識なし呼吸殆どなし!」

のてきぱきとした指示に、ようやく部員たちが動き始めた。3年生は走って体育館を出ていき、1年生がAEDを持ってきた。胸部の圧迫を花形に代わってもらうと、は急いでAEDを開く。電源ボタンを入れると、音声ガイドが流れ出し、はそれに従って電極を取り出すと、花形に監督の服を脱がせるように指示する。

AEDのパーツに指示がある通りに胸部と腹部にパッドを貼り付けると、音声ガイドが心電図計測を報せる。

「透、離れて。みなさんも離れてください」
「えっ、なんで?」
「高圧電流だから。早く離れて」

やがて電気ショックが必要であるという音声が流れ出す。ショックが与えられ、今度は胸部圧迫を再開するよう指示が出る。ついでに人工呼吸が必要だというので、がAEDの中から補助道具を取り出したが、これは残った3年生が代わってくれた。相手がおじさんなので気遣ってくれたのだろう。

電気ショックと胸部圧迫と人工呼吸を3セット繰り返したところで、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。胸部圧迫と人工呼吸は3年生が中心になって交代で行ったけれど、緊張や不安でみんな汗だくになっている。

救急隊員が到着してあとを引き継いでもらうと、バスケット部員全員が離れた位置で体育館の床にへたり込んだ。あとは先生たちに任せるしかないが、それにしても驚いたし怖かったし、何より疲れた。一番長く胸部圧迫をしていた花形もの隣でぐったりとしている。

その後数分かかって監督が搬送されていくと、体育館にはバスケット部員とだけが残された。はぐったりしている部員たちをちらりと見てから、バッグを肩に掛けなおして少し頭を下げる。なんかみんな放心状態だけど私はもう用がないので帰りますね。

「あの、では、お大事に……
……いやいや待った! 、待て!」

一歩後ろに下がったを見て慌てたのは花形である。急いで膝立ちになると追いすがってを引き止めた。は勘弁してくれという顔をしていたけれど、うーいお疲れ〜で済む話じゃない。

、ありがとう。たぶんオレたちだけだったらAEDなんて思いつかなかった」
「えっ、講習受けてないの!?」

は驚いているけれどそういう問題じゃない。全員立ち上がり、進み出た3年生も礼を言ってペコリと頭を下げた。どうやら現在の主将のようだ。それにどきまぎしていただが、やっと思い出した。私文化祭の件で来てたんじゃなかった!?

……監督さん、すぐに戻れなかったらどうするの、試合」

そこで初めて部員たちは監督が今まさに生死の境を彷徨ったことに気付いた。病院で処置してもらったらそれでOK! かどうかはまだわからない。もし長期入院になってしまったら。心臓に疾患が見つかって運動できない体になってしまったら。強豪校の監督は楽な仕事ではない。

「えーと、それは報告が来てからじゃないとなんとも言えないけど、冬には間に合うだろ」
「まだ2ヶ月近くあるしな」
……そうではなくて、ええと、藤真くん」
「えっ、オレ!?」
「文化祭の試合、どうするの。メンバーも決まってないみたいだったけど」

説明を受けていない3年生が12月にある大会の心配をしているので、は藤真を名指しで問いかけた。

「そ、そうなんだけど」
……もし無理ならそれでも」
「いや、無理じゃないよ! 試合は行きます」
「だけど監督さんが間に合わなかったら」

藤真も試合経験のない部員に試合を、という監督の方針は承知していたし、チームメイトとしてそれを望んでもいる。あと2ヶ月ほどで主将の座につく身としても、交流試合は出来れば辞退したくない。しかし文化祭までは1ヶ月ほどしか時間がない。監督いない、チームも決まっていない、3年生はそれどころじゃない。

さて、どうしよう。藤真は腕組みでしかめっ面をした。

そして全員藤真の頭上に電球がポコンと現れる幻覚を見た。

「よし、こうしよう。文化祭はオレが監督やるよ!」

翔陽の体育館に、70名近い男子バスケット部員の野太い悲鳴が響き渡った。