美しきこの世界

08

を送って帰った花形は家には寄らず、そのまま有料コートへ向かった。ファストフードで少し食べているので、エネルギー切れになることもあるまい。案の定藤真も制服のまま有料コートの外にあるベンチで携帯を見ていた。以心伝心、を送って行かせる方便だった。

「守備はどうだ」
「別に……送ってっただけ」
「お前ね、年末で副キャプのくせに攻めの姿勢がないのはどうかと思うぞ」
「勝機も見えてないのに突撃する方がバカだ」

見れば藤真の傍らにはバッグがいくつか積まれている。仲間たちが早々に練習を終えてこちらへ来ているらしい。ということはおそらく近くの牛丼チェーン店か何かで腹ごしらえできるものをテイクアウトしに行ったのだろう。藤真も食べるかもしれないが、さて誰か自分の分も買っておいてくれるだろうか。

「だけどさ、
「オレもそのはどうかと思うけど」
「じゃなんて呼べばいいんだよさんじゃ堅苦しいだろ石頭だな」
「堅苦しくないだろそんなの……
「ほんとにお前らめんどくさい……じゃなくて、お前のことじっと見てたな」
「はあ?」

またニヤニヤしている藤真の隣に腰掛けた花形はきょとんとした顔をして首を傾げた。そうだったか?

「お前に奢ってもらったお茶飲みながらじーっと見てたぞ。勝機なんかもう充分あるって」
「うーん、だとしても本人的には一応拒否の姿勢は崩したくないっぽいけど」
「そこはただの強がりだろ。強引に行けば絆されると思うけど」
……そーいうのが一番嫌いなタイプなんだよな」
「まじか。ほんとにめんどくせえな」

ただでさえは男尊女卑に過敏だった過去を持つ。花形もそういうゴリ押しは体質に合わない。藤真とは事情が違う。花形もおそらくは未だに自分のことを好いてくれているであろうことは疑っていない。しかし、ごくごく一般的な高校生同士の恋愛関係になろうという覚悟は全くないに違いない。

高校受験を失敗したことは今でも彼女を苦しめているし、軌道修正もあまりうまく行っていない様子。そんな状態にあるところを強引に攻め込んで嫌われてしまっては本末転倒である。

「それで? 決まったのか」
「今のところこんな感じ」

藤真の差し出した携帯にはずらりと見慣れた部員の名前が羅列してある。花形はそれをザッと目で追う。

……ちょっと強いんじゃないか?」
「そうでもない。今日見てきたけど、向こうも意外とやる気あるよ」
「へえ。オレに説明してたからあんまり見てないんだけど」
「オレが試合に出ないで監督やるって言ったから、ちょっと火がついたかもしれない」

藤真はこれでも地元では有名なスタープレイヤーである。自分たちでは歯が立たないことはよくわかっているが、それが監督でやって来て、いわば2軍と試合をするという状況に発奮したようだった。2敗する気はないからよろしく頼むと言って握手を求めてきたキャプテンは笑顔だったが、真剣な表情だった。

「そういう相手にはこっちも真剣に挑みたいからな」
……でも、負けられないぞ」

Sクラスが出ないとは言え、強豪校・翔陽の名で試合をするからには負けられない。藤真も真剣な顔で頷いた。はお互いに一勝一敗を望んでいるようだが、勝負である以上は勝つことが目的だ。エンターテイメントではない。藤真はもちろん花形も負けてやる気はない。

そこへ牛丼買い出しの3人が戻ってきた。藤真の顔がコロッと変わる。

「悪いな、立て替えてくれたの……一志か、はい」
「藤真、足りない」
……明日まで待ってくれ」
「期限は昼までな。花形、食べるよな?」
「助かる。いくらだ?」
「お前はいいよ、藤真のおもり大変だっただろ。オレの奢り」
「一志は何ですか……オレが嫌ですか……

以前長谷川が落ち込んでいる時に花形が同じく牛丼を奢ったことがあり、そのお返しなのだが、真顔でプルプルしている藤真が面白いのでそのままにしておく。5人はベンチにそれぞれ腰掛けて湯気の立つ牛丼をかき込む。大盛りを口いっぱいに頬張っていた永野が隣の藤真にモゴモゴ言いながら声をかけた。

「派遣メンバー決まったのか」
「まだ決定じゃないけど、ある程度はな」
「お前が監督、花形がマネージャー、オレたち何かやることあるか?」
「まあ、正直ないんだけど、先輩たちの判断如何によっては来てもいいんじゃないかと思ってるんだよな」

それを聞いて高野も顔を突っ込んできた。何だか楽しそうだし、出来れば見たい。そしたら両日とも見に行くかと楽しそうに笑っていた高野だったが、箸を唇に引っ掛けたままぼそりと呟く。

……先輩たち、揉めてるな」
……そりゃ揉めるだろ。もう時間、ないのに」
「オレたちが3年になるまでには新しい監督、決まるといいな」

2年生は思わぬ交流試合で盛り上がっているが、夏にも不本意な結果でIHを終えた3年生は、迫る冬の選抜に監督不在という悲劇的な状況にストレスを貯めてずっと苛ついている。翔陽は古くからバスケットの強い高校だが、それが仇となって簡単に代理が務められない状況であり、つまり誰にも頼れない。

かきこんだ牛丼をお茶で流し込んだ藤真は、ふうとため息をついて空を見上げた。

「そのためにも、勝たないと。今は全部自分たちでやるしかないからな」

翔陽男子バスケット部の監督の後任の目処も立たないまま、文化祭の準備だけがさくさくと進む。のプランニングは完璧、無理なく無駄なく、そして抜かりなく準備が整えられていく。

さすがに試合はどうぞ勝手に見てくださいでは「企画展示」としての体裁を保てないので、許可を得たは体育館の二面あるコートではなく、それをぶち抜いて新たにコートを設えた。移動式のゴールを置き、日本バスケット協会の規定に沿ってテープでアウトラインを作る。

縦にコートを置くことで片側にはベンチを置き、反対側は観客席とした。それをセッティングして飾り付けることで企画展示をアピールしておく。ついでに簡単にポスターを作成して体育館や校内に貼り出す。

その中でも作業量が多いのは客席のセッティングだろうか。男子の試合なので女子が殺到することを考えて、最前列も椅子だ。なので2段目3段目を校内の合唱祭で使うひな壇でまかなうことにしたのだが、こちらは元々上履きで乗るもの。直に座るとなると、少々汚い。それを座れるようにする作業だ。

これにも飾り付けをすれば、より企画展示の色が出る。聞けば翔陽はユニフォームが緑地に白文字だと言うので、片側を翔陽カラーにするなど、の主導で準備が進められていくが、やはりここで準備をサボって帰ってしまうのが出始めた。男子だ。藤真を目撃した女子はむしろ嬉々としていた。

だが、の無理なく無駄なくプランニングのせいで男子が数名抜けたくらいでは大した痛手ではない。ひな壇も元からいくつかに分かれているし、女子でもみんなで運べば問題ない。

そんな文化祭間近のことだった。ひな壇にかける布をちくちくと教室で縫っていたの元に花形から連絡が来た。いわく、練習が終わったらそっちへ行っていいかという。一緒に布を囲んでいた女子たちに見られないよう、は少し身を引いて「何の用だ」と即レス。目立ちたくないって言ってんのに。

帰ってきた返答は「監督からお礼を届けてくれと言われてる」

そんな気遣いはいらない、人として当然のことをしたまでと返したが、日持ちのしないものを預かってしまってるのでこっちも受け取ってもらえないと困る、とのこと。

この時に、「じゃあ駅で」とか「有料コートの辺りで」という返しが思いつかなかったのは、もしかしたら自身もそれを望んでいたからだったのかもしれない。好きな人が正門の外で待ってる、そんなシチュエーションを歓迎する気持ちがあったからかもしれない。

そんなわけで了解したはやけに熱い頬を隠すように俯いてまたちくちくと布を縫い始めた。手の中を滑っていくグリーンと白の翔陽カラーが胸の奥をじわりと痺れさせていく。

ひな壇にかける布の準備は地道な女子の仕事のおかげで順調。この日、ひな壇の後ろ側にかける布が出来上がったので、作業していたを含む数人は完成形が見たくなってしまい、いそいそと体育館に向かった。それこそ男子バスケット部が練習していたが、隅の方を借りてセットしてみる。悪くない。

「安い布だったけどきれいだねー」
「あとは前側と、座るところはできてるから……余裕で間に合うねー」
「なんかほんとちゃんの計画通り、って感じ」

出来がいいので女子たちは満足げだ。今日は大人しく作業に参加した男子も壁にポスターを貼るための養生作業をちゃんとやっている。女子の言うように、の計画の通り作業は実にスムーズ。遅くまで残ってはいるが疲れるほどではないし、簡単な作業で喋りながら出来るので楽しさもある。

「でも言い出しっぺが参加しないんだもんなあ」
「えっ、さっきいたよ?」
「残ってるのに作業手伝わないとか、もう」
ちゃんがいなかったら文化祭グダグダになってたよねほんと」
……そういうことじゃ」

順調なので本当に機嫌がいい。言い出しっぺであるニヤリ顔くんたちが参加しないことに文句は言うが、本気で憤ってはいない様子。そして上げの方向に傾いてきた。が花形と同中出身だったおかげでイケメン拝めるし! は逃げるが、文化祭が終わるまでは解放してもらえそうにない。

すると、たちの背後から、いや、後ろのだいぶ上の方から声が聞こえてきた。

「まだ残ってたのか」
……ちょっ、何やってんの!?」

花形だった。手にわかりやすいデザインの紙袋をぶら下げ、制服にスポーツバッグを斜めがけにしている。放課後テンションで楽しくなってしまっていた女子たちがわっと笑顔になって、そして急いで離れていく。

「何やってんのって連絡付かないしなかなか出てこないし、要冷蔵だし」
……要冷蔵」
「そこはすまん、奥さんが翔陽の子だと思ったらしいんだよ」

花形がひょいと持ち上げた紙袋の中身はプリンであった。6個入っている。がちらりと振り返ると、ちょうど自分を入れて6人いる。花形はこの際除外でいいだろう。

「プリン食べない?」
「えっ、だけどそれちゃんが」
「親に説明するのもめんどくさいし持って帰るの重いし、ここで食べちゃお」

おろおろする女子たちにはプリンを押し付けていく。付属のプラスプーンも配ると、花形の背を押して体育館の外へ出る。そこなら石段に座れるし、男子バスケット部からも見えまい。だが、花形は首を伸ばして体育館の中を覗き込んでニコニコ顔だ。

「てかあれ客席? 翔陽カラーに合わせてくれたのか?」
「そう。ちゃんのアイデアだよ」
「かっこいいね。すぐ脇が観客席なんてところでプレイするの始めてだ」
……あんたは試合出ないでしょ」

花形が女子とペラペラ喋っているので、はつい冷たく突っ込む。余計なこと言うな。プリンもさっさと食べ終える。美味しいプリンだったけれどゆっくり味わう気になれなかった。

「てかちゃんと許可もらって入ってきたんでしょうね」
「そりゃそうだよ。守衛さんに学生証見せて入れてもらったんだから」
ちゃんはなんでそんなに辛辣なの?」
「そう思うよな、冷たくない?」
……そういうのいいから、ほら食べ終わったらゴミちょうだい」

放っておくと双方余計なことしか喋らない気がする。はのろのろ食べている女子を追い立ててプリンカップとスプーンを回収、ひとつのゴミにまとめるとさっさと立ち上がった。今日の分の作業は終わっているし、花形がここまで来てしまった以上はさっさと連れて出なければ。

だが、いくらが見下していたとしても、彼女たちも同い年の女の子である。のつっけんどんな態度と花形のにこやかな表情に何かを嗅ぎ取ると、プリンカップの入った紙袋をサッと奪い取って立ち上がった。

「えっ」
「ここに花形くんひとり残しておけないでしょ。荷物取ってきてあげる」
「は? いいよそんなのひとりで正門――
「ここなら体育館に用のある人以外は通らないから、気にしなくて大丈夫だよ」
「すまん、ありがとう。待ってるよ」

花形などひとりで正門にでも戻っていれば問題ないと言おうとしたを遮り、女子たちは花形に声をかけるとサーッといなくなってしまった。途端に静まり返るふたり、背後の体育館ではそろそろ練習が終わるバスケット部が片付けをしている音が聞こえてきた。

「どういうつもりよ……
「オレが何かした?」

この状況を作ったのは花形ではない。じろりと睨んだににやりと笑いかけると、の手を引いてまた石段に腰を下ろした。立って並んでいると顔が遠いからだ。すぐ隣に座ってしまったは距離を置いて座り直す。花形はそれに気付くとすぐ隣に座り直す。

「何してんだ」
「そっちこそなんで離れるんだよ」
「くっつく必要もないからでしょ」
「要不要の話じゃないと思うけど」

体育館の中からはバスケット部員たちの「おつかれっしたー」という声が聞こえてくる。は花形から逃げながら、慌ててドアを閉めた。バスケット部が体育館を閉めてしまえば、バッグを取りに行っている女子たちも外から回ってくれるに違いない。明るいところに花形を連れ出す気にはなれなかった。

すると、一気に薄暗くなったところでは体を引き寄せられて乾いた悲鳴を上げた。気付くと花形に後ろから抱きすくめられていて、心臓が跳ね上がり、そして焦る。誰かが通りかかる可能性だってあるのに!

「やめ、離して」
「なんで」
「ここどこだと思ってんの、誰かに見られたら」
「こんな暗いんだから、誰がいるのかなんてわからないよ」

もぞもぞと身を捩るけれど、花形はしっかりと腕を固めていて、逃れられそうにない。

だってバレなかったら、いいんだろ」
「そ、そういうわけじゃ」
「ここが学校でもなくて本当に誰もいなくても、嫌か?」

花形の腕に手を突っ張っていたは、がくりと頭を落として黙った。花形は一呼吸置くと腕を緩めてと向かい合う。だいぶ背中を丸めなければ視線を合わせづらい……が、はすぐにそっぽを向いてしまう。

、こっち向いて」
……やだ」

「こういうの、やめてよ、無理だって、無理だよ」

「名前呼ぶの、やめて」

すぐ近くにある花形の顔を直視できなくて、は両手で目の前を覆う。その手を花形は指一本で押し下げて、さらに顔を寄せる。薄暗いのでの表情はわかりづらいけれど、もうこの際表情など見えなくても構わない。花形はの背に手を回して力を入れて引き寄せる。

……

至近距離の花形ですら聞き取りづらいほどの小さな声で「やだ」と聞こえた気がしたけれど、の手は花形の袖をぎゅっと掴んでいた。そして、スッと息を吸い込む。それを確かめると、花形はゆっくりと唇を押し付けた。の息が止まる。

冷たい風が吹き、息を止めたの肩を震わせる。静かに離れた花形は、袖を掴むの指すらも震えているのを感じ取ると、そのまま引き寄せて抱き締めた。は何も言わずにしがみついている。

いずれバッグを取りに行った女子たちが戻ってくるのはわかっているので、花形は周囲の音に耳を澄ませながら目を閉じての髪に頬をうずめた。今、高校2年生の秋。とはお互い気持ちが通じ合っているのだと知ってから丸2年が過ぎてしまったけれど、ずっとこうしたかった。

は繰り返し理屈で「無理」なのだと突っぱねるけれど、恋愛は、その感情は理屈ではない。本能だ。人間が生物である限りは進化を求め多様性を求め、その証として人は恋に落ちる。

触れたいのは、キスしたいのは、花形の細胞全てがを欲しているからだ。

本能のままに秩序を乱すのはルール違反だろうが、本能を否定してルールのためにそこから顔を背けるのは、命ある生き物であることを否定しているのと同じだ。花形は己の本能のままにを欲し、そこから目を背けたりはしなかった。

遺伝子レベルで相性が悪い個体は、不快な匂いがするという。相性が良ければ、良い匂いがするという。

首筋から漂うの優しくて甘い匂いに、花形はそっと微笑む。国家公務員を目指していた頃は、仕事で海外を飛び回るのもいいな、そうしたら嫁子供など邪魔なだけだから、結婚しないパートナーかなんかがいればいいんじゃないだろうかと思っていた。公私共に協力関係で愛情は二の次のパートナー。

の甘い匂いはそういう花形の中の「理屈」を破壊する。

そういうのもうどうでもいい。もっとこうしてくっついていたい。

、好きだよ」

心を震わせるような感動的な愛の言葉はない。を労り支えたいという奉仕の精神もない。そんなものはこのごくありふれた高校生の日常生活の中にあるわけがない。ちょっとばかり女の子の方が意固地で、それで2年間もすれ違ってしまっただけの、そういう面白くもないふたりだった。

けれど、心が制御できないほどの本能はを欲している。あの頃も、今も。

花形はぎゅっと腕に力を込め、の耳元で囁いた。

も、オレのこと、好きだろ?」

返事はなかった。けれど、しがみつくの手に花形は確信している。ぎゅうっと制服を掴むその手が、言葉にならないの声だと思った。勉強は得意なくせに、こういうところで不器用なが可愛くてならなかった。本当は好きなくせに、2年も意地を張るから。

もういい加減、本能に正直になろうぜ。