美しきこの世界

13

誰が絶望しようが苦悩しようが、それに浸っていようが、朝が来れば日は昇るのである。

そういう問答無用のサイクルの中に置かれて、花形の絶望はしかし何かをきっかけに風に吹かれたように癒えたりしはなかった。当然である。むしろ熱が下がって普通に登校して部活に出ると、ベッドの上でグズグズと不貞腐れていた数日間が恥ずかしくなってきた。

いつかに話して聞かせる予定の花形の「かっこ悪いところ」は、なし崩し的に薄れていった。

「だからストレスに弱いやつってのはそうなるんだよ」
……弱いのか、これって」
「んん、言い方は適切じゃないかもな。ストレスとの付き合い方が下手なんだよ」

花形の冷徹なツッコミが精彩を欠くので嬉しそうな藤真は取り澄ましたドヤ顔である。

も言ってたけど、お前、挫折したことないんだってな」
……まあ、そうなるか」
「だから突然強烈なストレスに晒されてどうしたらいいかわからない」
「そうかもな」
「去年のIH、お前はまだ他人事だったんだよ。だけど今年は完全に自分の敗北だからな」

そう、昨年のIHは要するにベンチ部員だった。層の厚い翔陽ではもちろんIHは基本的に3年生のもの。スタメンで出場していた藤真はともかく、花形にとってはかなりの割合で「先輩たちのIH」だったのかもしれない。

「で? 慰めてもらったのか」
「オレの方があんまり正常じゃなかったし、ちょっと喋って、それで帰ってもらった」
「よーし、いいだろう。お前はバカだ」

言いながら藤真は近くに置いてあったボールを続けて3つ投げてきた。

「わざわざ人が連絡入れてやって家まで差し向けてやったっていうのに何やってんだバカ」
「お前がそういうつもりで寄越したんだろうなってことはわかってたしな」
「なぜそれをありがたく受け取らない」
「お前らを楽しませるだけじゃねえか」

藤真はまたボールを投げつけてきたけれど、花形は淡々とキャッチして床に転がし、もう返事はしなかった。自分で自分が嫌になるほどの絶望感も、こうした日常の中に少しずつ削り取られていってしまうものなのかもしれない。そう思うと、すこしくらい手元に残しておきたいような気もしてくる。

初めて見つけた自分の暗く汚いところ、それは指の隙間から覗いてみたくなる深淵の闇だった。

「で、また送りデートかよ」
「最近予備校で遅くなるからな。コートで待ち合わせるのが1番楽だし」

の予備校がある日にコートで待ち合わせて一緒に帰る。が予備校通いを始めて以来、よく利用してきたパターンだ。これならお互いの生活を邪魔しないし、親にも心配されない。

それならオレも一緒に待ってやろうという藤真を押し返していると、それを聞きつけた高野と永野がオレたちも一緒に待ってやろうと言い出し、まあ好意的に考えれば落ち込んで熱まで出した花形を元気づけてやろうという茶化しだっただろうが、そんなわけでまた全員でコートまでやって来た。

「まだ来てないな」
「別に一緒に待ってくれなくていいから。そのまま送って帰るだけだから」
「友達に挨拶するくらいいいだろうが」
「誰が友達だ」

そしてが来るまで残りたがる仲間たちをまた押し返し、花形はがっくりと肩を落としてベンチに腰を下ろしていた。藤真たちは腹が減ったからファストフードで何か食べてくると言うし、コートは相変わらず利用者だけがわいわいと楽しげに過ごしていて、また彼の中の汚れた気持ちが剥がれ落ちていく。

思い返せばちょうど1年前頃、この休憩所は、バスケットしない、仲間たちとたまにぼそりと喋っては、それぞれ携帯やゲーム機を覗き込んでいるような「普通っぽい感じの」男がいつでもたむろしていて、しかし今はもう彼らの姿を見ることはない。

そういう人々が全員違法薬物を使用していたとは思わないけれど、この場所で無為に過ごしていたところに誘惑が襲い掛かってきたことは間違いない。一体彼らはどうしてその誘惑に負けたのか、という疑問は残る。何も得になることはないし、何なら損することばかりのはずだ。

挙句自分とを巻き込むという嫌がらせを口にするのには、一体どれだけ気持ちが歪めばいいんだろう。予選に負けて絶望した時でも、クスリやりたいなんて思わなかったぞ。花形は通り過ぎゆく人々を眺めながらかくりと首を傾げた。どれだけこの世界に絶望したら違法薬物に手を出す気分になるんだろう?

そんなことをぼんやりと考えていた花形は、突然横からに飛びつかれて顔を上げた。

「どうしたの、具合悪い?」
「えっ?」
「呼んでも気付かなかったから」
「うわ、ごめん、ちょっと考え事してて」

隣に腰を下ろしたの肩を抱き寄せて、こめかみにそっとキスをする。

「大丈夫なの?」
「もう平気。にも藤真にも言われたけど、初めてのことだったからさ」
「楽になるまでは時間かかるだろうけど……
「いいんだよそれで。オレにはバスケもあるし――

長く一緒にいたいのは山々だが、いつ藤真たちが戻ってくるかもわからないし、花形はを促して立ち上がろうとした。だが、の顔が固まったのを目にして、浮かせた腰を落とした。

「どうした」
「あれ、あれ……

囁き声のような、掠れた乾いたの声に花形は彼女の視線を追った。すると、隣のベンチにひとりの男性が座っており、煌々と明るい携帯のバックライトに顔を光らせていた。もう衣替えも終わって徐々に蒸し暑くなってきているというのに長袖のパーカーを着ていて、袖口で手の甲までをすっぽりと覆い隠している。

だがその横顔には見覚えがあって――

「お前……
「久しぶりー」

薬物使用で逮捕されたはずの例のニヤリ顔の男子だった。少しむくんだ頬にはちらほらと無精髭が散らばり、夜でもわかる青白い肌、首だけ突き出た猫背、そんな彼が携帯の方を見たまま薄っぺらい声を上げた。花形は慌ててを背後に庇い、肩にかけていたバッグを小脇に抱えてつま先に力を入れた。

「なんでこんなところにいるんだ」
「別にここって会員制のベンチじゃないじゃん」
「逮捕されたじゃないか」
「保釈って言葉知ってる?」

彼はさもおかしそうにキッキッと甲高い声で笑い、ちらりとふたりの方を向いた。

「学校もないし、暇だし、たまには散歩でもしようかなと思っただけなんですけどねえ」
「確か、自宅、この辺じゃないだろ」
「そんなことまで覚えてんの? 記憶力いいね〜。てかオレがどこ歩こうと自由だし」

彼はまたキッキッと笑う。花形の腕に添えられたの手がかすかに震えだす。

「てかまだ付き合ってんの? ってガチな恋愛出来るんだ」
……、帰ろう」
「なんだよ、オレ暇なんですけど。雑談くらいいいじゃん」
「付き合う理由はないだろ」
「理由がないと何も出来ないわけ? 人生何事も余裕が大事よ」

少しずつを押し出し、ベンチから立ち上がって逃げようとしているのだが、そもそもこの有料コートの休憩所は4メートル四方程度の真四角の造りで、左右にベンチが2つずつ並んでいる。と花形が腰掛けていたのは奥のベンチだ。奥の壁には自販機が2つ並んでいて、ベンチ同士は距離があるが、さて通せんぼをされたら抜け出られない。

「話したいことなんか、ないだろ」
「それな」
「何がしたいんだよ」
「こまけえこた気にすんなよ」
……なんでオレたちが関わってるって嘘、ついたんだ」
「おっ、いいネタフリだね。そりゃパッと思いついたからだよ。面白いことになるだろなと思って」

花形はの手のひらに指で「1、1、0」と繰り返し書いて通報を促しているのだが、は恐怖ですくみあがってしまって、しがみついたまま何も出来ない。でなければ藤真を呼んでくれと言いたいところなのだが、それを聞かれでもしたら厄介だ。

「どうだった? 尿検査されたん? もちろん陰性だったよな?」
「当たり前だろ」
「つかどうよ、IH常連校がヤク疑惑で検査とか、退部されられた?」
「陰性だったんだから、退部する必要ないだろ」
「まーだけど今年は弱小校に負けてIHも行かれない、と。リア充なのにどうしたよ〜」

に通報してほしくて、指で2と4を示していた花形はその言葉に固まってしまった。なぜそれを。県内の高校生の競技に関することなのだから、誰でも知り得る情報ではある。だが、彼がそれを自然に耳にすることはないはずだ。何しろ退学して学校には通っていないのだから。わざわざ調べたのか?

「そういえば、目尻の傷、良くなった?」

今度こそ花形とは言葉を失い、湿った風が忍び寄るベンチに浅く腰掛けたまま硬直した。

もさ、国家公務員目指すとか言ってたけどさ、あーいうのってヤクの使用疑惑で検査させられたことあってもなれんの? 東大法学部だっけ? うち程度のところからそんなクソエリートなところ入れんの? てかだとしても警察庁とかってイケんの?」

の震えが伝わって、花形も少しだけ腕が震えてきた。目の前でぼそぼそと喋っている彼の言葉がスムーズに頭に入ってこない。の志望校は東大法学部ではないけれど、国立大から国家公務員、そういう流れを目指していることは事実だ。しかしはそんなことをベラベラ喋るようなタイプではないというのに。

ストーカー。真っ先に浮かんだ言葉はそれだ。

だが、いくら学力が高くても高校生である。新聞程度の知識はあっても、実践社会経験は非常に乏しい。部活に勉強にと頑張ってきたせいで余計に少ない。花形は体育館、は机に向かう、それが日常の大部分を占める。そんな彼らにとってストーカーは恋愛感情の延長というイメージしかない。

なので、花形は珍しく大いに混乱していた。こいつなんかストーカーみたいだけど、もしかしてのこと好きだったんだろうか。でもだとしたらオレのことまで知ってるのはなんでだ。付き合ってるから敵情視察ってことか? でもじゃあどうしても巻き込むようなことを言ったんだ。オレだけでよかっただろ。

彼はまたキッキッと笑い、何やら携帯を操作しつつ、組んでいる細い足を小刻みに動かしている。まるで音楽に合わせてリズムを取っているかのようだ。

「てかそんなとこ目指してんのにこんなとこでイチャついてるとか、余裕じゃね? すっげーね」
……予備校の帰りだよ、だから、帰りたいんだけど」

やっとの思いで絞り出した花形は喉がカラカラに乾いていて、声が上ずってしまいそうだった。この休憩所から一番近い交番までは花形が本気で走れば5分とかからない。なんとかしてこの場を逃げ出すことができれば、最悪を抱き上げても逃げ切れる自信があった。だがその前にここから出られる気がしない。

「まだそんなに遅くないって。てか何? ビビってんの? なんで?」
……がいるからな」
「まじか、あんたイケメンだな。成績良くてバスケできてその上彼女守っちゃうとかチートかよ」

キッキッという笑いの間にスースー言う呼吸音が混ざるようになった。表情は笑っている風だけれど、もしかしたら癇に障っているのかもしれない。花形はどうにかこれ以上事を荒立てないようにしたかったのだが、何が地雷なのか全くわからない。藤真の言うように、何を考えているのかわからない。

目の前にいる細身の弱っちい感じがする同い年の男が怖くて仕方なかった。自分が傷つけられるかもしれないという恐怖ではなくて、あまりにも「不可解」だったから。小学生の頃も、当然中学にも、もちろん翔陽にも、自分の身近な同世代の中にこんな気味の悪い人間はいなかったから。

――いなかったから。本当に? 本当はいたのに、見えてなかっただけなんじゃないのか? 突然飛来した宇宙人みたいに感じていたけれど、もしかしたら、こういう薄気味悪いやつって、実はすぐそばにひしめいているものなんじゃないのか? 「普通」の顔して、すぐ隣にいるんじゃないのか。

「いーじゃんオレ暇なんだよ、やることないし」
「オレたちはそういうわけには――
「なにそれ、暇人disってんの? いいからここにいなよ、怪我、したくないでしょ」

携帯のモニタの光に、キラリと何かが光った。一瞬それがなんだかわからなかった花形だったが、やがて記憶の中から該当する名を引っ張り出してきた。バタフライナイフだ。テレビの中の虚像と自分を重ね合わせ、これを所持することが流行した上に、傷害事件まで起きた。そんな社会現象ごと思い出した。

「おお、これ、知ってるんだ。新聞記事かなんか、思い出した? もうこんなの流行んないけどね」
「それで、どうするつもりなんだ」
「別に刺しゃしないって。あんたらを刺してオレになんの得があるわけ?」

損得で言うなら既に矛盾だらけだということを突っ込んではならない。彼の手の中で軽い音を立ててくるくると回転しているバタフライナイフがキラキラと光り、花形は目眩がしてきた。これ、どうしたらいいんだよ?

「てかさー、文化祭。アレもほんとあんたらマジだったね、プ。女にキャーキャ――

彼はいわゆる「萌え袖」の手を口元に持っていってニヤリと笑った。そして、言い終わらないうちに直後に花形に向かって吹っ飛んできた。の細い悲鳴と花形の「うわ!!!」という声が響く。

……藤真!」
「オレらが野次馬で感謝しろよ、まったく。今時ナイフとか」

いつかのようにニヤリと笑った彼を、猛ダッシュで助走をつけて飛び込んできた藤真がドロップキックでなぎ倒したのだ。バタフライナイフはベンチの下に転がり落ち、その持ち主は高野と永野に押さえつけられている。

「一志が交番に行ってる。お前らは帰れ」
「は!?」
「オレはこいつのこと一度見てる。お前らのこと巻き込んだやつだって知ってるし、コートに練習に来てて絡まれたって言うから、早く帰れ。今度こそここに来られなくなるぞ」

押さえつけられながら、ニヤリ顔の彼はまたキッキッと笑った。口角から泡のような涎を垂らしている。

「まじか、オレのことハメようっていうのかよ、お前が嘘ついたってどうせ」
「うるさいな。もう少し考えろ、お前とオレ、世の中はどっちを信じると思う。オレに決まってるだろ」
「うわ、うーわ、なにそれ何様なんだけど」
「それが信用ってことだろうが。逮捕歴あるお前と一緒にするな。オレたちは真面目に生きてるんだ」

永野に頭を押さえられながらも、彼はけたたましく笑った。

「こっちだって真面目なんですけど!! 人生イージーモードで楽してるくせに、偉そうなんだけど!!」
「藤真……!」
「とりあえず角のコンビニ行け。戻った一志行かせるから、そこで待ってろ」
「お前らが特別なんだ!!! 恵まれた環境で恵まれた人間に生まれて楽に生きてるだけのくせに!!!」
、大丈夫だからな。頑張ってこのことが親にバレないようにしろよ」
「藤真、早くしないと気付かれる。花形、さっさと行け!」

高野の声に花形は頷き、真っ青な顔で震え上がっているの腕を引いて休憩所を出た。藤真の指定したコンビニは周到にも長谷川が交番から戻るのとは異なるルート上にある。小走りでその場を離れようとしたふたりの耳に、彼の甲高い笑い声がいつまでもこだましていた。

「ここはいいから先に行けとか、まじうけるんですけど!!! リア充爆発しろ!!!」

何度も何度も藤真の口から聞いてきた「リア充爆発しろ」、けれど藤真の声はいつでも温度があって、楽しそうで、決して嫌な気持ちになるものではなかった。しかしどうだろう、彼の声は合成音声のように甲高く淀みなく、しかし頼りなく細くて、冷たい「音」だった。

ガタガタ震えるの手を引いて、花形は振り返らずにコンビニを目指した。