美しきこの世界

04

完全に両思いだと思っていた花形には振られ、最終的には安全圏に手が届いていた志望校は不合格、は中3にして自殺を考えるほどの絶望感を味わった。幸いと言おうか、当時のは「自殺は心の弱い者のやることで、逃げ」という価値観を持っており、実行には至らなかった。

だが、その安全圏に手が届いていたのが災いしたか、滑り止めの検討があまりにも杜撰だった。

後になってなぜこんなところを滑り止めに選んだんだろうと苛立つほどに、の通う高校はとても一般的な私立の高校だった。男女共学、どちらも割とかわいい制服、学校のパンフレットでは教育理念や進路実績より楽しい高校生活をアピールするような、そういうところだった。

それを翔陽に近かったからだろうかと考えてしまうたびに、は髪を掻きむしった。そうじゃない、家から適度な距離で、留学制度がしっかりしていたからだと自分に言い聞かせるが、結局その高校に通い始めてすぐに花形と遭遇することになる。近くてよかったね状態だ。

さておき、完全にレベル違いの高校に入学することになってしまい、おかげで新入生挨拶をやる羽目になり、中学時代同様クラス委員を進められたり生徒会はどうだと突っつかれてみたり、入学して10日ほどでは完全に腐った。高校生活をエンジョイする気などなかったからだ。

予定では志望校に合格したのち、すぐに英会話を習い始め、高2の夏休みを丸々留学に充て、それを終えたら受験体制に入り、国立の法学部を目指すつもりだった。が、それは公立の進学校でのプランだ。

しょんぼりした顔の母親に「私立だからさ……ちょっと学費すごいことになってて、英会話はまずちょっと待ってほしい……」と言われてしまった。彼女は制服の明細書を見て目をひん剥いていたし、は、こりゃ留学も無理だなと思った。確かにうちの高校は余計な設備が多いから。

結局英会話教室の目処が立たないので、は1回数百円の市のカルチャー教室の見学に行ってみた。学生と社会人向けに市内在住の外国人が教えてくれる英会話教室である。だが、内容は「海外旅行で使えるフレーズ」や「お友達をパーティに招待した時に使えるフレーズ」だった。…………違う!

次に、それならアルバイトをして留学費用を貯めようかと考えた。計算は得意だ。試しに自宅の近所のコンビニの時給を参考に、おおよその留学費用を捻出するには週に何時間アルバイトすればいいのかと試算してみた。高2の夏まで勉強する時間を全て労働に費やせばなんとかなりそうだった。意味ない!

一応両親はの将来に対する向上心は尊重してくれていて、出せる金には限りがあるが、の希望が叶うように一緒に頑張ると言ってくれた。なのでは高1の4月の間に想定していたプランのほとんどを白紙に戻し、とにかく勉強に集中しようと決めた。

幸い、費用はかさむが留学制度がしっかりしている高校なだけあって、外国人教師はひとりではなかった。なので、出来るだけ彼らのところへ通って発音を教えてもらい、あとは参考書と映画を利用して英会話の勉強を始めた。最初は少々プライドに障ったのだが、やらないよりはマシだ。

そんな勢いなので、最初の中間ではもちろん学年1位。しかも全教科満点。まだまだどの教科も始まったばかりなので、勉強慣れしているにとって、このくらいはわけもなかった。範囲は狭いし教科によっては中学の頃に勉強したことに戻ってしまっているし、ほとんどの教科が普段の授業と復習だけで事足りた。

さて、これを初老の学年主任は大喜びして、立派だ立派だ、きっとみんなに尊敬されるぞと言ったけれど、もうそういう時代ではなかったのである。これを境にはクラスで完全に浮いた。

そもそもが入試トップが任されるという新入生挨拶だし、いきなり満点だし、職員室で英会話の先生に突撃してるし、ってなんか高校間違えたんじゃね? と思われるのは自然なことだった。

それでも優しい女の子が孤立しないようにと気を使ってくれたのか声をかけてきて、何度かお昼を一緒に食べたりもしたのだが、勉強ばかりしていた中学時代が災いして話が全く通じなかった。まずだいたいテレビの話題がさっぱりわからない。芸能人知らない。音楽もわからないし、最近の漫画も読まないし、ファッションブランドもコスメも全滅。結局続かなくなってしまって、離れた。

つまり、花形が指摘したようなことは、既に経験済みで、完全に図星だったのだ。かといって、それに迎合するために慌ててテレビを見たり出来るようなタイプなら花形ともこじれなかったに違いない。

そういうわけで、は自らも納得の「ぼっち」を選択したのだった。だが、それはただ話が合わないだけ、も忙しい、ということで、いわゆるいじめには転化しなかった。勉強ができるのは事実だし、気を使ってくれた女の子たちなどはテストが近くなるとにわからないところを聞いてきたりもしていた。

そんな風にして高校生活を送っていただったが、夏の終わりに花形と口論めいたやりとりをしてしまって以来、少々荒んでいた。久し振りに会ったと思ったら「勉強ばっかりで毎日楽しいか?」と来たもんだ。

本音を言えばは今でも花形のことが好きだ。彼はいつでも穏やかで優しいし、何事にも真面目に取り組むし、不貞腐れたりへそを曲げたりもしない。そういうところが好きだ。だが、その優秀な頭脳を活かすことなくバスケットなどに夢中になって生産性のないことに時間を浪費しているのはどうしても許せなかった。

そりゃあ、あんたは勉強なんか片手間で毎日ボール遊びしてるんだから楽しいだろうけど、こっちはそういうわけにいかないの! てかそれが普通なんであって、なんで毎日遊んでる人に哀れみのこもった目で「将来バカにされるぞ」なんて言われなきゃならないの。

そう憤慨しつつ、しかし心の奥底に見え隠れしている気持ちをどうしても捨てられなくて、余計にイライラする。

彼と手を繋いで歩いてみたい、身長差のせいでいつも顔が遠いから、もう少し近くで話をしてみたい、ぎゅっとして欲しい、そうしてくっついたままキスしてみたい。

そういう欲求がちらりと顔を覗かせるたびには自分に怒り、そしてじわりと目を熱くした。好きな人なんか欲しくなかった、透なんかと知り合いたくなかった、透に出会わなかったら私は他の誰かを好きになったりしなかった。こんな風に思うのは透だけ、透、ただひとりだけ――

なんとかして元から志望していた国立大へ入りたい、その一方で花形への思いを捨てきれない、そういう感情の板挟みのまま、は1年を終え、2年に進級した。定期考査は毎回1位、毎回ほぼ満点、やると決めたらグズグズ言わずに一生懸命に努力するタイプなので英会話の上達も早い。

があんまり熱心なので、英会話担当の外国出身の先生がひとり、学校には内緒で外でもレッスンをしてくれることになっていて、月に2回ほど一緒に出かけては、「その間は日本語禁止」というレッスンを続けている。日本で結婚をして家庭を持つ女性の先生なので、の親も安心して任せている。

だが、依然は校内では孤高のぼっちを貫いており、成績的な意味で目立つ生徒であるのが災いして担任やら学年主任やらが「は成績優秀だけど交友関係が少々……」という認識を持たれてしまっていた。心配してくれるのはありがたいことなのかもしれないが、とにかくそのせいで困ったことになった。

「こま、困りますそんなの」
は何部だったっけ」
……いえ、部活はやってません」
「じゃあ、お家の都合とかアルバイトが忙しいとか」
……それもないです」
「じゃあ何があるの」

2年生に進級してすぐの4月のことだ。は職員室の片隅で担任と差し向かいになって渋面になっていた。

「何って、勉強です」
……それはみんなやってるよね、ここ一応学校だし」
「そういうことでは……。私がやってるのは将来や受験に向けてのものであって」
「だけどさ、それって一般的にまだ始めなくてもいいことでもあるよな?」
「そうかもしれませんけど私は今から始めてるんです」
「てことはそれはごくごく個人的な理由ってことにならないか?」
「個人的な理由ではだめなんですか」
「だめなのではなくて、だとしたら犬の散歩で忙しいっていうのも個人的な理由にならない?」
「あんなのと一緒にしないでください!」

つい大声を上げたは慌てて口元を覆うと、そのままため息をついた。今年はクラス委員を免れてホッとしていたのに、担任から「文化祭実行委員をやってほしい」と言われてしまったのだ。各クラス最低1名選出の上生徒会に届け出、というその委員は春に任命、秋の文化祭までの任期である。

は当然断ったが、担任は笑顔で食い下がる。ちなみに犬の散歩で忙しい、というのは、今年同じクラスになったヤンキー臭い男子が「どうしても委員ができない理由」として真顔で挙げたものだ。「うちのヤマトはオレじゃねーと歩かねえ」んだそうだ。

は文系理系関係なく優秀だし、ああ、運動はちょっと苦手だけど、こういう大規模なプロジェクトを円滑に推し進めたりするのは適任だと思うんだけどなあ。クラスの会計も兼ねるわけだけど、それもなら間違いないし、こうした段取りを取って結果を出す経験は損にならないはずだけど」

が国立大学の法学部からの国家公務員を目指していることは当然知っているので、担任はこうして逃げ道を塞ぐような言い方で突っついてくる。各省庁目指すような人材が文化祭くらいまとめられなくてどーすんの。

……先生が、勉強の妨害を、するんですか」
「あのね、文化祭実行委員てさ、任期は長くても当月くらいしかやることはないのよ」

学年通して毎週毎月何かしらの仕事がある各委員会と違い、文化祭担当と修学旅行担当は期間限定。しかも修学旅行担当と違い、文化祭の方は実際の作業は会計くらいで済む。これが修学旅行担当だとクラスごとにしおりを作るだの班行動日の割り振りを決めるだの、現地でも色々仕事が多い。

「それに、今年もほとんど友達いないじゃん」
……必要ないので」
「確か付き合ってるやつもいないよな?」
「なんでそんなこと先生に報告しなきゃならないんですか」
「ダメってこたないよ。ただ昨今は色々大変だから、神経使うんだよね」

担任はにこにこしているが、どれも本音という感じがしなかった。

「受験勉強もいいけど、まだ2年生なんだし、少しゆったり構えて学校生活に参加してみない?」
……各委員会に必要なのはクラスの約半分の人数」
「そうだね」
「3年の間に1度は委員を担当しなきゃいけないという規則はないはずです」
「うん、ないね」
「だとしたら文化祭実行委員を私がやらなきゃいけない理由はなんですか」

感情論で来られたので、は背筋を伸ばして正当性を要求した。だが、担任はこともなげに言う。

がこの学校のすべてを見下してるから」

はウッと顔をひきつらせて固まった。担任は穏やかな表情だが、目だけは厳しい色を帯びている。

「まあ、こう来ると昨今の論客は思想の自由を盾に出してくるし、万人が右へ倣えの同調圧迫だと途端に被害者面をするけども、今の日本において高校はもはや準義務教育にも等しいだろ。そこでは勉学だけではなくて、社会性を学ぶという意義もある。は今、所属する集団の中で適切な社会性を保てているか?」

先生はに対しては遠慮しない。理屈で来る者には理屈で返してやるのが礼儀であろう。

「先生はの思想を矯正したいわけじゃない。頭の中、心の中でならいくら見下してくれても構わない。だけどこれでも先生だからさ、をいい方向に導いてやりたいと思うし、自分よりバカな連中はバカにして構わないという態度を隠せもしないような人にこの国を任せたくないしね。レイシストを育てたくはないんだよ」

は返す言葉がなかった。レイシストという言葉は重い。中学生の頃に世界の女性差別について学んだことがきっかけで、一時期は男性不信に陥っていた。日本の男はゴミカスだと思っていた。だがどうも花形はそれには当たらない振る舞いの人で、だから余計に好きになってしまったとも言える。

そんな風に差別に対して憤りを抱いていた自分がレイシストになりかかっている? その可能性は恐怖となって襲い掛かってきた。私、差別してた? あれって差別になるの? これは差別にならないよね? 合ってる? 間違ってる? レイシストってどこからレイシストなの?

「話が大袈裟になったな。ともかく、がこんな学校嫌いって思うのは自由だ。だけど、時間を巻き戻せない以上、はもうこの高校を母校にするしかないんだ。その中でせめてクラスメイトとうまく付き合うくらいのことが出来ない人が社会に出ても……と先生は思うよ」

時間を巻き戻してもう一度志望校を受験し直せるわけでなし――途端には自分の不遇に対する悲観が「駄々」に思えてきた。そして、明晰な頭脳を持つがゆえにすぐにわかる、要するにこのまま「選択ぼっち」を続けている以上、には「コミュニケーション能力」が育たない。

社会の上層部で働きたいと思っていた。選ばれし者のみが集う特別な上澄みの中に入りたいと思っていた。濁った水底は嫌だった。だがどうだろう、そんな上澄みの中に「高校時代の思い出ゼロ、コミュ障」は入れてもらえるだろうか? ……入れてもらえるわけがないじゃないか!

は中学時代の理系志望のクラスメイトを思い出す。彼女は宇宙に取り憑かれていて、NASAに行きたいと考えていた。そんな彼女から教えてもらった「宇宙飛行士の条件」を思い出す。乗務員に求められるのは健康な身体、ストレス耐性、クルーと円滑にミッションをこなせるだけの高いコミュニケーション能力と、人格である。

宇宙船に乗り込んで宇宙に行けるだけの頭脳、そんなものは持ってて当たり前の世界なのだ。

カチリと組み合わさって見えてきた自分の現状に身震いしたはしかし、それでもなお不貞腐れる気持ちが抜けなくて、怒りにも似た苛立ちに襲われた。自分のことなのに、自分の思い描いた通りにいかない。そうじゃない、そういうことじゃないはずなのに。こんなはずじゃなかったのに。

「だからどう? 期間は文化祭の前3週間くらいから後片付けが終わるまで。実質1ヶ月もないよ」

先生がのことを案じてこうして提案してくれていることもわかっている。それだけに不貞腐れから抜け出せない自分にも嫌気が差す。うまくいかない。どうしてうまくいかないんだろう。俯いたの耳に花形の声が蘇る。がそれでいいなら、いいんだよ――

よくない。まったくよくない。何ひとつよくない。

自分の中のあらゆることが混ざり合わなくて、は押し潰されそうだった。しかし、挑戦を恐れるものに成長なしと繰り返し聞かされてきたにとって、ここで嫌を貫き通す勇気はなかった。

……わかり、ました」

たかが文化祭、たかが学校行事、私の役目は事務、そして会計と言い聞かせる。

そして中学時代を思い出す。花形と一緒にクラス委員をやっていた。あんな風に花形と一緒だったら、文化祭でもなんでもやってやるのに、ふたりでやれば何も怖いことはないのに。だが、そう思った直後に後悔する。男が一緒なら喜んで引き受けるって、何? 私って、そういう、みっともない女だったの……