が卒業式を終えて帰ってきたその3日後の日曜、今度は新九郎と由香里が沖縄に旅立っていった。2泊3日のリゾートホテルツアーである。好きでやってんだからそんな大金かけてやる必要ないと清田は文句を言っていたが、ふたりの留守をが預かることになったので、少し機嫌が戻った。
もちろん日々の清田家の来客を全て捌くわけでなし、おばあちゃんと犬たち、そして清田の面倒を頼む、ということだ。そんなわけで、はまた清田家で寝起きする。せっかくひとり暮らしの部屋を借りているけれど、3日に1回くらいは清田家に泊まっているような気がする。
早朝の便だという新九郎と由香里が出て行ってから、清田は三柴を散歩に連れて行き、は朝食の支度をしていた。清田のおばあちゃんは最近では週に2日ほどデイサービスに行っていて、その迎えが来る前までに食事を終えて身支度をしなければならない。
「それにしても、ちゃんのご飯は由香里さんに味が似てきたねえ」
「ほんと? 最近ここで料理することが増えたからな〜」
「今度ばあちゃんもお料理教えてやろ」
「あっ、私おばあちゃんの伽羅蕗好きなの。あれ教えてよ」
「またそんな渋いもの選んで。あたしビーフシチュー得意なのに」
例えデイサービスに行っていても清田祖母はド派手である。今も髪は紫のラインが入っているし、タバコもやめてないし、血糖値は少し高いそうだが、他には特に悪いところはない。由香里は「うちのばあちゃんは100歳コース」だとよく言っている。何しろ趣味はカラオケと酒と煙草と麻雀。昔はハマジルもやっていた。
「あっ、そうそう、あたし今晩ヨシちゃんとこ行くからね。明日の昼過ぎに帰るよ」
「え!? ゆかりんそんなこと一言も……」
「ヘイさんとこに迷惑かかるから行くのやめなよって言うんだもの」
ヨシちゃんはおばあちゃんの幼馴染だ。その息子のヘイさんが新九郎の幼馴染。というかおばあちゃんに麻雀やハマジルや酒や煙草を仕込んだのはヨシちゃんである。幼馴染で悪友というわけだ。どちらも割と早くに夫を亡くしているので、それからはずっとふたりでつるんで悪いことをしている。
「あとはもう犬しかいないんだし、ノブとゆっくりしてたらいいじゃないの」
「そうだけど……」
「あたし嫌々行くわけじゃないんだよ、カンちゃんがそんなら横須賀行こうって言ってるし」
ちなみにカンちゃんはヨシちゃんの彼氏である。が、由香里はこのカンちゃんが嫌いで、ヨシちゃんと遊ぶのはいいけど、カンちゃんが一緒だといい顔をしない。つまりおばあちゃんは由香里の居ぬ間に、ヨシちゃんカンちゃんと横須賀で遊んで来たいのだ。は一応清田に相談した上で、OKを出して送り出した。
「カンちゃんがもう少しマトモな感じだったらお袋も文句言わないんだろうけど」
「でもカンちゃんがデイサービスに直接迎えに来てくれるんだって」
「んじゃ今日はもうオレらしかいないわけか。…………〜」
「いや、ちょ、まだ朝!」
だだっ広いリビングで、ソファに押し倒されたは、バタバタと暴れた。まだ朝食の片付けが残っているし、今日と明日の食事の材料がないので買い出しに行かなければならないし、今日は天気がいいから洗濯と玄関の掃除をしたかったのだ。一応それを直訴してみたけれど、
「そんなのすぐ終わるだろ。いいじゃん、ちょっとくらい。こっちも時間かからないって」
「洗濯の方が先だって! てか時間かからないって何だ! 下半身の都合だけで言うな! ユキー助けてー」
「わ、ちょ、お前オレ一応飼い主だろうが! ナオ、穴開くから引っ張るな!」
「バカな飼い主を持つと苦労するよね、ユキ」
とまあ、そんな風に犬も交えてイチャイチャしていたわけだ。清田はすっかりその気になっていたし、も買い物はともかく洗濯は諦めるか、という気になっていた。だがその時、の携帯がテーブルの上で鳴り出した。伸し掛かっていた清田を足でどかしたは、手を伸ばして携帯を掴む。
「えー、なんだろうこんな時間から」
「誰」
「アユルー。春休みで毎日昼まで寝てるはずじゃないのー」
アユルが電話をかけてくる理由などないけれど、もし母や祖父母に何かあったという連絡だったら困る。懲りずに伸し掛かってくる清田の頭を撫でながら、は着信に応じた。
「はい、もしも――」
「あー、? 今駅ついたんだけどさ」
「は?」
「あれ? この駅でいいんだよね?」
が驚愕の表情をしたので、清田は驚いてがばりと身を起こした。は見る見るうちに般若のような形相になっていく。さんあなたこんな怖い顔出来るんだね……
「どうしたよ、何をそんなに怒って――」
「こっち来てるって言うの! もう駅まで来ちゃってるって! もう、意味分かんない!!!」
「は?」
はソファの上で足をバタつかせて暴れた。
春休みのアユルは、に何の連絡もなく、ひとりで神奈川にやってきてしまった。そして、こっちで何泊かしたいから泊めろ、というか駅にはなんとか辿り着いたけど、そこからどうしたらいいかわからないから迎えに来いと言う。どうせ信長と一緒にいるんでしょ、車出してよと言う。は半ギレである。
もちろんは拒否した。アパートに泊めるのも迎えも清田に車を出してもらうのも、そんなことをしてやる義理はない。何をしに来たのか知らないが、子供じゃないのだから自分で何とかしろときっぱり断り、電話を切った。が、数分すると今度は母親から着信が来た。は今度は半泣きだ。
「……小母さん、なんだって」
「ちゃんと預かれ、迎えに行かないならここの住所教えるって……もうなんなのあの人……」
涙目のは携帯を手にしたまま清田に飛びついた。すっかり気持ちの萎えた清田はよしよしと頭を撫でてやる。そして、言いはしないけれど、心の中で「さすが湘北、問題児」という昔のネタを思い出してこっそり笑った。
「それで、どうするんだ」
「とりあえず迎えに行く。で、お金下ろしてホテル取らせて、それから横浜かなんか連れてくよ」
「えっ、何でお前が宿代出すんだよ」
「だってアパートにもここにも入れたくないもん! 嫌だよ、こっちにまでズカズカ入り込まれるの!」
「いやそうだけど……あっ、そうだ、ぶーは? 来てもらえねーかな」
「今春休みだし、今日日曜だし、家族みんなで八景島行ってる」
一番頼りになりそうなぶーちんは留守、例えここまで乗り込んできたとしても、簡単に丸め込んでくれそうな新九郎と由香里も留守、言い訳に使えるおばあちゃんまでもが留守と来た。と清田は抱き合ったままため息を付いて、ヤダヤダと暴れた。せっかくのふたりきりなのに、何でこうなる。
しかしここでヤダヤダと暴れていてもどうにもならない。何か対策を取らねばこの清田家にアユルがやって来てしまう。が清田とああでもないこうでもないと話しながら身支度をしていると、今度はおじいちゃんから入電。がトイレに行っていたので、清田が代わりに出た。
「あああ信長くんか、すまん、ちょっと面倒なことになった」
「今それでどうしようかと慌ててたとこっす」
「えっ、もうそっち着いちゃったのか?」
「最寄り駅にいるって連絡があって。それで迎えに来いと……」
「なんでまたそんなことを……! ご両親は今日は」
「それが、今朝からのプレゼントで沖縄行っちゃって」
「なんてこった!!!」
おじいちゃんが相当テンパッているので、清田は少し可笑しくなってきた。なんてこった、って本当に言うんだな。
「信長くん、本当に申し訳ない、私たちのせいなんだ」
「え? なんで?」
「そっちで過ごした時間があんまり楽しかったもんで……色々話をしちゃったんだよ」
まさか手ぶらというわけにも行かないので、の祖父母は娘家族にもおみやげを買って帰った。鳩サブレとか崎陽軒のシウマイでいいんじゃないのとは言ったが、の母は慣れた商品だから面白くないだろう、と妙な仏心を出した。そして霧笛楼のお菓子やニューグランドのレトルトを買っていた。
それを届けに行ったらしいのだが、たまたま全員揃っていて、ニューグランドに宿泊したと聞いてまずはの母親がひっくり返った声を上げた。が予約したのは素泊まりと事前予約割引を利用した新館の格安の部屋だったのだが、横浜港を臨む山下公園のホテルニューグランドという名前のイメージが強すぎた。
その上おばあちゃんは由香里の案内で元町ショッピングを楽しみ、彼女の人生でも1、2を争うような高額のバッグと靴を買った。つられたおじいちゃんもシャツとネクタイを買った。それも見せた。
そして、よほど楽しかったのだろう、おじいちゃんとおばあちゃんは3人の顔色にも気付かず、請われるまま旅の思い出を語り倒した。鎌倉観光横浜観光、清田家、とりわけ信長。この日のために友達から借りたというコンデジに残る写真も見せた。コンデジのモニタの中で、極限まで地味で質素なはずのが可愛くなっていた。
しかもその日、一緒に写真に収まっている清田は、なんちゃってフォーマルで、普段の1.5倍増しくらいかっこよくなっている。そりゃあ尊と比べれば劣るかもしれないが、おじいちゃんおばあちゃん、そしてが4人で並び、全員で手を繋いでいる写真の清田など、好青年そのもの。
「さすがにのじじいとばばあだな、調子に乗って全部見せちゃったんだ」
「だけどそんなの――」
「4人で大仏の前で写真撮ったろ、手を繋いで。あれを見たアユルちゃんがな……」
清田、おばあちゃん、おじいちゃん、、という並びで全員手を繋ぎ、写真を撮ってもらった。この頃はもう祖父母ふたりは孫とその彼氏との観光が楽しくて楽しくて、満面の笑みであった。そしてそのと清田もにっこにこ。それを見たアユルは「マジキモ」と言い出した。
さすがにヤギさんが窘めたけれど、アユルは止まらなかった。大仏とか何が面白いのだの、おばあちゃんが感激した長谷寺の十一面観音像に宗教とかキモイだの畳み掛け、清田に対しても「なんでこんなのがいいのかわからない」と言った。祖父母ふたりはそこで初めて自分たちの失態に気付いた。
「それおかしくないですか、だったらなんで彼女は」
「信長くん、本当に嫌なんじゃないんだよ、あの子は嫉妬してるんだ」
「……えっ、何に?」
が髪を整えて戻ってきたので、清田はスピーカーにしてテーブルの上に置く。
「か、すまん、旅行自慢しちゃったんだ」
「だけど、自慢したところで彼女がここまで来るっていうのは……」
「あの子はが羨ましいんだよ」
「はあ? そんな要素がどこに……」
「いいか、あの子はこの土地から出られないんだ」
おじいちゃんの声が低くなり、厳しさを帯びた。
「お前の母さんとすっかり打ち解けて仲がいいのは、同類だからなんだ。ふたりとも、『東京に行きたい』という願望が強いんだ。だけど、アユルちゃんはここから出られない。お父さんがあの子を溺愛して離さないからね」
と清田は思わず顔を見合わせた。なんか色々おかしくないか?
第一に、ここは東京じゃない。隣の神奈川である。そして、清田家も元の家も普通の住宅街、最寄り駅もそれほど大きくない。畑もあるし、清田家など少し歩けばすぐ山である。次に、ヤギさんがアユルを溺愛というのも妙な表現だ。彼はとその母にアユルを託したいという願望があったはずだ。
「近所で生まれ育ったお前たちにはわからんかもしれんが、地方都市に住む我々にとって『東京』という場所は少し異様なところなんだ。だから惹きつけられる人も多い。アユルちゃんはそのくちだ。そして都合のいいことに隣の神奈川にがいる。これが隣でも千葉や埼玉や山梨だったら行かなかったろうよ。そういう子なんだ、おじいちゃんにはわかる。お前の母さんがそうだったから」
と清田は何とも言えなくなってまた顔を見合わせると、思わず手を繋いだ。
「昔の笑い話と思って聞き流してたんだけど、アユルちゃんな、中学の修学旅行が東京で、そこで歌手だかタレントだかにスカウトされたことがあるらしいんだ。オーディション受けてみませんか、って。アユルちゃんは大喜びで書類審査に応募した。そんでその審査に通ったらしいんだな」
アユルは肌と髪が美しく、本当に「美人」というタイプ。それは想像に難くない。
「だけどお父さんが許さなかった。アユルちゃんは本気だったけどお父さんは冷やかしのつもりだったらしい。もしその時に最終審査まで通っていたら、あの子は今頃芸能人だったかもしれないんだ。憧れの東京で」
その時アユルは15歳、ひとりで東京に飛び出していく度胸はなかった。そうして不貞腐れながら高校に通い、アユルを手元に引き止めておくためなら何でもするヤギさんは、取り立てて目標もないというのに私大に通わせ、わがまま放題をさせている。その仕上げがとその母だったのだ。
「もちろん結婚したのはあの子だったからなんだろうけど、も一緒の『家族』ということにこだわったのはそのせいだったんだろう。両親がいて姉がいる家族、アユルちゃんの周りをそういうもので埋めていったんだ」
けれど、その新しい母は自身も東京に憧れて飛び出した口である。それと一緒に過ごしている内に、父親の愛という呪縛のせいで諦めた東京への憧憬がありありと蘇ってきてしまった。
「今朝、おばあちゃんが用があってお母さんのところに行ったんだ。そしたらいつも朝はパジャマのまんまでぼーっとしてるアユルちゃんがいない。どうしたのって聞いたら、のところに遊びに行ってるっていうんで、おばあちゃん泡食って連絡してきたんだ。がそんなこと引き受けるわけないって」
しかもこの突撃、ヤギさんには、内緒なのだという。
「だったらチクっちゃったらいいんじゃないの、親父さんすっ飛んでくるんじゃないか」
「それも考えたんだけどな、おばあちゃん、そんなことしたら許さないと釘を差されてきたそうだ」
「いや、えええええ」
「……おじいちゃん、に嫉妬してるのは、それだけ?」
「信長くんは勘がいいな。もちろんそれはたまたまだよ」
げんなりしているの背中をさすりながら、清田も声を落とした。
「あの子がほしい物をは全て持っているんだろうと思う。東京に近い場所、遠距離恋愛に負けなかった信長くん、親に縛られない勇気、それを自分で掴みとった根性、仕事も決まって、春からひとり暮らしだ。だから本当に申し訳ない、おじいちゃんたちがそれに火を付けちゃったんだ。写真なんかなくて、元町のブランドバッグなんかなくて、年寄り趣味の鎌倉土産しかなかったらこんなことにはならなかった。やっぱり鳩サブレとか漬物くらいで済ませておけばよかったんだよ」
だから「マジキモ」で「なんでこんなのがいいのかわからない」なのだ。アユルが地元に縛り付けられているのは半分ヤギさんのせいで、半分はアユルに勇気がないからだ。けれど、アユルも父子家庭育ちで、父親を可哀想に感じてしまうあまり、その勇気を育てられなかった。
「もちろんアユルちゃんだって、のところに行ったからって東京に出られるなんてことは思ってないだろう。だけどが羨ましくて、それが疎ましくて、こんな迷惑な真似に出たんだろうと思う。それに、なんだっけ、信長くんのお兄さんの、かっこいい顔した――」
と清田の背中に寒気が走る。
「そうそう、尊くん。どうしても彼に会いたいらしい」
静まり返ったリビングにおじいちゃんの声が吸い込まれて消えていく。は清田にすがりつき、清田はの体を抱きとめ、撫でさすってやる。どうしてだろう、アユルと尊、それは暗くて悲しくて、ふたりの心に恐怖となって襲いかかってきた。