星霜フラグメント
Plus&Minus

09

- 1 years.

無事に祖父母のもとに戻れることになっただが、ひとりで地道に荷造りをしていると、なぜか以前にも増してアユルがちょっかいをかけてくるようになった。母はせっかくお姉ちゃんが出来たのに寂しいのよ、と恨みがましいことを言っていたが、はまったく信用していなかった。

「てかさあ、向こうに帰っても別れるかもしれないじゃん?」
「かもね」
「そしたら意味なくない?」
「それ以前に故郷だから」
「故郷って、そんなに地元がいいの?」
「そりゃあ、慣れない土地よりはね」

重量は変わらないけれど、運搬が楽になるかもしれないと、祖母に借りた衣類用の圧縮袋に冬物を詰め込みつつ、は生返事である。圧縮袋の中の冬物のコートとジャンパーは4年目、余裕で現役。それを由香里に話したら悲鳴を上げられた。アユルも前シーズンは2着コートを新調していた。

「てかその信長って、そんなにいい男なん?」
「一応面識のない人なんだから、呼び捨てにしないでね」
「そのくらいいいじゃん別に、てか遠恋なんてフツー男は我慢できないよ、絶対浮気してるって」

この程度のことで揺らいでいたら、もうとっくに破綻していただろう。は返事もせずにエンジュの言葉を思い出す。遠距離なのに上手く行ってるとか言うと邪魔しようとしてくるようなのもいるし――あれはこういうことだったのだ。だが、恐らく邪魔している自覚もないだろう。彼女は何も考えていないはずだ。

「浮気してたらどーすんの?」
「どうもしないよ」
「はあ!? 浮気しても怒らないの!?」
「まあね」

アユルのきれいな顔が歪む。だが、自分と清田の間にある約束を、葛藤を、乗り越えてきた時間を説明してやる義理はない。それに、説明したところで理解も出来ないだろうし、どれだけ明解に話して聞かせたところで、最後に出てくる言葉はいつも同じだ。

「うわ、キモ」

エンジュが「辛くなったらいつでも連絡して」と言うので、電話で何度か話したことがある。自分の知らない清田がどんな風なのかも少し気になったし。そんな中、エンジュは優しい声で言っていた。攻撃してくる人間の目的なんていつも単純で簡単なことばかり、それを色んな言葉にくるんでぶつけてくる――

彼女は一体、こんな言葉たちの中に、どんな思いをくるみこんでいるんだろう。

アユルはが出て行くことを寂しがっているんじゃない、遠恋の不安を煽るようなことを言うのも、に対して個人的な恨みがあるからじゃない、何故ならそれだけの遺恨が発生するほどの時間を過ごしていない、虫が好かないというくらいならともかく、個人を恨む理由がないのだ。

の母はアユルを優先しているし、学生生活も順調だし、友達も多いし、強いて言えば彼氏がいないが、遠恋を羨むというのは少しばかり動機としては弱いのではないだろうか。それに、アユルもモテないわけじゃない。今は特定の彼氏がいないというだけだ。

アユルとを比べた時、の方が優っている要素があるとするならば、それは通っている大学の偏差値と貯金額くらいなものだ。これが逆ならいくらでも動機が思いつくくらいに、アユルがを厭う理由が見当たらない。はそれをずっと不思議に思っている。

は圧縮した冬物をビニールバッグにきっちり詰め込み、部屋の片隅に並べる。家具は母とヤギさんが勝手に揃えたものなので、置いていけばいい。寝具は祖父の家にもある。本当に僅かしかないの私物は、週末に祖父が運転してくれるというレンタカーで運搬予定である。

「浮気許してあげるとかマジキモイ、アユルはそんなの絶対無理〜」

だろうな。は、それだけは心のなかで大いに納得した。

+ 13h 15min.

いつかの食べ放題の店まで行ってみたふたりだが、案の定閉店していて、しかもあの時に逃げ込んだ遊歩道の辺りは再開発で高層ビルを建設中だった。清田も大学に入ってからは地元をうろつく機会が減ってしまったので、こういう変化には戸惑ってしまう。

そんなわけで懐かしいところに行ってみるどころか、懐かしいところが消えているのを確認するだけになってしまったので、適当なところで食事を取ったふたりは21時過ぎにすごすごと帰ってきた。

だが、それでおやすみなさいとは新九郎と由香里が卸さない。帰宅してきたふたりはそのままリビングに押し込まれ、酒を突き出された。清田家の酒宴にとって、21時過ぎなどまだまだ宵の口である。

「あらあ、可愛いの買って来たじゃない。これなら確かに普段使いできるわね」
「波みたいでキレイでしょ」
「服と下着はちゃんと買って来たんでしょうね」
「うん。パンツは信長セレクト」
「いやだあんた彼女のパンツに口出ししたの、いやーね、自分の履いてるパンツ見てみなさいよいやーね」

普段から弾丸トークの由香里だが、酒が入るとブースターに火が付く。全員それはよく知っているので、由香里がパンツパンツ連呼していても、突っ込んだりしない。5倍になって色々返ってくるからだ。一方で、酒豪の新九郎は24時を過ぎないと酔いが回らない。

「というか、時期的にはいつ頃引っ越したいんだ?」
「出来れば2月中、かな。卒業式とかで何度か戻るけど、出来るだけ早く戻りたいから」
「そうか。一応早いうちから声をかけてみるけど、今年中にもう一回来られるか?」
「大丈夫です。スケジュールなんかは小母さんに連絡するね」

始業は4月からだが、長居は無用なので、はさっさと戻ってくることを希望している。そこから初任給まで働かなくても生きていかれるようにするための貯金でもある。おそらく由香里は金がもったいない、うちで過ごせと言うだろうが、それでも備えがないよりはいい。

ついでに始業までの間に祖父母を招待したい。出来れば2泊3日くらいの旅費滞在費を全てプレゼントしたいと考えているので、まだまだのアルバイト生活は終わらない。

「だったら家財なんかは越してきてからでいいよな。最初はうちにいればいいんだし」
「す、すみません」
「何を今さら。オレたちはここに住んでくれた方が嬉しいんだがな。まあ、せっかくの独立だし」
「単身パックとかっていくらくらいするんだ?」
「それが、意外に安かった。2万とか、そのくらい」

しかもの場合は最小のパックでも隙間が出来るほど荷物が少ない。家具家電の類は一切ないし、衣装ケースや日用品などを詰めたダンボールが数箱で終わってしまう。

「ワンルームか?」
「こだわらないけど、そのくらいの部屋なら。ああでも、ユニットバスは無理かも……ねえ」
「え、オレ!?」
「まあお前の身長じゃユニットバスは小さいよな」
「だからウチに住めばいいって言うのに、は頑固よほんとにぃ」

アパートの契約も含めた引っ越し費用、生活に必要な家財を全て揃える、準備や後始末のための交通費、祖父母へのプレゼント、新九郎と由香里へのお礼、初任給までの生活費――まとまった予算が必要なのはこのくらいだろうか、大まかなの試算では150万あればなんとかなりそうだった。

期間は約5年。予定通りにいけば60ヶ月である。毎月必ず3万貯金出来れば一応充分な額になる。しかしその間にもは生活しなければならないし、帰郷もしたいしで、の目標到達プランニングは非常なストイックさを要するものになった。

3万貯金すればオーバー分を使える、そう思ったらだらけるとわかっていたので、の毎月の貯金基準額は5万に設定された。テストなどで5万に届かない時でも、最低限3万を切ってはならない。その上そこから帰郷のための資金を貯める。受験などもあって守れなかった時もあったけれど、それを頑なに貫いた。

こんなことをしていれば自由に使える小遣いはほとんどないし、母親はに金を出すのを嫌がるようになったしで、ますます余計なことに使える金がなくなった。節約には衣食を削るのが一番早い。地味になるはずだ。

一応予定ではこの年の秋をもってアルバイトを終え、今度は貯めに貯めた貯金で準備を始めることになる。年末にかけては清田の方が忙しいが、そこはもう素直に新九郎と由香里に甘えることにする。

少し酒も入っているが、具体的な準備の話が出ると、は少し体に震えを感じた。緊張ではなかった。ある意味では武者震いのようなものだったのだろう。今まで「夢」や「目標」だったことが現実になる、その喜び、居ても立ってもいられないような興奮、それを抑えきれなくて。

「ああ、楽しみだわあ、、帰ってきたらぶーたちとランチしに行こうね!」
「おっ、いいね、どこにするんだ」
「やだ、お父さんはダメよ。女子だけで行くんだから!」
「仲間はずれかよ〜、お父さんも行きたいよ〜、なあユキ、行きたいよな〜」

そしてほろ酔い、盛り上がる新九郎と由香里を残して24時頃に部屋に引き上げたと清田は、またベッドの上で寄り添ってぐっすりと眠った。遠い日の約束が果たされた夏の夜、足元で寝ているユキの寝息を聞きながら、ふたりは全ての重圧から解放されて、夢も見ずに眠った。

+ 185 days.

新九郎たちのおかげで、は無事に新居を得て引っ越してきた。この頃にはもう清田も引退していたし、こちらも夢であった地元プロチームへ入ることが決まっていた。地元民のチーム入りは久々だとかで、地元ファンの間では早くも話題になっているとかいないとか。

そんなわけで、は清田家に滞在しつつ、家財を揃えたりしながら新生活の準備をしていた。

「それにしても、ほんとにいいところがあってよかったな」
「小父さんのおかげだよ。やっぱり予定通りお礼しよう」
「えー。あれはちょっとやり過ぎじゃねえか……

の新居は、新九郎が知り合いの不動産屋を総動員して探してもらった「安全・清潔・便利」を妥協しない部屋であった。は予算がかさむくらいなら清潔と便利くらいは目をつぶっても、という気でいたのだが、新九郎はそれを許さなかった。

結果、清田家からも近く、通勤に無理がなく、生活に必要な買い物が徒歩でも可能という立地の1DKになった。築年数はやや高いが、そこはプロが見て安全の判断が下りた物件である。その上、新九郎の顔で敷礼を1ヶ月分サービスしてもらえるというおまけつき。

ついでに、ぶーちん情報で家電類を中古で揃えた結果、だいぶ予算に余裕が出てきた。はもう「高くて良いもの」を欲する感性をほとんど持ち合わせていない。由香里が騒いだので洗濯機と掃除機はアウトレットを買ったけれど、あとは全て中古。唯一最安値にこだわらずに買ったのは、通勤と生活用の自転車である。

というところの、新九郎と由香里へのお礼、それは沖縄旅行だった。格安パックで済ませたくないの試算では10万弱。だが、息子である清田はそこまでしなくてもいいんじゃねえのとしつこい。だったら自分たちが行きたい清田だが、何しろ自分で稼いだ金ではない。口出しにも限界がある。

けれど、の神奈川への帰還は、新九郎と由香里の存在なしにはあり得なかった。それを思うと、2泊3日の国内旅行では申し訳ない気すらしてくる。もう数十万予算があれば海外旅行もプレゼント出来たかもしれないのに。も貯金額の桁が上がるに至り、感覚がおかしくなってきた。

「じいちゃんたちはどうすんの」
「そっちは信長の時間がある間じゃないと困るから、来月予定してる。桜の前なら空いてるだろうし」
「結局どういうプランにしたん」

は手帳を引っ張り出してペラペラとめくる。

「こっちも2泊3日なんだけど、初日は鎌倉。素泊まり出来るいいところがあったから。この日付き合ってね」
「おう、大仏様だな」
「そうそう、地味だけどお願いします。でね、ゆかりんが夜招待したいって言ってるから」
「マージーかー」
「旅館泊だから遅くならないよ」
「どうせ帰った後遅くなるんじゃねえの……
「でも旅館まで送ってほしいから飲まないでいてくれると助かるんだけど」
「で帰ってきてから飲むわけだろ」
「いやあんたそれ飲みたいんでしょ」

が越してきて数日、忙しい合間にぶーちんと3人でランチに出かけた由香里は、今は「小母さん」だけど、早く「お義母さん」と呼ばれたいと言い出した。そこでぶーちんが出してきた案が「ゆかりん」である。由香里はそれが気に入ったらしく、ぶーちんの子供にもゆかりんと呼べと教えていた。

「次の日は横浜。中華街とか、元町とか見て、その日はニューグランドに泊まり」
「ニューグランド!? 高いんじゃねえのそれ……
「それがそうでも。本館のスイートに泊まるわけじゃないしね」

本人たちはのご招待に散々遠慮しまくっていたが、清田家には挨拶をしておきたかったらしく、結局は折れてに一任してくれた。宿は割引も利用しているし、ふたりが遠慮するほど予算はかかっていない。その上初日は清田の運転する車で楽々移動である。

そんなことを話しながら、と清田は新居の壁に寄りかかって手を繋いでいた。

まだ家電が入りきらないのと寒いのとで、光熱費を節約しろという由香里に押し切られ、は現在殆ど清田家で生活している。だが、徐々に空っぽの部屋が物で埋まっていくにつれ、は尊を思い出すようになっていた。彼とは成人式以来会っていない。

もちろんそんなことを清田には言わないけれど、はこのアパートの部屋を「清田とふたりでゆっくりと過ごせる部屋」という基準で作っていた。高級なものを揃えるわけじゃないが、自分が仕事で疲れていても、例えば清田が負け試合をした時でも、心と体を休めて快適に過ごせるようにと。

それはあの短い間に尊から教わった「家、部屋は憩う場所」という概念である。

祖父母の家はいっそ清々しいくらいの「昭和の家」で、家の中は耐震補強が丸出しになっているようなボロ屋である。そこでは尊が言うような「自分が一番自分らしく過ごせる部屋」を求める気は一切なかった。それは神奈川に帰らない限り実現し得ないからだ。

けれど、長い戦いの末に手に入れたこのアパートなら、「自分が一番自分らしく過ごせる」部屋であり「清田とふたりでゆっくりと過ごせる」部屋を作れると思った。そしてそんな部屋で清田と過ごしたかった。一緒にいられなかった時間をここで取り戻したかった。

あの頃の尊より年上になってしまった今、改めて振り返ると、確かに自分は尊に対してあまりに思わせぶりな態度だったのではと思える。どう考えても尊は好かれていると感じただろう。弟の友達だけど、弟より自分の方に興味があるらしい、弟の方はどうでもいいらしい――

年下の女の子が尻尾振って懐いてきた。もちろん同意を得なかったのは許されることじゃない、だけど、自分が軽率ですぐ調子に乗ったせいで、尊も頼朝も清田も傷つけた。それを悔いる気持ちが生まれ始めていた。それでもまだ頼朝の方は普通の付き合いができているけれど、尊とは成人式の日も殆ど口を利かなかった。

成人式の時、弟に何も用意しなかったという、ある意味では潔い頼朝と尊はにお祝いと言って贈り物をくれた。頼朝はパリスビジューのチャーム付きスワロフスキーボールペン、尊はピエール・エルメ・パリのマカロンだった。残るもの長く使うものを選んだ頼朝に対して、尊は消えてなくなるものを選んだ。

尊に特別な思いを抱いて欲しいわけではない。けれど、美しく可愛らしく、食べれば消えるマカロンが尊に見えた。ぶーちんは彼の愛情を「愛してくれる人を愛してるだけ」と表現した。時が過ぎ、はあの頃のことを思うと、胸が痛むようになった。

は「愛してくれる人」に見えただろう。事実そんな風に振る舞っていた。けれど、結局は尊を愛していなかった、愛そうという気すらなかった。やり方を間違えたとはいえ、それまで尻尾振ってたが結局「愛してくれる人」じゃなかったのだと知った尊は、一体どんな気持ちだったのだろう。

その上、要領がよく愛想がよく、可愛がられる方法を熟知している弟と相思相愛になってしまった。両親や兄もを可愛がっている。悲運に見舞われた彼女を清田家の人間は、尊の家族は、まるで自分の娘のように妹のように案じ、弟と一緒にいられないを可哀想に思い、手を尽くしてきた。

それを尊はどんな気持ちで見ていたのだろう。

繰り返すが、は尊と特別な関係になりたいわけじゃない。強いて言えば、神奈川へ戻るという夢が叶った今、次の夢は清田と結婚することであるから、頼朝と同じように、兄と妹になりたかった。仲良しじゃなくていい、遠慮ばかりで構わない、ただ普通に話ができるようになりたかった。

愛することは出来ないけれど、新九郎や由香里、頼朝、そして清田と同じように、尊を労り支える「家族」の中に入りたかった。それはどうしたら上手に伝わるだろう。尊にも、清田にも。