信長が家を出る時には祖母がいたので、先輩の家に行くと言って来た。一応その話聞いたけど今日は帰るのか、と母から電話があったのは、そろそろが到着するかという頃だった。
少し迷ったが、清田は帰らないと言った。これから海南大に進学した先輩の家に行くから泊まりになる、たぶん明日の午前中には帰ると言うと、相変わらず忙しい由香里は了解してすぐに電話を切った。
一方、ショッピングモールの無料シャトルバスで最寄り駅まで出たは、ターミナル駅のカウンターで財布を握りしめながら、急ぎ新幹線に乗りたいけれど切符の買い方がわからないと正直に申し出た。親切な窓口の女性は行き先を丁寧に確かめた上で、一番早く発車する新幹線の自由席の切符を手配してくれた。
春休みのことで少々混んでいるが、夕方の上りだから、ちゃんと並んでいれば座れると思うとアドバイスもしてくれた。その通り、は自由席に席を確保して、神奈川に向かった。移動は順調だったけれど、待ち合わせの駅に到着すると、もう22時を過ぎていた。
そうして大荷物を抱えたは、1年7ヶ月ぶりの神奈川に降り立った。
改札を出ると、正面の柱の横に、周囲より頭ひとつ大きい影がある。は荷物が重いのも忘れて走り、そしてに気付いた清田が差し出した腕の中に飛び込んだ。バッグをあちこちにぶら下げたままは清田の体を締め上げる。清田も体を曲げてを抱き締める。
何も言葉にならなかった。
春休みと言っても、それは学生だからであって、この日は平日、22時の駅は電車が到着しては人を吐き出すだけで、すぐに静かになる。そんな駅の片隅で、ふたりは無言のまましばし抱き合っていた。が、ヤンキー風の集団が通り過ぎざまに口笛を吹いていったので、我に返った。このままここにいてもしょうがない。
「早かったな」
「乗り換えロスがなかったの。新幹線もなんだかすぐに乗れちゃったから」
「腹減ってないか」
「へ、減ってる……」
「ははは、『永源』行くか?」
「え。まだ水戸いるの?」
「この間はいたけど」
永源の営業時間は深夜1時まで。水戸は18歳の誕生日を過ぎて以来、閉店まで残るようになっているという。
「へえ。ってあれ、ひとりで行ってたの?」
「昼、たまにな。お前がいなくなってからしばらくはあそこで不貞腐れてたから」
「そ、そんなことしてたの……」
「水戸相手に愚痴ってた。あいつもよく相手してくれたもんだよな」
荷物を取り上げた清田は、の手を取り、しっかりと繋いだ。
「……」
「は、はい」
「オレ、今日帰らないって言ってある」
「え、家に?」
「だぁに貰った1万、まだ残ってる」
また電車が到着して改札から人が溢れ出る。その中で、は清田を見上げた。
「明日はうちに泊まればいいけど、今日はそれ、使うんでいいよな?」
しばらく見ない間に、清田はすっかり精悍な顔立ちになっていた。出会った頃のお調子者の雰囲気はほとんど残っていない。そんな彼を見上げたは、黙って頷き、繋いだ手をぎゅっと握り返した。
「み、水戸、水戸ー!」
「うわ、お前か!?」
永源に到着するなり、水戸を呼び出してもらったは、また半泣きだ。感極まって飛びついたの頭を、水戸はいつかのようにグシャグシャと撫でた。
「元気だったか、向こうでちゃんとやれてたのか」
「超頑張ったよ、ずっと学年1位、来月から公立大だよ」
「は!? マジで!?」
確かはそんなキャラじゃなかった。水戸は目を真ん丸にして驚いている。彼もまたあの頃よりは背が伸びて、大人っぽくなっていた。カチカチのリーゼントだった髪型も、少し緩いオールバック風になっている。
「なんか、信長がここで愚痴愚痴言ってたんだって?」
「ああ、そういやそうだったな。ランチのジュース片手に酔っぱらいの親父みたいになってた」
「そういう話は本人のいないところでやれってんだよ」
清田が照れてむくれるので、と水戸はヒヒヒと笑って離れた。
「てか何だその荷物。来たばっかなのか」
「そう。春休みだし、少しこっちで過ごそうかと思って」
「大変だな、新幹線の距離なのに。宿とか大丈夫なのか」
「宿は問題ねーよ。うちに泊まるから」
「うちってお前」
「いや、うん、もう何度も泊まってるし、ご家族とも仲いいから」
「だけど――」
なんとなく尊の件を知る水戸は怪訝そうな顔をした。
「あの時はオレ、いなかったからな。もう大丈夫だよ」
「ま、そうか。今月はオレずっと昼からいるし、気が向いたらまた来いよ」
「うん。久々にランチ食べたいし」
はすぐに出てきそうなものをオーダーすると、暖簾で仕切られた個室の中に引っ込んだ。永源はが通っていた頃に改装、従来のオープンな居酒屋から、半個室を増やし、そのおかげでカップルや女性客が増えていた。は荷物を積むと、清田の隣に腰を下ろす。
「どこか行きたいところ、ないか。本当に小父さんの墓参り行ってもいいし」
「それじゃさらに新幹線だよ。ぶーちんには会いたいな。赤ちゃんにも会いたいし」
「あ、そっか、見てないのか」
「画像は送ってもらってるんだけどね。あとはやっぱりユキに会いたい」
「また海に引きずり込まれるかもな」
「まだ冬みたいなもんなのに」
水戸のサービスによるデザートまでついて、少し気持ちの緩んだは、また清田と手を繋ぎながら店を出た。店内にいる間に調べたホテルに向かうのである。の住んでいた地域からも、清田の家からも少し離れた場所にあるカップルズホテルで、家族やレジャー向けにも提供されているようなところを選んだ。
再度駅まで戻り、電車で数駅、ふたりはほとんど喋らずに、静かに寄り添ったまま車窓を眺めていた。清田にとっては見慣れた、にとっては久し振りの景色で、繋いだ手が本当に本物なのか、少し疑わしく感じてくる。夢じゃないんだろうか。もう少ししたら、はいここまで、と引き離されてしまうんじゃないだろうか。
だが、たどり着いてみれば、ホテルはなんだか煌々と明るくて、一気に気が抜ける。しかも普通にフロントがあり、何も怪しまれることなく部屋に入ってしまった。緊張と疲れとでよくわからなくなっているふたりは、ソファにぐったりと身を沈めた。
「何日くらいいられんの」
「決めてない。ほんとに急に飛び出してきたから。帰りの新幹線のチケットも買ってないし」
「あ、そっか」
「信長はいつ引っ越すの」
「引っ越すっていうか……私物持ち込むだけだけどな。4月入ってから」
には内緒の清田の夢は、地元のプロチームに入ることである。それを念頭に置いて進路を決めた。春から東京の大学の寮に入る。海南の主将の進路としては少々地味なチームだと言われたが、仕方あるまい、今年から入るコーチが地元チームに所属していたことがあるというのだから。コネは多い方がいい。
ふたり一部屋の寮はベッドも机も作り付け、食事は食堂、風呂は共同大浴場という、ややレトロな環境だが、大学で遊ぶつもりのない清田にはちょうどよかった。
「てか何この大荷物」
「えーと、お土産とかも入ってる。あとなんかよくわからないから着替えとか詰めて来ちゃって」
「……じゃあ何日かはいられるんだな」
「うん、そうしたい」
はのろのろと立ち上がると、清田のところまでやってきて、ぺたりとくっついた。清田も何も言わずに抱き返す。最後の夏、最後の夜もこうしてくっついていた。ずっとずっと、こうしたかった。
「オレたち、別れたのにな」
「友達のはずなのにね」
清田はの唇に食らいつきながら、後輩マネージャーのことを思い出した。卒業前に、告白らしきことをされたのだが、いわく、ずっと前から彼女がいることは知っていたと言う。だけど、先輩としてもプレイヤーとしても好きだったから、噂が立つようなことになってしまって申し訳ないと頭を下げた。
彼女ではない、ただ好きな女がいるだけなんだと言いかけて、清田は口をつぐんだ。なんだかそんな風に頭を下げる後輩が急に可愛く思えたから。大学でも頑張ってくださいと言う後輩が差し出した手を、ぎこちなく握手した。少しでも気が緩んだら、抱き締めてしまいそうな気がしていた。
その日の夜、清田はそうしなかったことを後悔していた。信じてはいるけど、が本当に帰ってくるとは限らない、後輩を受け入れた方がよかったんじゃないかという思いに囚われて、眠れなかった。
だが、こうして本物のを両腕に抱いていると、これでよかったと心底思った。あの時、後輩を受け入れていたら、とは二度とこうしていられなかっただろう。は神奈川には帰って来なかっただろう。
後輩とも仲良くなれたかもしれない、と同じように好きになれたかもしれない。だけど、を失うのは嫌だった。その結果、が他の男のものになるのかと思うと、それだけで腹が立った。だから、後輩の手を引いて抱き締めなくてよかった。どうしても、が好きなのだ。
そして、ゴムを手にしたところで清田は手を止めた。一瞬、だぁとぶーちんの顔がよぎったからだ。詳しくは聞いていないけれど、だぁはちゃんと避妊していたのだと主張している。だぁがいい加減だから失敗したんだろうとぶーちんは言うが、とにかく、ふたりは妊娠を機に結婚した。
もし今ここでちゃんと避妊せずに、が妊娠したら? そうしたらずっとそばにいられるんじゃないか?
そりゃあもちろん怒られるに決まってる。新九郎の鉄拳制裁は苛烈を極めるだろう。だがどうだろう、新九郎も由香里も子供が大好き。その上も大好き。そのが自分たちの孫を産んでくれるんだと思ったら、口では怒りながら、内心では喜ぶんじゃないだろうか。
の夢は神奈川に帰ってくること、清田のそばに戻ること。そのための大学進学なのだし、神奈川に帰れるなら大学がふいになっても問題ないんじゃ? それと一緒に清田のプレイヤーとしてのバスケット人生も終わるだろうが、それは遅かれ早かれ必ず終わるものだ。終わった後の人生の方が長い。
オレもう18過ぎたし、結婚しちゃったらいいんじゃねえの?
清田はゴムを片手に、くらりと目眩を起こしたような気がした。だが、自分は気持ちいい思いするだけ、苦しんで産むのはだ。ぶーちんも出産の時に一時危険な状態に陥って、尊が取り乱していた。後で由香里に「出産ていうのは命がけなのよ」と言われた。それにはまだ覚悟が足りない気がした。
オレはが欲しいだけで、その他のことなんかこれっぽっちも覚悟できてない。
「……大丈夫?」
「あ、悪い、平気。ちょっと待って」
今さらながら、自分たちの置かれている状況を恨んだ。本当に以前のように戻れる時が来るんだろうか。
清田はの体を見下ろしながら、薄れていく理性の向こうに海を見た。朝日に白く輝く波が打ち寄せ、清田の足元を掠めていく。泣いているが現れては消え、そしてひとり取り残された。あの時の気持ち、あれは嘘じゃなかった。本心だった。だけど、も言っていたじゃないか。
――それが永遠に続くかなんてわからないじゃない!
だから、怖いんだよ。だから、手放したくないんだよ。
「じゃあ出かけるのは昼メシ食ってからでいいか」
「なんだ、どこか行くのか?」
「ふうやれやれ、親父、腰抜かすなよ。ほれ!」
清田は自慢気に唇を尖らせながら、甲を向けて左手を突き出した。新九郎は一瞬ポカンとしていた。
「え? に貰ったのか? え? ?」
「ご、ごめんなさい、勝手に……」
「いやそうじゃなくて、え? どういうこと?」
「おいおい、大丈夫かよ親父、プロポーズだよプロポーズ。親父が30年前に江ノ島でやったやつだよ」
新九郎は江ノ島で由香里にプロポーズしたらしい。今のふたりと思うと、なんとなく可笑しい。は俯いた。
「別に今すぐ結婚するわけじゃないけど……オレだけもらったままってのは嫌だからな」
「まだ学生なんだしバイトも出来ないんだからいらないって言ったんだけど……」
「お、お、お」
「親父、本当に大丈夫か?」
「お、お母さーん!!! 由香里ー!!!」
と清田はふたり揃って青くなった。マズい、なんかテンション上がってる。
「なーによーうるさいな。お昼、なんか適当なものでいい?」
「それどこじゃないんだよ、ノブ、ほれ、見せろ」
新九郎が巨体をそわそわと動かすので、清田はまた左手を突き出した。
「指輪? あんたそんなものするタイプだったっけ」
「お母さん、違うんだ、に貰ったんだってよ、プロポーズだよプロポーズ」
「プロポーズって……嘘!?」
由香里にも一瞬で火がつく。
「だから飯食ったら、の指輪買いに行ってくる」
「あああ、お母さん金出してやれ、ノブ、ちゃんとしたの買ってやんなさい」
「いやいやいや落ち着けよ、なんで親の金で買わにゃならねえんだよ」
「いやお前働いてないだろうが! あとで稼ぎからちゃんと回収するから黙って借りとけ!」
「ノブ、その辺の駅前のなんかダメよ、そうだ、確かヤマさんとこのお嬢さんが宝石店で」
「落ち着けって!!! 普段に使えるようなのを買うんだよ! 宝石ってなんだ!」
はまたナオの背中に顔を押し付けて吹き出した。だが、それを飲み込んで顔を上げる。
「あの、勢いでごめんなさい、今すぐじゃないけど、許して、もらえますか」
ぼそぼそと言っただったが、直後に若干後悔した。
「当たり前じゃないのー!!! てか今すぐじゃないの!? なんで!? じゃいつすんの!?」
「別に籍くらいなら入れちゃったっていいんじゃねえのか」
「そしたらアパートなんか借りないでここに住んだらいいわよ、ねえ!」
「ホントに落ち着けー!!!」
新九郎と由香里は大興奮である。その上、カジュアルなものじゃなくて、ちゃんとした「婚約指輪」を買ってやれと騒いだ。けれど、清田はそれを全て却下。そういうのは改めて自分で買うからいいと突っぱねた。普段使い出来るものでいい。自分がもらったのも、そういう指輪だから。
「まあでも、久し振りなんだからゆっくり出かけてらっしゃいよ。夕飯どうする?」
「外で食べるよ。色々懐かしいところも行きたいから」
「じゃあほら、服もないんだし、少し買っておいで」
「えええ、小母さんのでいいよ」
「パンツは貸せないのよ! いいから文句言わずに買ってらっしゃい!」
そして昼食を済ませると、ふたりは纏わりつく三柴を宥めながら玄関を出る。由香里は清田に何枚か、そしてにも一枚、万札を掴ませると、満足そうに鼻息を吐いた。清田家は新九郎と由香里のふたりにとって必要と思われるものであれば、出費を惜しまない家である。その代わり、小遣いの用途には厳しい監視があった。
「んじゃま、パンツ買いに行きますか。オレ、布が少ないのがいい」
「いや、ファストブランドの安いのにする」
「えええー!」
「てかあんたパンツなんか見てないでしょうが!」
というか今もブラジャーとパンツが乾いていないので、海から帰る間に買って来たコンビニパンツと由香里のヌーブラである。ぶうぶう文句を垂れる清田の運転する車で、ふたりは出かけていった。