星霜フラグメント
Plus&Minus

06

- 2 years.

夏休みは無事に神奈川へ行かれたけれど、秋になり、いよいよの近辺は面倒くさいことばかりになりつつあった。母親とヤギさんは準備が整い次第結婚するという。やはりそれも好きにしてもらって構わないのだが、はヤギさんやアユルと「4人家族」になるつもりはなかった。

どうせ神奈川に帰るのだし、もし本当に清田が待っていてくれて、それが壊れずに続いていったのだとしたら、は「清田」になりたいのだ。はそれまでの命、もう亡い父親の形見でもあるの名は、それまで残しておきたかった。

そんなことも含め、は一度母親のいないところでヤギさんと話をしたかった。アユルがいてもだめだし、は平日の昼間にヤギさんの店を訪れ、話がしたいから時間をくれと頼んだ。ヤギさんの方もの母親がいては話がこじれると思ったのだろう、快諾だった。

その週末の朝、はひとりでヤギさんの店に向かった。

「こんな早くから申し訳ありません」
「いえいえ、アユルは朝寝坊なのでちょうどいいんです。ちゃんは早起きなんですね」

清田家の近くにいると早起きせざるをえないのだ。さすがに5時起きはつらいけれど、以前に比べたら、はかなり早起きになった。祖父母も早いので、今はそれで問題ない。むしろ仕事で疲れている母親の方が朝に弱くなってきた。

「お父さんを亡くされてから……あまり時間が経っていないことは承知しています」
「えっ? あの、私、反対してるなんて言ってません」
「え!? そ、そうなんですか、それは申し訳ない、僕はてっきり……

ヤギさんは、朝だからとモーニングのようなセットを出してくれた。は遠慮せず手を付ける。

「確かに私たちは父を亡くしましたが、母はこれからも生きていかなければなりません。だからといって、親不孝を言うようですが、私は母をひとりにしないために自分の人生を捧げるつもりはありません。一緒に生きていって下さる方がいるなら、私はその方がいいと思っています」

もしヤギさんがいなかったとしても、は神奈川に帰っただろう。この土地へ引っ越したのは、母の願望であり決断であり、のそれではなかったから。それに、もし神奈川にふたりで残ったのだとしても、結局は同じことだ。が結婚で家を出たりすれば、母はひとりになる。

そのために一生独身を貫いたり、恋愛を忌避したりなど、そんなことは出来ない。

「それじゃあ……
「母から何もお聞きではありませんか、私が神奈川に何を残してきたのか」
「遠距離恋愛をしているという彼氏のこと、かな?」
「はい。ですが……ただの遠恋彼氏というには少し事情が異なります」

恐らく、自分が精神的に不安定になって清田家に助けてもらったことなど話しはすまい。もそれを告げ口したいわけじゃない。ただ、このまま行けば、このヤギさんはの新しい父親になるのだ。そうなる前に、まだ他人の内に、自分の決意を話しておきたかった。

細かいことは伏せ、しかし自分は神奈川で就職をし、それに合わせてここを出て独立するつもりなのだということをは話した。何故ならば、清田のもとに行きたいから、清田家の近くにいたいから。そのために高校生活も学生生活も捧げてきた。それが自分の「夢」だから。

「そのためにずっとアルバイトを?」
「そうです。父の遺産は学費に使いたかったので。それに、どうも母はこっちに残って欲しいようなので、私が自分の意志で神奈川に帰るためには、自分で資金を稼ぐしかありません」

荷物は少なくて済むだろう。自身、私物は増やさないようにしている。神奈川に帰ることができたら、そこから増やしていけばいいのだから。こんな思考ができるのも、頼朝仕込みである。最近はそれに思い至ると、いつかの頼朝の失礼千万な物言いを全て水に流そうと思った。

「ですから、私はないものと考えてもらえないでしょうか」
「と言いますと……
「いずれ失うまで、形見と思って、姓のままでいたいと考えています。今すぐ母が再婚したとしても、私は2年ほどで神奈川に帰ります。これから新しい家庭を築いていこうというところに、これは相応しくないと思います」

逃げ腰な言い方だが、要するに、新しい家族の中にカウントしないでくれということだ。母と再婚するなら、自分は入れずに、新しい家族はアユルと3人で始めて欲しい。

「失礼になったら申し訳ない、もし、帰っても、その彼氏とうまく行かなくなったら?」
「その時はその時です。それに、元々私は湘南生まれ湘南育ちですから」

例え清田と破局してしまったとしても、生まれ育った町である。こっちに残るよりはよっぽどいい。

「僕としては、アユルのお姉さんになって頂きたかったのですが……
「せっかくなのでお聞きしますが、その『姉』というのは、どういうものなんでしょうか?」

自分はひとりっ子育ちだし、いとこも近くにいなかったし、よくわからない。しかしヤギさんは一体、をアユルの「お姉さん」にして、何をしてもらいたいというのだろう。ヤギさんにとって、「アユルのお姉さん」とはどういうものなのだろう。

ヤギさんはしきりと首を傾げる。

「どうって……普通の、姉妹になってもらえたらと」
「私はもう成人です。アユルさんも来年成人されます。大人が急に姉妹になると、どうなるんでしょう」
「僕は弟がいるだけなので、女の子同士のことはよくわかりません、ですが――

ヤギさんは勢い良く水を煽ると、口元を拭って肩を竦める。

「僕たちが父子家庭になったのはアユルがまだ幼い頃でした。幸い僕はこうして自営業なので、お勤めの方よりは目をかけてこられたと思っています。けれど、僕はアユルの母にはなってやれません。女性ならではの悩みや楽しみは、僕にはわからないものですから」

ずいぶんと正直に言ったものだなとは驚いた。ぶーちんがいつか「母と姉なんて最高じゃん」と言っていたのを思い出す。の母と結婚したいのは、の母が好きだからだろう。けれどヤギさんは、それとは全く別の場所に、「アユルの新しい母と姉」を求める気持ちがあるようだ。

「母のように、私がこちらに残って、アユルさんと姉妹になることを望んでおられるのでしょうか」
「それはもちろんそうです。こうしてご縁が出来たのですから、家族になりたいと思います」

ヤギさんは相好を崩して頷き、熱を込めて言う。頼朝仕込みのシミュレートがこんなにぴったり嵌ったのは、初めてだった。は緩んでしまいそうになる頬を引き締め、想像通りの展開に、予定通りの言葉を返した。

「では、家族として、父親として、娘の独立と門出を喜んでください。アユルさんと分け隔てなく」

もにっこり微笑む。ヤギさんは顔を跳ね上げ、情けない顔をした。

「もちろん、私も卒業まではこちらにいます。ですが、内定が取れ卒業が決まれば、私がここに残る理由はありません。17の時に決めた『夢』を叶えるために、私は家を出て独立します。アユルさんもいずれそうなるのでは?」

まさかアユルがそうして独立していくまで姉でいろと言いたいわけじゃないだろうな?

が言いたいことはちゃんと伝わったらしい。ヤギさんは躊躇いつつも、小さく頷いた。もう彼に、をアユルの姉として引き止める理由は何一つ残されていない。家族になることを望んでも望まなくても、の独立を思いとどまらせる理由には成り得ないのだから。

母との結婚は本当に反対していない、ただ自分はここに残って4人家族を築いていく時間はないのだということを繰り返し、は食事の礼を言って店を出た。ヤギさんはあれでしっかりした人だろうから、の母に告口をしてキレさせたりはしないだろう。ただあてが外れてしまっただけで。

はその足でレンタルロッカーに向かい、ジャージとユニフォームを取り出すと、近くのクリーニング店に向かう。自宅に置いている間はよかったが、現在は気密性の高い密閉空間に閉じ込めたままである。傷んでしまうことを恐れて、は定期的にメンテナンスしている。

清田には、成人式の時は帰ると言ってある。

というかそれを見越して、新九郎と由香里は知人から着物を借りておいてやるし、自宅で宴会をやるから、何も心配しないで帰って来いと言っているとのこと。自分の母親とは、成人式の話など出て来ない。彼女は今、再婚の準備で大わらわだし、が成人式も神奈川に行くと宣言しているので、無関心と決めたらしい。

稀に伯父や伯母に捕まると、そんな風に彼氏の家に傾倒していたら母が傷つくじゃないかと怒られる。育ててもらった恩も忘れて神奈川ばかり恋しがり、今ここにある現実から逃げていると、くどくど言われることがある。それは否定しない。自分の現実は全て自分の未来のためのもの。自分は母を置いて巣立っていく。

しかしそのための5年間だったのだ。は神奈川から離れたくなかった。けれど、高校生の身で母を捨てられなかった。だから着いてきた。母に寄り添う娘としての猶予である。

生まれ育った町も、親しんだ学校も友達も彼氏も、全て置いて一緒に行く。家族だから。けれどにも未来があって将来があって、いつしか夢も出来た。だから5年間は一緒にいよう、けれどその先は誰もがそうであるように、親の元から巣立って行きたい。そう思っていた。

そこにヤギさんとアユルを連れてきたのは、母の方である。それはの歩む道には関係のないことだ。

いつか頼朝が言っていた。人は自分の意思で生きる権利がある。家族愛も大事だろうけど、それは自分の意志で行われて初めて価値があるんだ、流行や体面や義理になってしまったら、それはもう呪縛でしかないんだよ。

どうやら頼朝の学友に家族の呪縛で身動きが取れなくなっているのがいたらしいが、はその気持ちがよくわかった。一緒にいなきゃ家族じゃないなら、お父さんはどうしたらいいのよ。死んじゃったのに。親に寄り添って生きるのが正しいなら、私の信長への思いはどうしたらいいのよ。捨てろって言うの。

クリーニング店の手前で、は海南のジャージを抱き締めて目を閉じた。

- 1 years.

成人式の2日前に神奈川に帰ってきたは、その日、熱を出した。由香里はともかく新九郎がおろおろして大変だったが、学校とバイトと家族のことで張り詰め通しで、頼朝と尊がいないだけで何も変わらない清田家に気が抜けてしまったんだろう。

「風邪とかインフルじゃないんだよな」
「だって。疲れてたんでしょ。熱が下がったら成人式行ってもいいわよ」

一応当日はふたりとも別行動である。何しろ育った市が違う。そこへそれぞれ顔を出して、その後は清田家で宴席の予定になっている。成人式の後といえば、そのまま飲みに繰り出したりということもあろうが、は途中で越してしまったし、清田も高校から私立で、長々と付き合うほどではない。

「それより、今回はいつまでいられるのよ」
「もう家は平気。まあその、えへへ、テストまでに帰れば」
「えへへじゃないでしょ。ノブももう少し大丈夫よね?」
「まあうん、オレの場合は別に遠くないんだし」

最近、由香里と新九郎は「ちゃん」ではなく「」と呼び始めた。清田のベッドで頬を赤くしているの頭を由香里はワサワサと撫でる。

「そしたら、写真、取りましょ。ノブと一緒でもいいから」
「写真?」
「ちゃんと着物着て撮るのよ。成人式の写真はちゃんと残しておかなきゃダメよ」
「だけど――
「出世払い! もうゴチャゴチャ言わないで言うこと聞きなさい」

清田もベッドに腰掛けてニヤニヤしている。これまでが帰ってくると、がっついてばかりだった清田だが、今回は妙に落ち着いている。熱を出したせいでそれを勘繰る余裕のないだが、由香里にビシッと言われると首をすくめ、けれど嬉しそうな顔をした。

当日では混雑するし慌ただしいので、成人の日が過ぎてから写真を撮ろうと由香里は言う。

「当日も着られるようなら着物着てもいいからね。頭と顔はぶーに手伝ってもらいましょ」
「信長も着物着るの?」
「オレあんなヤンキー臭いのやだよ。普通にスーツ」
「私そっちの方がいいなあ、えへへ」
「じゃあ今日は静かにして、夜更かししないでちゃんと寝なさいよ。いい? ノブ、無理させないでよ」
「わかったわかった」

が滞在する時は、いつも清田の部屋に寝泊まりしている。特に布団を出すこともなく、ふたりは同じベッドで寝ているが、新九郎も由香里もそれを特に気にしない。ふたりも若い頃は品行方正なタイプではなかったし、一応も清田も二十歳だし、本人たちの判断を尊重している。

由香里が出て行くと、清田はごろりとベッドに転がり、に添い寝をする。

「帰ってくるなりごめん……
「お前が悪いわけじゃないだろ。風邪じゃないんだし、熱が下がったら覚悟しときなさい」
「エヘヘ、信長のスーツ嬉しいな〜」
「なんで女ってそんなスーツ好きなん」
「なんでだろうね、だけど信長なんて普段カジュアルだから、余計にかっこよく見えると思うよ」

熱のせいでぼんやりしているがぺらぺらと褒めるので、清田は照れて枕に顔を突っ伏した。

、もし熱が下がったらちょっと付き合って欲しいことがあるんだけど」
「何? 珍しいね」
「ちょっと……会って欲しい人がいるんだ」

清田が真面目な顔で言うので、はサッと顔を青くした。

「え、おい、なんだよその顔」
……か、彼女、できた、の?」
「ハァ!?」

素っ頓狂な声を上げた清田は、なんでそんな風に考えるのかが理解できなくて顔をしかめた。

「なんでそうなるんだ。てか今そう思うような要素あったか?」
「だ、だって、そんな改まって会って欲しいって、なんか前より落ち着いてるし」

彼女が出来たのでがっつく必要もなく、この通り彼女が出来たから、と紹介でもされてしまうかと思ったのだ。は言い訳をしながら布団を引き上げて口元を覆い隠すと、清田を見上げる。清田の方は誤解の意味がわかったので、苦笑いだ。

「まあそうだな、落ち着いてるのは、その会って欲しい人のせいだ」
「え、じゃあ付き合ってないけど好きな人とか」
「お前いつからそんなネガティブになったよ! 熱で気弱になってるだけだよな?」
「じゃあ誰よ」
「友達。紹介したいと思ってたんだけど、夏は時間が合わなかったから」

が引き上げた布団を指で下げて、清田は顔を近付ける。熱はあるけれど、風邪ではないというし、キスくらいなら問題あるまい。自分が我慢できればいいだけの話だ。の唇は発熱のせいでものすごく熱い。かすかに漏れる呼吸ですら熱い。これではつらいだろう。

「オレの友達と仲良くなれとか、そーいうことじゃないから。その人だけ、ちょっと特別で」
「へえ、そんなに仲いいの。バスケ部の人?」
「いや、バスケは全然関係ないんだけど、色々助けてもらってる人で」
…………女の子?」
「だからなんでそうなる」

少し苛ついた清田は、また唇をぎゅっと押し付けて、捏ね繰り回した。

「だって、『その人』とか、信長が友達をそんな風に言うかなって」
「お前細かいな〜。ま、言われりゃ確かにそうなんだけど、男だよ。だからちょっと特別なんだ」

の頭を撫でながら、清田は柔らかく微笑む。

「信長、なんか大人っぽくなったね」
「だとしたら、それもその人のせいだな」
……ちょっと嫉妬」
「なんでだ。ほんとに助けてもらってるから、紹介したいんだよ、オレの、好きな女だって――

付き合ってなくても、遠く離れていても、どれだけ悩んでも苦しんでも、今でも好きな女だから。