星霜フラグメント
Plus&Minus

10

+ 204days.

卒業を控えるだけになったに招かれて祖父母が神奈川までやって来たのは、3月に入ってすぐのことだった。慎ましい年金暮らしであるふたりは地味な装いでやって来て、迎えに来たがすっかり可愛らしくなっているのを見て嬉しそうに笑っていた。

「そういえば、こっちにいる頃は可愛いかっこしてたわよね」
「別に地味なのが好きで地味にしてたわけじゃなかったからね」
……、いい顔になったなあ」
「えっ、何よ急に」
「向こうにいる時はいつもキリキリした顔してたからな。今は優しい顔してるよ」

しみじみと祖父が言うので、はゆったりと微笑む。それは清田がいるからだ。

「信長がいてくれるからね」
「おうおう、言うじゃないか。その信長くんが来てくれてるのか?」
「そう。ちょっとでっかいけど、驚かないでね」

結局清田の身長は187センチで止まった。それが流川が高校1年生の時の身長だという事実に至ると本人は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、それでも168センチの祖父から見れば大層な大男である。

に連れられて、ふたりは駅を出る。の連絡を受けた清田は、ロータリーで車を止めて待っていた。今日は由香里のタウンカーではなく、新九郎のアウディだ。中古だが新九郎はこの車を大事にしていて、の祖父母だから貸すけれど、傷をつけたら髪を全て引っこ抜くと言って清田を脅していた。

そして傷をつけたら引っこ抜かれる予定の清田の髪は肩に届いており、普段はボサボサと垂らしているが、おじいちゃんおばあちゃん来訪とあって、きれいにまとめられている。その上、いつでもカジュアルとしか言い様がないファッションだが、今日ばかりは少々フォーマル。むしろのテンションが上がる装いだった。

に気付いた清田は運転席を出て、小走りでふたりを出迎えた。

「おはようございます、初めまして、清田と申します」

生家は常に他人だらけ、その上体育会系歴10数年、清田は微塵も怯まず淀みなくそう言って、ぺこりと頭を下げた。が、おじいちゃんとおばあちゃんはあまりのデカさにしばしポカンとしていた。全体を見れば細身に見えるが、何しろおじいちゃんプラス20センチはある。

「初めまして。の祖父です。出会い頭にこんなことを言うのもなんですが、が本当にお世話になりました。お会いできて嬉しいです。今日はよろしくお願いします」

堅苦しい声だったが、そう言う祖父に清田はニカッと笑ってみせた。その後ろでおばあちゃんはに「やっぱりかっこいいわよ」と言ってにこにこしている。

チェックインまで時間があるので、それまで観光、祖母は膝が弱いので、チェックインしたらしばし休憩、その後夕食を清田家で、という段取りだ。由香里はまだ午前中の今から仕込みにかかりきり、何も知らずに遊びに来たぶーちんまで手伝わされていた。

清田はふたりの荷物を手早くトランクに詰め込むと、ドアを開いて車に乗せ、安全運転で行きますからねと言ってまたニカッと笑った。というか彼は普段から安全運転で、清田家で一番運転が荒いのは由香里である。その上ハンドルを握ると口が悪くなる。

「ねえねえ、やっぱりおばあちゃん、かっこいいって」
「うわ、ほんとですか。オレあんまりそういうこと言われたことないんで嬉しいっす」
「そうなの? ご家族の写真も見せてもらったことあるけど、信長くんはハンサムよ」
「ありがとうございます! おばあちゃんも可愛いっす!」

本当に清田は物怖じしない。多少不貞腐れていた10代の頃でも全年齢オールオッケー、子供からお年寄りまでどんと来いというタイプだった。それは彼の育った環境のせいでもあるだろうが、それにしても。そんなわけで要領も愛想もいいザ・三男は早々に祖父母に好かれた。

ふたりの希望も入れつつ鎌倉観光をし、祖母の膝が痛み出すこともなく、予定通りと清田はふたりを連れて帰ってきた。準備万端すっかり支度を終えている由香里は相変わらず派手だが、何しろこちらも毎日大家族と大量の他人の相手をして30年である。息子同様対人スキルは高い。

挨拶が済むまでケージである三柴が吠える中、の祖父母は、いつか清田がの母から礼とともに残酷な報せを受けた和室に通された。ダイニングは散らかっている上に、テーブルが三柴のせいであちこちボロボロになっているので、致し方ない。

だが、膝の悪い祖母のために新九郎と由香里は和室椅子を用意してくれた。その上テーブルの上は由香里渾身の料理で埋め尽くされており、テーブルの表面が見えない。その和室の入口で、の祖父母、そして新九郎と由香里はお互い正座で手を揃え、畳に額を擦りつけて頭を下げあった。

「わたくしどもが至りませんばっかりに、おふたりには大変なご迷惑をおかけいたしまして……
「とんでもございません、数々の差し出がましい真似をお許し下さい」
「何を仰いますか、私たちでは成人式の着物も用意してやれませんでした、本当に、ありがとうございます」

祖母の涙腺が緩み、由香里も緩み、も緩んだ。頭の下げ合いが終わると、乾杯である。本日送迎係の清田は飲めないのでもそれに付き合うが、実はおじいちゃんとおばあちゃんはふたり揃ってお酒大好き。おじいちゃんですら涙ぐんでいたけれど、嬉しそうに乾杯していた。

「あら、ちゃんの新居はご覧にならないんですか」
「写真は見せて頂きました。それもご尽力頂いたそうで……
「いやいや、仕事の関係で伝手があるもんですから」
「それじゃあ今日はずっと観光してらしたんですか。お疲れでしょう」

だから楽にしてくださいねと言う由香里に、おじいちゃんはグラスを置き、胡座の上で手を握り合わせた。

から今日の話を聞いた時、てっきり信長くんには駅から宿まで送って頂くだけだとばかり思っていました。ところが、宿はまだ入れないから先に観光しましょうと言って、と一緒に着いてきてくれるじゃないですか」

本日禁酒の上、フォーマルで送迎係の清田は、急に自分の話になったので口をつけていた烏龍茶をこぼしそうになった。そもそもがあまり行儀のいいタイプではないので、何かやらかしたかと青くなる。

「いくらが招待してくれたとはいえ、今日見たようなところは年寄りの観光地ですよ。家内は膝が悪いですから歩くのも遅いし、食事も私たちが食べて美味しいような、さっぱりしたものばかり。だけど、信長くんはつまらなそうな顔を一度もしなかった。だけでなく、家内も、そして私もずっと気遣ってくれてました。
その上、どこだったかな、お寺の石段で家内がよろけましてね。そうしましたら、何も迷うことなく手を出して支えてくれて、手を繋いで階段を登ってくれましてね。だけどね、私たちの前だからってかっこつけてやってるんじゃないんですよ。この年になればそんなのはすぐわかりますでしょう、だけどね、そうじゃないんです。ごく自然なこと、当たり前という顔をしてるんですな。
それで後から来た私に家内の手を渡して、奥さんと手を繋いでごめんなさいって言うんですよ。こっちはもう手を繋いで歩くなんてこっ恥ずかしいくらいなのに、そう言って私の手を家内の手に重ねましてね。
そしたら今度はと手を繋いで、ダブルデートみたいですね、なんて言うんです。は恥ずかしがって信長くんを引っ叩いてましたけど……感服いたしました」

祖父の言葉に、部屋は静まり返っている。

や娘に話を聞くだけで、一度もどなたともお会いしておりませんでしたし、何しろ最初に話を聞いた時は高校生の孫のボーイフレンドとしか思ってなかったわけです。がアルバイトと勉強を頑張るのは、少し見ない間にそういう娘に育ったからだと思っていました。
ですが、もう一昨年になりますか、新しい家族と折り合いが悪くて家を出たいというから、そのボーイフレンドの元に帰りたくてがむしゃらに働き、いい仕事に就けるように勉強を頑張っているんだと聞かされまして、しかもその時点で100万近く貯め込んでいると言うんです。父の遺産は母が全て使って構わない、だけど自分はその金で神奈川に帰るんだと聞かされて、驚きましたけれど、これはの望むままにさせてやりたいと思ったんです。孫の決意に心を動かされたからです。
ですが――成人式の写真を見せていただいたりしても、信長くんは見るからに今時の若者で、しかもスポーツ選手だというし、かっこいいじゃないか、なんて言ってやりはしましたが、正直申しまして、信長くんのことはこれっぽっちも信用しておりませんでした。ご両親がしっかりされてるようだから、まあいいだろうくらいにしか思えませんでした。それで例えが苦労をしても、それも孫の選んだ道、孫の人生だと思っていました。
ところがどうでしょう、信長くんはどうも私たちの考えているような『今時の若者』とはなんだか様子が違う。いくらガールフレンドの頼みでも、普通、こんな年寄りと観光したって楽しくないでしょう。頭では『お年寄りを大事に』なんてお題目を掲げていても、若者は正直なものです、話が通じなければ嫌そうな顔をするし、こちらがわからない顔をしていると苛々しているのが顔に出ます。そう、ちょうどアユルちゃんがそうです。先方と会食をしました時にね、別れ際、家内がよろしくねと握手を求めまして。一応それには応じましたが、苦笑いですぐに手を引っ込めてしまいました。今頃の若い方なんてそんなものです。私だってきっと若い時分はそんなものだったはずです。
だけどどうもね、今日は孫と、そのボーイフレンドと、4人で楽しく遊んだという気がしてならないのですよ。年寄り向きの観光地に若者を付き合わせて面倒を見てもらったとかではなくて、一緒に楽しんだという感じがしてならないのです。そんな話、聞いたことがありませんよ。血の繋がった実の孫ですらそんな風にしてくれないでしょう。息子の方にも孫がおりますが、就職してからは殆ど会っていませんし、顔を合わせてもいつの間にか上から目線で『年寄りなんだから』と言い出すようになりましてね。事実ですから否定はしませんけども、しかし信長くんにはそういうところが欠片もない。実に楽しい1日を過ごさせて頂きました」

そう言ってまたゆっくりと頭を下げた。の祖父は続ける。

「信長くんは素晴らしい青年です。もう何も不安はありません、信長くん、君がいてくださるなら、私たちはが目の届く場所にいなくても、心配はしません。君は信頼に値する人です。こんなこと、本来なら親が言うべきことですが、くんは先立ってしまったし、娘は新しい家族と生きていくので精一杯、それに成り代わってお願い申し上げます。どうかを、よろしくお願いいたします」

そう言って三度頭を下げた祖父に、新九郎も由香里も清田も、ですらなんと言えばいいかわからなくなって、同じように深く頭を下げて応えた。

「ははは、もちろんそれも信長くんを育てられたご両親あってのことです。いや、頭の垂れる思いです」
「とんでもありません。その、これは小さい頃からきかん坊でして、我々もまさかこんな、ことになるとは」
「確か上におふたり、お兄さんがいらっしゃるんでしたわね」
「アユルちゃんがお兄さんに会いたいとずいぶんゴネたそうですなあ」
「は!?」

初耳だった清田家3人は思わず声を上げてを見たが、本人はサッと顔を逸らしている。3人とも、またそんなことでストレス溜めてたのに何も言わなかったのかこのバカタレという顔をしている。というかはアユルの話などしたくなかったのだ。アユルと尊がセットの話題なんて、忘れたかったから。

「まあ、それももう遠く離れた場所の話ですね」
「あのね、おじいちゃん、清田さんちはね、あと3人男の子がいるんだよ」
「3人!?」

丸めていた背をシャキンと伸ばした祖父は目を丸くしている。に促されて、清田が素早く部屋を出て行く。

「見て〜、信長の弟たち!」

和室の入口を振り返ったおじいちゃんとおばあちゃんはグラスを取り落としそうになって、慌ててテーブルに置いた。背後に犬が4匹いたからだ。きちんとの隣に寄り添っているユキの後ろで三柴は落ち着きなく尻尾というかお尻を振っている。今日はケージに入れられている時間が長いので、いきなり出してもらって興奮気味だ。

「あのねおじいちゃん、この子、私の最初の彼氏なの、ユキ!」

に背を押されて初めてユキは進み出て、祖父の手に鼻先をすり寄せた。

……お父さんが死んだ時もね、お母さんを助けてくれたのはこの子と小母さんなの」
「そうか、そうか、君だったのか、ありがとうな」

祖父はユキの頭をぐりぐりと撫で、祖母は振り返って由香里に深々と頭を下げた。

犬4匹が乱入してきたことで部屋の空気は一気に緩み、その後は由香里の料理と酒で、の祖父母は存分に楽しんで旅館に戻っていった。すっかり酒が入ったふたりは道中清田を褒めまくり、本人は慣れてないせいで珍しく真っ赤になっていた。

翌日は清田が大学の方に行かなければならないというので、がひとりで横浜を案内するつもりだったのだが、毎日あれこれ忙しいはずの由香里が全部投げ出して着いてきてくれた。そして横浜に一泊したふたりが帰るという、さらに翌日の朝。はホテルまで迎えに来た。

「駅までくらいタクシーで行ったってよかったんだから、送りなんていらなかったのに」
「そうよ、もう帰るだけなんだからね」
「そうなんだけどさ。信長も来たいって言うから」
「えっ?」

ニューグランドを出たふたりを、2日前と同じように清田が車とともに待っていた。だが、どうも2日前とは様子が違う。由香里のタウンカーは鮮やかなグリーン、その中から出てきた清田は、バサバサのハーフアップにパーカーにダウンベスト、緩いジーンズでスニーカー姿。2日前のちょっとだけフォーマルから比べると、ずいぶんだらしない感じがする。清田はまた小走りでやってきて、ふたりの手荷物を取り上げた。

「おじいちゃん、一昨日のオレはのじいちゃんばあちゃんだからって、かっこつけてたオレでした。あんな服、着ないし、頭だって普段はこんなんです。おじいちゃんはあんな風に言ってくれたけど、こっちが本当のオレです。でも、おじいちゃんたちと1日楽しかったのはオレも同じです」

それを言いたくて清田はにくっついて来たというわけだ。

「オレ、じいちゃんの顔覚えてないんです。父方のじいちゃんはあの家にいたけど、オレが4歳の頃に亡くなってます。母方のじいちゃんは生まれる前に既にいませんでした。だから、楽しかったっす」

そう言ってニカッと笑った。祖父母もつられてにっこりと笑い、清田の肩をバンバンと叩いた。そして2日前と同じようにふたりは車に乗り込み、新幹線の出る駅まで送ってもらった。全員で大笑いしながらの道中だった。土産だの何だのと荷物が多いので、と清田はホームまで送りに入り、別れを惜しんだ。

「気をつけてね。卒業式の時は帰るから、その時はまたよろしくね」
「何言ってるの、あんたの『実家』なんだから、遠慮しないで帰ってらっしゃい」

そんなことを言っていたと祖母の隣で、清田は祖父の両手を取り上げた。地味な昭和の男であるじいちゃんは、男に手を取られるなど慣れていないので、驚いて飛び上がった。そのおじいちゃんに向かって、清田は少し屈みこんで口を開いた。

「おじいちゃん、オレ、とずっと一緒にいたいです。だから、いつかおじいちゃんのところに、をくださいって言いに行きます。絶対に行きます。だから、ずっと元気でいて、待ってて」

慌てたの隣で祖母は涙腺が緩み、「ヒャー」と変な声をあげていた。

「そんで、ちゃんとにドレス着せてやります。だからその時はまたふたりで来て下さい。オレ、絶対すごい選手になって、ハイヤーを迎えにやって、グリーン車で招待するから。それまで待ってて」

そして、慣れていないというのに、清田はじいちゃんを抱き締めて背中をバタバタとはたき、その次はばあちゃんもぎゅうっとやり、荷物を取り上げると新幹線の中に入っていった。

……、じいちゃん一昨日嬉しくてさあ、もうこれでいつ死んでもいいと思ってたんだよ」
「ちょ、何言ってるの――
「だけど訂正するよ。お前と一緒に信長くんが来るの、待ってるから」
……うん、待ってて。ふたりで行くから」

そうしてふたりは2泊3日の神奈川旅行を終えて、帰っていった。

の孤独な戦い、清田の苦悩と葛藤、それが全て実を結び、ふたりを取り巻く環境は何もかもが元通り、いやそれ以上になっていた。もうふたりを苦しめるものなど何もない。そのはずだった。