ほんの僅かな再会を経て、と清田は大学生になった。
もう成績がトップでなくとも、神奈川で就職が出来ればいいので、は学業は平均値より落とさなければよしと決め、アルバイトばかりの生活になった。この年、無事に一級建築士の国家試験に合格した頼朝は、急にメールが来なくなったので寂しがっていたらしいが、目的達成のためには取捨選択が大事だと教えたのも頼朝だ。
清田の方は初めて家から出たのと、慣れない環境と、うっかり何も調べずにいたら1年先輩に翔陽出身と陵南出身がいたという珍事に見舞われたりして、なんだかを恋しがっている暇もなかった。
と清田は毎日頑張っていたし、少なくとも自分たちが困るようなトラブルもなかったし、「付き合ってない遠恋」状態の間で言うと、この頃が1番平穏だった。この年の秋頃には、突然発作を起こした清田が新九郎に土下座して新幹線代を借り、のところに突撃したりと、それはそれで順調に見えていた。
だが、年が明け、まだ春も遠い2月の頃、双方ほぼ同時に不穏な影が差し始めていた。
「さん、なにその荷物」
「チョコですよ。もうすぐバレンタインじゃないですか」
「いや、チョコって、なんか骨出てるけど……?」
は、現在メインのアルバイトにしているアミューズメント施設のバックヤードで、ロッカーに荷物を押しこんでいた。そろそろバレンタインなので、清田家周辺に送るプレゼントを見繕ってきたのだ。骨は当然ユキに。わかりやすい形の骨が飛び出ているので、社員がビビっている。
「ちょっと相思相愛の男がいるんですよ、尻尾生えてるけど」
「犬か」
「あと友チョコとか感謝チョコとか色々です」
今年は清田とユキ、新九郎に由香里、おばあちゃん、ぶーちんたち、というラインナップだ。さんざん世話になっておいてなんだが、独立して不在の頼朝はなし。ちなみに今年の清田はチョコではなく、レザーのウォレットコード。昨年の秋にに会いに来て、その帰りに財布を落としたからだ。
また、海南のユニフォームとジャージをゲットしてが喜んでいたので、清田は自分も何かそういうものが欲しいと言い出した。しかし服をくれてやるのはなんとなく嫌な感じがしたので、可愛らしいぬいぐるみを購入、はそれを4ヶ月ばかり抱いて寝た。そろそろいい感じで匂いが取れなくなってきている。
必ず寮に持ち込むことと言い添えて送るつもりである。可愛いぬいぐるみ抱っこして寝てみろ。
「あれ、本命はないの」
「ありますよ。チョコじゃないけど」
「さんて彼氏いたんだっけ」
「ええまあ」
この質問はこっちに越してきてから全てこんな風に誤魔化しつつ、絶対に「いない」とは言わないようにしてきた。以前バイトしていたドラッグストアの社員のようなケースにならないとは言い切れないし、短期バイトでしつこいのに当たってしまった時は、尊を利用した。さすがに尊を出されると大人しく引き下がる。
「にしてはシフトすごい入ってるよね?」
「お金欲しいんで! そろそろテストなんで少し休みますけど」
テストの間は一切働かないルールだ。勉強もするが、その時は少し体も休める。というわけでしばらく自宅と学校の往復だけになるので、バレンタインの仕入れに行ってきたというわけだ。近所のショッピングモールでも揃うが、たまには別の街へ出てリフレッシュするのも大事だから。
アミューズメント施設のドリンクカウンターで働くは、既に指定のポロシャツを着込んでいて、あとはエプロンを着けるだけになっていた。そこへ、社員が近寄ってくる。
「オレもさんのチョコ欲しいなあ」
「あれ? 確かマネージャーが全員分用意したとかなんとか……」
「そういうんじゃなくて、さんから欲しいな」
「だから私彼氏いますって」
「……本当に?」
社員は23歳、昨年の中頃に本社本店研修を終えて戻ってきたばかりの新人ではある。が、この施設の社員はその殆どが20代から30代で、アルバイトにはのような学生が多く、気楽な反面、こういう展開・トラブルなどはが1番恐れていたことでもある。面倒くさい。
「だってさん、土日フルだし、平日も殆ど入ってるし、祝日も休まないから」
「だからお金欲しいんですよ。学生で時間がある間に少しでも多く稼ぎたいんですよね〜」
「もしかして、遠恋?」
反応すまいと身構えていたせいで、はつい肩をぎくりと強張らせた。
「あれ、当たっちゃった? でも彼氏いるのに休まずにお金欲しいって、そりゃ遠恋だよね」
「あはは、そういう目的のために稼いでるわけじゃないんですけどね」
「じゃあ何? さんあんまりブランド物とか持たないよね?」
ブランド趣味だったとしてもバイト先には持ってこないだろバカか、と思うが、はまた苦笑い。
「生活費ですね。私父を亡くしてるので、母や祖父母に負担掛けたくないですし」
「え!? それは知らずに……いやごめん」
「いえいえ、そろそろ3年になりますし、グズってばかりいられませんから」
父の話を出せば、大抵はこうして引き下がる。は心の中で父に礼を言い、ホッと安堵する。が、
「そうかあ、お父さんも彼氏もさんのそばにいてくれないんだね」
「は、はあ……?」
「いつでも代わりになってあげるよ。彼氏でも、お父さんでも」
そう言って彼はの頭を撫でた。全身がぞわりと怖気立った。こんな風に男性に嫌悪感を感じたのは尊に襲われて以来だ。この社員も見栄えは悪くないし、性格も普通という感じだが、なんだかさっきから一方的に話を進めてくる。は今度は努めてにっこりと微笑み、身を引く。
「お気遣いありがとうございます。でも、父と彼の代わりになる『もの』なんて、ありませんので!」
社員を「もの」呼ばわりしたは、エプロンの紐を締め、会釈してその場を立ち去る。まさかとは思っていたけれど、どうやらは年上に好かれるたちらしい。尊はちょっと違うかもしれないが、頼朝、ドラッグストアの社員、ここの社員、短期バイトのしつこいのも確か30代だった。
どいつもこいつも邪魔ばっかり。まったくもう、本当に、面倒くさい!
さらに面倒くさいことに、の母はすっかり例の初恋の相手とよりを戻してしまい、最近では向こうの娘とも会ってきたとかで、も今度一緒に行こうとしつこくなってきた。
母が亡き父以外の男性と近しくなるのは構わない。それをどうこう言うつもりはないのだが、はとにかく「夢」に向かって綿密なプランニングとともに日々努力をしているのである。余計なことでその手を止めるような邪魔をしないで欲しいのだ。私には構わないで、好きにやってきたらいいのに、どうして引っ張り込むんだ。
春休みの間をバイトで逃げ、バイト先でも社員から逃げ回り、は家で寝る以外はショッピングモールのイートインスペースが唯一心の休まる場所になりつつあった。クリーンスタッフのおばちゃんとどんどん仲良くなる。
だが、逃げ回り続けるのにも限界がある。結局は、新学期間近に捕まり、相手の経営している飲食店に連行された。土日はディナータイムのみだから、ランチを振る舞ってくれるという。店はきれいで、外装内装だけなら美味い料理が出てきそうな店に見えた。
キッチンから現れた男性は細身で色白、面長で優しげな顔をしていた。なぜかそこで新九郎を思い出したは、あっちは熊だけどこの人は山羊だなと思った。彼はペコリと頭を下げて、微笑んでいる。その後ろから、明らかに不機嫌そうな女の子がのろのろと出てくる。あれが娘か。
「初めまして、ちゃんでよかったのかな」
「はい、と申します。初めまして」
「こちらは娘さんの、あゆるさん」
アユル? は軽く頭を下げながら、内心首を傾げた。変な名前。
「アーユルヴェーダって知ってますかー。そこから、あゆる、です。命という意味です」
「はあ、ヒンドゥー教の医学ですね」
も伊達に勉強を頑張っていない。すらすらと言い返されたので、知らないでしょうという口ぶりだったアユルは面白くなさそうな顔をした。彼女は現在地元の私大に入学したばかりの1年生。よりひとつ年下だ。きれいな顔をしているが、機嫌が悪いのがモロに出ているので、印象が悪い。
「ちゃんは高校時代主席だったそうですね、アユルを教えてもらいたいくらいです」
「ちょっと、私が勉強できないみたいな言い方しないでよ」
アユルは父を裏拳でツッコミ、ふんと顔を逸らした。の母は、本当よね、アユルちゃんは女子力高いから、むしろの方が色々教えて欲しいくらいよ、と言って笑っている。自分の娘の女子力が低いなんて母親としてものすごい恥ずかしいことじゃないのか? 笑顔で言うようなことだろうかと思うが、黙っておく。
というか、父が亡くなって母が精神的に不安定だった時、高校に通いながら一切の家事をやったのはである。それに向かって女子力低いとは、まったく失礼な話だ。ネイルやファッションと言う意味の女子力なら、清田もいないところで発揮しても変なのを引き寄せるだけだ。だって興味がないわけじゃない。
彼氏の娘に好かれたいのはわかるが、そのために引っ張り出されてもね。
「ちゃんはお母さんによく似てますね、これじゃ男の子が放っておかないでしょう」
「そんなことないわよねえ、」
自分に似ている娘がモテないと言って何の得があるんだろう。というかどちらも相手の娘を褒め殺す戦法しか取れないのかと思うと、つい笑ってしまいそうになる。だが、アユルを引き立てるための餌にされるのはまっぴらである。にも譲れないものはある。
「はい、神奈川に遠恋してる彼氏がいるだけです」
「えーっ、なにそれ!」
「、……!」
「そ、そうでしたか。それは大変だ」
反応様々では少し面白くなってきた。アユルは食い付き、母は焦り、ヤギさんは狼狽えた。
「彼氏、かっこいいんですかー」
「どうでしょう、私は素敵な人だと思ってますが」
「えー! 写メとかないんですかー!」
「、見せてあげなさい」
「はあ?」
はつい声を上げてしまったが、テーブルの下で母親に蹴られたので、渋々携帯を取り出す。大事な想い人をこんな風に他人の目に晒したくないのに。携帯を操作して、清田と新九郎がユキと並んでいる画像を表示させていると、また蹴られた。あれにしなさいよ、雑誌の! とえらい剣幕で囁いてくる。
は今度こそ隠そうともせずに肩でため息を付き、携帯を操作する。一昨年、高校3年生のインターハイ、週刊バスケットボールに清田の写真が掲載された。掲載時は小さいサイズだったが、彼が豪快にダンクを決めているショットで、が大喜びしたので、清田がプリントしたものを記者から譲ってもらってくれたのだ。
本物は大事に額に入れ、直射日光が当たったりしないよう気をつけながら机に飾ってある。が、いつでも見られるように撮影しておいたものがある。母はそれを見せろという。自慢したいのか謙遜したいのかよくわからない。
「……これ?」
「そうそう、これこれ、少し前の写真なんだけどね」
母親に腕を掴まれたはがくりと前のめりになる。そうして差し出してしまった携帯を、アユルが奪い取った。いやいや、見せるとは言ったけど、何取り上げてんだ! それ以外も見せるなんて言ってないぞ!
「え、なにこれ? バスケ?」
「そうなのよ、インターハイの決勝だったかしら」
「決勝!?」
「……2回戦です」
は携帯の返却を求めるように手を差し出しているが、ヤギさんが狼狽えているだけで、アユルはモニタを凝視している。その2回戦だってちゃんと勝ったけれど、それを解説してやる気はない。
「てかこれじゃ顔わかんない。他にないんですかー」
「ちょっ、やめ……!」
「えっ、なにこれ!? やばい、超かっこいいー!!」
アユルが許可もなく携帯を操作したので、は母の手を振りきって手を伸ばし、携帯を取り返した。
「それ誰ですか、マジやばくないですか、元彼?」
「アユル、いい加減にしなさい」
「いやパパも見たでしょ、あんな美形見たことないんだけど!」
尊だ。
というか尊の写真など保存しておく趣味はない。ただ、清田のダンク写真の隣には、清田家の集合写真が入っていたのだ。が神奈川を引っ越す前に、全員の写真が欲しいと言って撮らせてもらったものだ。ナンパ避けに使ったのもこれ。の心にいくつも細かい傷が付く。大事な大事な、清田家の写真なのに。
「尊くんよね?」
「……彼氏の、お兄さんです」
テーブルの下でまた蹴られたので、は渋々答える。
「嘘お! え、ちょ、紹介して! アユル今彼氏いないんです」
「アユル、やめなさい」
「あらいいのよ、、尊くん連絡取れないの?」
「最近独立されたそうで……所在不明です」
尊は卒業後に家を出た。どこかの女のところに転がり込んでるらしいが、そんなこと言えるわけがない。はキリキリ痛む胃をさすりながら、なんとか笑顔を保っていた。ああ、帰りたい、神奈川に帰りたい、信長のいるところに帰りたい、あの海に帰って、自分を傷つける全てを洗い流してしまいたい――
その日の夜、は久々に母親と大喧嘩した。まあ仕方あるまい。どちらも不満だらけだ。
だが、にしても母にしても、譲るつもりのない大切なことであり、少なくともは母の好きにすればいいと思っているけれど、ヤギさんと付き合うようになってからの母はすぐに感情的になることが多くて、この日も興奮した彼女は、机の上にあった清田の写真を壁に向かって投げつけた。
はすっ飛んできた祖父に母を押し付けると、写真と海南のユニフォーム、ジャージ、そして清田と清田家からもらったプレゼントなどを全てトートバッグに詰め込んで家を飛び出た。行き先はもちろんショッピングモールである。はそこで新たに記録メディアを買い、携帯の中の画像データを全て移し、本体からは消去した。
にとってそれらのものは、神奈川に残してきた思いの宿る形代であり、いつかきっと帰るのだという夢の象徴であり、とにかく、この土地で頑張る彼女の、手に取って触れられる唯一の支えなのである。
画像がなくなってスカスカの携帯で、レンタルロッカールームを探す。運の良いことに、大学の最寄り駅の近くにレンタルボックスを入れているトランクルームを見つけた。コインロッカーの半分くらいの大きさで、月額1500円。はホッとして目が潤む。余計な出費は痛いが、これなら大切なものを守れる。
この日はショッピングモールのコインロッカーに預けたは、母が落ち着いた頃を見計らって帰宅、さらに失いたくないものを探し、まとめ、翌日にはロッカーのレンタル契約をしに行った。いつでもそばにいて触れたり見たり出来なくなるのはつらいが、やむを得ない。何かを守るとは、そういうことなのかもしれない。