エバー・アフター

12

なんとか大学に残ることができて、その間の生活の援助も受けられ、おまけに大好きな彼氏までいるという美須々だったが、彼女には精神的に不安定という傷が残った。治療を受けるほどではないにせよ、やはり赤木が近くにいないとよく眠れなかったり、その赤木とちょっと喧嘩でもしようものならがっくりと落ち込む。

ますますメンタルが強固になっていく周防とは正反対で、も出来るだけフォローに務めたが、結局のところ美須々は赤木さえそばにいれば大丈夫という状態になっている。

また、週末婚のような生活を続けていた美須々と赤木だが、ふたりがキス以上の関係になったのはそれから約1年後のことで、後でそれを知ったと公延は返す言葉が見つからなかった。当時の美須々の精神状態はそれほど揺らいでいたのだ。

だが、それ以上に何かトラブルめいたことはなく、宗像姉弟も赤木も、またも公延も、毎日をそれなりに頑張って過ごしていた。

その間、地道に毎日を頑張っていた美須々たちとは裏腹に、元凶たる宗像家は延々トラブルに見舞われ続けている。まず、やはり日本に残れと言われ、打つ手がなくなったお兄ちゃんは日本を出奔、現在行方不明。そうなって初めて美須々と結婚していないことが判明、美須々の居場所もわからなくなった宗像家は、気付けば周防までどこで寝起きしているのかわからないことに気づいた。

これには周防が適当に相手をしていたらしいのだが、とうとう父方の親族の世話になっていると嗅ぎつけられ、騒ぎになってしまうかと構えていた矢先、耄碌ジジイこと宗像家当主、美須々たちの祖父が倒れた。命に別状はなかったのだが、脳梗塞をやってしまい、口に麻痺が残って仕事が出来なくなってしまった。

だが、その祖父が一命を取り留めたことが災いして宗像家はまた揉め始める。祖父は自分の後継者に長男を指名、家中で嫡流的扱いを受けてきた長女夫婦はその座を突然引きずり降ろされた。理由は簡単、美須々と周防の件が面白くなかったからだ。入婿でもいずれ当主になれると思って頑張ってきた美須々たちの父は激怒、本人は弁護士なので、妻と宗像家を相手取り離婚訴訟を起こす始末。

そのため、ますます美須々と周防は疎まれ、この時点で二十歳を過ぎていた美須々はうんざりして戸籍を独立させてしまった。周防はまだ10代なので、頼むからさっさと赤木と結婚して養子にしてくれと駄々をこねていた。

その周防は高校最後のインターハイで秋月史上最高となるベスト8に入り、特待を打診されていた大学からは改めて是非にと請われ、また悩む羽目になった。学費はかからないのだとしても、生活費のあてがない。いくら図々しい周防でも、大学4年間まで戸田の家に世話になれないと思っていたからだ。

しかし、彼らも乗りかかった船であり、少なくとも美須々の方に関しては、卒業と同時に戸田の家を出ることになっていたので、贅沢はさせられないが、住むところと食べるものくらいならなんとかしてやると言ってくれた。これで周防も無事に進学の目処が立ったというわけだ。

その美須々の独立だが、就職を機に赤木とふたりで部屋を借りることになった。要するに同棲だ。

これをふたりが決めたあたりで、やっと晴子も兄と美須々の関係について教えてもらうことになった。晴子にそれを教える役目を仰せつかったのはもちろんだ。晴子は周りの心配を他所に、このことを大変喜んだ。あの堅物の兄がよくぞ、と感慨深げに目を潤ませたほどだった。

むしろ堅物の息子がいきなり同棲ということに驚いて拒否反応を示したのは赤木の両親だ。しかも相手は何やら家庭環境が複雑な様子。別れろとは言わないが、そこまでする必要があるのかと苦言を呈した。それに対して、赤木がつい美須々が精神的に不安定なのだと言ってしまったことから話は余計にこじれた。

晴子も、また最近では晴子を通じて付き合いのあるも、宗像家はともかく、美須々には何の問題もないのだと赤木の両親に繰り返し進言したが、中々聞き入れられなかった。こんな状態が続いたものだから、美須々はまた落ち込んでしまった。皮肉なもので、これが転機となって赤木は覚悟を決めた。

同棲を認められないという両親に対し、赤木は淡々と美須々には自分がいなければだめなのだと説明した。

「それは彼女が不安定でお前しか頼るところがないから、庇護欲をそそられているだけじゃないのか」
「同じ部屋に住まなきゃいけない理由にはならないでしょう」
「同棲でもなんでも、彼女の病気が治ってからにすれば――

この時晴子も、赤木家のリビングの空気が一瞬で凍りつくのを感じた。美須々は夜になると不安定になってしまうが、病気ではないし、苦しむ美須々に寄り添いたいという赤木に対しては、あまりに無神経な一言だった。

「美須々は病気じゃない。おかしな家に育ってしまったせいで、怯えてるだけだ。それも、晴子やが少しずつ世間に慣らしてくれてるし、本人もそのための努力は惜しまない真面目な人間だ。だいたい、頭がいいからと祖父さんに疎まれ、両親にもお前はいらないと言われたも同然で、それで平気なわけがないじゃないか」

だからそんな家と関わりを持つのはどうなんだと両親が食い下がるが、赤木は静かに首を振った。

「だから言ってるだろ。おかしいのは宗像家で美須々じゃないし、もう戸籍も独立させてる。血縁であることは変えようがないけど、宗像の家とは関係がないんだ。両親は離婚裁判やってるし、同じように放り出されてる弟がいるだけで、そのこととこの話は何も問題にならない」

そして、どう言ったら息子に伝わるのかと首を傾げる両親に対し、赤木は言い放った。

「美須々が不安定だからという理由だけじゃない。オレも美須々がいなきゃダメだから決めたんだ」

この時晴子は廊下で口元を押さえてぶわっと泣き出してしまったのだと言う。お兄ちゃんよく言った!

「それに、ここで美須々を手放してみろ。オレと一緒にいたいなんて言い出す女、二度と現れないぞ」

言われてみれば、こんな堅物の息子には浮いた話のひとつもなく、晴子はそれなりに交友関係があるようだが、これに関しては実の親ながら何も言い返せない。相手の女には不安があるが、孫も見たい。赤木父と赤木母はウッと言葉を詰まらせた。

「同棲って言葉に過剰反応するのはわかる。だけどこれはふたりで働きながら一緒に暮らして、お互い足りないところを補っていこうっていう共同生活が前提なんだよ。何も隙あらばイチャつきたいがために考えたことじゃない。オレも美須々も、みたいに要領よく生きられる人間じゃないんだ」

みたいに、と言われるとさらに言葉に詰まる。

「木暮とじゃあるまいし、今すぐ結婚するなんて言ってないだろ。試してみるのもだめなのか?」
「ちょっと待て結婚て、お前その美須々さんと将来考えてるのか?」
「だから言ってるんじゃないか。オレも美須々も他の人間じゃうまくやれないんだよ」

大学で知り合った庇護欲をそそられる彼女と同棲する気になって盛り上がっている――そういう認識だった両親は驚いた。晴子やが美須々をやたらと庇うのも、学生同士の付き合いである甘さから来るものだと思っていた。まさか本気でそこまで考えていたとは――

そうまで言うなら、と赤木父は割と厳しく条件を提示した上で、ふたりの同棲に納得してくれた。いわく、結婚するまでに絶対美須々を妊娠させないこと、命に関わること以外で金銭の援助は一切しない、宗像家とトラブルになっても加勢はしない、そして、時間ができたら美須々を連れてきて自分たちに引き合わせること。

最初はホッとしていた赤木だったが、妊娠や金銭や宗像家はともかく、連れて来いと言われて面食らった。3つの取り決めはなんてことはない、そんなことは自分たちでもちゃんと考えていたことだ。しかしこの家に連れて来るとなると話は別だ。赤木は焦った。焦って困って背に腹は変えられなくて――に泣きついた。

に指導してもらったからといってのように人の心を軽々と転がせるようにはならないが、晴子にも協力してもらって、今ふたりが置かれている状況や美須々に対して赤木の両親が抱いている懸念をひとつひとつ検証、対策を練った。何しろ赤木はに直接会って頭を下げてきたのだ。が発奮しないわけがない。

かくして緊張でガチガチになりながら、美須々は赤木家へ招かれて行った。これに先立ち、は3人に、赤木は絶対に親に逆らわないこと、美須々のフォローは晴子がすること、美須々は何があっても卑屈にならないこと、とアドバイスをした。ついでに、どうしても困ったら公ちゃんを召喚すること、と結んだ。

「何で木暮くんなのかしら」
「まあほら、身近なところで言ったら、最強のなごみ系だからじゃない?」
だとどうしても攻撃的になるし、あいつももう結婚を決めてるわけだからな」

最寄り駅まで迎え来た晴子と一緒に、赤木はによる指導で完璧な「感じのいいお嬢さん」に仕立てられている美須々を連れて家に向かった。も含め、臨戦態勢だった美須々たちだったが、意外にも赤木の両親は美須々に対して好印象を抱いたようだった。まあ、見た目に関しては良すぎるくらいなので、無理もない。

「いやまさかこんなきれいなお嬢さんだとは……
「しかも成績トップって、剛憲の何が良かったのかしら」
「聞こえてるぞ」

緊張で真っ青な顔をしている美須々を他所に、赤木親子は若干コントになってきた。リビングに通された美須々は、深々と頭を下げてから赤木の隣に腰を下ろした。怖くて気を失いそうだったが、前日にがこんこんと心得を説いてくれていたので、それを思って必死で堪えた。

「はじめまして、宗像美須々と、申します」
「はじめまして、剛憲の父です。そう固くならずに寛いで下さいね、どうも、あなたのことを誤解していました」
「誤解?」

つい声を上げた赤木だったが、赤木父も母も、それには構わずに美須々に語りかけた。

「息子のことはよくご存知だろうから言いますが、実は、私たちはあなたに息子が騙されているんじゃないかと思っていたんです。子供の頃からバスケットばかりで女の子を連れてきたことなど一度もない、そんな息子だから、もしかしたら不幸なふりをした悪い女に引っかかっちゃったんじゃないだろうかとね」

赤木父が湯のみを傾けたので、母が後を引き取った。

「もしそうなら、ここには来ないだろうと話していたの。それに、例え来たとしても、愛想よくぺらぺらと喋ってくるだろう、ってね。晴子も仲がいいと言うけど、それもあんまり信じてなかったの」

だが、やって来たのは緊張でガチガチになっている美須々で、晴子はそんな美須々にずっと寄り添っている。

「美須々さん、聞いてもいいかしら。この子でいいの?」
……はい」
「あなたみたいにきれいなお嬢さんなら、他にもたくさんお相手がいたんじゃない?」

赤木も晴子もこれは助けてやれない。美須々はの顔を思い出し、スッと息を吸い込むと背筋を伸ばした。

「既にご存知かもしれませんが、私は祖父の支配する一族の中で育ちました。なので、とても世間知らずで、未だに剛憲さんやさんに色んなことを教わっています。最初はどう人と付き合ったらいいのかもわからなくて、剛憲さんには失礼を働きました。だけど、そんな私を剛憲さんは受け止めてくださいました」

絶対に泣くなともにきつく言われていたが、美須々は涙目になってきた。

「家のことで私が困っていた時も、ずっと近くにいてくださいました。木暮くんやさんも一緒にいてくださいました。晴子さんも遊んでくださいました。この歳になるまで、私にはそんな経験がなくて、あまりに幸せだったんです。剛憲さんには、そうやって幸せをたくさんいただきました」

頑張って話している美須々だったが、晴子が我慢できずにぽろぽろと涙を零した。ただと一緒に楽しく女の子同士で遊んでいるだけだったのに、ベルちゃんにとっては、それら全てが生まれて初めての経験だった。

「とても、感謝しています。本来なら、それだけで、それ以上は望むべくもないのかもしれません。だけど、もし、お許し頂けたら、剛憲さんに頂いた幸せをお返しする機会を頂けたら、と――

ある程度は予め考えていた内容で、しかしそれを言い切った美須々もまたぽたりと涙を零した。それに気付いた赤木と晴子が同時に手を伸ばして美須々の手を取った。

「お父さんとお母さんには親の目で思うところもあると思うけど、私はベルちゃん大好きだよ」
「仲良くなったのは、オレよりや晴子の方が先だったからな」

なんだか3人揃って兄妹のような図だ。赤木の両親はやっとゆるりと微笑んだ。

「美須々さん、疑ってごめんなさいね」
「これでも君たちの倍は生きてるからね、あなたが嘘を言っていないことはわかりますよ」
「ご苦労なさったのね」

美須々はか細い声でありがとうございますと言って、また深々と頭を下げた。それを見た赤木母が晴子に囁く。

「ところで晴子、そのベルちゃんって――
「あだ名っていうのかな? ほら、『美女と野獣』の!」

それを聞くなり湯のみに口をつけていた赤木父母は派手に吹き出し、リビングは一転、大騒ぎになった。

「自分たちで言い出したんじゃないぞ!」
「び、美女と、やじゅ! 剛、お前、あっはっはっは」
「笑いすぎだ!!!」
「木暮さんはコグスワースって言われてたんだよー」

楽しそうな晴子のその言葉でとどめを刺されたふたりは腹を抱えて笑い出した。「美女と野獣」は晴子も子供の頃から大好きで、その内容はふたりもよく知っている。それならさしずめはポット夫人、晴子はティーカップのチップ、ルミエールは周防あたりというところだろうか。

こうして美須々と赤木は最後の壁を突破、卒業して就職したあかつきには、ふたりで暮らすことを許された。

すっかり誤解も解け、大爆笑のオチまでついたこの日、泊まっていけと言う両親を振りきって美須々と赤木は狭いアパートに帰ってきた。誤解が解けたのはいいが、いきなり長時間では美須々が参ってしまうし、そのせいでまた夜中に不安定になってしまうと困るので、ひとりでは帰せない。

慣れた赤木のアパートに帰ってきてようやく落ち着いた美須々は、ぺたりと座り込んで肩を落とし、ため息をついた。と晴子に手伝ってもらったとはいえ、久々に緊張の伴うことで、一気に気が抜けた。

「疲れただろ。大丈夫か」
「はい、疲れてるというほどではないので……ただちょっと緊張してしまって」
「悪かったな、わざわざあんなこと」
「いえそんな、その、ちゃんと出来なくてごめんなさい」

にきつく泣いたらダメだと言われていたにも関わらず、結局泣いてしまったことを悔いているらしい。

「ちゃんと出来なくたって、結果は問題ないんだからいいだろうが」
「そうなんですよね、どうにも私はこのくせが治りません」
「それも治さなくていいんだよ」

美須々はふにゃりと笑う。家から離れ、それまでの価値観が崩壊し、血の繋がった家族から顔を背けられたおかげで美須々には心の傷と共に自身を否定しがちになるというくせも残った。もそうだが、赤木もこうしてことあるごとに美須々を否定せずに受け入れるようにしている。

だけでなく、極度の緊張を強いられた日には甘いものを食べたり、美須々の好きな古いアニメを見たりして気持ちをほぐすなどのケアをしてきた。今日もおみやげだと言って晴子が何か持たせていた。だが、美須々はそれには手を付けずにぼんやりしていた。

「眠れそうか? 無理するなよ」
「平気です、なぜか――今日は怖くないんです」

狭い風呂でシャワーを浴びてきた美須々は、赤木の隣に座ると腕にするりと絡みついた。

「やっぱりダメだと言われてしまうと思っていたんです。だけど、その、受け入れて頂けたので」
「だから大丈夫だって言っただろ」
「はい、嬉しかったです」
「ゆっくり慣れていけばいいんだからな。――その、そのうち、お前の親にもなるんだし」

その言葉に美須々はまた座ったまま2センチほど飛び上がった。

「そういうことで、いいんだよな?」
「だけど、あの、私、剛さん――

週末は必ず一緒にいるというのに、いつまでも苗字で呼び合ってるのはどうなんだとに突っ込まれたふたりだが、赤木は案外すんなりと美須々と呼び始めた。名前で呼ぶのはもちろん、呼び捨てすら出来ないとして美須々が「剛さん」になったのは割と最近のことである。は自分で勧めておいてむず痒がっていた。

「まあダメならダメでいいんだ。それを確かめるためにも――
「ダメじゃありません! そうじゃなくて、私――
「また自虐か? 美須々、オレはお前がいいと思ってる。親に美須々と将来考えてんのか、って言われた時も、そうだって言ったし、そのつもりで一緒に暮らそうって考えてた」

いつか東京駅でしたように、赤木は美須々の頬に手を伸ばした。

「自分なんかとか、そういうのはともかく、お前はどうなんだよ」
「そんなの決まってるじゃないですか! 私は剛さんと一緒にいたいって、前からずっとそう思ってます」

そう言うと、美須々は膝で立ち上がって赤木に飛びついた。赤木も抱き返して背中を擦ってやる。

「だったら、何も問題ないよな」
「はい」
「ははは、今日はちゃんと寝られそうだな」
――いいえ」
「なんだ、やっぱり怖いか? まあ、まだそんな遅くないし、ゆっくり――

これもまあ、いつものことなので、赤木は美須々の背を擦りながら時計を見上げた。だが、思ったより時間が早いから何をして過ごすかと考えていた赤木は、直後、唇を塞がれて息を呑んだ。

「お、おい――
「ね、寝ないでいては、ダメですか」
「いやちょっと待て、何言ってんだ、無理するなそんなこと」
「無理じゃありません、無理なんかしてないです、普通のことなのに、私がこんな状態だったから」
「またそうやって自分を悪く言うんじゃない。オレは――

オレは別に、と言いかけて赤木は言葉を切った。美須々の為を思って、彼女にはキス以上のことは一切しないできた。遠回しにや公延もそれを心配していたけれど、赤木自身はそれでよかった。それが何であれ不慣れな美須々に急な変化を押し付けたくなかったし、忍耐なら得意とするところだからだ。

けれど「別に」なんて、美須々に対して言う言葉ではない。いつか、まだふたりが喧嘩をしている頃に、男いないのか? と無神経なことを言って傷つけたことがある。それと同じな気がした。別にお前なんかと愛し合えなくても平気だ――そんな風に言っているのと同じじゃないか、と。

平気じゃない。本当は平気じゃない。ただ苦しむ美須々に負担を掛けたくなかったから。

――いいのか」
「はい」

頬をピンクに染めている美須々を赤木は強く抱き締めて、そしてそのまま倒れこんだ。