エバー・アフター

04

桜木と流川が3年生というある意味では恐ろしい今年の湘北の県予選決勝リーグの頃になって、ようやく公延と赤木は一息ついていた。から美須々のことを又聞きしていた公延だったが、彼にとっても美須々は赤木と喧嘩していた女の子ではなく、彼女の友達という位置づけになってきていた。

だが、そんなある日、彼は学校の最寄り駅近くのファストフード店の前で足を止め、顎が外れそうなほど口を開けて直立不動のまま固まった。なんと、店内に赤木と美須々を揃って発見してしまったからである。

思わず隠れるなどという余裕もない公延は、ガラス越しに店内のふたりを凝視する。

とりあえず喧嘩はしていない。ふたり席に向かい合って座っていて、割と真剣な表情で何やら喋っては頷いている。しばらくすると、美須々がテーブルの上から本のようなものを取り上げ、赤木もまたテキストのような――

「あ」

大勢の人の行き交う往来で公延は思わず声を上げた。そういえば赤木は少し前に珍しく体調を崩して数日間静養していた。今や湘北で3人の後輩マネージャーを束ねる妹の晴子はカンカンになって、休むのも大事な練習のうちだと言って怒っていたとか。ポーッとしたふわとろ女子だった晴子もずいぶん変わった。

そんなわけで赤木は何もせずに体を休め、無事に体の方は元気になったのだが、課題を放置していたとかでこれも珍しく焦って追い込まれていた。つまり、美須々はそれを手伝うか何かしているに違いない。公延はそれに思い至るとやっと気持ちが落ち着き、今更ながらそっと身を引いてふたりの死角に入った。

赤木がわざわざ頼みに行ったなんてことはあるまい。しかし、美須々の変貌に驚いていた赤木はもういない。にこにこと談笑しているわけではないけれど、ごく普通にふたりは話をし、テキストを揃って覗き込み、書いたり調べたりしている。顔を合わせればギャンギャンと言い合いをしていたふたりも、もういないのだ。

満足気な笑顔の公延が忍び足で店の前を立ち去ってから20分ほどして、公延が推理した通り課題を手伝ってもらっていた赤木は、全て片付いたことに安堵して肩で大きく息を吐いた。こんな切羽詰まった状況は今までになく、そろそろ公延とに頭を下げるかと考えていたからだ。

だが、たまたまこのファストフード店で美須々に遭遇して声をかけられた。事情を話したら手伝ってくれるという。背に腹は代えられないし、美須々なら頼りになるのは間違いない。それに、彼女はもうカリカリ怒って言いがかりをつけてきたりはしないのだ。赤木の方も素直に頭を下げ、そして課題は片付いたのである。

「助かったよ。時間取らせてすまなかったな、何か食べるか?」
「平気です、ありがとう。私も急ぎの用があるわけじゃなかったので、気にしないでください」

それにしては、美須々はこんな騒がしいファストフード店にひとりで来るようなタイプにも見えなくて、赤木はほんの少し首を傾げた。それに気付いた美須々は傍らに口を広げていたバッグから便箋を取り出してはにかんだ。

ちゃんに手紙を書こうと思って入ったところだったんです」
「手紙? メールじゃダメなのか」
「メールとかももちろんさせてもらってます。それとは別に、最近本やCDの貸し借りをしてるんです」
「それにわざわざ手紙を?」
「あんまり簡単に会える距離でもないので、メール便でやりとりしてるんです」

美須々はまたバッグの中からメール便用の厚紙で出来た封筒を取り出した。

「最初、私は本をそのまま突っ込んで送っていたんです。だけど、ちゃんから届いた本はきれいな色のカバーにくるまってて、かわいい一筆箋が添えられていて、しかも小さいお菓子が一緒に入ってたんです。なんというか、その、カルチャーショックで」

言いながら美須々はちょっとどんよりしている。こんな表情も今までにはなかったものだ。赤木はその変化に気付きつつ、の用意周到さが逆に可愛げがないと考えていた。ワガママ放題の中学生時代を知る赤木からすれば、こういうの振る舞いはなんだかわざとらしく感じるのだ。

「アナソフィアはそういう細かいことも仕込まれるらしいからな」
「別にそれに倣う理由はないんですけど、経験がないことだから、やってみようと思って」
「それにしたってあいつらの外面の良さとか対人スキルはちょっと異常だよな」
「それにまんまとハマってるんだろうなっていう自覚は、あります」

それは意外だった。ひとつとはいえ年下のたちにいいように転がされているものだとばかり思っていた赤木は、ちょっと目を丸くした。美須々はまたはにかむ。

「だけど、それで困ることはないし、楽しいのでいいんです。それに、大学生になったら家族もあんまりあれこれ言ってこなくなったから、割と時間に余裕があるんです。ちゃんたちが遊んでくれるので、ありがたいんですよ」

時間に余裕のある美須々は首席をひた走っている。そもそも美須々の場合、一族は必ずこの大学でなければならぬという習慣のまま入学してきたのであって、もし彼女が本気を出したなら、もっとランクの高いところでも入れたはずだ。恐らく総合的な学力で言えばより優秀だろう。

……そういえば、弟はいいのか、もう」
「はい。今年もインターハイに行かれるそうですよ。ベストファイブに入ったとか言ってふんぞり返ってました」
「都下ベストファイブ!?」

今度は赤木が顎が外れそうなほど口を開けて目を剥いた。

「なんなんですか、それ。すごいことなんですか?」
「すごいも何も、東京でバスケットやってる全高校生のトップ5人のうちのひとりだってことだ」
「え!? そ、そんなレベルの話なんですか!?」

クラブ活動でちょいちょい試合をしているだけという感覚の姉と、高校からバスケットを始めて2年目でベストファイブということに眩暈がしそうな赤木は、揃ってテーブルに肘をついてため息をついた。今年はどうだかわからないが、あの桜木でさえ2年の時にもベストファイブには入らなかった。

赤木だって一応一昨年は神奈川のベストファイブに入っているのだが、それを得意げに話そうと思わないのが彼だ。だからに影でバカなのかと言われる。

「あの子、そんなに上手いんですか――
「秋月はインターハイどうだったかな、よく出てるのは知ってるんだが」
「あの、インターハイに行くとどうなるんですか」
「どうなる、って、正式名称が全国高等学校総合体育大会だから、つまり高校生日本一を決める大会ってことだ」

今度は美須々が眩暈を起こしそうな気分になってきた。

「例えばその、日本一になったら、どうなるんですか」
「そうは言ってもバスケットなら団体競技だからな。野球やサッカーと違ってプロリーグの認知度も低いし」

少し美須々の顔色が悪い。弟の活躍がやはり面白くないのだろうか。

「バスケットなら、どうなるんですか」
「まあ一番ありそうなことはバスケットの強い大学からスカウトが来るとか、そんなところだろう」

だけどそれは既に去年、弟本人が一族御用達の大学には行かないと宣言していただろうに。

「それじゃあ、つまり、弟は本人が天狗になってるのではなくて、本当にバスケット選手として――
「今のところはそういうことになるだろうな。インターハイは別としても、都下ベストファイブは充分すごいことだ」
「バスケットをやめる理由がないということ、なんですね」

騒がしいファストフード店の中で、赤木の耳から喧騒が少し遠ざかる。白っぽい顔をした美須々は赤木の肩越しに遠くを見るような目をしていて、それでいて、口喧嘩をしていた頃のような、金属のような冷たさが彼女の全身を覆っているように見えた。

せっかくにこにこと笑えるようになったというのに、なぜそんなに弟がバスケットに夢中になっているのが嫌だと言うんだろう――。赤木は改めて美須々の弟への複雑な思いに触れて、その冷たさに身震いがした。

「ちょっと公ちゃんどういうことよー」
「この間赤木寝込んでたろ。そのせいで課題がちょっと大変だったみたいで」

付き合っていることをカミングアウトしてからというもの、は公延の部屋に行くのに言い訳を考える必要がなくなり、暇さえあれば泊まりに来ている。緒方も進学を機にひとり暮らしを始めたので、そっちに行ったりもしている。そしてこの日、赤木と美須々がふたりでまた何やら顔を突き合わせてカフェにいるのを目撃した。

あれ以来、ふたりはたまにこうして課題を一緒にやっていたり、美須々が高校バスケットのことを赤木に教えてもらったりしているのだという。相変わらず美須々は敬語だし、彼女を赤木が送って帰ったりもしていないが、それでもこの組み合わせの変化に周囲の方が驚いた。

「まさに美女と野獣じゃないかってコソコソ言われてるよ」
「このところ、ベルちゃんの乙女化が進行してたのはこのせいもあったのかな」
「乙女化?」

覗き見をするつもりのないふたりはカフェの前から離れ、公延の部屋に向かっている。

「メール便で本とか貸し借りしてるんだけど、最近その中に入ってる手紙が可愛くなってきて」
「手紙が可愛い?」
「前は本が入ってるだけだったのが、きれいな便箋がつくようになって、字が少しやわらかくなってきて、最後に添えられてた名前が漢字フルネームから平仮名になって、この間とうとうハートマークがついた」

本当はそれはの影響なのだが、何も知らない本人は美須々自らの変化と受け取っている。

「ねえ公ちゃん、私いいこと思いついたんだけど」
「それ絶対いいことじゃないだろ」
「公ちゃんもその顔やめなよね。何もふたりを無理矢理くっつけようとかそんなことじゃないんだから」

だが、計画を聞いた公延はやはりがっくり肩を落とした。夏休みに4人で海に行こうと言うのだ。

「そんなにダメ?」
「ていうか海って地元のだろ」
「いやまあそうだけど」
「知り合いに会っちゃう可能性だってあるだろ」
「なんかマズいの?」

いや、マズくない。相手によりけりだが、恥ずかしいだけだ。

「公ちゃんたちが会って恥ずかしい人なんてみんなバスケバカじゃない。海なんて来ないでしょ」
「そうかもしれないけど、だいたい赤木がうんて言うわけないだろ」
「でも今年は晴子ちゃんに帰れって怒られてるからね」

体調不良の一件以来、晴子は兄に殊更厳しくなっていて、去年はお盆休みと年末年始しか帰ってこなかった兄を3日と開けずに電話で脅しているらしい。晴子の方も湘北のバスケット部の都合があるので、どちらにせよお盆休み頃にはなるのだが。

「お盆の頃なんて死ぬほど混んでるから少しずらせばいいでしょ」
「まあそうなんだけど」
「公ちゃんたちはバスケのこと以外になるとどうしてそう消極的なのよ」

乗り気でない公延に構わず、は夏休みに入ると美須々を連れて水着を買いに行き、赤木の帰省予定を狙って予定を組んでしまった。美須々はまた家に宿泊予定だとかで、本人はそれが待ちきれない様子だったらしい。しかもそれに先駆けてたちの地元の祭の花火大会にも行くらしく、美須々は目が輝いていた。

そうして8月の下旬、お盆休みを避けてがセッティングした当日、の予定通り赤木、美須々、公延、がちゃんと揃った。のみならず、赤木を引きずり出す都合上、晴子も来てくれるというおまけまでついて幹事は上機嫌だ。

まさかあの兄とちょっと噂になっているなどとは知りもしない妹・晴子は、ベルちゃんにもすぐ懐き、美須々の方も晴子が可愛くて優しいのですぐに馴染んだ。

さて、5人がやってきた海岸であるが、海の家が立ち並ぶような海水浴場ではなくて、いわゆる地元民が多く集まる浜辺であった。その分空いてはいるが、シャワーや更衣室などは当然なく、アウトドア用のテントや携帯更衣室を持参する必要がある。早速、晴子と手早く着替えたのだが――

まだ終わらないのか――ってどうしたんだ」
「あっ、公ちゃん。ベルちゃんが引きこもった」
「はあ!?」

ここに来て恥ずかしさがピークに到達してしまい、縦長の簡易テント中に入ったままの美須々が籠城を始めた。が、と晴子が粘り強く口説いて、最後には無理矢理引きずり出して、小学校のプールの授業以来という水着姿の美須々が転がり出てきた。

「ふわあ、ベルちゃん可愛い!」
「は、晴子ちゃんやめて……!」
「やっぱりこれにしてよかったじゃん超可愛い!」

ビキニやセパレートなんて言語道断と美須々が言い張るので、長めのタンキニ。ピンクやイエローのような明るい色も無理だと固辞するので、はバスト部分が白地に黒ボーダーで、ボトムが黒一色になってるものを選んだ。の読み通り、逆にセクシーなお姉さん状態になった。

とはいえ、は公延の手前、晴子も兄の手前、あまり過激なものは着られない。晴子もわざわざ兄に怒られないようなものを新調してきたというし、結果として3人共水着自体は割と地味になってしまった。

「どーよ公ちゃん、目が潰れるでしょ」
「ははは、そーだね、サングラス持ってくればよかったね」
「メガネの上からかけんのか。心こもってなーい、やり直し!」

美須々がすぐにタオルに包まってしまったので、は公延を餌にふざけつつ、晴子とふたり、美須々を波打ち際まで引っ張って行った。一応後から公延に追い立てられて赤木もやってくる。というか赤木は晴子にミラーグラスをかけさせられていて、怖い。

「というか、公ちゃんたち泳ぎはどうなの」
「あっ、お兄ちゃんは体脂肪少ないから沈む!」
「うそお、赤木くん泳げないの!?」
「余計なこと言うんじゃねえ!! 浮かないだけだ!!!」

ボックスヘアー風の2メートル弱がミラーグラスなので、怖い通り越して面白くなってきた。と晴子は協力して赤木を波に沈め、逆襲できない赤木が公延を投げ飛ばし、とんだとばっちりの公延は手を差し出したを引きずり込み、そんな様子を美須々はやっと笑顔になって見ていた。

しばらくして、ひとしきり海で遊んだ5人は疲れて浜に戻ってきた。今日は午前中海で遊んだら家で昼の予定である。の母はそれならと公延の母親を誘って鎌倉でランチしてくるとうきうきしていた。まだ昼までは時間があるので、女子3人は自販まで飲み物を買いに出る。

「こんな風に海で遊ぶの、久しぶりだあー! なんかすごい楽しかった」
「晴子ちゃんも夏はずっと忙しかったもんね、お疲れ様」

水着にラッシュパーカーをひっかけた3人ははしゃぎながら海岸沿いの通りにある自販までやってきた。そこであれこれと買っていると、同じように浜から来た風の水着姿の男がひとり、の脇に立ちはだかった。急に影が差したので、はひょいと顔を上げたが、影の主を確かめる間もなく、がばりと抱きつかれた。

さあーーん!!!」
「ちょっ、誰よ!!!」
「あー! 清田くん!」

清田だった。晴子が上げた声には覚醒、遠慮なく抱きついてきた主を蹴り、腕から逃れると今度は爪先立って頭をぴしゃりとひっぱたいた。清田の方も慣れたもので、痛えと言いつつ、にこにこしている。だが、それではおさまらなかった。美須々である。

「ちょっとあなた! お友達のようだけど、それならちゃんには木暮くんという方がいるのを知っているでしょう! それを一方的に抱きつくだなんて、一体どういう神経してるの! 謝罪しなさい!!!」

これも久しぶりだ。赤木と喧嘩しなくなって以来、美須々はずっと穏やかだった。

「ヒッ、ちょ、さん誰この人」
「あー、公ちゃんたちと同じ学校の子で、まあ友達」
「ちょっと、聞いてるの!? その手を離しなさい!」

何しろこの日7センチのヒールを履いた美須々はほぼ180センチ、その上CGレベルの顔である。怖い。

「ベルちゃん、知り合いだから大丈夫だよ」
「晴子ちゃん、知り合いだからって許されていいことじゃないわ」

萎縮する清田を美須々が睨んでいると、今度はが悲鳴を上げた。

「清田お前何やって――
「いやああ、牧さん!!!」

清田の声を聞きつけたか、片手にサーフボードを抱えた牧が出てきた。は清田を突き飛ばすと牧に駆け寄って、ぴょんぴょん跳ねながらハグしている。これには美須々も絶句、気まずい晴子は一応どこの誰なのかを説明していた。

「ベルちゃん、勘違いしないでね、この人はね、公ちゃん周辺の人たちの中で唯一尊敬してる先輩なの」
「お、大袈裟だな……
「というか、ふたりで海ですか?」
「まさか。オレは帰省中。それを嗅ぎつけてきたのがこいつ」

ペットボトルを清田に持たせたは、まだぶすっとしている美須々を宥めつつ、公延と赤木の待つ浜まで戻った。シートの上でだらだらしていたふたりは、人数が増えているのを目にして飛び上がった。

「どこで拾ってきたんだそれ!」
「オレらはモノですか。だから木暮さんは黒いって言われるんすよー」
「よう、久しぶりだな」

美須々以外は全員顔見知りなので、彼女はひとり輪を外れて腕を組み、難しい顔をしていた。はそれを見つけて近寄ると、向き合わずに横に並び、声を潜めた。

「牧さんはね、私が子供の頃からちょっと困ってたことをね、具体的に理解してくれた人なの」
「だからって……
「誰にでもしてるわけじゃないよ、日本人なんだし。だけど、1年ぶりだったから」

は、自身の特殊な環境についての理解と具体的なアドバイスをくれた牧を純粋に尊敬している。それは公延も知っているし、ハグにしても、美須々が考えているほど気にしていないはずだ。それに、は美須々がなんと思おうと、これは彼女に擦り寄ってやるようなことではないと考える。価値観の問題だ。

「あっちの、信長っていうんだけど、あれもまあ可愛い後輩みたいなもので」
「私がお堅いの? だいたい、水着なのよ? それを――
「ベルちゃん、同じことしなきゃいけないわけじゃないよ。私は私、ベルちゃんはベルちゃん」

言いながらは、今日は公延ほども背のある美須々にするりと抱きついた。体は緒方のようにほっそりしているが、緒方と違って美須々は胸が大きい。は遠慮なく体を押し付け、その胸が潰れるほど抱き締めた。

ちゃ――
「そりゃ、私が好きなのは公ちゃんだけだよ。だけどそれとは違う種類でベルちゃんが好きだから、ぎゅーってしたいわけ。牧さんもそれと同じだよ。こうして女の子同士なら誰もおかしいって言わないってだけ」

公延や赤木たちがわいわいと喋っている、そのすぐそばで、に抱き締められた美須々は真っ赤な顔をして、そして泣き出しそうな顔で唇を噛み締めていた。