エバー・アフター

08

公延の観察によると、バレンタイン以来、美須々に対して赤木の態度がとても優しくなったという。美須々が話を聞いて下さいと頼めばマフラーをつけてくるし、それで時間が遅くなってしまったりすればちゃんと送って帰っているらしい。それをに報告した公延は、遠くから見守ってやろうぜと念を押した。

それでも進展らしい進展などはないのだが、顔を合わせれば言い合いに発展していた一昨年に比べれば、ふたりの距離はずいぶんと近くなった。美須々はギスギスした態度がすっかりなくなり、赤木も美須々にはまるでもうひとりの妹のように大事に接している。

そういう赤木の態度が哀れみからくる感情であったとしても、美須々自身はそれでいいと言う。そんなことでも嬉しいから、構わないという。公延がモテないように妨害工作までしていたにはあまり理解できない感情だったが、美須々が幸せそうに微笑むので、公延に言われた通り、余計なことは言わなかった。

3月になり、晴子たちが卒業するとの元にはホワイトデーのお返しが続々と届き、何もいらないと言い張っていた美須々も結局、のアドバイスで赤木が用意したプレゼントを貰ってしまって、また半泣きになっていた。しかも、ブランドは違うが、美須々が送ったのと同じマフラーだった。

春休みの間には4人で花見に行ったり、春から地元の短大に入る晴子が美須々の部屋に泊まりに来て女子だけで遊びに行ったり、美須々と赤木の仲に変化がないことを除けば、彼らの毎日は平穏で楽しいことばかりだった。

それが一気に崩壊したのは、赤木たちがトーナメント戦で頑張っている5月のことだった。

「は? ベルちゃん、何言ってんの」
「ごめんなさい、だけど、もう私ひとりではどうにもならないから」

すっかり荷造りが終わってしまった美須々のアパートで、は青い顔をして詰め寄った。美須々は実家に戻るという。だけでなく、許嫁の家に入ることが決まったのだという。は突然呼び出されてそんなことを聞かされたので、血の気が引いた。しかもやたらとにやにやしている周防が来ている。

「ほら、前にも話したでしょ、海外にいた父の友人。その人の子供で、小さい頃はよく遊んだの」
「美須々より2つくらい上だったかな。背の高いイケメンだよ」
「そんなことどうだっていいでしょ、どうして結婚もしてないのに向こうの家に入るのよ」
「何言ってんのちゃん、卒業したらすぐ結婚するから入るんだよ」
「はあ!?」

美須々は気まずそうな顔をして俯いている。髪型はいつかのかっちりとしたハーフアップに逆戻り、服装も白と黒とグレーだけで構成されていて、なんだか目もどんよりしている。はへらへらと笑っている周防を睨み、両手で頬を擦った。

「それ、どう考えてもベルちゃんの意志じゃないでしょう。どうして従わないといけないの」
「そーいう家だからだよー」
「あんたはなんなのよ! 自分だけ好き放題生きてて、ベルちゃんがこんなに追い詰められてるっていうのに!」
「だから何よ、それが嫌なら美須々も反抗すればいいだけの話だ」

周防は事も無げに言って、の隣にするりと近寄る。

「その彼ね、こっちで少し仕事したらまた向こうに置いてきた会社を任されることになってるんだよ。だけどね、こういうのにありがちなパターンみたいにね、嫌なやつじゃないんだよ。そらもー美須々のこと大事にしててさ、美須々が嫁になってくれるなんて夢みたいだっつって、いきなりハリーウィンストンだからねえ」

何がそんなに面白いのか満面の笑みの周防の頬をはバチンと叩く。それでも周防は嬉しそうだ。

「その彼と結婚することだけがベルちゃんの幸せだって言いたいの」
「そんなこと言ってないよ。お相手はとても良い方ですって説明しただけ」
「それは、本当なのよ。お兄ちゃん――そう呼んでたんだけど、なんというか、人格者で」

周防はともかく、美須々が嘘を言っている様子はない。許嫁のお兄ちゃんは本当に良い方なんだろう。だが、それとこれとは話が別だ。は周防を押しのけると、美須々の手を取って強く握りしめた。

「ベルちゃん、私それでベルちゃんが幸せになれると思わないよ。私ベルちゃんが苦しむの嫌だよ」
ちゃん、私、周防みたいにできないから」
「だけど、ベルちゃん、赤――

美須々は素早く首を振った。そして目だけでちらりと周防を見ると、また首を振る。

「関係ないわ。木暮くんと赤木くんにはとてもお世話になったけど、それだけだから」

ここ1年ばかりの柔らかな美須々の声ではなかった。厳しく固く、冷たい声だった。は周防には赤木のことを知られてはならないのだと気付いて、黙った。一応付き合っているわけではないし、本人の言うように木暮込みで友人という括りで構わない。けれど、しかし――

「私も、親の言いなりなんてバカバカしいとかそんな時代錯誤なこと言いたいわけじゃない、だけど、これじゃあまりにベルちゃんのひとりの人間としての尊厳を踏みにじってるじゃない。ベルちゃんが望んだことなら私も何も言わないよ、だけど、こんなこと望んでないでしょ。思ったこともないでしょ?」

美須々は目に薄っすらと涙をためていた。唇を噛み、小刻みに首を振っている。周防がいるから言えないのだ。

「親はまだそんなでもないのよ、これは祖父の言いつけだから」
「あの耄碌ジジイ、孫をなんだと思ってるのよ」
「そりゃあ宗像家始まって以来の頭脳を持つ可愛くない孫だよ」
「は、え!? なによそれ!」

目が吊上がっているの肩を抱いた周防は、にんまりと笑って囁いた。

「わかるでしょ。美須々は宗像家の中でも飛び抜けて頭がいいの。それが面白くないんだよね、じいさんは」
「いやいや、それはおかしいでしょ。自慢できるでしょ、またひとり優秀な人材が一族に――
「自分より優秀な人材が欲しいなんて誰も言ってないんだよ、ちゃん。そういうのは、疎ましいの」

調子に乗った周防が手を握ってくるので、はまた平手をかまし、ついでに蹴る。

「だからさっさと嫁に出そうっていうの」
「そうだよ。嫁に行かせればもう宗像の人間じゃないんだし、オレもだめだし、長女の子供は全滅でいいの」
「あんたんち、頭おかしいんじゃないの――
「あんたんち、って美須々の家だよ。大丈夫、オレらの従兄弟がちゃんと跡継ぎに育ってるから」

宗像家当主の長女である美須々の母、その弟にも子供がいて、男ふたりに女ひとり、一昨年までの美須々と全く同じ状態に育っているらしい。しかも、頭脳的には宗像家平均値の範囲を出ない完璧な子供。姉がいるとは言え、そもそもこちらが長男一家、祖父はこれで丸く収まったことにしたいらしい。

ちゃん、美須々をそそのかして離反させようとしても無理だよ」
「はあ? あんた何言って――
「オレもそうだけどさ、ひとりで飛び出したところで、どうやって生きていくのさ。バイトすらしたことないのに」

は周防の言葉にぐっと喉を鳴らした。今でこその指導で日々の生活に必要なことはこなせるようになってきたけれど、それを支えている生活費は宗像の家が出しているのだ。このとんでもない展開から美須々を助けたいけれど、まだ美須々も3年生、学費も生活費も必要だし、それをいきなりひとりで稼ぐのは無理だ。

「美須々が大学辞めてパチ屋の寮とかに入って働くってんなら、まあ不可能でもないかもしれないけど」
「そ、そんなの――
「無理でしょ、美須々の頭もったいないでしょ。だけど私大の学費だって安かないからねえ」

美須々は学生という身分を人質に取られているのだ。それに余りある能力を備えた人間なのだから、活かさねばならない。そのために必要な金を出しているのは親であり宗像の家である。その関係がある限り、やはり美須々は祖父の意向に逆らえないというわけだ。

「だから、なんでベルちゃんはそんなことになってて、あんたは好きな大学行かれるのよ」
「えっ、オレそんなこと言ったっけ?」
「だってバスケ強い所行きたいんでしょう、どこだっけ、ほら藤真先輩のいる――
ちゃん藤真健司も知り合いなの!? ほんとに何者だよ」
「そっちはどうでもいいの! 話を逸らさないでよ!」
「別にオレ、好きな大学行っていいなんて言われてないけど。でも美須々と同じ所には行きたくないし」

周防はのようなきれいな作り笑顔だ。

「さてじゃあどうしようかと思ってたら、あるところから特待の話をもらえそうでさ」
「宗像の家にいて特待なんて受けられるの?」
「反対されててバスケなんて出来そうにないんです〜って泣きついたら掛けあってくれるって言うんだもん」

は片手で顔を覆って項垂れた。人のことは言えないが、この要領のよさが実に腹立たしい。

ちゃん、オレは宗像の家の都合で生きていくのは嫌なわけ。そのためには色々犠牲にするものもあるし、よく考えてうまく立ち回らなきゃいけないこともいっぱいあるわけ。オレはそれを子供の頃からずっと模索して、今、毎日実行に移してる。だけど美須々はそれをしなかった。怠った。だからこんなことになってるんだよ」

周防があんまりにも自信満々でそう言うので、ついカッとなったは横っ面を思い切りひっぱたいた。それでも周防はきれいな笑顔を崩さなかった。兄弟姉妹のいないにはよくわからないけれど、家族ってこんなに冷酷なものだっただろうか。そう思うと悔しくてならなかった。

「姉のピンチを助けろって思ってるんでしょ。オレはオレの人生を邪魔されないようにするので精一杯なんだよ、ちゃん。ちゃんもさ、相当ハイスペックだろうけど、やっぱうちのじいさんも伊達に年食ってないよね。デレたように見えるけどちゃんのことはずっと警戒してた」

そう言うと、周防は初めて厳しい顔つきになった。膝を立ててに張られた頬を撫でている。

「都予選で忙しいっていうのに、何でオレがここにいると思う? ちゃんが来てもいいように、耄碌ジジイに送り込まれてるんだよ。美須々を連れ出せないようにね。だけどそれも今日で終わり。だから美須々はちゃんを呼ぶことができたってわけだよ」

周防は携帯の画面をちらちらと見ながら、またきれいな笑顔に戻る。

「さーて、もうすぐお兄ちゃんたちが来るよ。とりあえず宗像の家に戻って、それからまた引っ越しだからね」

何も言い返せないは、思わず美須々に手を伸ばしてすがりついた。美須々も手を取り返して、に寄り添う。ふたりとも青い顔をして、少し震えていた。それを見ていた周防は携帯を放り出し、壁に寄りかかって大きく息を吐いた。彼もまだ宗像の家の中でもがいている状態なのだろう。

ちゃん、もう諦めな。オレたちにできることなんか、なにひとつないよ」

美須々のアパートから公延の部屋へ向かっているは、まだ真っ青な顔をしていて、駅のホームで隣り合わせた老婦人に具合が悪いのかと気遣われた程にひどい顔色をしていた。

周防の言葉に言い返せず、美須々と震えながら寄り添っていただったが、しばらくすると許嫁のお兄ちゃんが本当にやって来た。美須々姉弟の言うように、なんだか文句のつけようのない男性だった。顔よし愛想よし背も高く、公延のはるか上を行く警戒解除スマイルを持ち、にも気さくに声をかけてきた。

美須々は友達が少ないと聞かされていたから心配していたけれど、あなたのようなご友人がいて自分のことのように嬉しい、いずれ父が海外に残した会社を任されるから、その時は遊びに来て下さいとぺこぺこ頭を下げた。

覇気のない美須々に対しても、ずっと目をかけ声をかけ、気遣いっぱなし。はもう何も口出しを出来なくて、引越作業がてきぱきと片付いていくのをぼんやりと見ているしか出来なかった。

これから学校に戻るという周防は、にぴたりと寄り添うと、顔を近付けて囁いた。

ちゃん、オレが大学入ったら、また会おうね。今度は、ふたりで」

そんなことを言われてショックだったは何も言い返せず、呆然と周防の後ろ姿を見送った。

その上、美須々ともあまりちゃんと話せないまま別れることになってしまった。お兄ちゃんがすぐそばにいるので、ありきたりなことしか言えないは、とうとう最後に美須々を引き寄せて強く抱き締め、朗らかに微笑んでいるお兄ちゃんに聞こえないよう精一杯声を潜めて、囁いた。

「私、諦めないから」

赤木のことだけじゃない。美須々の、宗像美須々としての一生の問題なのだ。それをこんな理不尽な状況で、ただ見てるだけしか出来ないのが悔しかった。優しくて美須々のことを大事にしているお兄ちゃんですら、憎らしかった。そんなの声に、美須々も小さく囁いた。

……助けて」

その美須々の声が、公延のアパートへ向かうの耳にこびりついて離れない。怯えたか細い声だった。大声で怒鳴ってしまいそうなのを堪えて声を潜めていたとは違い、もうそんな風にしか言えないような、そんな弱々しい声だった。

は公延に赤木も連れて帰ってくるよう連絡を入れ、ひとり公延のアパートで待った。

「そんな話、まだ、あるんだな」
「そんなのんびりしたこと言ってる場合?」
……、気持ちはわかるけど、周防くんの言う通りだよ」
「公ちゃん?」

の用意した食事を平らげた赤木は腕組みをしてむっつりと黙っている。公延はそれを確かめると、の隣に移動して、しっかりと手を取り、眉を下げた。

「学生って、そういうものなんだよ。の家が少し特殊なんだって、わかってるだろ」

は有能だが、将来の夢はお嫁さんである。しかも、卒業から遠からずそうなることはほぼ決まっている。そんなだから、本来なら大金をかけて進学する必要などない。だが、家は伝統的に学業に金を惜しまない家柄で、例えば就職に結びつかなくても幅広い学問を修めるのは良いことだという習慣がある。

「生活のことにしたってそう。私大行きながらひとり暮らしなんて、手軽なバイトじゃもちろん無理だろ。宗像なら尚更だ。うちにも水商売しながら必死で学費払ってる子がいるけど、そんなの到底無理だろ」

しかしは何も大学にこだわる必要はないんじゃないのかと思っている。

「だってそうでしょ、そんな、好きでもない人のところに強制的に嫁に行かされてまで大学って出なきゃいけないの。そんなことまでして卒業して偉そうな職業について、それがいいって、それが勝ちだみたいな世の中だけど、そんなのベルちゃんが望んだことじゃないんだよ。ベルちゃん、最後に、助けて、って言ったんだよ」

言いながらは目を真っ赤にして泣き出した。

「なんとかベルちゃんを助けたい、その方法はないかなって、そういう話をしようと思ったのに、どうして最初から諦めてるのよ。自分にまで厄介事が振りかかるかもしれないから、どうでもいいっていうの? 周防みたいに、自分の生き方だけ無事なら後はどうでもいいっていうの?」

もバカではないので、具体的な解決策はないものかという相談をしたかった。だが、公延も赤木も、話を聞くなり黙りこんでしまい、何か策を練ろうという気はないようだ。

……そうだよ」
「公ちゃん!?」
「宗像は可哀想だけど、やっぱり周防くんが正しい。どうしても嫌なら本人が行動しないとだめだ」
「だってもうひとりじゃ――
「宗像の婚約を破棄させて学生でいさせろというのはが望んでることだろ。宗像本人はどうしたいんだろうな。なぜお祖父さんの指示に従ってるんだろう。周防くんの言うように、どうしても嫌なら逆らうとか、するだろう」

美須々とは話らしい話が出来なかった。だから、確かめる術はない。メールなどでも散々問いかけてみたが、監視されているのかもしれない、当り障りのない返信しか返って来なかった。

「そのお兄ちゃんと結婚したくない、だけど大学生やるお金は出して下さい、金を握ってるのが宗像の家である以上、それは通らないよ。どっちを取るかだ。それを決めるのは宗像で、じゃない。助けてって宗像は言ったかもしれないけど、それはどっちの意味でだ? それすらわからないのに、どうしようもないだろ」

は頭に血が上るのを感じて公延に握られている手をギュウッと締めあげた。そうじゃない、その理屈はわかってる。それじゃなくて、赤木が好きなのに他の男のもとに行かされるということがどれだけつらいか――。だが、美須々の許可もないのに赤木本人に向かってブチ撒けるわけにも行かない。

「助けてやりたい気持ちはわかる。オレだって自分が腐るほど金持ちなら、宗像さらって来いって言えるよ。だけど、もうオレたちの手に負える話じゃなくなってるんだ。、落ち着け、友達がしてやれることなんて、たかが知れてる。ドラマや映画みたいには行かないんだよ」

公延はに手を締めあげられながら、もう一方の手で左手の薬指にある指輪を撫でた。公延もわかっているのだ。だが、美須々と赤木の関係は友達以上には進展しなかった。それも美須々の意志だ。この場で急に美須々がお前のことが好きだから何とかしろと赤木に言うのは理不尽だ。宗像家と同じになってしまう。

が落ち着いたところで、ほぼ無言で通した赤木は公延の部屋を出た。後を追って送りに出た公延は、難しい顔をしている赤木の背中にぼそりと呟いた。

「オレ、何か間違ってたか?」
……いや、何も。弟とお前が正しいよ」

半分だけ公延の方を向いて、赤木も静かに言った。一部を除く湘北の後輩たちがずっとビビりまくってきた厳しい顔だった。その横顔に公延は言う。

「なあ赤木、オレ、が好きだよ」
「は?」
「好きだし愛してるし、ずっと一緒にいたいと思ってる。そういうのも、大切なことだよ」

公延は言い終わるとさっさと部屋に戻っていってしまった。急にそんなことを言い出した公延に唖然としていた赤木だが、公延の姿がドアの向こうに消えると、ため息をひとつついて音もなく歩き出した。