エバー・アフター

07

「そういえば、まだ弟は平気な顔して来てるのか?」

たちと裏で取り決めがあったなど何も知らない赤木は、美須々を手伝って片付けをしている。しかも、アパートのキッチンでちょこまか動いているふたりは平均よりずいぶん身長が高いときているので、余計に狭く感じる。体が触れそうになるたびに冷や汗をかく思いの美須々は、上ずった声を上げないように咳払いをした。

「はい。ちゃんに会いたいみたいで。木暮くんのことも言ってあるんですが……
「木暮がいたらいたで山王の話を聞かせろとか言いそうだな」
「聞きたいと言ってました。ちゃんにバッティングしてしまった時も、あれこれ聞いてましたし」
「あいつはオレたちの試合なんか見たことないんだがな」

が初めて湘北の試合を見たのは赤木たちが卒業してからの話だ。仲のいい宮城や可愛がっている桜木たちの活躍を見て号泣、のちに大暴れしていた。

「しかし、もう3年だろう」
「副主将だそうです」

ゴミ袋の口を閉めていた赤木は激しく咳き込んだ。東京の名門秋月で高校から始めて2年、それが副主将とは。だが、の話を聞いた限りでは人望があるようだから、能力だけの選出ではないのかもしれない。は嫌がるが、いい選手なのではないかと赤木も想像している。

元々几帳面なふたりなので、後片付けは合理的に効率よくあっという間に終わってしまった。いよいよ美須々は後がなくなってきて、喉がカラカラになっている。赤木がゴミを出しに行っている間に水道水をがぶ飲みし、バッグの中のチョコレートを確かめると、今度は鏡を引っ張りだして身繕いをする。

髪を直していた美須々は、ふと鏡の中の自分を目にして手を止めた。ずっと黒髪ストレートで、平時はハーフアップ、夏はまとめ髪にしていたけれど、実家を出て以来、に教わりながら、それ以外の髪型もするようになった。ほんの少しだけれど化粧もしている。そんな自分がたまらなく愛しく感じた。

今までの努力は全て自分のためと思っていたけれど、自分自身の声になんか耳を傾けたことはなかった。

今のところ後悔はないし、法律を学ぶのは自分に合っていると思うし、こんな状態ではあっても宗像の家は嫌いではなかった。けれど、とデパ地下で買ったケーキがおいしかったり、見た目で化粧品が欲しくなったり、ちょっと肌を出す服を着てみたいなと思ったり――それも大事な自分自身だった。

美須々は20年生きてきて初めて、自分が女だったことに気付いた。それも、割と普通の。

最初は少し気持ち悪かった。尊敬してるとは言え、水着姿で牧に抱きついていたをいやらしいと思ったのと同じように、おしゃれをしたい自分や可愛らしい物が欲しい自分が気持ち悪かった。また、赤木へのぼんやりとした思慕に気付き始めてからは、それも気持ち悪く感じた。

それなのに、と公延が並んでいるのを見るのは好きだった。はずけずけとものを言うし、公延はあまり真剣に相手をしていないことも多いけれど、どこか憧れのようなものを感じて、それに気付いてからは、気持ち悪さは薄れていった。ああいうの、いいなあと思った。

だからといって自分がすぐさまたちのような関係を手に入れられるとは思っていない。何しろ向こうは約20年かけて築き上げた関係である。手に入れたいというよりは、そんな世界を垣間見て、できれば少し手で触れてみたい――というくらいではあった。

赤木が戻ってきたので鏡をしまい、小さな折りたたみの座卓に向かって正座をして背筋を伸ばす。

「宗像、お前時間――と思ったけどまだそんなに遅くないのか」
「あ、赤木くん!!」
「な、なんだよ。コーヒー飲むか?」
「えっ!? いえ、いら――は、はい、頂きます」

とりあえず勇気がくじけないうちにチョコレートを渡したかったので、コーヒーを遠慮しようとしていた美須々は、しかし赤木が自分が飲みたいから聞いているんだということに気付くと、慌てて頂きますと言い直した。インスタントコーヒーか何かかと思っていた美須々だが、予想に反して赤木はドリップコーヒーを入れ始めた。

キッチンで腕組みをしてコーヒーを入れている赤木は無言で、美須々はどんどん苦しくなってくる。心臓が爆発するんじゃないかという気がしてくる。テレビでもついていれば気を紛らわせることもできるけれど、それもない。

心臓どころか胃まで痛み出した数分を経て、赤木がようやくコーヒーカップをふたつ手にして戻ってきた。

「寒くないか」
「はい、平気です」
「今日は気を使わせて悪かったな、のやつも突飛なことをよく思いつくもんだ」
「そんな、私そんなことは決して」

慌てて否定するが、赤木はそれも信用していないらしい。難しい顔をしたままコーヒーを啜った。そうじゃない、本当に日頃の感謝をこめて作ったんだと伝えたいけれど、言葉で言えば言うだけ嘘くさくなるような気がした美須々は、湯気を立てていたコーヒーを一口飲むと、意を決してチョコレートを取り出した。

甘いものが得意そうではないとが言うので、ビターがメインで少数のアソートを購入した美須々は、数が少ないのはどうだろうかと途中で気になりだし、デパートのバレンタイン特設エリアでわけがわからなくなり、そのまま人の波に押し流されてバレンタインギフトコーナーでマフラーを買ってしまった。それも取り出す。

「あの、赤木くん!」
「なんだよ、さっきから」

きょとんとした顔をしている赤木の目の前に、美須々はチョコレートとマフラーを叩きつけた。

「いっ、いつも、あり、ありがとう! バ、バレンタインなので、ここ、これを!」

さすがに本命チョコです付き合ってくださいとまでは言えない。しかも、そう言い切ってしまい、それがだめで玉砕してしまったら、もう気軽に話をしてもらえないかと思うと、まだそこまで踏み込む勇気がなかった。目の前にチョコとプレゼントの包みを叩きつけられた赤木はびっくりしている。

だが、美須々があまりにも真っ赤な顔をして歯を食いしばっているので、やや迫力負けの赤木は恐る恐る手を伸ばしてチョコレートとマフラーの包みを引き寄せた。

「こんな、ふたつも悪かったな、わざわざ。気にしなくてよかったんだぞ、バレンタインなんて」
「いえっ、その、こういう時でもないとっ、贈り物とか、出来ないので!」

しかも赤木の誕生日は最近になって知ったばかりである。

「私、バレンタインとかそういう行事をあんまり知らないもので、全部ちゃんの受け売りなんですが」
「知らない、って誰かにあげたことないのか」
「家族もそういう習慣がなかったので、はい」

あんまり知らないどころか、これが美須々の人生初のバレンタインチョコのプレゼントである。一応この他にと晴子への友チョコと、木暮への感謝チョコならぬ感謝酒を用意してあるが、それはまた後日。赤木の方が片付かないことには何も出来ない。

「なんだか申し訳ない気もするが…………ありがとう」
「いっ、いいえっ、大したものではないので、って開けちゃうんですか!」
「え!? マズかったか」

チョコレートの方はともかく、プレゼントの包みが気になったらしい赤木はガサガサと解き始めた。まあ、マズくはない。ただ美須々の緊張が増し、なにをどうしたものかわからなくなってきていて、要するに少しパニックだというだけだ。それを知ってか知らずか赤木は包みを開いてマフラーを取り出した。

「これ、高いんじゃないのか?」
「大丈夫です、そんな、大したことは」
「って、チョコも高そうだな、大丈夫かほんとに。こんなことで無理するなよ」
「し、してません、平気です」

パニックで逆に緊張がとれてきた美須々は真っ赤な顔をしたまま笑顔になったが、少し声が裏返っていた。

「イベントごとはあんまりしたことなかったって言ってたな、そういえば」
「はい、去年のクリスマスはなんだか感動しました」

独裁気質の祖父率いる宗像家では、盆暮れ正月以外の行事は基本的にないものとなっている。美須々と周防が幼い頃でも、桃の節句と端午の節句を小学校低学年くらいまでやっていた程度。去年のクリスマスはプランで外食をし、イルミネーションを見に行った。その日の夜、美須々は興奮で寝付けなかったくらいだ。

「まあその、オレやたちが相手でいいんなら、イベント、なんでもやってみろよ」

手にしたマフラーに目を落とした赤木は、静かにそう言った。美須々は大きく何度も頷く。一瞬でも気を抜いたら、泣いてしまいそうだった。あなたが好きですと言いながら泣いてしまいそうだった。

だけど、それは出来ない。まだもう少し話をしたかった。一緒にいたかった。は告白したって絶対大丈夫だと言い張ったが、美須々はこれっぽっちも信用していなかった。それに、今の言葉のように、赤木には世間知らずの美須々を哀れんでいるフシがある。それと混同されても嫌だった。

なんとか泣き出したい気持ちを飲み込んだ美須々は、こっそり息を吐いてコーヒーを飲む。さっき水をがぶ飲みしたばかりだというのに、また喉がカラカラになっていて、それが可笑しい。その目の前で、赤木がマフラーを首に引っ掛けた。美須々の心臓がぴょんと跳ねる。

「私が言うのもなんですが、お似合いです」
「そ、そうか? お世辞なんか言わんでもいいんだぞ」
「お世辞じゃないですよ、その色にしてよかったです」

赤木が照れているので、美須々もやっと自然な笑顔になれた。赤木をよく知るあれやこれやに言わせれば異論もあろうが、美須々は自分の選んだマフラーがすごく似合うので、これまでになく赤木をかっこいいと思っている。

そして赤木も、嬉しそうににこにこしている笑顔の美須々を、初めて可愛いと思った。

コーヒーを飲みながらまた家のことや学校のことを話していたふたりだったが、美須々は21時を過ぎたところで帰ることになった。送って行こうという赤木に一度は遠慮した美須々だが、一応バレンタインということなのだし、この際なんでも来いという気分になってきた。駅までは歩いても15分ほど。クールダウンにもちょうどいい。

最近美須々は、つい可愛さに負けてヒールの高い靴を買ってしまうのだが、隣にいるのが赤木なら何も気にならない。それが少し嬉しいなと思いながら、美須々はアパートの階段を降りる。音を立てないようにそっと降りて、赤木に並ぶ。さっそくマフラーを巻いてくれているのが嬉しい美須々はまたふにゃっと笑った。

「何ニヤニヤしてんだ」
「ニヤニヤなんかしてません! そのマフラーにしてよかったなと思ってるんです」
「もういいってそれは」

並んで歩き出したふたりは人より足が長いので、普段なら速度がだいぶ早い。だが、今夜はどちらからともなく、ゆっくりと歩いている。2月の夜の空気は冷たくて、風が少しでも吹けばきりきりと肌が痛むほどだ。

「だけど、オレも人のことは言えないんだよな。バスケばっかりで、イベントなんて」
「そうなんですか? 晴子ちゃんはバレンタインとか楽しいって言ってましたけど」
「オレが自主的にバスケ漬けになってただけだからな」

それを誇りに思いこそすれ決して否定的になど言わない赤木だったが、珍しくしんみりとした声でそんなことを言い出した。だが、暗い夜道、美須々に赤木の表情はあまり見えなくて、彼女はただ黙って頷いた。

「だから、お返しとか、そういうの、よくわからないんだ」
「え!? そ、そんなこと気にしないでください、私が勝手に――
「そういうものじゃないだろ。何か欲しい物とかないのか」

街灯と街灯の間で余計に表情が見えない。だが、美須々は赤木の声があんまり優しく聞こえるので、少し頭がぼうっとしてきた。こんなに寒いのに、顔が熱い。欲しい物なんて、欲しい物なんて――

「そりゃまあ、あんまり高価なものは無理だけどな。どっちみち晴子やにも用意しなきゃならんし」

鼻で笑っている赤木の隣で、美須々はこっそりその横顔を見上げた。いつもの赤木という気がする。そのはずだ。だけど、自分が今正常に物事を見られない状態にあるとわかっている美須々は、そろそろ止まるんじゃないかというほど暴れる心臓を胸に抱えたまま、半ばヤケクソで言ってみることにした。

「ほ、欲しい物なんて、ないんですよ、ほんとに。なんですが、あの、赤木くん!」
「なんだよ、今日は落ち着かねえな」
「お返しなんていらないので、駅、まで、手を、つないでください」

最後の方は古典的な宇宙人の真似のようになってしまったが、言いながら美須々は手を伸ばした。顔は真っ赤、膝は笑っているし、寒いせいで唇もうまく動かないし、鼻もグズグズ言っている。しかし、言ってしまったら色々どうでもよくなったので、美須々は気分がすっきりしてきた。

………………そんなの、お返しにならないだろうが」

表情は変わらなかった。だが、赤木はそう呟くと、美須々の手を取って繋ぎ、コートのポケットの中に突っ込んだ。

「それに、こんなこと、そんな大袈裟に頼むようなことでもないだろ」

手を繋いでもらえたばかりか、ポケットの中に入れられてしまった美須々は呆然としている。

「お返しは1ヶ月かけて考えておけよ。……手なんて、いつでも繋いでやるから」

それは美須々が既に感じていたような、哀れみの感情から来る言葉だったかもしれない。少しばかり歪な家庭環境で育った美須々が、家族と出来なかったことを赤木に求めていると思ったかもしれない。でも、それでもよかった。冷たい空気の中で、繋いだ手と頬だけが燃えるように熱くて、美須々はまた言葉もないまま、大きく頷いた。

背が高いことで手も大きな美須々はそれが少しコンプレックスだったけれど、今その女の子にしては大きな手は赤木の巨大な手の中にすっぽりとおさまってしまっている。美須々は、いつか感じた痺れがまた全身を駆け巡っているのに気付いて、瞬間、目をぎゅっと瞑って息を止めた。

ちゃんどうしよう、私、本当に赤木くんが好きみたい――

あまり話はしなかったけれど、駅まで送ってもらった美須々は、ここまででいいと固辞して、改札をすり抜け、ホームに飛びこんだ。電車を待つ間、震える手で携帯を操作し、週末で混む電車に潜り込み、数駅先ですぐに降りた。改札を飛び出て、覚束ない足取りのまま駅舎を出る。

そこにはと公延が待っていた。

「ベルちゃん――
、ちゃん!」

ふたりとも心配そうな顔をして待っていた。美須々は思わず駆け出し、に飛びついて膝を折り、震える腕で強く抱き締めた。そうでもしていなかったら、立っていられないような気がして。

「大丈夫だった? チョコ、渡せた?」

と公延に背中を擦ってもらいながら、美須々は何度も頷く。ふたりは美須々がパニックを起すのではと心配して、公延のアパートには帰らず、駅で待っていてくれたのだ。

赤木は家まで送ろうかと言ってくれたのだが、それでは心臓が持たないので、美須々は平気だからと断って逃げるようにここまで帰ってきたというわけだ。と公延の顔を見たら安心してしまい、美須々は真っ赤な目をして泣き出した。

「緊張したよね、ベルちゃん、頑張ったね」
ちゃん、あのね、帰りにね、駅まで送ってもらってね、そこまで、手を、繋いでもらったの――

言いながら美須々はグズグズ鼻を鳴らし、はぽかんとしている。それでこのうろたえようとは。

「お返しは何がいいかっていうから、そんなのいらない、手を繋いで下さいって頼んだの」
……そか、よかったね、ベルちゃん、よかったね」

駅前のカフェで美須々を落ち着かせて帰らせると、ははあーっと大きくため息をついた。

「公ちゃん」
「わかったわかった」
「ベルちゃん、可愛いよおおおお」
「わかったって言ってんだろ」
「赤木くんも手ェ出してあげなよね」
「そういうことか?」

は美須々の純情っぷりにメロメロになっている。一方の公延は赤木が慎重に美須々の相手をしているのだとわかるので、それはそれで切なくなっていた。の言うように急展開してしまえばいいというものでもないから、急ぐ必要はないのだけれど、もどかしさも感じてしまう。

種類は違うが、異様にハイスペックな女の子を相手にしているのは赤木も公延も同じだ。それによる今一歩踏み込めないハードルの高さだったり、つい無意識に感じる自虐性だったり、それはきっと美須々やたちにはわからないだろう。

というか、いくら美須々が世間知らずの異星人状態だったとしても、まさか自分が好かれているとは思わないだろう。公延はそう思うが、やっぱり美須々やには伝わらないだろう。だから、言わないでおく。

赤木は美須々に向き合えるようになるかもしれない。けれど、それには時間が必要だから。