エバー・アフター

09

赤木が帰ってからも公延にこんこんと諭されたは、美須々についてはもう騒いだりせずにじっと耐えていた。メールなどでは連絡が取れていても相変わらず要領を得ない返信ばかりで、少し気力も失っていた。そんな中、引っ越しから2日ほど経った頃にの元に電話がかかってきた。周防からだった。

「美須々、向こうの本家の方に行くことになったよ。たぶん大学もやめる」
……なんでわざわざそんなこと連絡してきたの。私たちには何も出来ないんでしょ」
「いやあ、美須々があんまり無抵抗なもんだからさ、ちゃんたちが何か企んでるのかと思って」
「企んでたとして、それをあんたに言うわけがないじゃない。バカなの?」

電話の向こうで周防がへらへらと笑っている。はその声に苛つきながらも、何か美須々の情報が手に入るのではないかと期待してしまっていた。周防はウザったいが、この手の外見がよく愛想がよくその割に元々は真面目な努力家というタイプは慣れている。

「ねえ、ちゃんさ、あのマフラーって何?」
「はあ?」

突然そんなことを言うので、ついそう返しただったが、直後に赤木がホワイトデーに送ったものだと気付いて、息を呑んだ。だが、それを周防に悟られてはならない。どうとでも取れる返しをしたことにホッとしつつ、はマフラーがどうしたと言った。

「この間さ、美須々のやつ、マフラー掴んで顔にくっつけて泣いてたんだよね」

胸が苦しい。は呻いてしまいそうな体を無理やり抑えこみ、素っ気ない返事を返しておく。

「ベルちゃんとは仲よくさせてもらってたけどさ、24時間一緒にいたわけじゃないんだよ」
「ていうかだいたいその『ベルちゃん』てのもなんなん。美須々は頑として学校のこと話さないしさ」
「あんたが言えたことじゃなくない? 耄碌ジジイに従って監視しに来るような弟に何を話すってのよ」
「オレだって美須々をいじめたいわけじゃないんだよ」

周防は自嘲する。そんなこと信じられないが、は突っ込まずに黙っている。

ちゃん、ウサギの話、知ってる?」
「ウサギ? ううん、知らない」
「昔、お兄ちゃんが海外に行くってんで、預かったんだよ。オレと美須々はもう一瞬で夢中になった」

周防はまだ幼稚園児の頃だ。よっぽど印象が強かったんだろう。しかも話は悲しい展開。トラウマになっても仕方ないような話だ。周防は思い出を語っている間に声がかれてきて、そして低くなっていく。

「オレが小学生になった頃だったかな、お兄ちゃんから手紙が来たんだ。ウサギは元気ですかって。もうとっくに死んでんのに、うちの親は美須々に元気だって返事を書かせた。お兄ちゃんたちが戻ってくることはないんだし、本当のことを書けば悲しむから、これはいい嘘なんだって、あいつら美須々にそんな風に言いやがったんだ」

周防もだいぶ化けの皮が剥がれてきたな――はそんな風に感じた。

「そこからオレは宗像の家を全て疑って生きてきたけど、美須々は何でもホイホイ信じて、親に言われるままそれが正しいって思い込んで、挙句の果てに高校でバスケ始めたオレに説教しやがったんだ。そんなことやってる場合じゃないだろう目を覚ませとか偉そうに上から目線でさ。洗脳されてんのはお前だろって」

つい声を荒らげた周防だったが、一息つくとまた穏やかな声に戻った。

ちゃん、本当に何も知らないわけ? どうして美須々は2年になったあたりから急に人が変わったみたいに明るく素直になったんだよ。なんで今回のことも従順な振りして影でマフラー抱き締めて泣いてんだよ。そんなに嫌なんだったら、どうして逃げ出さないんだよ! あいつ何隠してんだよ!」

せっかく落とした声を張り上げて周防はブチ撒けた。はスッと息を吸い込み、口を開く。

「そんなの私が知りたいよ。話、聞きたかったけど、あんたがいたから話せなかったんじゃない。あんたもつらいんだろうけど、ベルちゃんは親に喜んでもらおうって、一生懸命だっただけなんだよ。それをあんたにとやかく言われる筋合いはないでしょ。だいたいそれを知ってどうするのよ、助けたいなんて思ってないくせに!」

もつい怒鳴った。この弟も行動原理が見えない。姉の変化に戸惑い、そこに何があったのかを知りたいようだが、彼は自分の好きな生き方を確保するのだけで精一杯で、そのためなら姉の監視も引き受けるような人間だ。そんなやつには口が裂けても美須々の純粋な恋心など教えたくはない。

「当たり前だろ! 偉そうに説教してきたと思ったら急に別人みたいになって、こんなことになったって何も、何も話そうとしないし、それで影でメソメソ泣いてて、それをオレがどうにか出来るって言うのかよ。あいつがどうしたいのかなんて全然わかんないのに!」

公延の理屈と同じだ。は納得がいった。美須々さえ素直に全てを話していたら、この自信過剰は手を貸してくれたのかもしれない。だが、もう遅い。手を講じるには時間がない。

「そりゃあ、あんたが信用に足るなら話してくれたんじゃないの。ベルちゃんのせいにしないで」
「オレは信用出来ないってのかよ」
「なんで出来ると思ってるのか、そっちの方が不思議だよ。されたいとも思ってなかったくせに」

とうとう周防は言葉を失って黙った。こんな事態になって始めて姉の異変に気付いて、だけど姉が何を考えているのかは少しもわからなくて、しかもマフラーを抱き締めて泣いている姉を見てしまい、わけがわからなくなってしまったんだろう。気持ちよく洗脳されていたはずの姉に一体何が起こっていたのか。

「あんたはあんたの大事な生き方だけ守ってればいいじゃない、私たちには何も出来ないんだから!」

は返事も待たずに通話を切った。

それから4日後、土曜の夜のことだった。翌日に試合を控えた赤木が自宅で風呂上がりにストレッチをしていると、携帯に着信が来た。時間は22時を過ぎていて、こんな時間に電話をかけてくるのは晴子か公延くらいなものだ。赤木はストレッチの姿勢のまま手を伸ばして携帯を掴み、モニタを見ると、がたりと姿勢を崩して携帯を取り落としそうになった。美須々からだった。

宗像という文字を見た瞬間、全身が鉛を流し込まれたかのように重く感じた。しかし、無視をする気にもなれなかった。赤木は冷蔵庫に水を取りに行きながら、通話ボタンを押した。電話の向こうは少し風が吹いているような、ざらざらした音がしている。

……どうした」
「お、お久しぶりです、遅くにごめんなさい。少しお時間頂けますか」
「ああ、構わないけど――

美須々の声は明るかった。祖父が正気を失い家出することになってしまう少し前の、に影響されて乙女化が進行していた頃の美須々の声だった。その頃の記憶に赤木は少し胸が痛んで、それを認めたくなくて水のペットボトルのキャップを勢いよく捻った。

「明日、また引っ越します。それで、その前にお礼を言いたくて」
「礼なんか――
「いえ、赤木くんにはどうしても直接お礼を言いたかったんです」

美須々の声に被って、またガサガサざらざらした音が聞こえる。外にいるようだ。

……まだ決まっていませんが、大学もやめることになりそうなんです。入籍と渡航が早まりそうで、大学は向こうで改めて入りなおしたらどうかと勧められまして。いつまで通えるかもわからない状態なものですから」

つまり、さっさと結婚して海外に戻りたいから、勉強がしたいんなら向こうで大学でも何でも行けばいいだろうということか。美須々の日常は風に吹き飛ばされでもしたみたいにどこかへ飛んでいってしまった。何か言ってやった方がいいだろうとは思うのだが、赤木は言葉が見つからない。

「時間があまり取れなくて、ギリギリになってしまったんです。木暮くんとちゃんにも、ありがとうと伝えて頂けませんか。ちゃんには心配ばかりかけてしまって申し訳なかったんですが、本当に楽しかったです」

美須々は笑っている。軽やかに優しく笑っているのが電話越しでもよく分かる。

「海とかお花見とか、そういうことをした経験がなかったものですから、夢のように楽しかったんですよ」
「そのくらい、大したことでは」
「私には大事件だったんですよ」

口ごもる赤木に、美須々は楽しそうに笑った。おかしい。美須々は最後に「助けて」と言っていたはずなのに。なぜこんな風に穏やかに笑っていられるんだ。あれから一週間しか経っていないのに、もう諦めて達観してしまったというんだろうか。

「それに何より、去年の夏、途方に暮れていた時に話を聞いて頂いて、あの時のことは本当に感謝してます。ありがとうございました。いえ、それだけじゃないですね、その後もたくさんお話を聞かせて頂いたりして、その、嬉しかったです。ありがとうございました」

もう、いやとか、ああとか、そんなことしか言えない赤木だったが、美須々は気にせず喋る。

「それから――ええと、は、恥ずかしいですね、バレンタインの時も、ありがとうございました」

照れているような声だが、一瞬詰まったように聞こえて、赤木はぎくりとする。こんな思い出をさらうようなことを言って、宗像は何が言いたいんだろう。思い出をなぞり直して泣きたいとでも言うんだろうか。そんなの、つらいだろうに。だが、赤木はつらいのは自分なのかもしれないと気付いて、肩を落とした。

やはり少し言葉に詰まったのか、美須々は小さく咳払いをすると、ひときわ声を高くして一気に言った。

「あんな風に手を繋いで歩いたのはもちろん初めてで、緊張もしたのですが、あんまり嬉しくて、あの後ちゃんと木暮くんのところに行って、宥めてもらったんですよ。バカなお願いをしたなあと自分でも思うんですが、聞いてくださって、ありがとうございました、私、一生忘れません、あの時のこと、忘れません」

赤木は息をするのも忘れてその声を聞いていた。一体これは何の話なんだろう。美須々の晴れ晴れとした声が、逆に怖くなってくる。一生忘れないだなんて、なんでそんな大袈裟な話になってるんだ。宗像お前、一体――

「好きな人と手を繋いで歩いたあの夜のことは、一生の思い出です。ありがとうございました」
「なっ――
「遠からず籍を入れるので、私はもう二度と恋をすることはありません。だから、私が一生の間に好きになった人は、赤木くんだけです。赤木くん、私、ずっとあなたのことが好きでした。チョコレートも本命チョコでした」

赤木は全身の温度が下がるような気がした。背中や額に冷たい汗が伝う。

「本っ当に幸せでした。幸せをいっぱいくださって、ありがとうございました」
「お、おい、宗像――
「急にこんなこと言ってごめんなさい、だけどこれで最後だから、どうか、許してくださいね」

目尻を釣り上げて喧嘩していた頃には想像もできなかったような、優しい声だった。

「どうかお元気で。バスケ、頑張ってくださいね。ずっと応援してます。赤木くん、さようなら」
「宗像、おい、ちょっ――宗像!」

慌てて声を上げた赤木だったが、通話は切れていた。土曜の夜、アパートの部屋は静まり返っていて、携帯を耳から離すと微かにツーツーという話中音が聞こえているだけ。気付けば赤木は額と手に汗をかいていて、肌が冷たくなっていた。寒い気もする。

頭が混乱して、美須々の言っていたことの意味がわからない。オレが、好きだって? なんだそれ。どういうことだ。意味がわからない。赤木は携帯をテーブルの上にそっと戻して、額の汗を拭う。わけがわからなすぎて眩暈がする。少し吐き気もする。一体どうなってるんだ。

頭を抱えた赤木はふらふらと立ち上がると、バスルームで頭から水をかぶる。

明日、試合なのに。明日、宗像は遠くへ行ってしまうらしい。

何がそんなに楽しいのかニコニコしていた美須々の笑顔が思い浮かぶ。真っ赤になってチョコレートだの手を繋いでくれだのと言っていた時の顔も出てきた。それにかぶせて、公延の声が聞こえてきた。

好きだし愛してるし、ずっと一緒にいたいと思ってる。そういうのも、大切なことだよ――

それがわからないほど子供じゃない。だけど、じゃあどうしたらいいんだ?

高校時代には、試合の前夜を緊張で眠れないということもあったが、最近では強制的に睡眠に陥るコツというものを掴んでいて、赤木は少々混乱状態にあったものの、しっかりと眠り、いつものように朝6時には目が覚めた。試合当日でも朝から体を少し動かして、慣らしておくのが習慣になっている。

近所を少し走り、シャワーで体を温め、晴子に言わせるとあまりバランスが取れていないらしい食事を摂る。一息ついて、テーブルの上に置きっぱなしだった携帯に目をやると、公延からメールが来ていた。シャワーを浴びている間にでも来たんだろう。今日の試合会場の行き方でもわからなくなったんだろうか。

「ベルちゃん、今日の9時の新幹線だって。昨日からが来てて、行きたいって暴れてるからオレはギリギリまでを抑えておくけど、お前どうする? もう一度会わなくて、後悔しないか?」

メールの末尾に美須々が乗るという新幹線の行き先や時間やらが併記されていた。経由ということは、弟の周防からか。が暴れているのが想像できる。

携帯を戻した赤木は、食事の片付けをし、身支度をして家を出る。試合なので、上下とも部のジャージ。スポーツバッグを背負ってスニーカーでアパートを出る。駅まで歩き、電車に乗る。今日の試合会場は都内の某大学の体育館。赤木の最寄り駅からは一度乗り換えて20分位で着いてしまう。

日曜の朝だというのに、電車の中は混んでいた。仕事と行楽客が半々くらいの中で、赤木はぼんやりと車窓から外を眺めていた。もうすぐ6月の空は雲が多くて白っぽい色をしている。最後のインターハイを目指していたあの頃は、空の色など気にしたことはなかった。あの頃の自分と今の自分、何が違うというんだろう。

自分は変わったんだろうか、変わったのだとしたら何が違うというんだろう、それは良い変化なんだろうか、それとも悪い変化なんだろうか。自分ではわからない。何も変わっていない気がする。

木暮は変わったな――。部活のことしか考えられなくて、を蔑ろにしていたあの頃より、に対しても学校のことにしても、余裕がある気がする。多少のことでは揺らがなくなった気がする。もそうだ。今もオレや木暮の前だとわがままだが、あいつも強くなった気がするな――

自分は強くなっただろうか。変わっただろうか。変わる勇気を、持てるだろうか――

気付くと、赤木は東京駅のホームにひとり、佇んでいた。