「おーい、まだかよ」
「まだかよじゃなくてそこの荷物運んでよ」
「え、まだあったのか荷物」
ケイトはバタバタと支度をしながら、玄関でぼーっとしている高野を叱り飛ばした。
「道、混んでるかなあ」
「大丈夫だと思うけど、早く行こうぜ」
「わー、待って待って、携帯どこー!?」
「携帯ここ!」
残っていた荷物を手に持った高野は走り回るケイトに口出しをしながらため息をついた。行き道に渋滞はないだろうが、それでも土曜なので余裕を持って出た方がいい。
本日は時枝母さんのふたり目お披露目である。産後4ヶ月経って実家から戻った時枝母さんだが、実家でゆっくりしていたせいか、帰って早々疲れてゲッソリしているという。その上この週末は時枝の夫が仕事で留守をするとかで、時枝母さんはケイトとにヘルプを寄越した。
しかしこんな機会はもう二度とない、と思ったが時枝に相談をし、かつての仲間全員集まったらどうだ、という話になったわけだ。時枝は現在一戸建て住まいだし、身長190センチ以上の男が4人いても、なんとかなるだろう。もちろん時枝母さんのヘルプの役には立たないだろうが、そこはケイトとの出番である。
やっと身支度が終わったケイトは慌ただしく玄関に駆け込み、靴を履く。
「バタバタしてたら何かお腹減ってきた」
「まあ、もう何時間も経ってるしな」
「おじいちゃん起きるの早すぎるよ。最近ほんと昼まで持たない」
現在ケイトはあのアパートを出て、祖父のところに身を寄せている。一緒に暮らしていた従兄弟が亡くなり、祖父がひとりになってしまったからだ。幸い庫裏は広く、ケイトが引っ越してきてもまだ空き部屋があった。一応祖父が住職を続けていられる間だけ、という条件はつくが、現在ケイトは居候である。
さらに、その引越やらのどさくさで高野を紹介したケイトだったが、やはり日々のお勤め、主に掃除がつらい祖父はその巨大な姿ににやりと笑い、いつでも遊びに来なさい、何なら空き部屋に居候してもいいぞと言い出した。
さすがに住むのは手間がかかるので引っ越してはこないものの、自分の職場までも遠くないので、高野は自宅と庫裏を半々くらいの生活をしている。というか最近ではケイトの祖父に寺を継がないかと言われて大いに困っている。境内にバスケットゴール置いてもいいぞと言われてグラついてしまい、さらに困っている。
一方のケイトは、時枝のふたり目が生まれた頃に安定した職にありついていた。専門学校の先生である。
例のテーマパークの件で元担任に一応文句を言っておいたケイトだったが、そのことで申し訳ないと思ったか、急病による指導者の欠員が出た際に、今度は本当だからと言って最初に声をかけてくれた。母校だし、基本的には週5の職場だし、超高給ではないけれど、数年ぶりの社会保障がある。ケイトは決断した。
というわけで、ふたりの生活はずいぶん様変わりした。
もちろんたちからの支援は終わりにしてもらったけれど、食費光熱費はともかく家賃はいらんと祖父が言うので、ケイトは極貧生活でずっと不足していたものを少しずつ揃えられるようになってきた。
その上、すっかり高野が落ち着きを取り戻したので、ヒコさんの残してくれた金で遊びに行くことも出来るようになった。全て遊興費で使い切るつもりはないのだが、彼の意志を尊重して、少しくらいは楽しいことに使っておこうと考えたからだ。
またヒコさんと言えば、その経緯を全て祖父に打ち明けると、祖父は例のバングルと手紙を寄越しなさいと言って、本堂の片隅に起き、毎日のお勤めの際に一緒に供養してやると言い出した。そんなわけで、都合がつくとふたりも一緒に本堂で手を合わせることが多くなってきた。
その話を聞いたが自分も手を合わせたいと言い出し、よくわからないまま藤真も着いてきて、静かに手を合わせるケイトと高野との背後で、長時間正座していられなくてひっくり返っていた。
「お、だ。……渋滞にハマったって」
「マジか。じゃあオレらの方が先につくな」
「どうせ一番乗りは花形か一志でしょ」
本日時枝宅にて現地集合である。歩いて数分のところにコインパーキングがあるというので、ケイトと高野、藤真夫婦は車である。ケイトとからの支援物資が積まれているからだ。
「てか藤真よく休めたねー!」
「いや、あいつ途中で抜ける」
「えー!」
「で、また戻ってくる」
「監督忙しいな」
「しょうがないよ、部活なんてそんなもんだ」
藤真監督の指導のもと順調に立て直しが進む翔陽バスケット部だが、その一方で藤真は休みがないので最近ではこうしてちょくちょく抜け出してくるらしい。ある程度結果を出すまでは無休状態も已む無しと考えていた藤真だが、だからみんな体壊して辞めていくんだろうとに怒られて考えを改めているそうだ。
「それじゃ子供作れないじゃん」
「考えてないんじゃないか?」
「うーん、いいのかなあ、それで」
「ま、藤真がしばらく高校生相手でも子供慣れしてからでいいんじゃないのか」
嫌いではないというが、藤真は明らかに子供が得意そうではない。先日永野も嫁の妊娠が発覚したそうだが、こちらは何しろ嫁溺愛の人なので、余計に過保護になったという話だ。
「てか今日どうすんの、まさかとは思うけど酒はないよね」
「時枝んちでは飲まないよそりゃ。その後は知らないけど」
「……また男だけで遊んでくるのかコノヤロー」
「でもしょうがないだろ、みんなで泊まるわけにいかないんだし」
時枝の夫が月曜にならないと帰らないので、ケイトとは泊まっていってくれ、というのが時枝母さんのご要望である。しかし男どもはそういうわけにいかない。じゃあ全員集まってるんだし、飲みに行くか! となるのは仕方ない。ケイトは面白くないだろうが、アナソフィア組と翔陽組で別れたと思えば、同窓会みたいなものだ。
それに、行ったり来たりの藤真は明日も出勤なので適当なところで切り上げてひとりで帰り、また翔陽に行かなければならない。はお泊りの方が嬉しいとにこにこしていた。
「そっか、藤真翔陽行くんだし、みんないるんだし、見に行こうかな」
「……監督嫌がるんじゃないの」
「えー、そうかあ? OBなんだから見たっていいだろよ」
「湘北に負けたチームですかとか言われない?」
「そっ、それは……」
監督同士の因縁が選手たちにまで伝播して、最近翔陽と湘北はライバル視し合っているようだが、少なくともどちらも監督はライバルとは思っていない。自分たちの方が上。あっちは大したことない。それを藤真たちと同世代のOBたちは「田岡高頭世代の二の舞い」と言っては笑っているという話だ。
「じゃあ今日はそのまま帰る? 私たぶん明日の夕方くらいにならないと帰らないよ」
「あ、そっか。じゃあ今日は実家帰って、明日迎えに来るよ」
「別に無理しなくていいよ」
「無理してないよ。ケイトが寂しいだろなと思って」
信号で車を止めた高野は、ケイトの方をちらりと見てにんまりと笑う。
「別に寂しくないし! おじいちゃんもいるし、クッキーもいるんだし」
クッキーは12歳になるクリーム色のチワワである。境内に捨てられていた子で、一応番犬。常に舌が出ている。
「ふうん、オレはケイトがいないと寂しいけどな」
「はあ!?」
こういうやり取り、これは実はケイトがヒコさんと付き合っていた頃に、散々自分でやってきたことなのである。こんな風にいたずらっぽい言い方をしてはヒコさんに甘えていた。それが逆転、自分がやられるようになってしまったケイトはどうしても慣れなくて、毎回戸惑っている。
「す、好きにすれば! すぐそういうふざけたこと言うんだから」
「ふざけてないって。自分で茶化すのは平気なのに何でオレはダメなんだよ」
「ダメなんて言ってないでしょ、引っ張らないでよもう!」
ふん、とそっぽを向いたケイトの頬をスッと撫でて、高野は車を発進させる。
六本木の街で突然再会したあの夜から、もう1年以上が経っている。30くらいになってもケイトがいいおっさんを見つけられなかったら付き合ってくれと言ってからは12年以上が経っている。その頃は、その提案が現実になるだなどとは考えていなかった。
努力には成功が、怠慢には失敗があるのが当たり前だと思っていた。湘北に負けた経験がありながらも、正しいことには正しい結果だけが返ってくるとしか思えなかった。自分の人生に何年も尾を引く躓きなど、あるわけがないと信じていた。躓く人間はダメな人間だと思っていたから。
だから、躓いた自分はダメな人間だと感じるようにもなっていた。遠く漏れ聞く藤真や仲間たちの話に挫折や失敗や敗北の話題はなくて、自分だけが苦難を強いられているのだとしか思えなかった。その中にあって、光り輝く希望の象徴だったのがケイトだ。明るく輝く太陽のようなケイト、それは色褪せることがなかった。
あまりに眩しいので目を背けたくなることもあったけれど、それでもいつかの提案通り、30歳になった高野はケイトと付き合っている。時枝母さんと違って花形あたりはさっさと結婚しろなどと好き放題言うが、10年以上の時間を経て最近始めたばかりの試みなのである。そんなものは後回しでよい。
つい先だっては退社以来初めてだと緊張気味のケイトとふたりでテーマパークに遊びに行った。手を繋ぎ、まるで高校生のカップルのように遊んで、笑って、疲れ果てて帰ってきた。
カラオケにも行った、ゲーセンにも行った、動物園も行った、映画を見てチープな店で食事をし、金曜の夜は明るくなるまでゲームで遊び、土曜の昼までだらだらと眠った。何もかも、ケイトがヒコさんとは出来なかった遊びばかりだ。それは遠い日に高野がケイトとそうやって過ごしたいと望んだことでもあった。
その先についてのあれやこれやは、そういう気持ちが満足してからでよい。
これはケイトの祖父の説教であった。彼も80代半ばにしてはやっぱり異様に元気で、人の尺度に合わせてやることなんぞない、新しい試みを始めるのに年齢は関係ないのだと言って、最近はケイトとゲームを楽しむ日々である。しかもお気に入りはFPSだというのだから、恐ろしい。
なので最近の高野の目標と言ったら、ヒコさんに匹敵するくらいの素敵なおっさんになること、である。ケイトは腐ってもアナソフィア女子なので、たまにインテリ臭い発言が見え隠れする。それに合わせられるようになりたくて、こそこそと勉強を始めている。本物のおっさんになるまではまだ時間があるのだし、焦ることはない。
久々に高校時代の仲間8人が一堂に会するこの日に、ケイトのパートナーでいられることが何より幸せだ。
時枝宅の近所のパーキングに到着すると、まだ少し照れているケイトはさっさと荷物を持って外に出る。今日のケイトと高野からの支援物資は、時枝母さんが暫し楽をできるように保存の効く食材や、時枝母さんの好物など。時枝母さんの要請によっては、買い出しが発生するかもしれない。
「今日お昼が作ってくれるんだってー! なんだろな、楽しみ」
「へえ、だけど8人分だぞ、大丈夫か」
「私は手伝わないぞ……そんな恐ろしい量……」
バッグを肩に引っ掛けたケイトは片手で携帯をいじっているので傾いている。高野は支援物資が詰まったトートバッグをまとめて担ぐと、ケイトの肩にぶら下がっているバッグも取り上げてまた担ぐ。
「斜めになってるぞ」
ケイトは高野を見上げてニカッと笑うと、腕を伸ばして手を繋いだ。ケイトの左手にはもう、Kate Ozの名が刻まれたバングルはない。ヒコさんの記憶にしがみついてばかりの日々ももう、過去のものだ。ケイトは繋いだ手を揺らして歩く。高野はケイトの歩みに合わせてゆっくり歩く。
いつか六本木の街で背中を丸めていた自分も、もういないのだ。ケイトは背筋を伸ばして胸を張る。
「ありがと、軽くなった!」
END