ウェルメイド・フィクション

03

普段酒を飲む経済的余裕がないケイトは、が食事を奢ってくれる時だけしか酒を飲まない。そのも特別に高収入というわけではないから、時間が出来ると食材や缶チューハイを片手にケイトのアパートにやってきては、一緒にご飯を食べてくれたりする。

現在子供が1歳になる時枝は、結婚して以来夜に友達の部屋で酒盛りというわけにもいかず、その上妊娠がわかった約2年前から飲酒を断っており、ケイトはがそうして助けてくれる時だけジュースのような酒を飲み、の、主に藤真に対する愚痴を聞いては笑い、最後にはありがとうと言って涙ぐむ。

それ以外に酒を飲む機会というと、現在メインで教えているダンス教室の忘年会、新年会、夏休みのバーベキュー大会の打ち上げ、この3つしかない。ダンス教室は基本的には平日の夜がメインのお教室で、3歳から10歳までのクラスと11歳から18歳までのクラスが一応「キッズ」になっていて、そこが一番人数が多い。

ケイトは女の子にものすごく慕われる先生で、キッズのハイクラスの女の子はみんなケイトが大好きだ。可愛いし優しいしダンスの時はかっこいいし頭もいい。ケイトの方もアナソフィアのダンス部で部長を務めた経験があるだけに、教えるのが楽しいし、このクラスは本当に楽しんでいる。

だがこのダンス教室にはキッズクラスの他に「アダルト」枠があり、表現としてのダンスというよりはエクササイズとしてのクラスで、そこが少し面倒くさい。

その殆どが女性のアダルトクラスだが、ケイトがこの教室で教え始めた時には既に「常連グループ」的なものが出来上がっていて、先生と生徒の垣根はとっくに崩壊、夜のクラスが終わったらみんなで飲みに行くのが当たり前になっていた。顔見せと称してケイトも一度連れて行かれたことがある。

いつもアナソフィアプライドを自覚しては自分に幻滅するケイトだが、このアダルトクラスの飲み会は幻滅している暇もないほどの酷さだった。独身も既婚者もいたけれど、とにかく話題は恋バナという名のセックスの話題、誰だか知らない人の陰口、そしてその場にいない常連メンバーの不確かな噂。

中高6年間を厳格な女子校で育ったケイトは度肝を抜かれて二度とこの集まりには参加したくないと思った。専門時代、ダンサー時代、どちらの時もこういった付き合いはなかったので、余計に嫌悪感が募った。なのでケイトは「イベントの時は仕方なく飲むけど、酒は体に合わなくて飲めない」とでっち上げのプロフィールを作った。

そんなわけでおっさんと死別して以来、ケイトは新年会忘年会打ち上げ以外ではが助けてくれる時しか酒を飲めない生活が続いていた。そこへ降って湧いた高野である。おっさんとの話を全てブチ撒けてすっきりしたケイトは、高野がいいというので、好きなだけ飲んだ。

空腹は満たされたし、隠し事もないし、久し振りの酒は美味しいし、ケイトは気持ちよく酔っ払った。

というところの、翌日の朝である。

「嘘ぉ……

ケイトは目が覚めるなり両手で顔を覆って呻いた。久し振りにたくさん飲んだせいで軽く頭痛がするなと思ったが、それどころじゃない。となりで高野が寝ていた。しかも裸。

マズい、殆ど記憶ない。覚えてるのは………………上善如水が最後だ!!! ふざけんな自分!!!

おっさんと付き合っている頃は安い居酒屋などで飲んだことはなかった。ワインならワイン、カクテルならカクテル、それだけを楽しむような飲み方をしていて、サワーに焼酎に日本酒をチャンポン、なんていうのは実に8年振り。というかそのチャンポンの入口が上善如水だったはずだ。そこから4杯くらいで記憶が途切れている。

記憶がないこともショックだが、アダルトクラスの猥談に辟易してたくせにこんな事態になっていることにもショックだったし、そこそこ本気で一生おっさんに操を立てる気になっていたケイトは自己嫌悪でまた呻いた。何やってんの私、しかも相手が高野ってどういうことよ、何で平気だったの。

その上酔った勢いでヤっちゃった! な展開のテンプレ的表現として定番である明るい朝日はなく、外は夕方かと見紛うばかりのどんよりとした曇天らしく、部屋は薄暗くて空気が重い。その上酒臭い。というか酒臭いのは自分だ。ケイトは自己嫌悪通り越して死にたくなってきた。

おっさんの元へ行きたいと思ってしまったところで、違和感に気づいたケイトは顔にべたりと貼り付けていた両手を浮かせると、驚愕と恐怖の表情で息を呑んだ。バングルがない。いつでも左手首に嵌っていたおっさんの形見とも言えるバングルがなくなっていた。いつ外したのか、それも記憶がない。

……この状況で何もありませんでしたはさすがにないよな。

ケイトはぐったりと手を下ろして、ちらりと隣を見てみる。高野はケイトに背を向けて寝ており、大きな体を少し丸めて布団に潜り込んでいる。というか普通にシングルサイズのベッドなので、高野は壁にへばりついているし、ケイトは少しはみ出ている。

同い年の男の背中って、こんな感じなんだ。

髪には白髪がなく、肌はおっさんに比べると張りがあって色ツヤもいい。おっさんはスレンダーだったが筋肉は少なかったので、高野のしっかりした肩にはとても違和感を感じた。そして何よりデカい。正確な数字は知らないけれど、高校生当時、翔陽5人組は藤真以外全員190センチ以上あると言っていたはずだ。

女3人男5人の仲良しグループだった。時枝と長谷川が同じ小学校の出身という繋がりはあったけれど、みんなで遊ぶようになったのは高校生になってからだ。当時と藤真がお互いのことを好きなくせにそれを認められなくてずいぶんやきもきしたものだが、結局グループの中でのカップルはこのふたりだけだった。

仲良しグループの中で恋愛しなきゃいけないというルールがあるわけじゃないし、何よりケイトは老け専、時枝はゴリマッチョ専で、翔陽5人は誰一人として相手にならなかった。それでも友達としては大好きだったし、3年間仲良く過ごした相手だったが、だからといってこんな事態まで大歓迎! なわけはない。

自分はおっさんしか愛せない体質だったはずなのに、こんなにあっさり体を許せたのかと思うと、それも気持ち悪い。自分自身が気持ち悪い。一体高野も何考えてるんだ。そう思ったら少し腹が立ってきた。

音を立てないように布団をまくりあげてみると、一応パンツは穿いている。が、それだけだ。パンツは脱ぎませんでしたで済めば何とか笑い話にできるのではと淡い期待を抱いたケイトだったが、布団がまくりあげられたことで高野が目を覚ました。

…………あ、そっか」
「そっか、じゃないんだけど……どうなってんのコレ」
……やっぱ覚えてねーか」

目が覚めた高野だが、何しろ狭いベッドなので体が固まってしまっているらしく、寝返りを打とうにも充分なスペースがなくてもぞもぞと動いている。そしてあくびを挟むと何とか仰向けになり、首を捻ってケイトの方を向いた。寝起きなので目が半開きだ。

「最後の記憶は上善如水」
「それだいぶ早いぞ」
「そんなに飲んだの」
「よく戻さなかったなってくらい飲んでた」
「貧乏だからな。戻すなんてもったいないじゃん……

しかめっ面をしているケイト、それを眠そうな目で見ている高野は薄っすらと笑っている。ということは彼にはちゃんと記憶があるのだろう。それも何だか悔しくて、ケイトはまた腹が立ってきた。

……私パンツ穿いてるんだけど、これって」
「オレが穿かせた」

ケイトはまたバチンと両手を顔に叩きつけた。淡い期待は木っ端微塵だ。

「そういうこと?」
「そういうこと」

何も覚えてないけれど頭がパンクしそうだ。ケイトはまた呻く。

「あんたも酔ってた?」
「そりゃまあ、飲んでたし。だけど全部記憶あるから、それほどでもない」
「何でこんなことになったの」
「うーん、聞いて後悔しないか?」
「そんなひどいの!?」
「いやそうじゃなくて……

ケイトが勢いがばりと起き上がったので、高野も一緒に体を起こした。並んで座ると座高の差で距離ができる。

「すごく酔ってたわけだし、もしかしたら素面の時には許せないことかもしれないから」
「だけど、しちゃったんでしょ」
「そりゃ、まあ」
「じゃあどっちにしろ取り返しがつかないことじゃん」

高野は眠そうに目をこすりながらあくびをすると、頭をボリボリ掻いて小さく頷いた。

……ケ、岡崎ちゃんが誘ったんだよ」
……今ケイトって言おうとしたな」
「だってそう呼べって言われたから。発音が悪いって怒られたけど」
……いいよケイトで。それで、私がここに連れ込んで誘ったっての」

高野は今度は大きくため息とともに立てた膝に肘を乗せ、だるそうに頬に手をついてケイトを見つめた。

「覚えてるか、高3の時、30くらいになってもいいおっさん見つけられなかったら付き合ってくれ、って言ったの」

もちろん覚えている。高3の夏の話だ。その時高野はケイトの後輩と破局したばかりで、しかし当時それを知らないケイトに、約束にも満たない「提案」をしたのだ。進路は遠く離れた地になるし、周りが「そんなことしてないで付き合えばいいだろ」と呆れるほどには高野は本気ではなかったし、ケイトも了承したわけではなかった。

「オレも忘れたわけじゃなかったんだけど、何せ10年前の話だろ。そんなつもりなかった。でもここまで送ってきたら、くっついて離れなくなっちゃったんだよ。それで、帰るな、ここにいろって言うし、最終的に、高3の時に言ったじゃん、あれ嘘だったの、って言い出して……

ケイトは俯いて自分の手首を見ていた。いつものバングルがない。1つだけ残ったおっさんの欠片がない。

「抱きつかれて涙目でそんなこと言われたらな」
「私そんなこと言ったん……
「それでも何とか宥めようとしたんだよ。だけどバングル外して服も脱ぎだしちゃったし」

自分から外してしまったのか。ケイトはまた自分にがっかりして、頷きながらため息をつく。

……あんたはそれでよかったわけ?」
……後悔はしてないよ」
「どうして」
「どうして、って……
「やっぱり男って好きでもない女としても平気なんだ」

自分から粗相をしでかしておいて失礼な話だが、そこで何とか踏ん張って自分を放置して逃げてくれたらよかったじゃないかと思ってしまったケイトは、不機嫌な声を出した。

「んー、まあそれは否定しないけど、オレはケイト好きだし」
「それは友達としてでしょ」
「それもあるよ。や緒方と同じように思ってる部分もある」

言いながら高野は座りなおしてケイトの手を取り、彼女が顔を上げると、スッと息を吸い込んで言った。

「だけど、ひとりの女の子として好きな気持ちもある。それは10年前から変わってない」

ケイトはそれを割と自然に受け取りつつ、かくりと首を傾げた。

「だけどあんた、私の後輩と付き合ってたじゃん」
「2ヶ月だけだよ。すぐ別れた」
「その直後に言ったじゃん」
「その時も言ったろ、ずっとそう考えてたからって」
……ちょっと待って、わけわかんなくなってきた」

ケイトもガリガリと髪を掻きむしる。

「その頃から好きだったんなら、何で30とか言い出したわけ?」
「アナソフィア女子ってのはどうしてこう察しが悪いんだよ」
「そういうのいいから」
「そりゃ、ケイトがおっさんフェチで絶対相手にしてもらえないってわかってたからだろ」
「いやまあ、そうだけど……

ケイトのおっさん好きは筋金入りで、中学生が30くらいの大人を指して「私おっさん好きだから」と言うようなレベルではなかったし、そういう子たちに言わせるとケイトはもはや「おじいちゃん好き」のレベルだったわけで、そりゃあ高校生など相手にならなかった。それは事実だ。

も緒方も可愛くていい子だったから好きだったよ。だけどそれとは違う意味で岡崎ちゃんいいなと思ってたし、でも自分じゃ無理なのはわかってたし、それにしては普通にみんなで仲良くしてるの楽しかったから落ち込むとかなかったし、だけどそういう過去があって、それであんなこと言われたらもう無理だよ」

遠い日の思い出を掘り起こして火をつけてしまったのは自分だ。それがわかるので、ケイトはまた俯いた。

……ごめん」
「えっ、何が!?」
「オレ、我慢、出来なかったから」

今度は高野の方が俯いてしまった。高野と違ってケイトは彼に対して友情以上の感情を抱いたことはないのだが、友達としては大事な人だったことに変わりはない。とんでもないことをしでかしてしまったとはいえ、そんな風に俯いてしょんぼりされると心が痛む。傷つけたいわけじゃない。

「私の方こそ……ごめん。お酒飲んだの久し振りで、たぶん高野だから安心しちゃって」
「あのさ、それも無自覚なの?」
「はっ?」

笑いたいのに笑えないという顔をした高野の言葉の意味がわからなくて、ケイトは目を丸くした。

「ケイトの気持ちが今でもおっさんにあるってわかってるけど、オレはケイトのこと好きだよ」
……うん」
「ケイトは今、おっさんを亡くして空っぽになってるだろ。それを少しでも埋めてあげられないかなって思う」

高野は握っていた手を緩めて指を絡ませた。ケイトが顔を上げると、まだ少し眠そうな目をしながらも真面目な顔をした高野が見下ろしていて、返事に詰まる。何と言えばいいかわからない。礼を言えばいいのか、謝ればいいのか、それとも何か別のこと?

おっさんの時は悩まなかった。おっさんは完璧な大人だった。全力で甘えられたし、おっさんはケイトを時にお姫様のように時に女王様のように扱ったので、かける言葉やあらわす態度に迷ったことなんかなかった。だけど高野は同い年の青年だ。ケイト基準でいうところのおっさんには程遠い。どんな風に応じればいいかわからない。

そんなケイトの戸惑いを見て取った高野は、咳払いをひとつ挟む。

「30までまだ2年あるけど、あの時の話、考えてもらえないかな」
……付き合うってこと?」
「オレはそうなりたいと思ってる」

中高生当時、好みのおっさんと付き合うということは本当にハードルの高い望みで、まさに夢のまた夢、現実に起こり得ることだとは思えなかった。しかし何から何まで完璧なおっさんは目の前に現れた。それを経た今、同い年の男からの求愛は逆に「現実には起こり得ないこと」そのものであり、ケイトは言葉を失った。

もし私が今ここで「わかった、付き合おう」と言ったら、私は高野と、おっさんと同じような恋愛をするんだろうか。いや、年も生活環境も違うんだから同じにはならないだろう。じゃあどんな風にすればいいの? 付き合って何するの? 高野って、この人って、どんな人だった?

私、この人のこと何も知らない。私、この人のことどんな風に思ってるんだろう。

ますます混乱したケイトの頭をそっと撫でた高野は、ゆっくりと顔を寄せてみた。どうしたらいいかわからなくて目を泳がせるばかりのケイトはぼんやりしていて、逃げなかった。高野はケイトの体を優しく引き寄せ、ぼそぼそと呟いた。

「ケイト……岡崎ちゃん、ずっと好きだったし、やっぱり今でも好きだよ」

そしてぼんやりしているケイトにゆっくりとキスをした。

許容量を完全にオーバーしてしまったケイトは無意識に目を閉じた。真っ暗な視界の中では、キスの相手がおっさんか若者かなんて、わからなかった。ただそれでも温かい唇の感触にケイトは遠い記憶を見た。

藤真に惹かれていることを自覚できず、またどうしてもそれを認められないは、藤真と特別な関係になるなんて「そんなことありえない」と言っていた。高校1年生の時だ。友達のように恋愛ができないケイトはそれを面白がっていたし、素直になってくっつけばいいと思っていた。友達の恋バナは楽しかった。だから言ったのだ。

恋なんて、ありえないくらいがいいんだよ。もまだまだだなあ

高野とキスをしながら、ケイトはその自分の言葉に胸を突かれて息を止めた。

恋ってありえないくらいがいいものなの? 知らなかった。私もまだまだだなあ……