「嘘、何、どうしたの一体……!」
「すまん、今日だけはちょっと付き合ってやってくれ、後でオレが埋め合わせするから」
「いやそんなことはいいけど、大丈夫なの」
「言うほど酒は入ってない。ケイトは?」
「ソファで寝てる」
23時頃、ようやく夫が帰ってきたと思って玄関まで迎えに出たは慌てて壁にへばりついた。藤真が高野を連れて帰ってきたからだ。ケイトが来ていることを知っていた藤真は、高野が腹が決まったというので、善は急げで連れて帰ってきてしまった。
普段缶チューハイのところ、貰い物だと言ってにワインを振る舞われたケイトはコップ一杯でころりと寝てしまった。どうせ酔っ払った藤真が帰ってくるだけと思っていたは泊まらせてもいいかと考えて放置していた。が、高野まで乱入してきたので、すっかり部屋着になっていたは慌てた。
「すまん、こんな遅くに」
「そういうのはいいけど、ちょっと待って、何するつもりよ」
「話、するだけ」
「じゃあちょっと待って。ふたりでだらだらしてたから準備くらいはさせて」
高野の目に何を見たか、は手を挙げてふたりを止め、その場で待つように指示してリビングへ戻った。ケイトはの部屋着でボサボサの頭のままソファですやすやと眠っている。起こしてしまうのは可哀想だがやむを得まい。はケイトの肩を揺すった。
「え、どういうこと?」
「……話、したいみたい」
「だからって何で、てか何よ藤真大学の先輩と飲んでるんじゃなかったの」
「そこは私が責任持って締め上げておきます」
「、どうしよう、おかしくない?」
ケイトは少々混乱しつつも、高野が来てくれたことが嬉しい様子だ。慌てて髪に手櫛を通し、の部屋着を引っ張ったり撫でたりしている。一応パジャマではないし、毛玉だらけとか襟がよれよれ、なんてことはない。ノーブラでもないので問題なし。は頷いて頭を撫でてやる。
「大丈夫、ケイト、可愛いよ」
「……ほんと?」
「中1の時、初めて見た時からそう思ってる。可愛くて、見てるだけで元気が出てくる」
時枝と並び、アナソフィアとしては少々変わった生徒ではあったけれど、ケイトはいつでも明るくて元気で、ケイトを見ているだけでその元気を分けてもらえるような存在だった。ちょっと落ち込んでいてもケイトを見ていると鬱々とした気持ちがサッと剥がれていくような気がする。そんな子だった。
それは今でも変わらない。
「私と健司は外出てるから、話し終わったら連絡してね」
「うん、ありがとう」
はバッグを掴むと、ケイトを残してリビングを出る。玄関で待っていたふたりが顔を上げたところで頷いて見せ、夫に外で待とうと言って背中を押す。だが、そこで足を止めたは高野を振り返り、力を入れて肩を叩いた。玄関に乾いた音が響く。
「……負けないでって言ったでしょう。こういうこと、二度としないで」
「すまん。約束する」
「勘違いしないで、私はあんたのことも大事な友達だと思ってるからね」
「……ああ、オレもそう思ってるよ」
サッと手を挙げたはそのまま藤真と出て行った。
リビングのドアが開き、恐る恐るといった様子で高野が足を踏み入れると、ケイトはソファの傍らに立って待っていた。もう時間が遅いからとがダウンライトにしていたリビングはそのままで、オレンジ色の暖かい光で満たされている。
「急に、ごめん……」
のろのろと足を進めながらそう言った高野だったが、ケイトは何も言わずに走り出して飛びついた。高野がその体をすくい上げてぎゅっと抱き締めると、ケイトは嬉しそうに鼻を鳴らした。
「びっくりした」
「ごめん、寝てたのに」
「にワインもらったら気持ちよくなっちゃってさ」
鼻をくすぐるケイトの優しい匂いに、高野は仲間たちの声を思い出して、腹に力を入れる。
「ケイト、何度もごめん」
「……平気。来てくれて嬉しい」
「それもあいつらにケツ叩かれてやっとだよ。それもごめん」
「いいってそんなの」
「……どうしても、自信がなくて」
腕を緩めたケイトは高野の腕を引いてソファに座り、手を取って重ねた。
「自信て、何の?」
「ケイトと一緒にいる自信」
「だけど、最初は昭一の方からだったじゃん」
「途中まではそれでもよかったんだよ。だけどこの間の件とか、過去のこととか、色々」
ケイトと特別な関係になる、それは高野にとって夢のまた夢で、まさか現実に叶うなどとはあまり信じていなかったし、そういう「ねーねー付き合おうよ」というテンションを保ったままケイトと過ごしているのはとても楽しかったのだ。けれど、ヒコさんの件や自分の過去のことはどうしても払拭できなかった。
これが時枝だったら説教されてしまうだろうな、しかしここはケイトを信じて正直に言おう。高野はそういう腹の括り方をして藤真と一緒にやってきた。重ねた手を見下ろしながら、高野はぼそぼそと話す。
「大学がうまくいかなくなるまで、オレは自信をなくしたことなんかなかった。毎日頑張れば結果は必ずついてくる、例え試合に負けても絶対に這い上がれるって思ってた。だけどそういうの全然関係ないところで気持ちが折れて以来、マイナスに考えることも増えてきてさ」
が不審に思ったように、明るくてノリのいいキャラだった高野はいつしか、自虐を覚えてしまった。
「根本的には昔のままなんだけど、どうにもケイトのことになるとつい」
「……どういうところで?」
「ええと例えば、ヒコさんの方が金持ちだよなとか、藤真みたいにイケメンじゃねーしな、とか」
こうして具体的に言葉にしてしまうと、本当にろくでもない自虐による自己不信でしかない。けれど、そういう考えが一旦根付いて芽吹いてしまうと、それを取り除くのは中々に手間がかかる。時間もかかる。
「……ねえ、あの時の、最初の夜、どんな風だったの」
「え? 最初の、ってええとその、記憶ない時の」
「そう。教えて。私何したの。昭一はその時どう思ったの」
ぎょっとした高野だったが、ケイトは目を真ん丸にして少し微笑みながら見上げている。
「えーと、だからケイトはぐでんぐでんに酔っ払って、それで送って帰ってきて、べったりひっついてたし、悪い気はしなかったよ。でも酔っ払ってるのをいいことに何かしようとかそんなことは思ってなかった。そんなことしたらみんなにブッ殺されるの、わかってるし」
もし万が一ケイトの同意なく不埒なことをしでかしたとして、ケイトとの関係云々以前に、とりあえずと時枝の報復が怖い。それに付随して藤真たちともまともな関係でいられなくなるのも嫌だ。まっとうな判断だろう。だが、ケイトは離してくれなかった。
「もう帰るの、ここにいなよ、ってしがみついてきてさ。鍵はテーブルに放り出してたし、何とか宥めて寝かせたら鍵をポストに入れて帰ればいいかと思ってたんだけどさ」
だが、ケイトはちっとも眠くならないようだし、やっぱりくっついて離れない。
「いい加減離れないと襲っちゃうぞって言ったら『いいよ』とか言い出して。おいおいそりゃマズいだろこれ絶対明日記憶ねーよと思って引き剥がそうとしたんだけど、服脱ぎだしちゃってさ……」
焦る高野を他所にケイトはさくさくと服を脱ぎ、バングルも外してしまった。そしてバスルームに飛び込み、シャワーを浴び始めた。ケイトがシャワーを浴びていたのはほんの数分間で、高野はその隙に逃げ出すことも出来た。だが、動悸が激しい高野はケイトに押し付けられた服を掴んだまま呆然としていた。
タオル巻きのケイトが鼻歌交じりで飛び出してきた時も、まだ高野は状況が信じられなくて、しかしこのまま逃げ出すこともできなくて、またケイトがぺたりとくっついてきた時も、心臓が痛むほど跳ねただけで、何も出来なかった。ただ暖かいケイトの肌にぞくりと背中が震えて、喉が鳴っただけで。
「オレが動かないから、どうしたの、って。それで何て言えばいいのかもわかんなくてオロオロしてたらさ、言うんだよ。高校生の時言ったじゃん、付き合いたいとか言ってたじゃん、あれ嘘だったの、って、もうそこで無理だった。嘘じゃなかったしあの日はずっとそのことを思い出してたし……」
ぼーっとする頭で顔を近付けてみると、ケイトは静かに目を閉じた。唇を重ねると、もう逃げ出したい気持ちは残っていなかった。ケイトをベッドへ押し上げると、高野も急いで服を脱いでバスルームに飛び込んだ。
「ケイト、寂しかったんだろうなって。正直、ぎゅっとしてキスしてるだけでもいっぱいいっぱいだったけど、ケイトが言うんだよ、高野、ケイトって呼んでよ、いい子いい子して、ぎゅーってして、もっとチューして、って。ちょっとショックだった。話は聞いたけど、ケイトの中がこんなに空っぽだなんて思わなくて」
請われるまま高野はケイトと呼び、撫でて抱き締めてキスを繰り返した。
「その時は自分なんかとかそういうの考えてる余裕もなくて、ケイトの空っぽを少しでも埋めてやれるんならって思って。もし明日の朝怒鳴られて叩き出されても、これ、たぶんオレの人生の中で一番幸せな時間だろうと思ったから、もう止めなかった。ケイトがもういいって言うまでしようと思って」
結局ケイトはもういいどころかいつしか疲れ果てて寝てしまったわけだが、高野はそんなケイトの体を抱き締めてベッドの中に潜り込んだ。満ち足りた表情ですやすやと寝ているケイト、そのそばから離れたくなかった。ここから出て行くのは、明日ケイトに記憶があるかどうかを確かめてからでもいいんじゃないか。そんな気がして。
ケイトが専門時代から使っているベッドは小さくて、しかしそこで体を丸めてケイトを抱きかかえているのは何とも幸せだった。たまにフゴッと息を吐くケイトですら可愛くて愛しくて、眠気に負けるまでずっと撫でていた。
「でも、目が覚めたら絶対怒られると思ったんだよな。どうして無視して帰らなかったんだって。全部説明しても信じてもらえないかもと思ってた。だけどさ、ケイト、全然オレのこと責めないし、ああやっぱりこの子はオレにとって本当に、特別な子なんだって、思って……」
言葉が途切れ出した高野の顔を見上げているケイトは、にんまりと微笑んだ。
「思い出した?」
「……思い出した」
「えーとね、私もしばらくグズってたんだけど、結構早かったんだよ」
最初の気持ちに立ち返って呆然としてる高野に微笑みかけたまま、ケイトは続ける。
「にね、もしこれが花形とか永野でも同じだったと思う? って聞かれてさ。いや、そんなことないと思う、花形はあんな奢ってくれない、永野も一志もああはならない。高野だったからこういうことになったんだな、って話になって。それで、じゃあケイトも高野だったからだと思う? て聞かれて、そうかもしれないって思ったんだ。今でも全然記憶ないけどさ、私も昭一だったから安心して甘えちゃったんだよ、たぶん」
「……だけどその時はまだ」
「もちろんそれはそう。今でも好きな芸能人とかはおっさんだよ。そういう趣味なのは変わらない」
味覚や嗅覚と同じ、それは「生理的欲求」に近い好みだ。簡単に転換したりはしない。けれど、そういう領域を超えてしまったとでも言えばいいだろうか。高野がおっさんかそうでないかなど、もはや些細な問題なのだ。
「だけど酔っ払っててもわかってたんだろうね。高野がそういう風に自分を見てくれてるな、私がどれだけわがまま言ってもこの人は受け止めてくれるんだろなって。それが脱ぎだしちゃったのはまあ、ご愛嬌てなところで」
エヘヘ、とケイトは照れ笑い、そして咳払いをひとつ。
「すっかり思い出した?」
「思い出した。もう余計なことに振り回されたりしない。さっきにも怒られた」
「怖かったろ」
「怖かった。の向こうの藤真までビビってた」
「時枝はもっと怖いからな」
「知ってる」
「私、もう空っぽじゃないよ」
「え? そ、そうか」
「だけど昭一はまだ隙間があるねえ」
「そ、そうかな」
「私が埋めてあげたいんだけど、いいかな?」
「……ケイト」
「手始めにあんまり細かいこと気にしないで一泊旅行一緒に行ってくれないかな〜?」
ケイトはわざとらしく上目遣いで高野を見上げて唇を尖らせた。演劇部に所属していたのは時枝だが、こうやっておどけて可愛い仕草を平気でできるのはケイトの方だった。は割と堅物だったし時枝はイケメンだったし、けれどケイトはずっとこんな風に可愛い女の子だった。
それも思い出した高野はケイトを抱き寄せてぎゅっと抱き締める。
「箱根とか伊豆とか熱海とかどうでしょう」
「どこでもいいよ、ケイトの好きなところで」
「……昭一、私、本当はしてみたいこといっぱいあるの」
抱き締めてくれる高野に頬をすり寄せながら、ケイトは低い声を出した。
「本当は、みんなみたいに放課後に手を繋いで遊んだりしたかった。彼氏とゲーセンとかカラオケとか行ったり、それこそテーマパークとか、買い物とか、安い食べ歩きとか、そういうの、ずっとしたかった。だけどヒコさんとは出来なかった。もう女子高生じゃないけど、そういうの、一緒にして欲しい、です」
ヒコさんと過ごした時間はケイトの夢そのものだった。それが数年間も存在したことには感謝している。けれど夢は覚めてしまったから。目が覚めた時には高野がいたから。
「じゃあオレはケイトの目がハートになるようなおっさんを目指すよ」
ケイトは吹き出し、高野の膝によじ登ってちゅーっとキスをした。
「じゃあとりあえず帰ろっか。家主にお礼言って、手繋いで帰ろ」
「帰ったらゲームするか」
「そこは朝まで寝かせないぜ……とか言うところだろ!」
「えっ、何ケイト、エッチしたいの」
「そーいうわけじゃないけど!」
「しょうがねーなもー」
「人のせいにするな!!」
やっとふたりに10代の頃のような笑顔が戻ってきた。あの頃もケイトと高野は8人の中でも特に明るくて楽しいことが大好きなふたりだった。長い時間が経ってしまったしつらいこともたくさんあったけれど、そういう自分の本来の姿、そんな自分のままで一緒にいられたら。
と藤真を呼び戻したふたりは、何度も頭を下げて礼を言い、帰路についた。手を繋ぎ、子供っぽいことを延々喋り、話が途切れたらこっそりキスをして、駅前のタクシー乗り場まで歩いて帰った。そして、缶チューハイを飲みながらゲームで遊び、遊び疲れてそのまま眠ってしまった。
まるで高校生のカップルのように、床の上でくっついて眠った。