ウェルメイド・フィクション

09

引退直後からオファーが来ていたというのに、1年以上もグズった藤真はしかし、高野と話したことで気が楽になったのか翔陽の監督の件を前向きに考えたいと言い出し、それにはもちろん賛成のを始め誰にでも歓迎された。唯一時枝だけが遅いと怒って電話をかけてきたが、それにも余裕で言い返せるようになった。

「私は運動部よくわかんないけど、若いとダメなの?」
「そういうわけじゃないけど、特に指導者は経験も必要になってくるしなあ」
「だけど藤真って監督やってたじゃん」
「だから呼ばれたんだよ」

ケイトの答えが出て以来、ふたりはまるでどこにでもいるカップルのような付き合いを続けている。ケイトの生活が厳しいので一緒に暮らしたらどうだという声がないでもなかったのだが、そこはケイトの方が「安直だ」と言って難色を示し、以前と変わらず週末になると高野が泊まりに来たりする生活になっている。

それに、例のケイトの祖父は恋愛は奨励してもだらしないのが大嫌いというタイプなので、祖父に高野を悪く思われたくないケイトはその点は妥協しない。ここはアナソフィア3人組も同じ価値観のようで、高野が助けてくれるからもう支援はいいと言ったケイトに対し、ふたりともそういうことは結婚してから言えと言って譲らなかった。

「長かったな〜。球技大会だから5月でしょ、高校入ってすぐじゃん」
「球技大会?」
「あれー聞いてない? と藤真、フォーリンラブ」

キスをしたければビールを飲むなときつく言い渡されている高野は大人しく缶チューハイである。それを吹き出しかけ、慌ててティッシュに手を伸ばした。どうやら知らなかったらしい。まあ、藤真がそんなことをベラベラと話すわけはないので、当然かもしれないが。

「そういやあいつエキシビションマッチのキャプテンにさせられてたな。その頃からだったのか」
「あまりにネタっぽいから滅多に言わないようにしてるらしいけど、本当にお互い一目惚れだったらしい」

その後の顛末をよく知る高野はまた缶チューハイを吹き出した。

「それなのにあんだけ時間かかったのかよ……
「てかあんたは? いつ私のこといいなって思ったの」
「なんでそういうところだけ慎みがないんだよアナソフィア女子ってのは……

中学1年生から厳格な指導な割に閉鎖的な空間で育つからである。その上ケイトのダンス部と時枝の演劇部は、そういうアナソフィアにおける変な個体発生の温床なので、それが仲良く6年間過ごした結果でもある。

「これってのはねえなあ。いつも帰りはオレと永野が担当だったから、と時枝より一緒の時間が長かったてのはあるけど。てか……2年のダンス大会、藤真来なかったろ。あの時あんまりが可哀想だったから、オレじゃ代わりになれないかなと思ったことがあったんだけど、オレの方がダメだった」

確かに監督になってしまった藤真は突然を避けだし、それを見ていたケイトや高野たちの方もつらい思いをした。それは覚えているけれど、オレの方がダメってどういう意味よ、とケイトは首を傾げた。

「だからそれは友達としてが可哀想だと思うだけで、が好きで付き合いたいと思ったわけじゃなかったんだよな。で、それと一緒にやっぱりケイトの方がいいなあ、って思ったとか、そんなんかな……

こちらも首を傾げながら高校生の頃の自分を思い出していた高野は、ケイトが黙っているので顔を上げた。すると、ケイトは隣で膝を抱えながら俯いている。高野は慌てた。いかん、可哀想はダメだったか!?

「いや、だからは別に友達として……
「それって、より私の方がいいってこと?」
「えっ? そりゃそうだけど」
と私の二択だとしても、私を選ぶの?」
「そう」

ビクビクしていた高野だったが、いきなりケイトに飛びつかれてついよろけた。

「どうしたんだいきなり」
より私の方がいいなんて言う人、誰もいなかったんだもん」
「え?」
と時枝の間に挟まれて6年間、ふたりのことは大好きだけど、たまにイジられたから」

高野たちからは3人とも可愛いくて頭がよくて、そこに優劣などないように見えただろう。けれど、例えば成績ではと時枝には勝てなかったし、それなりにモテてはいたけれど女子には時枝の方が、男子にはの方が何しろモテた。ちなみに身長もふたりより低い。

そしてケイトは思い出す。アナソフィアの卒業式、この期に及んで素直になれない藤真を焚きつけるつもりか、花形と永野がの手を取り、藤真がいらないならオレはどう? と言ったのだが、その時高野は名乗りを上げなかった。おっさん好きの自分には花迎えが来ないと思っていたけれど、すぐ隣に花告げの気持ちを持ってくれている人がいたのだ。

「そっか、そっかあ、昭一って、そんなに私のこと好きなんだ」
……好きだよ」
「そっか、そうなんだ、知らなかった、全然知らなかったよ…………ごめんねえええ〜!」

冗談めかして茶化していたケイトだったが、高野に抱きついたままうわーっと泣き出した。

「いやいや、何で泣くんだよ、謝ることないだろ」
「私もよくわかんないけど嬉しいありがとう」
「それはオレの方だよ。おっさんには申し訳ないんだけど、こうしていられるの、オレも嬉しい」

腕を緩めたケイトは真っ赤な目をして鼻をすすり、にやりと笑ってちゅーっとキスをした。

「昭一、もう大丈夫、私も昭一のこと好き。ほんとに好き」
「マジか」
「昔のこと、忘れたわけじゃない。だけど今はそういう気持ちだから」

おっさんと過ごした日々のこと、そして失ってしまったこと、それを忘れることはないだろう。けれど、ケイトがおっさんと幸せに過ごしていた間も、遠くにひっそりと息づいていた思い、今はそれを大事にしたかった。もう二度と失いたくなかったから。

さて、グズり続けた藤真はようやく決断、翔陽高校バスケット部の監督を引き受ける運びとなった。時を前後して噂の湘北の監督も同期の三井になると聞いた翔陽組は色めき立った。特に一方的ながら三井に対してわだかまりがあった長谷川は真顔で「ブッ潰せ」と言ってきた。

ということはプロポーズである。これは監督就任がほぼ決定になると、主に時枝と花形がちくちくと藤真を突っつき、早く早くと急かした。監督になってからは時間がないんだからさっさとしろ、というわけだ。

ただでさえ意地っ張りで素直になれないふたりのこと、どんなプロポーズがあったのかは仲間たちの知るところではないけれど、とにかくふたりは無事に次のステップへ進むことになった。

という慌ただしい状況だったので、こちらも大掛かりな挙式はせず、身内同士での会食とふたりだけのチャペル婚で済ませた。が、その会食で久々にの「お兄ちゃん」である湘北出身の木暮と顔を合わせた藤真は緊張しすぎて食事も喉を通らない始末。親よりも幼馴染のお兄ちゃん怖い。

その上彼のチームメイトである三井が湘北の監督に就任するわけで、のことは安心して任せられるけど、絶対に負けないからなと言われてプレッシャーで吐きそうになっていた。藤真は普段はこんなに小心者ではないが、高校3年生の時の敗北の記憶だけは未だに彼を苦しめているらしい。

そして翌春、藤真は晴れて母校の監督に就任した。

が、翔陽ということはアナソフィアである。毎年春には球技大会があり、エキシビションマッチとしてアナソフィア精鋭チームと翔陽1年生選抜チームが対戦する。種目はテニス、バレー、バスケット。バスケットの方は一応監督が練習などの指導をする。もちろん当日も同行します。

その日の惨状が仲間たちに伝わるのには時間がかかったが、とにかく藤真監督はスーツのジャケットを脱いだ状態で首からIDをぶら下げてアナソフィアに降り立った。何もかもが懐かしい。嫁と出会い、嫁の手を引いて卒業を迎えた場所である。だが、そんな感慨に浸っている場合ではなかった。

何しろそもそもがだいぶイケメンの元プロが女子生徒約1500人の前に颯爽と現れたのである。御年29歳。

傷つけたら困るからという建前で恥ずかしがって指輪をつけていなかった藤真だが、この日を境に何があっても指輪だけは外さない男になった。そしてこの年から彼の教え子になった翔陽の部員たちは予選にその嫁が見に来たからさあ大変。監督の嫁がやべえ元アナソフィアらしいやべえと大騒ぎ。

威厳をもって指導していくつもりだった監督は、夏休みまでの間にズルズルといじられキャラになり、しかしまだ若いのだし、バスケット以外のことでも安心して話ができる監督として慕われ始めた。結果は上々であろう。

ちなみに翔陽も湘北も同時に新任監督でスタート、老獪な海南と陵南の監督のネチネチとした戦術に今一歩及ばず、インターハイの出場は叶わなかった。それでもどちらのチームにも新しい風が吹いた。以後、両校が対戦することがあると、監督の元チームメイトが客席で火花を散らすという妙な習慣ができることになった。

そんな頃のことである。

未だに綱渡り暮らしをしていたケイトは、自身が通った専門学校の元担任からの電話に動揺していた。

「なんでまたそんな急になの?」
「急ぎだから私のところに来たんじゃないのかな」
「それも失礼な話じゃない?」
「それだけ困ってるんだろうけど……

相談を受けたは電話の向こうでカリカリしている。ケイトの元担任は地方都市にあるテーマパークのダンサーが足りなくて困っているので、今すぐ行ってもらえないかと言ってきた。テーマパーク自体は巨大で来場者数も多く、職場としては申し分ない。先方もケイトの経歴なら歓迎だと言う話だ。

「だからって人が足りないからお前行けよみたいなのはどうなの!」
「求人出してすぐに出てくるタイプの職種じゃないからねえ」
「それ、何て返事したの」
「何しろ遠いからさ、考えさせて下さいって言ったんだけど、早くしてくれって言われちゃって」
「誰にだって家族や事情ってもんがあるでしょ!? なんなの!」

時枝ならわかるが、がこれだけ怒るのは珍しい。が、彼女の怒りの根源はただひとつだ。

「高野はどうすんのよ。何て言ってるの」
「それが……まだ何も話してない」
「えっ、何で」
……迷ってて」
「何を」

の剣幕とは裏腹に、ケイトの声は小さくなっていく。

「どう言えばいいのかわかんなくて。そりゃまた踊りの仕事が出来るのは嬉しいんだけど、欠員補充みたいな感じだし、遠いし、自分が遠くに行くから着いてきてってのもおかしいし、高野がいるからやめるっていうのも逆に申し訳ない気もして、自分でも決めきれなくて」

お互いつらい時期を乗り越えて平和に付き合っていただけの関係である。ケイトは結婚を焦るタイプではなかったし、高野の方も可能性にビビっていた部分はあるけれど、それはまだ現実的ではないと思っていたから、いざこんな風に距離ができてしまうかもしれない選択肢を突きつけられてしまうと困惑してしまう。

「でも言わないわけにはいかないでしょ」
「うん……今度言おうとは思ってるけど」
「行かないでくれって言われたらどうするの」
……そしたら、行きたく、ないかも」

ケイトの声が聞き取りにくくなるけれど、は慎重に耳を澄ます。

「別に死ぬわけじゃないのに、離れたらダメになるかもと思うと、手放したくない」
「だけどそんな理由でダンサーの職を放棄する勇気が出ない」
「そんなところ……さすが……

は何も自分たちが急かされたようにはふたりをゴールインさせたいとは思っていない。ただ、どちらにしても傷を癒しあえるパートナーなのだし、ここで離れ離れになってしまうのは得策とは思えなかったのだ。ケイトにしても高野にしても、また孤独に逆戻りさせたくなかった。

はどんな結果であってもケイトの決断を支持すると断った上で、それでもケイトがまたひとりきりになることは不安だと言い残して電話を切った。

その週末、土曜の夜に食材片手にやってきた高野は、食事が終わると神妙な顔をしたケイトを正面に置いてきょとんとしていた。何だか話があるというが、一体何だろう。一瞬妊娠を疑ったが、つい先日生理が来ていた。それはない。また逆プロポーズされるようなタイミングでもないし、まさか別れたいと言われたらどうしよう。

だが、正座の膝に手を突っ張ったケイトは、しどろもどろで話を切り出した。

「え、マジか!?」
「ま、マジです……
「えっ、それってダンサーってことだよな? 前にやってたのと同じような、ショーに出るダンサーだろ?」
「たぶん……一応そういう話だったけど……

ここで高野の言葉が途切れたので、おやと思ったケイトはひょいと顔を上げた。その瞬間、固い真顔になっていた高野はパッと笑顔になり、腕を伸ばしてケイトの手を取った。

「すごいじゃないか、それってケイトのダンスがやっぱりすごいから、ってことだろ」
「え、そ、そうなのかな……?」
「いくら欠員補充ったって、それまでの人の穴を完璧に埋められる人材じゃなかったら話来ないよな」
「まあそう、なのかな、よくわかんないけど」

ケイトは目の前の高野の笑顔を見上げながら、頭の芯がぼんやりと痺れるような感覚に陥っていた。どうしたことだろう、褒められている気が全くしない。なぜだろう、高野の笑顔が、大好きなはずの彼の笑顔が怖いような気がする。というか、にっこり笑っているのに笑顔に見えないのは何故だろう。

「急な話なんだから、向こうでの生活とかちゃんとサポートしてもらえるんだよな?」
「どうだったかな……
「だけどあれだけ大きな施設だからな〜。寮くらいはあるだろうし」

あれ、私向こうに行くことになってる? 胸にチリッと火傷のような痛痒さを感じたが、それをどう言えばいいんだろうと迷っているケイトに高野は畳み掛けた。

「やっぱりケイトはダンスしてないとな。何より踊りが命だったもんな。たちには報告したのか? 時枝なんかまた泣いちゃうんじゃないか? おおそうだよ、ケイト、ヒコさんもきっと喜んでるよ」

高野は優しい笑顔を浮かべている。けれどその瞬間、ケイトの心にビシッと音を立ててヒビが入った。ヒビは痛みを伴ってじわじわと広がっていく。細かく細かくケイトの心を傷つけた。だが、それをどんな風に高野に言えばいいのかもやっぱりわからなくて、その日、突然のことだから混乱しているという理由で一晩やり過ごし、日曜の昼ごろに高野を送り出した。

高野が出て行ったドアが止まった瞬間、ケイトはその場にへたり込み、はらはらと泣き出した。

高野の笑顔には見覚えがある。あんな風な笑顔をよく知っている。あれはヒコさんが自分の末期を悟ったであろう頃によくしていた笑顔だ。その時は全く気付かなかったけれど、遺言書が書かれた時期と照らし合わせると、ちょうどその頃だった。彼はもう諦めていて、ケイトのために遺言書を作り、作り笑顔を纏っていたのだ。

ヒコさんを失って3年、ひょんなことで再会した高野は10年の長きに渡ってケイトへの思いを大事に守っていた。その気持ちが嬉しかったから、それに応えたいと思った。いつしかケイトも高野のことが心から好きになれた。なのに、高野はヒコさんと同じ笑顔でケイトを突き放した。

やっぱり私、ひとりになるんだ――

高野の言うようにダンスは命だ。踊っている時が一番生きていることを実感できるし、音と一体になって舞う喜びはケイトの生きる意味そのものだ。だからその機会を与えられることには感謝している。大きなチャンスだとも思う。またステージに登れる最後の機会なのかもしれない。

しかしそれと同時に、今ここで高野を失ってしまったら、それこそ二度とあんな風に自分を思ってくれる人とは巡り会えない気がした。完璧なヒコさんだけでも奇跡だと思っていた。高野が好きだと言ってくれたことも、もはや全ての運を使い果たしたようなものだと思っていた。

ダンスも高野も、どっちも手に入れたいと願うことは我儘なんだろうか。私は、ダンスを選べばパートナーを失い、パートナーを選べばダンスを失うように出来ているんだろうか。

ダンスも高野も、どちらも大好きなのに、どちらかを選んでどちらかを捨てなければならないのだろうか――