ウェルメイド・フィクション

10

「この、バカ!!!」

この遠慮のない罵倒は時枝母さんのものである。子供がいるのでたまにしか会えないけれど、それでもケイトと高野が付き合い出してからはちょこちょこと席を持つようにしていた。中々当時の仲間8人全員は揃わなかったけれど、都合のつく面子だけでも積極的に集まろうというわけだ。

この日は時枝母さんのふたり目の妊娠がわかったので、時枝さんまたしばらくお休みですの集まりだった――のだが、集まったのはと藤真と高野だけ。なので話はケイトの再就職のことに及び、高野は時枝とと藤真に頭ごなしに怒られている。

「だけどまたテーマパークで踊れるんだぞ。不安定な生活からも抜け出せる」
「あんたそれ本気で言ってんの? ケイトのこと何だと思ってんの?」
「じゃあオレのためにダンサー諦めろ、生活キツいから踊りはすっぱり辞めて主婦になれって言えばいいのかよ」

どちらも極論だが、つまり高野にはそういう遠慮があり、ケイトはケイトでそんな風に言わせたくないあまり決断ができなかった。しかも結婚など全く考えていなかったわけで、そういう外からの事情で無理に進退を考えなければならないのも、ふたりにとっては重荷だった。

先にケイトから話を聞いていたは、難しい顔をして腕を組み、低い声を出した。

「だけど高野、ヒコさんを失って以来心に支えがない状態だったケイトにとって、あんたとの関係がどれだけプラスになったかくらい、わかるでしょ。てかそういう点では高野も同じでしょ。それがなくなっちゃった時にどうなるか、あんたはわかるでしょう」

ヒコさんが亡くなった直後はまだケイトはテーマパークで踊っていた。もちろんや時枝も出来る限り彼女の心に寄り添うよう努力したけれど、その頃のケイトはステージに立つことで自分を保っていたのだ。しかもそのステージは既に6年目の職場であり、仲のいい同僚もいた。

だが、今度は完全なるひとりきりだ。しかも慣れない土地慣れない職場初めてのステージ。高野はいない、と時枝もいない、祖父もいない。ダンサーとして復帰できるかもしれないことは確かに喜ぶべきことだ。だけどはそんな環境にケイトをひとりで放り出したくなかった。

「じゃあどうすりゃいいってんだよ。オレが仕事辞めて着いていけばいいのか?」
「そんなこと言ってないでしょ。それも含めてちゃんと話もしないで突き放したから怒ってるんじゃない」
「ちゃんと、ってケイトがダンスを捨てられるわけないだろ。踊りが生き甲斐なのに」

すると、時枝の剣幕との理屈の間で黙っていた監督がのそりと体を起こした。

「高野、オレの大学の同期な、2年になったくらいで留学したんだよ。アメリカ。どうしても本場でバスケしたいって言って思い詰めて、提携してる大学に。だけど半年くらいで帰ってきた。まずだいたい言葉通じないだろ、アジア人だろ、こっちにいても例えば牧とか河田みたいなプレイヤーじゃなかった。相手にされなかった」

淡々と話す藤真監督の話に3人は聞き入る。藤真は監督になってからずいぶん物腰が丁寧になった。

「あまりにもげっそりして帰ってきたもんだから、どうだったよって聞いたんだよな。そしたらさ、向こうではバスケちっとも楽しくなかったって言うんだよ。日本にいる時はバスケが出来なかったらイライラするくらいバスケ好きだったのに、向こうにいる間は練習もサボりまくって、バスケできなくても全然苦にならなかったって」

団体競技である以上、他人と良いコミュニケーションがとれない状態では何をやっても面白くなかったんだろう。

「そこからはもうアメリカとか日本一とか、そういう肩書きにこだわらなくなったんだよな、そいつ。志が低いって言われるかもしれないけど、このチームでバスケが出来ることが楽しい、バスケ楽しいってもう一度思えたから、オレはここでいいって言って、本当に楽しそうに練習してた」

は夫の言わんとしていることがわかったらしく、小さく頷いて背もたれに体を沈めた。が、時枝は少し考えているし、高野もきょとんとした顔をしている。

「だからさ、遠くのテーマパークで踊るだけがケイトのダンスなのか、って話だよ」
「それはオレがどうこう言えることじゃないだろ。ケイトがどう思うかであって――
「だからそれをふたりでちゃんと話し合わなかったら、喧嘩したわけでもないのに別れる羽目になるだろうが」

藤真が言いたいのはそういうことだ。ダンサーとしての職の口があるのはともかく、本当にケイトはテーマパークのダンサーでなければだめなのか、ケイトにとって踊るということはどういうことなのか、それと高野はどうしても両立できないことなのか。そういうことをちゃんと話さないまま、応援しているという形で突き放そうとしている高野を3人とも怒っているというわけだ。

「確かにダンスはケイトの全てだろうさ。だけどそれがテーマパークのショーでなければダメ、それ以外は絶対嫌だってケイトに言われたのか? 、時枝、そんなこと聞いたことあるか?」

と時枝は黙って首を振る。確かにテーマパークのダンサーはケイトの夢だった。家族とギスギスした関係になっても掴みたい夢だった。けれど、退社してしまった後にケイトが見つけた「ダンスの仕事」はお教室と振り付けだった。人間関係では苦労していたろうが、「ダンスの仕事」それが嫌だと愚痴を言ったことは、一度もない。

「元々の夢だから、またテーマパークで踊れるかもと思えばそりゃグラッと来るだろうけど……まだケイトは迷ってたんじゃないか? お前と相談したくて、それで話したんじゃないのか。それを一方的に突き放しやがって……ケイトのためとか思ってんなら大きなお世話だぞ、それ」

藤真は言いたいことを全て言ったので突然黙った。これにはも時枝も概ね同意見なので口を挟まない。が、高野がケイトを突き放してしまったのにはまだ理由がある。

「別にオレは……オレたちはお前らみたいに結婚とか考えてねーし、行くなとか止めたところでケイトの生活が楽になるわけじゃないし、テーマパーク行けば、また見つかるかもしれないだろ、いいおっさん」
「お前ふざけんのもいい加減にしろよ」
……お前だって自信なかっただろうが。親より木暮が怖いっつってたろ」

情けないエピソードをほじくり返された藤真はムッと顔を歪め、その両脇のと時枝はそっと顔を背けて笑うのを我慢していた。にプロポーズするのに、最終的に藤真が一番ビビっていたのは木暮で、しかし兄も同然の彼に報告しないわけにもいかず、一応知り合いなのでに丸投げも出来ず、大変だった。

「ヒコさんのこと気にしてんのか?」
「当たり前だろ。いきなり死んだりしなきゃ完璧な存在だったのに」
「それはもうどうしようもないことだろ。ヒコさんに並ばなきゃとか思ってんのかよ」
「思ってないし無理だろそんなの!」
「思ってんじゃねーか!」
「あのー、ちょっといい?」

熱くなってしまったふたりの間に割って入ったは、一つ咳払いをして首を傾げた。

「気持ちはわかるけど、さっきから話が極端じゃない? ヒコさんは確かに社会的地位もあって人生経験も豊富な大人でケイトの好みだったけど、さっき自分で言ったじゃん、結婚なんか考えてないって。だったらそんなこと関係なくない? 付き合うのにヒコさんみたいなスペックなきゃダメなんだったら、何でケイトは付き合ってくれることにしたんだろね」

かなり余分にツッコミを入れただったが、そのせいで反論の余地がなくなった高野は肩を落とした。

……そりゃ行って欲しくないよ。だけどそれって、オレはここから動きたくないから、いい仕事のオファーも蹴ってここに残って欲しい、だけど結婚する気はないです、って言ってるのと同じじゃないか?」
「高野お、あんたは女子かよ」
「じょ……え?」
「それってケイトが30目前で、私とが既婚だからケイトもそうさせてやらなきゃとか思ってんじゃないの」

藤真は黙って聞いていたが、時枝の言葉には大きく頷いた。

「まあ確かに30前後で超焦る人多いけど……ケイトそんなこと言った? 言わんでしょうよ。何でこっちに残るイコール結婚の展開込みなの? もしこれと全く同じ展開がハタチの時に起こったら、あんた結婚のことなんか考えた? 考えるのはまず遠恋の方でしょ。アラサーの女の子なんだから、なんて思い込んでるだけじゃないの」

高野は目を丸くして黙っている。表情から察するに、時枝に指摘されて初めて気付いた、という顔だ。

「結婚なんかしたくなったらすりゃいいじゃん。ここはもうこの間の件しかタイミングなかったからだし」
「おい」
「私は旦那が優柔不断だから、さっさと法的に拘束しておきたかったからだし」
「えっ、そうなの」
「そんなのどーでもいいことじゃないかい?」

時枝母さんもそれはそれで紆余曲折の末に結婚を決意し、しかし彼女は子育てに奮闘しながらも劇作家になるという夢は諦めていない。子供抱えて目指せるような生易しい夢じゃないとよく言われるらしいが、成否はどうでもいいのだ。あくまで時枝はそれを目指して生きている。そういう生き方を選んだ。

の言うように、ケイトもあんたもつらい思いしてきたんだし、夢とか将来とかなんかそんなことに囚われてまた傷付くのはどうなのかなあ。ケイトがあんたよりダンスが大事だからって言ったわけでもないのに」

どうしてもと時枝はそこが引っかかるのだ。もう深い傷を追ってほしくない。

「そういうのは、考えたことなかった」
「ケイトともう一度ちゃんと話してみたらどうだ」
……ちょっと手遅れかもしれない」
「は!?」

素っ頓狂な声を上げた藤真にへらへらと笑い返しながら、高野はぼそりと呟いた。

「今、向こう行ってるんだ。一応面接と、寮の下見とか、色々込みで」

困った顔をしている高野、そしてそれを見ている3人は揃って肩を落とし、大きくため息をついた。

使い古したキャリーカートをゴロゴロと引きずりながら、ケイトは神奈川に帰ってきた。1泊2日の行程は移動が多かったので疲れてしまった。それに、行きの間中高野のことが肩に重くのしかかってきてずっと落ち込んでいた。話が具体的になればなるほど別れも近付いているのと同じな気がして。

ひとりで鬱々としていたせいか、ケイトはついと時枝が羨ましいと思ってしまい、それが自分の心の中で苛つきと憎悪に変化しそうになったのを感じ取って冷や汗をかいた。

大好きな友達なのに、きっともう一生友達でいられるふたりなのに、にも時枝にも決まったパートナーがいるというだけでそんなことを思ってしまった自分が情けなくて、嫌で、ケイトは余計に疲れる。

私、おっさんが好きだったはずなんだけどなあ。おかしいなあ。

よく知った道を行きながら、ケイトは改めてその疑問に立ち返る。同い年の高野などケイトの感覚で言えば小学生と恋愛するようなものだったはずだ。しかしいつしかそんな違和感はどこかへ行ってしまって、ヒコさんを想っていたのと同じように高野のことが好きになっていた。

ほんの数年前までは天地がひっくり返ってもありえないことだった。若者は生理的にダメなのだと思い込んでいた。しかし、それはつまり「入れ物」の問題であって、ヒコさんでも高野でも、その中身である心、気持ちの方は本質的には同じだ。ふたりともケイトを大事に思ってたくさん愛してくれた。

なのにやっぱり一緒にいられなくなっちゃうんだなあ。

疲労も手伝って打ちひしがれたケイトは、ボロいキャリーカートを引きずりながら、母校へと向かっていた。今思い返してみても、高校時代の自分にはまったく悩みがなかった。と藤真のことや進路の問題はあったけれど、こんな風に胸がギリギリと締め付けられるような不安とともに襲い掛かってくるような悩みはなかった。

毎日楽しくて心には希望しかなかったあの頃に少しでも立ち返りたくて、ケイトはアナソフィアに向かっていた。

しかしアナソフィアを卒業して10年以上、懐かしさのあまり道々写真を撮りまくったケイトはそれをと時枝に大量に送りつけた。ヤバい超懐かしい見てこの店まだある全然変わってない。おかげで最寄り駅から歩いて10分ほどの道のりは既に40分になろうとしている。

とはいえ急ぐこともなし、今のところ返信がないが、都合が付けば時枝のところに顔を出してもいいなと思っていた。上の子にもしばらく会ってないし、それほど離れてもいないが、時枝は里帰り出産をしていたから、うかうかしていると実家に帰られてしまう。さすがに実家までは行かれない。

はどうだろうか。そろそろ1年が経つとはいえ、新婚家庭にお邪魔するのはどうだろうと思っていたけれど、とにかく藤真が家にいないので気にしないでくれと言われたまま、足を向けていない。

ふたりに対して僻みのような気持ちを持ってしまったことを払拭したかった。ふたりを好きだと思うことは迷うことがない。遠い日にアナソフィアの狭き門を突破したばかりの12歳3人はすぐに仲良くなった。それからは17年の月日が流れている。アナソフィアの重厚なレンガの外壁が見えてきたケイトは目が熱くなってきた。

と時枝のことを思って胸が一杯になったはずのケイトだが、思い出すのは高野のことばかり。

あの頃、もし昭一が本気で好きだと言ってきたら、どうしたんだろう。30歳目前の今ですら若いと思うのに、高校生など子供同然、笑い飛ばして相手にしなかっただろうか。私はおっさんが好きなんだから嫌だ、と嫌悪感を抱いていただろうか。気持ちは嬉しいけど無理、と言っていたんじゃないだろうか。

今となっては、その「無理」がわからない。何が無理なの、あんなに大事にしてくれるのに、それの何が無理なの。見た目? 年齢? 収入? おっさんがちょっと特殊だっただけで、高野は普通だよ。ちょっと傷付いた時期があったくらいで、本当に普通だよ。それがむしろ貴重なくらいに普通だよ。

足を止め見上げると、戦後に再建されて以来のレンガ造りの正門が現れた。入学を許された少女はこの門を通ってアナソフィアの生徒となり、そして6年かけて素敵な女性となってこの門を出て行く。それを待っているのが花迎えだ。少々お祭り騒ぎの感もあるが、それでもやはり憧れの卒業イベントである。

もちろん全てのアナソフィア女子に花迎えがあるわけじゃない。悪質なナンパやふざけた悪ノリの告白、花告げだってある。だから、自分に花迎えがなかったことについては、それを残念に思う気持ちはない。花迎えはなくてもヒコさんと出会ったし、高野とも再会できた。

けれどそんなことで一喜一憂していたあの頃が幸せだった記憶に囚われたまま、ケイトは正門を見上げていた。

もし今あの頃に戻ったら、私、どう思うんだろう――

「ケイト!!!」
「ファッ!?」

感傷に浸ること約5分、背後から突然声をかけられたケイトは文字通り飛び上がって驚いた。つい放り出してしまったカートはバタンと音を立てて倒れ、肩にかけていたバッグも手首までずり落ちている。おたおたしながらも慌ててケイトが振り返ると、ぜいぜいと喉を鳴らしている高野が立っていた。

「え!? なんで!?」
「ごめ、さっきから連絡来て、それでここにいるって」
「いやちょっと待って仕事は!?」

この日は金曜だが、現在時刻は11時半である。

「母親が急に具合悪くなったっつって抜けさせてもらってきた」
「ちょ、そんな嘘ついて何しに来たのよ、私別にこの後は普通に帰るけど」

やっと息が落ちいてきた高野は、虚を突かれて目を丸くしているケイトを真正面から見据え、姿勢を正す。

「花迎え、しにきた」

ずり落ちたバッグと引き起こしたカートを掴んでいたケイトは目をひん剥き、またバッグとカートを落とした。

「あの時はちゃんと花迎え出来なかったけど、今度は本当だから。えーと、その、ケイト、岡崎ちゃん、オレと一緒に帰ってくれませんか。もう一回ちゃんと話したい。これからのこと、ふたりで話したい」

ケイトの両目からボタボタと涙がこぼれ落ち、そして彼女は地面を蹴って高野に飛びついた。その体を高野はすくい上げてぎゅっと抱き締める。ケイトの足が地面から浮いてふらふらと揺れている。

花迎えの頃に必ず花をつける大寒桜はしんと静まり返っている。けれどケイトは背中に吹く風に春の暖かさを感じていた。脳裏にはあの日見た舞い散る桜の花びらも蘇る。遠い日にはありえなかったことだとしても、ケイトには今ここにいる高野が現実そのものだ。

恋はありえないくらいがいい、本当だね。

ケイトは15歳の自分に向かって、笑いかけていた。