ウェルメイド・フィクション

04

メインで教えているダンス教室は平日の夜週4回がケイトの担当になっている。だが、もちろんそれだけでは食べていかれないので、ケイトは昼間に開催されるカルチャースクールやら別の教室やら、あちこちを掛け持ちしながら日々を過ごしている。それでも時間が余るので振付の副業を何とか手に入れたわけだ。

今のところ金曜の夜から日曜までがぽっかり空いてしまっているケイトは、そろそろダンスが関係ない業種でも我慢してアルバイトをしなければならないかもと思っていた。ダンサーとしてテーマパークの社員だった頃が懐かしい。ボーナスとかいうものが恋しい。社員食堂尊い。

しかし、金曜から日曜が丸々空いてしまったことで、週休2日で働くは都合がつけやすくなった。だいたい金曜の夜か土曜の昼ごろにやってきてはケイトに食事を振る舞ってくれる。外食の時もあれば、部屋でまったりしよ! という時もある。今日はケイトの肌が心配だとか言って、コラーゲン鍋を用意してきた。

というかと時枝、そしてたまに経由の藤真は、ケイトが悲惨な状態に陥ってからというもの、こうしたたまの食事はもちろんのこと、日用品の差し入れなどで彼女を助けてきた。今日もは生理用品と下着を持ってきてくれた。時枝からは先日トイレットペーパーが巨大な段ボールで届いたばかり。

最初はそれがあまりにも情けないので、さすがのケイトもダンスへの執着は捨てて就職口を探そうと考えた。だが、それを聞いた時枝が噴火、ケイトが自分でダンスはもういいやって言うならともかく、出来る範囲でしかやってない支援に遠慮してダンスやめるなんて許さないと怒られた。

その時はたまたま藤真もいて、自分たちの生活が苦しくなるほどやってるわけじゃないし、おっさんも踊ってるケイトが好きだったんだろうし、どうしても無理だからダンスは趣味にしようって心から思えるまで頑張ってみたらどうだと言ってくれた。それを聞いて、悪あがきしてみる決意をしたのだった。

それを思うとアルバイトすらも何となく決断しづらくなるケイトだが、の笑顔と美味しい鍋と缶チューハイに気持ちが緩んで、高野の件を全てブチ撒けた。は缶チューハイをゴフッと吹き出しかけて固まった。

「高野って、高野ってあの高野昭一の高野?」
「それ」

割と頻繁に遊びに来るので、はパーカーとルームパンツのセットアップをケイトの部屋に置いてある。それを着て髪をざっくりとまとめたは、缶チューハイでピンク色に染まった顔で唖然としている。

「ほんとに記憶ないの?」
「ない。見事な朝チュン状態だった。どんより曇ってキジバトが鳴いてるだけだったけど」

驚くあまり、ケイトの持ちネタである点と線のような顔になってしまったは、やがて髪をくしゃくしゃとかき混ぜたり頬をさすってみたりと、忙しなく動いては混乱を鎮めようとしている。

「えーと、それ、何て返事したの?」
「混乱激しいから少し時間くれって言って、保留にしてある」
「えっ、そうなの!?」
「えっ、マズい!?」

がひっくり返った声をあげるので、ケイトも思わず同じような声で返した。

「いやそうじゃなくて、考えさせて、ってことはOKの選択肢もあるってことでしょ」
……そういうことになっちゃうんだけど、なんていうか、嫌だって言えなくて」
「そんなの遠慮するようなことじゃないでしょ」
「ううん、遠慮とかじゃなくて、もちろん今でも私はおっさんフェチなんだけどね」

自分でもあまりはっきりしない気持ちを探りつつ、ケイトは膝を抱えた。

「同い年の男がアリかナシかってことじゃなくて、元々はあいつら5人全員大事な友達だったし、そう言う意味では好きじゃん。だから傷つけたくないっていうのはあるし、と時枝に感謝してるのと同じように、にこにこしながらご飯何でも食べなよって言ってくれたのすごく嬉しかったし、有難かったし」

それと恋愛が一瞬で混ざるわけはないけれど、何しろケイトは高野の言うように心が空っぽになっているし、おっさんと一緒に夢の舞台まで失って不安定になっていたし、自分自身の在り方までグラグラと揺れているのだ。それを確かめるためにも時間が欲しかった。

「空っぽになってる私を少しでも埋めてあげたいって、全然望みなかったけどあの頃から好きだったよって、そう言ってくれる高野の気持ちは本当に嬉しくて、なのに『あんたは若いからやだ』なんて言えなかったんだよ。私、若いってだけでそういう風に思ってくれる人とちゃんと向き合えないんだと思ったら、悲しくなってきちゃって」

ケイトが泣き出しそうな顔をしたので、は隣に移動して肩を抱く。少し癖のある黒髪は高校生の頃から何も変わっていない。きりっとした眉と黒髪のポニーテールがケイトのトレードマークだった。いつでも明るくて元気で、ダンス部員だけでなく、誰にでも好かれた。

出来ることならこんな苦しみの中からケイトを救ってやりたい。だけでなく時枝も藤真もずっとそう思っている。けれど、生活のことはともかく、高野が言ったようにケイトの心は空っぽになってしまった。それを埋めるのは容易ではない。は抱いた肩を撫で下ろして相槌を打つ。

「そう思ったら、ヒコさんもおっさんだったから好きだっただけなのかなとか思っちゃって」
「そんなわけないでしょ。外見が同じでも中身がパチンカスだったら好きにならないでしょうが」
「だけど私、ずいぶん長いことヒコさんの見た目とかキャラ性以外に好きなところ、わからなかったんだよ」

ヒコさんはおっさんの呼び名である。逸彦さんというので、ヒコさん。

「本当にその人を好きになるってことと、好みはまったく別の問題じゃないかなあ」
「だから、その理屈で言ったら、どれだけ自分を大事にしてくれても、好みじゃなかったらポイ捨てしていいってことになっちゃうじゃん。私、自分でおっさん好きっていうキャラを作ってるだけなんじゃないかって、高野のことも、優しくしてくれるから、好きになれないのに好きにならなきゃいけないと思い込んでるんじゃなかって」

酔った勢いで記憶もないけどエッチしちゃいました! やっちゃったもんはしょーがない、忘れよ!――なんていうところで片付けばよかったのに、大切なものをたくさん失って空っぽになっているケイトに高野は真剣に気持ちを向けてきた。ずっと好きだった、今でも好きだから、だなんて――

……ねえ、っていつ藤真のこと好きになったの」
……初めて目が合った時から」
「あれっ、そうなの?」
「うん、そうなの。健司も同じ。生徒会室で顔を合わせた瞬間、好きになってた」
「すげーな。小説みたい」

目を丸くしているケイトの肩を擦りつつ、は苦笑いだ。自分たちでもそう思っている。というかこんなことケイトや時枝でなければ話せない。

「それって高校上がってすぐの頃じゃん。なのに卒業までかかったの?」
……うん、お互い意地張ってたし、最初は好きだとも思ってなかったし」
「そんな感じだったよねえ。じゃあ、いつ好きだなって思ったの?」

普段ならこんな話はあまりしたくない。だって藤真との恋しか知らないのだし、上手な恋が出来たとも思ってない。それでもケイトが子供のような好奇心を湛えた目で見上げてくるので、ぼそぼそと話す。

「ずっと……思わないようにしてたんだよね。だけどほら、2年生の夏祭り」
「ああ、ゲリラ豪雨。それって最初にキスした時じゃん」
「そう。雷が怖くてつい抱きついちゃったんだよね」

悲鳴を上げて飛びついてきたを、ずっと不機嫌な言葉と素っ気ない態度で接してきた藤真は強く抱き締め、そして涙目で震えるにキスした。しないではいられなかったのだ。言葉で態度でどれだけ悪態をついてものことが好きだったから。誰も見ていなかったから。

「2度、キスして、何も言わないで抱き合ってた。その時、ずっとこうしてたいって初めて思った。誰もいなくて、ものすごい雨で何の音も聞こえなくて、本当にふたりっきりで、離れたくないって思った。それが最初だと思う。少し怖かったし、嬉しいとか幸せっていうより、色んな所が痛かった」

その思いが嬉しいとか幸せに変わるのには、も時間がかかった。

「私……そういうのすらなかったからなあ」
「なかったって……だけどヒコさんのこと大好きだったじゃん」
「うん。だけどそれって、完璧なおじさんだったからかもしれないじゃん」
「そんなことないって。ヒコさんと一緒だった4年間、幸せだったって言ってたじゃん」
「幸せだったよ。でも……自信なくなってきちゃった。私、ヒコさんの何が好きだったんだろう」

ケイトは左の手首をするすると撫でた。バングルは嵌っていない。あの夜自分から外したらしいバングルは高野が棚の上にちゃんと置いておいてくれたのだが、それ以来ずっと外したままだ。おっさんの何が好きだったのか自信もなくしたし、酔った勢いで高野に迫ってしまったことも申し訳ないような気がして。

棚の上は何のしるしもないおっさんとの場所で、位牌も写真もないけれどたまにお茶やお菓子を置いて供えた気持ちになっていた。そこへとうとうしるしとしてはぴったりなバングルが置かれてしまった。余計に罪悪感は募るし、もう何も言ってはくれないおっさんの面影と、すぐそばにある高野の言葉の間でケイトは肩を落としていた。

「難しいよね、友達としては好きだったんだし。好きだけど好きじゃないけど好きなのかもしれない」
「それに、その理屈で言うと高野じゃなかったとしても同じになっちゃうのかと思ったらさ」
「同じだったと思う? まあ健司はないにしても、花形、一志、永野」

ケイトはしきりと首を傾げている。高野の言葉だって意外だったのに、想像がつかないという顔だ。

それを見ながらは、ケイトが高野に傾きかけているのを感じ取っていた。それは悪意ある見方をすれば「優しくしてくれる男に甘えているだけ」でしかない。けれど高野は、狙って傷心につけこんだわけではないし、彼の優しさや長くしまい込まれていた気持ちは至って真摯なものだし、甘えられて構わない性質のものだ。

それに、さんざんおっさんの話を聞かされた直後だった。そばにいてほしいなど、酔っ払ったケイトの戯言に過ぎないのだし、本人も言っていたようにケイトの心にはまだ「完璧なおっさん」であるヒコさんがいるのだ。それでも高野はケイトの空になった心を埋めてあげたいと言うし、それはある意味では彼の覚悟ではないだろうか。

ケイトは今でもおっさんフェチだしケイトの心には完璧なおっさんがいるし、けれどケイトが好きだという、それは彼の覚悟であり、ケイトの生活が不安定な状態にあるとわかっていて、それでもなお彼女と一緒にいたい、支えたいと思った本心の発露だったに違いない。

花形でも長谷川でも永野でも同じだったか? 答えは明らかだ。同じではない。なぜなら、彼らなら酔っ払ったケイトの戯言になど耳を貸さずに一線も越えなかっただろうからだ。そばにいてと言われて我慢できなかったのは、それが高野だったからだ。

10年前の「提案」の記憶がケイトの空っぽになった心をそっと撫でた。そう言ってくれた高野が目の前にいるから、この人ならおっさんを失って以来抜け殻のような自分を愛してくれるかもしれない、どんなわがままを言っても甘やかしてくれるかもしれない、ケイトは酔っ払っていてもわかっていたのだ。

記憶は戻らないだろう。服を脱ぎ始めてしまったケイトと高野がその後どうしたか、高野は詳しいことを話さないだろう。けれど、高野にあんなことを言わせたということは、ケイトは彼に存分に甘えて、たっぷり愛してもらったんだろう。それに満足して眠りに落ちた。だから高野も帰らなかった。

純然たるボランティア精神でケイトの戯言を聞いてやり、一線を越えたにしても越えなかったにしても、ケイトを慰めるだけで彼が満足し、また、今もおっさんの面影と共に生きているケイトには受け入れてもらえないという確信があったなら、何も言わずに消えていたのじゃないだろうか。

そこは彼も「証」を残したいという欲求があったんだろう。ケイトは酔っ払っているとはいえ、帰るなと引き止めてべったりとくっつき、愛に飢えた自分を可愛がってくれと高野に甘えた。が問うたのと同じだ。これがや時枝だったら、高野は相手にしなかったはずだ。

同じにはならなかったよね、高野だったからだよね? そう言ってやるのは簡単だ。は本当はそう言いたくて仕方なかった。おっさんと共にあまりにたくさんのものを失ったケイトに、満たされた気持ちになって欲しかったから。高野にその覚悟があるなら、空っぽのケイトを喜びや幸せで満たして欲しかったから。

しかしケイトのおっさん好きが単なる好みを超えて「生理的愛好」であることもよくわかる。

いつしかケイトが「おっさん好き」と一緒に「おっさんじゃない人」でも好きになれるかもしれないという感覚、彼女の五感がそれを許せるようになればあるいは高野と手を取り合うことも出来るだろう。しかしそれが得られない限りは、彼の優しさに甘えたい気持ちとの間で苦しむことになるだろう。

それでもはそのためにケイトから高野を遠ざけたいとは思わなかった。ケイトがますます苦しんでも悩んでも、ケイトが自分で答えを見つけなければならない。そうしなければ、ケイトは永遠にヒコさんを失った絶望から離れられないだろうから。

なので、はケイトがぽつりという言葉にぎくりと肩を震わせた。

「ならなかった……んじゃないのかなあ」
「どうしてそう思う?」
「んーとまずさ、花形はあんなに奢ってくれないと思う」

優しく問いかけたはそれを聞いてブハッと吹き出した。そう来たか! 確かにな!

「うん……先生はご飯は奢ってくれても酒は無理だろうね……
「一志と永野は私が服脱ぎだしたら泡食ってを呼んだと思う」
「おお、そうだね」
「そっか、高野だったからなんだな」
……ケイトの方も、高野だったからだと思う?」

さり気なく聞いてみたの顔をまじまじと見つめて、ケイトはまた首を傾げた。

「そうかもしれない」

全身に震えが走ったはしかし、その気持ちをぐっと飲み込み、相槌だけを打つ。

……あいつがおっさんだったら、こんなに悩むこともなかったのに」

鼻で笑うケイトと一緒になって笑いながら、は泣き出したいのを必死で堪えていた。

……また突然とんでもない話になったな」
「どう思う?」
「どう思うって、オレが何か言えるようなことじゃないだろ」
「言う言わないじゃなくてさ、どう思うかだけなんだけど」

数日後、藤真の部屋に来ていたはざっくりとあらましを説明すると意見を仰いだ。

……もっと軽いっていうか、どっちかっていうとチャラめなタイプだったんだけどな」
「高野? 高校生の時はそんな感じだったよね」
「あいつが関西に行ってる間のことはオレたち何も知らないからなあ」
「え? 連絡とか取り合ってなかったの?」

は驚いて首を伸ばした。成人式の時はちゃんと全員集まったし、久し振りに8人でワイワイ騒いでも高野だけ話に混ざれないなんてことはなかったし、アナソフィア組はともかく、翔陽5人はそれぞれちゃんと連絡を取り合っていると思っていたのに。

「そりゃたまにはしてたけど、元気か? とかくらいで詳しい話は。臨床心理士なんて初めて聞いたよ」
「花形とかも知らなかったのかな」
「と思うけど。だっていちいちそんなこと報告するか? 知ってるのは帰ってきた時のことだけだよ」
「それは私も聞いたけど何となくしか……

進学で関西に行ったきりだった高野が、母親が倒れたので帰ってきたらしい。今は母親の件で忙しいからそれが落ち着いたら会おうぜという話になった――が聞かされたのは、高野が帰ってきた3年前の話である。その頃ケイトはおっさんが死の床にある頃で、は報告しないままになっていた。

「その後は会ったの?」
「高野が少し落ち着いたと思ったら花形が忙しくなって、オレは一志と3人で会ったんだよな」
「永野は?」
「あいつもその時は都合つかなくてさ。だけどオレたちとは別に会ってただろ、身内なんだから」
…………そうでした」

永野の嫁は高野の親戚である。というかそんな話はケイトから出てこなかったので、高野は自分のことはほとんど話さなかったと見える。だいたい、遠く離れていた自分よりケイトの方が情報量が少ないので、どこまでどう話したらいいか判断に迷ったのかもしれない。

「それに、高野が関西、ケイトが専門に行ったことで輪が崩れただろ。話がまちまちなのはしょうがないよ」

は大きく頷いた。仲良し8人組だったのは高校生の間だけ。と藤真は進学先が同じだったのでそれほど変化がなかったけれど、みんな巣立っていった先で新たに世界を作って生きてきた。住む場所や生活環境がどうであれ、何を知ってて何を知らないのか、それも曖昧になってくる。

永野が嫁と知り合ったのは高野の紹介ではない。別のルートだ。時枝も旦那と知り合ったのは進学先。そしてケイトには割と長い間ヒコさんがいた。彼女がヒコさんと付き合っている間は、もほとんど会っていない。何しろ忙しかったので、空いた時間は当然ヒコさん優先だったからだ。

藤真からというわかりやすい連絡網があっても、翔陽5人組のこの数年間をケイトが殆ど知らないのはそのせいだ。しかも後半2年ほどは悲劇の連続で、高校ん時の仲間がさー! なんてことをのんびり話す余裕もなかった。妊娠した時枝がそれをケイトに言えないと落ち込んだくらいなので、高野の話など出るわけがなかった。

……何か怖くなってきちゃった」
「怖い?」
「私、それこそ健司がいるからみんなそれぞれ繋がりがあるけど、高野だけ何もない」
「そりゃしょうがないだろ」
「そうじゃなくて、高野っていう人が、全然わかんないんだよ」

はケイトと同じことを疑問に感じ、しかしケイトとは違い、背筋が少し寒くなった。

「付き合いのある人の全てを知らなきゃってこともないだろ」
「そうじゃなくて、心配なんだよ」
「何が」

首を傾げる藤真に、は険しい顔をして言った。

「ケイトが高野に会ったのって、六本木だよ? 高野、そんなところで何してたの?」