ウェルメイド・フィクション

11

「えっ、ちょっと待ってどういうこと?」
「全部話すと長いんだけど、要するに話が飛んだ」

高野が「花迎え」をした翌週末、本当に母親の具合が悪くなってしまったという高野が来ないというので、は久々にケイトの部屋へ泊まりに来ている。藤真はほぼ毎日のように監督業があるし、海南と陵南の両監督がウザいという理由で最近は三井とも飲みに行くようになってしまい、留守がちだという話だ。

はぽかんとしているが、飛んだのは地方都市にあるテーマパークへの再就職の話だ。

「何がダメだったの。あ、そうじゃなくて高野が花迎えしてくれたからやめることにしたの?」
「残念ながらその時には飛んだあとでした」

一応の面接など色々込みで1泊2日の旅に出ていたケイトだったが、向こうに到着してアポを取ってある担当と会うなり話が違うことを聞かされて慌てた。確か専門時代の担任の話ではショーダンサーに欠員が出たからできるだけ早く来て欲しいという話だったはずだ。

「欠員があるのは本当だったんだけど、いくら別のテーマパークで踊ってた経験があっても即採用はできないって言われて。面接はします、その後オーディションします、採用はそれから。採用しても最初の半年は一般従業員と同じ研修を受けてパーク内の仕事をする、その間の給与は30%マイナスで寮は入れない、それが終わったら今度はダンス研修を1年、それでやっと本採用」

は呆れて仰け反った。話が全然違うじゃないか!

「まあ、研修云々は当然かもしれないけど、とりあえず給与30%オフで寮もダメなら向こうで生活できないからね」
「そりゃそうだよ……地元住まいの子じゃなかったら無理じゃん……
「専門とかからまとめて雇ったりもしてるみたいで、ルームシェアしながら頑張ってる子もいるみたい」
「あんたは経験者なのに」
「ブランク3年ですかあ、取り戻せますかあって言われてきた」
「そ、そりゃステージ自体はブランクあるけど、ずっと踊ってきたじゃん」
「ま、向こうがそう言うもの、今すぐステージに立たせろというわけにもいかないしね」

どこで話が違ってしまったのか、それを確かめる術はないが、ともかくケイトはその条件では就労できないということを最終的に述べて帰ってきた。先方も特に惜しむ様子もなかった。

だが、は内心この結果にホッとしていた。ケイトのダンス人生は苦難が続くけれど、高野との関係の方は問題なさそうだし、ふたりが傷付かないでいられることが何より大事だ。

「なんていうか、振り出しに戻っちゃった感じだ」
……だけど、高野が一緒にいてくれるじゃん」
「まーね。正門の前でわんわん泣いてたら守衛さん出てきちゃって恥ずかしかったよ」

話が飛んだことでふたりはすんなりと元の付き合いに戻った。たちに突っつかれたほどにはたくさん話をしていないけれど、焦ることはないのだし、ゆっくりやっていこうということだけは確認し合った。

の方はどうなのよ。そんなに藤真いなくて平気なん?」
「それがさ、あんまり一緒にいすぎると喧嘩するからこのくらいがちょうどいいみたい」
……おいおい」
「仕事場も男だらけだし、最近は公ちゃんにもだいぶ慣れてきたし」

もまだ仕事を続けているし、帰宅後を一緒に生活しているだけの状態だそうだが、日中がそんな状態なので逆に仲良くなってきたとは言う。その上「お兄ちゃん」に慣れてきた藤真はとうとう先日三井と木暮と長谷川というよくわからない面子で飲み、酔っ払って全員引き連れて帰ってきた。

……どうして藤真ってのは普段真面目なのに変なところでバカなの」
「一志なんか超久し振りだったのにさ。全員正座させて説教して帰したけどね」

ケイトは腹を抱えて笑い、時枝といいといい、色んな夫婦がいるものだなと感心した。自分と高野は付き合っているだけだけど、それも誰かから見ればおかしなカップルかもしれないのだし、それでいいんだろうなと改めて思った。高野を失わずに済んだ、それだけでケイトは満足だった。

それからしばらくして、時枝母さんが早々に実家に帰るという連絡が来た頃のことだ。相変わらずダンス教室とカルチャースクールと振り付けの仕事で忙しくしていたケイトは突然かかってきた電話にまた驚いて、しかし今度はイマイチ事態が飲み込めなくて首を傾げていた。

電話は、ヒコさんの友人だという例の弁護士からだった。

「金庫、ですか。心当たりありません」
「それが、小さなプレートがついてましてね、『For KateOz』と書かれてるんです」
「記憶がないんですが……

弁護士の方も面倒くさそうだ。今頃になって「For Kate」と書かれた小さな手提げ金庫が出てきたそうで、しかしどうしても解錠の方法が解らなくて元妻と息子が怒鳴りこんできたという。亡き友人のためとはいえ、遺品の詳細については彼は無関係。迷惑なことだ。

「何か解錠の方法についてご存知だったらと思ってご連絡したのですが、そうですか」
「お力になれなくてすみません」
「それでですね、その金庫、あなたのお名前が書かれていても――
「はい、大丈夫です。私は一切を放棄しましたので、中身に関しては何も主張しません」

それを確認した弁護士はまたげんなりした声音で電話を切った。

ケイトは通話の切れた携帯を見下ろしながら、記憶の糸を手繰り寄せる。しかしそんな金庫、まったく記憶にない。結婚はしていなかったけれど半同棲状態だったし、そういう意味でならヒコさんの家の中のことも把握していたが、それでもプライベートというものがある。彼の書斎は基本的に立入禁止だった。

結婚を考え始めた頃、挙式や新婚旅行の資金をまとめておくつもりで口座を作ったことがある。しかし翌年にはヒコさんに癌が見つかったので使わないままになっていた。わざわざ手提げ金庫、しかも「ケイトへ」などと銘打つような目的には皆目見当がつかない。

現金は考えられない。なら貴金属か? それも考えにくい。ケイトは普段踊っている時にはアクセサリーを付けない主義で、宝飾品の類にあまり執着がなかった。なのでヒコさんはアクセサリーを贈りたい時は必ずどんなものがいいかと伺いを立てていた。ケイトに聞きもせずに買って隠しておくのは当時の関係からすると考えられない。

ケイトに相談なく贈られたアクセサリーというと、唯一の例外があのバングルだ。しかしあれを毎日手首に嵌めて行動するようになったのはテーマパークを退社してからの話で、作った当時はどちらかと言えば「遊び」としての意味合いの方が強かったとケイトは思っている。

それでなければ、手紙なら考えられるだろうか。それに思い至ると、ケイトの胸がちくりと痛んだ。もしヒコさんからの手紙がしたためられていたとして、手提げ金庫をこじあけられてしまって、それを元妻と息子に見られるのは気持ちが悪い。ヒコさんは真面目な人だったから恥ずかしいポエムは出てこないだろうが、それでも。

ふいに掘り起こされてしまったヒコさんとの日々の記憶でケイトがしょんぼりしていた金曜の夜。時枝母さんは実家に戻ってしまったけれど、もしかしたら土曜の夜に全員揃うかもしれないと言うので、今日から高野が泊まることになっていた。自分たちのことを説明する打ち合わせもしたい。

駅前で高野と待ち合わせてスーパーに寄り、また腹を空かせているケイトがあれこれとおねだりをして帰宅すると、彼女のアパートの前に車が4台ひしめき合っていて、その内の1台がパトカーだったので、ふたりは何事かと慌てて駆け寄った。

「あっ、岡崎さん! よかった、連絡がつかないので心配しました」
「は!? 何事ですかこれ、一体――
「いやだ、もう新しい男捕まえてる!」
「ああやっぱりお父さんは騙されてたんだ」

ケイトと高野は一瞬で真っ青になった。ヒコさんの友人の弁護士、ヒコさんの元妻そして息子だ。さらにこのアパートの持ち主であるケイトのダンス教室のビルのオーナー、そしてなぜかパトカー。怖くなったケイトは高野の手をギュッと握った。一体何なの、どうなってんのこれ。

とりあえず騒ぐ親子の方は警察官が押さえてくれたので、ケイトは弁護士の方へと駆け寄った。

「あの、なんなんですかこれ」
「大変申し訳ない、例の金庫の件なんです」
「ですから私は何も知らないと……
「私もそう散々申し上げたんですけど、絶対岡崎さんが知っているはずだと譲らなくて」

げんなりした弁護士の話によれば、納得出来ない親子がここの住所を突き止め、しかしケイトが不在なので不動産屋を介して大家でもあるオーナーに怒鳴り込み、慌てて飛んできた彼はふたりの言っていることが少々おかしいので通報してしまった。するとふたりは弁護士を呼び出して正当性を主張し始めた、というわけだ。

元妻と息子は鍵を渡せと興奮しているし、警察官から事情説明を求められたケイトは高野にを呼んでくれと頼むと、弁護士とオーナーと警察官ひとりを部屋に通した。親子の方はパトカーで待機させられている。

「という事情でして、これがその金庫なわけなんですが……
「本当にケイトちゃんの名前ですなあ」
「岡崎さん、本当に心当たりはないんですか」
「あったらとっくにお話ししてます」

すべての事情を説明するのにえらい時間がかかってしまい、弁護士とオーナーと警察官に囲まれたケイトはがっくりと肩を落とした。さっきからお腹がぐるぐると鳴っている。本当なら今頃、高野とふたりでパスタを食べていたはずなのに。そして、時間がかかりすぎたせいでが間に合った。

がどういう関係なのかを説明する手間はあったけれど、しかし彼女は先天性の人心掌握の達人である。こんな時は絶対に頼りになる。そのケイトの狙い通り、突然やってきたが中心になって話が進み始めた。そのの傍らでケイトは高野に手を繋いでもらって小さくなっている。

「もう何年前になりますか。どうして今頃こんなものが?」
「実は逸彦のマンションはあのまま残されているんです。息子さんが使っているとかで。岡崎さんの日用品などは処分されたそうですが、その他のものはほとんど置きっぱなしになっていたようなんです」

本など読まない息子は、最近になって書斎の本棚がスライド式の二重棚になっていることに気付いた。すると、奥の棚の一番上にこの手提げ金庫があったのだという。金庫は白いボディに取っ手がついていて、蓋の上に確かに『For Kate』と記されている。鍵らしいものはなく、しかし蓋のロックはしっかりかかっている。

「鍵とおっしゃいますけど、これ、鍵で開くものですか?」
「そこなんですよ。鍵屋さんに持ち込んでみたりもしたそうなんですが、鍵穴がないじゃないですか、と」

警察官の立会があるので、は勝手に金庫を持ち上げてくるくると回してみる。ダイヤルもボタンもなし、金庫自体はそれほど重くなく、中で軽いものが動く感触がある。音からして札束や貴金属ではなさそうだ。すると、オーナーが身を乗り出してひょいと片手を上げた。

「すみません、ちょっと拝見させて頂いてよろしいですか、すみません。この、裏です。そうそうこれです」
「何か心当たりがありますか?」
「これ、確かマンションなんかの鍵を作っているメーカーのロゴです」

鍵という言葉にその場にいた全員が顔を上げて背筋を伸ばした、やっぱり鍵はあるのか。すると今度は弁護士がぐいっと体を進めて金庫を覗きこんだ。

「マンションの鍵? すみません裏など確認もせず……ああ、もしかして、そんな」

弁護士はロゴを確認すると慌てて携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけた。そして焦った様子で金庫に覚えはあるかだのとまくし立てると、上気した顔で通話を切った。

「わかりました。これ、非接触ICによる施錠です」
「非接触……定期券のあれですか」
「私と逸彦の学生時代の同期にこのメーカーで技術者をしているものがおりまして、彼が作ったそうです」

弁護士は謎が解けそうなので早口になってきた。

「作ったのはもう何年も前で、当人も今言われて思い出したと……。その時はこのプレートはなかったそうですが、解錠に必要となるICチップはそのまま逸彦に渡して、その後はわからないと言っていました。用途についても何も聞かされていないそうです」

何年も前? 一体ヒコさんは何を考えてこんなものを……。ケイトは体が冷たくなってきた。

「それじゃあそのICチップもまだマンションにあるのでは?」
「うーん、かなり家探しをしたと言ってるんですけどねえ、あの親子」

ICチップさえあれば全ての謎が解けるのに……と全員が腕組みをして首を傾げたその時だった。突然「あ」と大きな声を上げた高野が立ち上がり、またすぐにぺたりとケイトの隣に座って手を差し出した。

「ケイト、これだよ。これしかない」

高野の大きな手にはあの銀のバングルが乗っていた。も大きく頷いた。

「そっか、これって確かヒコさんが作ってくれたって言ってたよね」

ケイトが震える手を持ち上げると、高野はその左手首にバングルを嵌めた。に促されて金庫の方へ向き直ったケイトが恐る恐る手を伸ばし、弁護士が差し出した金庫にかざすと、ピッとくぐもった電子音が響き、全員が見守る中、金庫は静かに蓋を開いた。

小さな金庫の中には真新しく見える通帳がひとつ、ケイト名義だ。そして、銀行のキャッシュカードと真っ白な封筒が入っていた。ややこしい方法で施錠された故人の遺物である。全員が固唾を飲む中、ケイトが真っ青になって震えているので、が手を伸ばして中身を取り出した。

「ケイト名義です。口座の開設は……ええと、5年前?」
「ずいぶん前じゃないですか。岡崎さん、覚えがないんですか。あなたの名義のようですけど」

他人の名で勝手に口座の開設はできない。本人が窓口で手続きをする必要がある。手まで真っ白になったケイトは、震える体を高野に支えてもらいながら、微かに頷いた。

「けっ、結婚資金を貯めておく、口座にする、つもりでした」
「じゃあその時の貯蓄?」
「ううん、使わなかったの、結局、具体的な話にならなくて、次の年、癌が見つかったし……

は通帳を閉じて元の場所に戻すと、今度は封筒を取り出してケイトに差し出した。だが、ケイトは素早く首を振るばかりで受け取ろうとしない。いよいよ顔は真っ青、震えも止まらない。一体生前のヒコさんはここに何を残したと言うんだろう。それを思うと怖くて動けない。

……あとで見る? それとも、私が読もうか?」
、読んで、私、出来ない」

は弁護士と警察官に同意を得ると、「岡崎慧登へ」と書かれた封筒を開いた。

「慧登へ」

慧登へ

これを読んでいるということは、この金庫をちゃんと手に入れて開けたということだと信じている。僕は今、再発の告知を受けて入院の準備をしている。今日君は21時過ぎにならないと帰らないので、これを書いている。だが、君がこれを読んでいる時には、僕はもういないだろう。

この通帳の中身は、万が一のことを考えて君が確実に手に入れられるように対策を講じたものである。

実は、先日元妻と息子が突然やってきて、どこから聞いたのか僕が病身であることを知って手のひらを返したように親切に接してきた。元妻とは社内に共通の友人がいるから、もしかしたら僕が治療で半年以上も休職していると知ったのかもしれない。

既に治療をひととおり終えたあとだからね、僕は病人らしい顔をしているし、これはもうもたないと思ったんだろう。色々優しい言葉で気遣うようなことを言っていたが、おそらく僕の残す資産が目当てと見て間違いないと思う。これからは面倒を見るからマンションの名義を変えたらどうだとか言い出したからな。

慧登、僕は自分で働いて得たものは何一つ彼女らに遺す気はない。全て君に遺したい。だが、何しろ元妻は少し性格に難があるし、息子もその影響下で育ってしまって手がつけられない。君が果たして僕の遺産を守りきれるかどうか、非常に怪しい。しかも、入院は目前に迫っているし、時間がない。

この金庫は結婚の話が出た時に作ったものだ。僕も仕事柄サプライズは好きだから、プロポーズに使おうかと思ってたんだけどね。ブレスレットの中にICチップを仕込むのはいいアイデアだっただろう。ちょっとした冒険気分を味わってもらえたと思う。

さておき、作ったまま放置していた口座が役に立つ時が来た。時間がないのでどれだけ現金に変えてこの口座に移せるかはわからないが、少しでも君に遺せるように努力しようと思う。なので、換金できるような私物が残っていないのはそのためだったと思って欲しい。貴重な全集など彼女らには価値もわからないだろうしね。

君には内緒にしてあるが、先日遺言書も作成した。そこには一応僕名義のものは全て君に残すと記したけれど、さて、君がこれを全て手に入れられるか、正直言って自信がない。元妻らに騒がれて放棄、なんてことは充分考えられる。なのでこれを用意した。この口座は元から君名義のものだ。僕の遺産じゃない。

もう少し入金するつもりでいるが、さてどれだけ移せるかな。不動産や車などを売ればもっと多くなったろうと思うが、怪しまれても困る。僕としてはもっともっと残しておきたかったことを一応記しておこう。君に悟られずに換金することの何と難しいことよ!

さて、君ならわかってくれると思うが、こんな手紙に感傷的なことをつらつらと書いて君の心を揺さぶるのは僕の本意ではない。そういうことは君と過ごしている間に充分に伝えたはずだし、現時点では僕はまだ生きているので、まだまだ言うチャンスはある。そっちを本物と思ってほしい。

これを君が読むのがいつになるかはわからない。けれど、この金は好きなことに好きなだけ使いなさい。僕の遺産と思ってはいけない。君が真面目に生きているので、ボーナスが出たとでも思って存分に活用してほしい。高尚なことに使わねば、などという愚かなことは考えないように。

しかしこれだけは直接言うと面倒なことになりそうなので、ここに書いておこう。慧登、君はまだ若いのだから、新しい恋をしなさい。僕に操を立てるなど言語道断、愚の骨頂だよ。君には良い友人がたくさんいるね。彼女たちとたくさん遊んでまた君を大事にしてくれる人と知り合いなさい。

そうして君がしわくちゃのババアになるころ、もう一度会おう。その時には君が誰と結婚してどんな子を産み何人孫を抱いたかを聞くので、ちゃんと言えるようにしておきなさい。これは宿題です。

もしこれを読んでいる今、新しいパートナーがいたら、その人を大事にしてその人のために生きなさい。君は僕の言うことをよく聞く子だったから、これを違えることはないと信じているよ。

そしてどんな場所でもいいから踊り続けなさい。それが君の使命です。

先に逝かねばならないので、君の夫や恋人という肩書はそろそろ辞退させてもらいたい。しかし僕も生きている間は欲があるからね。ということで、僕は君の良い友人になろうと思う。君にボーナスを残したちょっと気の利く友人だ。そういう存在と思って覚えていてくれたら幸い。

君の一番の親友、逸彦より