ウェルメイド・フィクション

08

実際のところ、高野の場合は病名がつくほどではなく、投薬開始から1年ほどで症状は改善に向かい、本人も症状に引きずられて落ち込むこともなく、早々に減薬が開始された。現在は一応の経過報告と減薬の過程にあるので毎月徐々に容量が減っていく薬を貰いに行くだけになっていた。

そんな中、とうとうケイトと付き合うことになった高野は高校卒業以来となる幸せの絶頂にあった。

10年越しの思いが通じた喜びはしばらく抜けず、月イチの診察の時も医師がずいぶん楽しそうな顔をしていると言うので、彼女が出来たと正直に報告した。すると医師の方もそりゃよかったと一緒に喜んでくれて、つい調子に乗って高校時代に好きだった相手なのだということも喋った。

すると医師は、年齢的に結婚も考えるだろうから積極的に減薬して薬のいらない生活にしていこうと言い、改めて励ましてもらった。だが、この時初めて高野はケイトと結婚という可能性が存在することに気付いた。

アピールと構って欲しいのが高じてオレと家族なるのはダメ? などと聞いてみたりしたが、あれはそういう口実であって、付き合ってもらえるとも思っていなかったのだし、途端に結婚の二文字が重く感じてきた。

もちろんケイトとそういう関係になるのが嫌だからというわけではない。確かにお互い28歳、結婚を考えてもおかしくはないけれど、さて、例えばケイトを嫁にもらうと思うと、自信がなくなってきた。おっさんなら年齢と離婚歴以外は完璧だっただろうが、自分はそこだけ問題なしであとは問題だらけな気がする。

しかし、ケイトの決断にはかなり心を打たれていて、運命のいたずらでケイトと一緒になれなかったおっさんの代わりに、少しでもケイトを支えていけるパートナーになりたかった。高野は最近よく空を見上げては顔も知らないおっさんに話しかける日々が続いていた。どうかケイトをオレに託してもらえませんか――

そういう心境のところに医師の言葉が重なり、高野は少々緊張しながら街を歩いていた。今日は藤真と会うのだ。現在これといった定職がない藤真は平日でも週末でも関係ないと言うし、この日は土曜だががケイトのところへ行くというので、それなら藤真は空いているだろうと連絡を取ってみた。

藤真たち翔陽時代の仲間と会うことを避けていたのは、大学がうまくいかなかったことを恥じる気持ちがあったのがまずひとつ。そして、それぞれ進学先の新たな環境で出来た関係が主になっているだろうから、という確かめてもいない遠慮がひとつ。だがこれはケイトに正直に話したところ、鼻息ひとつで吹き飛ばされた。

「私とと時枝に喧嘩売ってんの?」

そこでまた女の子とは違うよ、と返してもよかったのだが、ケイトによれば藤真はとりあえず暇なはずだというので、まずは10年前のリーダーとサシで話してみようと思ったわけだ。そういうつもりで連絡を入れると、藤真はすぐに快諾の返事をくれた。というわけで個室の居酒屋である。

「かなり久し振りだよな……元気だったか」
「あんまり元気じゃなかったけど、最近元気になってきた」
……本当に大丈夫か?」
から聞いてるか?」
「ええとその、少しだけだぞ」

発端が発端なので言葉を濁しつつも、ある程度は事情を知っていると藤真が認めたので、高野はホッとして胸を撫で下ろした。発端自体はあまり自慢できたことではないけれど、経由で話を聞いたなら元はケイトなのだし、悪意のある説明のされ方はしなかっただろう。それなら心配はない。

また、付き合い出した直後にはケイトからだけでなく時枝にも話が行ったらしく、ふたりもその内ちゃんと会いたい、ケイトとのことは歓迎すると言っていると聞かされて何だかむず痒い思いをしたものだ。

……オレもも何も知らなくて。つらかったろ、ごめんな」
「いやいや、何でお前が謝るんだよ」
「謝るのは違うかもしれないけど、それでも少なくともオレとには後悔がある」

高校時代の仲間のうち、この藤真とはとにかくハイスペックで出来過ぎたふたりだったけれど、反面頑固で頭の固さを感じさせるところがあった。それを思い出した高野は頬が緩む。きっととふたり、腕組みでうんうん唸った挙句にそういう結論に達したんだろう。

「でもさ、そういうことの積み重ねがなかったら今こんなことになってないと思うし」
「それはそうなんだけど……ケイトもつらいことが続いたからさ」
「オレの方はそれで得したような状態だからちょっと後ろめたいけどな」

おっさんが病に倒れなければ、治療の甲斐なく帰らぬ人とならなければ、高野にチャンスはなかった。それをヘラヘラと笑って言ってみたけれど、藤真はまだ表情が固い。

……ヒコさんが亡くなった時、ケイトの事情をわかっててそばにいてやれるのはと時枝とオレしかいなかった。というかオレはヒコさんのことも病気になって初めてたちから詳しく聞いたような感じで、だけど友達が出来ることなんてたかが知れてるだろ。見てるだけしか出来なかったことも多くて、歯痒かった」

藤真の立場では余計にそう感じただろう。から続々とケイトの窮状が伝えられるけれど、当時まだプロプレイヤーだった彼に出来ることは何もなくて、せめての話をじっくりと聞いてやることくらいしか出来なかったはずだ。だからケイトが退社したあとは彼も積極的に支援してきたわけだ。

「テーマパークを辞めてもうそろそろ2年になるけど、ケイトはまだヒコさんとの思い出の中から抜け出せなくて、それだけならまだしも生活があんなだろ。ダンスをやめたくないのは本音だと思うけど、正直いつ壊れるか気が気じゃなかったんだ。だからすまん、お前と付き合うって聞いてものすごくホッとした」

きっと今頃ケイトの部屋ではと同じような話が繰り広げられているんだろうな、と考えた高野は緩みそうになる頬をぐっと引き締め、小さく頷く。それはケイト経由でや時枝にも言われた。

「ていうか、ケイトはいいって言ってるんだろうけど、その、本当に大丈夫なのか」
「オレがおっさんじゃない件か?」
「オレとが考え過ぎなのはわかってるんだけど」
「いや、考え過ぎじゃないと思うぜ。今でも好みとしてはおっさん好きだろうし」
「それでいいのかお前」
「いいに決まってんだろ。10年だぞ、10年」

藤真があんまり深刻な顔をしているので高野は努めて明るく、そして軽く受け答える。自分たちの関係が依然危うい状態にあることは変わらない。それは付き合いが10年を過ぎてしまってかえってきっかけを失っている藤真とよりもよっぽど不安定だ。

ケイトとも一応その話はした。ケイトの方も生まれて初めておっさん以外の男に好意らしきものを抱いたばかりだし、もちろん完全にヒコさんを失った喪失感からは抜け出せていない。それでも一緒にいてみよう、そういうふたりの挑戦だった。だから失敗して元々。

「お前らと違って先週始めたばっかりだからな。自信なんかないけど、やってみるしかないだろ」
「オレだって自信なんかない」
「何言ってんだ。あんまりのんびりしてると時枝にまた怒られるぞ」

またわざとふざけた調子で言ってみた高野だったが、藤真はまだ緩む気がないようだ。

「気持ちの問題っていうより、今こんなフラフラしてるオレが結婚とか、無理だろ」
「あー、まあそれはなあ。だけど考えてるんだろ、今後のこと」
……考えてるというか、迷ってるというか」
「おいおい、10年付き合ってまだ迷うのかよ」

何が藤真を深刻な顔にさせているのかわからない高野はまた茶化した。

じゃない。……高野、正直に言って欲しいんだけど」
「おう、何をだよ」
「オレ、監督になれると思うか?」
「はあ?」

突然関係ない話が出てきたので高野は間の抜けた声を上げた。というか翔陽5人組は高校時代から今でも藤真のことは友達やチームメイト以前に監督なのである。それを、なれると思うかと言われても……

「監督だったじゃん」
……だけど、監督としてのオレは湘北に負けて3年の夏を全部棒に振った」
「そういうのは言い出したらきりがないと思うけど……何、どこかの監督やんのか?」

グラスに口をつけていた藤真はしかめっ面をしてかすかに頷き、はーっとため息をつく。

……翔陽から戻ってこないかって、誘われてるんだ」
「マジか!?」

今度はほぼ悲鳴を上げた。藤真は沈痛の面持ちだが高野はテンションが上がる。

「何だよすげえなお前、いいじゃないかそれ! 戻れよ! 何でそんな悩んでんだよ」
「だってそうだろ、何の実績もない、高校時代だって別に」
「だけど翔陽は戻ってきて欲しいって言うんだろ」
「オレたちが卒業したあとも監督が居付かなかったらしくて……

遡ること12年前、それまで連続でバスケット部をインターハイへ導いてきた翔陽の監督がやむを得ない事情で退任することになった。その後藤真が在校している間は藤真や彼らの1代前の部員が何とか回していたわけだが、藤真が卒業してしまうともうそんな役割を請け負える人物が残っていなかった。

当然翔陽高校は慌てて監督探しをしたが、翔陽の運動部は指導者が長続きしないという伝統があり、またその悪しき伝統に囚われると中々そのループから抜け出せなくて、そうこうしている間に弱体化する危険も孕む。これに捕まってしまったバスケット部も例外ではなく、以後10年の間に2人の指導者が辞めていった。

「で、今の3人目がまた高齢でさ。そろそろ辞めたいって言うんで、オレに連絡が来たんだよな」
「そういやこのところずっとインターハイどころか、決勝リーグも怪しいんだっけ」
「一度成績が落ち始めると新人の獲得が難しくなるしな」
……だから、何をそんなに迷ってんだよ」

理想的な再就職先じゃないかと鼻息の荒い高野に向かって、藤真はピースサインを突き出した。

「理由はふたつ。オレ、単独の監督としての公式戦は冬の予選だけしか勝ってない」
「まあ、それはそうだけど……
「もうひとつ、辞めていく監督は全員体を壊してる」

チームを勝たせる自信がないあまりに弱音を吐いているのだと思って呆れていた高野は、頬杖をついていた顔を上げて藤真の横顔を凝視した。ついそっぽを向いている藤真の横顔は相変わらず整っていてきれいだが、苦しそうな表情をしている。

「オレたちの頃の監督、目が悪かったろ。結局片目を失明したって聞いてる。オレたちが卒業したあとに入って辞めていった監督2人も全員具合悪くなって辞めていったって話だ。翔陽で監督が長続きしないループに入ると、指導者はみんな具合悪くなるんだ」

ただそれも一応現在の監督のように高齢だったから、という説も捨てきれないだろうし、ファラオの呪いじゃあるまいに、翔陽の監督になったら病気になるというのは少々暴論のような気がした高野はしかし、一応藤真の言い分は全部聞いてから反論しようと決めた。

「最初は、オレもいい話だと思ったよ。高給取りにはなれないだろうけど、もしこの話が上手くいったらにプロポーズしようかと思ったくらいだ。だけど、そう考えたところで監督がみんな体壊して辞めていくのを思い出して……それと一緒にヒコさんを失ったケイトも思い出したんだ。をあんな風に置いて行きたくない」

高野の頭には「考えすぎ」という文字が踊っていたが、気持ちはわからないでもない。ヒコさんもせっかく手に入れた夢も失ったケイト、それを間近で見ていたから余計に不安になってしまったんだろう。自分の夢は一段落した、いい再就職先もある。けれど、もし自分も最近の監督たちのようになってしまったら……

「だけどお前今別に持病があるわけでもないだろ。花粉症すらない」
「怪我はしたけど、面白いくらい健康」
「オレたちの代の監督は元々目を患ってたじゃないか。今の監督だってご老体なんだろ」
「それはそうなんだけど、ちょっとトラウマになってるのかもな、ケイトのことが」

その場にいなかった高野には知る由もないケイトの姿だが、それにを重ねてしまった藤真は踏ん切りが付かないままになっている。翔陽としてはなるべく早めに決断して欲しいところだろう。まだ20代で経験不足は否めないけれど、雇って数年でバタバタと倒れていく高齢の人材よりはマシなはずだ。

「もちろん決めるのはお前だけど……オレは見てみたいよ、またお前が監督やってるところ」
「勝てる気がしない」
「何でそんなに弱気なんだよ!」
「海南も陵南もまだあのふたりが現役だからだよ!」
「そんなのブッ潰したれよ!」

勢いで言い合ったふたりだが、藤真は手のひらをずいっと突き出し、グラスを煽った。

「よし、決定事項じゃないらしいから黙ってたけど、とっておきの情報を教えてやる」
「何なんだよもう」
「湘北も監督が超高齢で辞めたがってる」
「だろうな。10年前の時点でおじいちゃんに足突っ込んでたもんな」
「後任の噂があるんだ」
「何だよ。まさか花形とか牧とか……
「いや、三井」
…………マジか!!!」

久し振りに聞いた名だったので一瞬考えてしまった高野だが、高校3年生の時に痛い目に合わされている湘北の一員なのですぐに思い出した。自分は関西に行ってしまったので大学での三井がどんな風だったかは知らないが、生易しい相手でないことだけはわかる。

「でも別にいいじゃないか同期対決でも。あの時のリベンジといけばいいだろ」
「そううまくいけばいいけど」

何しろまるで想定外の敗北だった。それがまた時を同じくして出身校の監督という立場で相まみえるのかと思うと嫌気が差すのかもしれない。藤真はこのことについては自信がないというよりげんなりしている。

「藤真、向こうでマトモなバスケも出来ずに終わったオレが言うのもなんだけど、お前ならやれるって」
「みんなそう言うんだよな」
「事実だからだろ。誰だってそう思うさ」

今自分が幸せだから安易に考えすぎているんだろうかと思ったが、どうもそうではないらしい。高野は少し身を乗り出して藤真の顔を覗きこむ。

「オレも、ヒコさんより好きになってもらえる自信なんかないぜ。ヒコさんと同じくらいの歳になっても、ヒコさんのようには絶対なれないと思う。でもやるからには努力すると決めたし、もう充分グズグズしてきたからな」

ずいぶん開き直ったな、と自分で思いながらも、高野は決意を新たにした。

「大丈夫、お前はいい監督だった。自信持てよ監督。も待ってるぜ」
「それも何だか自信なくなってきちゃってな」
「自信とかいう問題か? お前、がいなかったら生きていけないだろうが」

これは前から思っていたことだが、この際だから言ってしまうことにする。高野がビシッと指をさして言い放つと、藤真は勢いよく顔を上げた。目を丸くしているが、言われた言葉の内容に驚いているわけではなさそうだ。

「何だよ。図星だろ」
……何でお前それ知ってんだ」
「おお、当たったな。じゃあいいじゃないか、それで」

ざっくり言って高野の勘だ。藤真はやっと頬が緩み、少し照れた。

「時枝にもさんざん怒られたけど……そう、オレはがいなかったら生きていけない」

似たもの同士で意地を張り合い、その果てに手を取り合ったはいいが、そのままの状態で10年である。

「ありがとな高野。お前の話聞くつもりで来たのに、オレの方が心が決まった気がする」
「気にするなよそんなこと。オレもお前と話せてよかった」

やっと気が楽になったふたりは改めて乾杯、最初からだいぶぶっちゃけた話ばかりをしてしまったので気恥ずかしさがなくなってしまい、それはもう楽しく酔っ払った。途中永野や花形に電話攻撃をしかけたり、そのせいで長谷川が電話をかけてきて怒られたりしたが、しかし途方もなく楽しかった。

「なー藤真、またみんなで会いたいな」
「そーだな。永野とか時枝は難しいだろうけど、昼間でもいいから一度席持ちたいよな」
「お前それまでにプロポーズしてオレたちに報告しろよ〜」
「何でだやだよ恥ずかしい」
「今さらだろそんなの、花迎えで大声で好きだっつったくせに」
「あれは忘れろ!!!」

ふたりは大笑いしつつ、10年前の春を思い出していた。卒業式、桜、アナソフィアの正門、花迎え――

遠いようで鮮明な記憶の思い出はあまりに美しく、そして切なさで胸を締め付ける。10年の月日を経て、それぞれに苦しい思いもつらい思いもしてきた。けれどあの高校生の日々が幸せだったことは覆らない。愛しい日々の記憶、それは今でも心の奥底に小さな火をつけて、少しだけ幸せにしてくれるから。

だからまた、みんなに会いたい――