「てかちょっと待って、免許取ったのいつよ」
「受かったのは先々週」
「ちょ、嫌だー! 下ろしてー!」
「うわ、あんまり暴れるなよこの車借り物なんだから!!」
「そんなの知らない私まだ死にたくない!」
「近くで待っててもらってるからすぐだって! てかオレのこと好きなら一緒に死んでくれ!」
「嫌だ、絶対嫌だ!!!」
慣れないスーツで慣れない運転に藤真はガチガチになっている。それが充分に伝わるので、は余計に慌てる。ずいぶんとオシャレ風に取り繕っているけれど、吸盤で貼り付いている初心者マークが怖い。
「だいたい、なんなのこの演出、その服、頭! かっこいいけどかっこ悪いよ!」
「ちょっと黙っててくれ気が散る! 話は車返してからちゃんとするから!」
牧や米松先生に見送られて海南を後にしたはいいけれど、はさっぱり事情がわからないし、藤真は免許取りたてなのに借り物の外車でいっぱいいっぱい。ちなみに、赤のミニクーパーである。
海南を離れ、ルートとしては藤真のマンション方面に向かっているけれど、どこかで車を返さなければならないようだし、運転に夢中の藤真は取り付く島がない。も運転がガタつく度に冷や汗が出るし、生きた心地がしない。一緒に死んでくれとはまた古風な愛の言葉だが、御免被る。
しかし、テンパる藤真をよそに車は工事渋滞にハマり、のろのろと停止した。年度末である。
「……何で来たの」
「……なんとなく、傷舐め合ってるだけの負け犬じゃないんだって、言いたくなって」
「牧に?」
「うーん、あいつだけじゃなくて、海南に、というか」
工事で片側通行になっているので、少し進んではまた止まる。ゆっくりな速度なら藤真も安定している。
「それで、お前らが負け犬にしてきたを、オレは貰うんだって、言いたかったというか」
「それでこれ?」
「服とか車はカノン様プロデュース。オレはただ迎えに行きたかっただけ」
カノンの入れ知恵だろうということはわかる。何しろ発想が少々古臭い。
「……不貞腐れてる負け犬同士なんじゃなくて、好きで付き合ってるんだって、主張したかっただけ」
「……そっか」
「間違ってないよな?」
何だか自信のなさそうな声だった。は運転席の藤真を見上げると、しっかりと頷いてみせた。
「間違ってないよ、私、健司のこと好きだもん」
「ほんとに?」
「ほんと。健司はどうなの」
「……知ってるくせに」
の腕を引いた藤真は急いでキスをして、また走り出した。
それから30分ほど走っただろうか、藤真のマンションの最寄り駅の隣までやって来た。駅前のパーキングに車を止めた藤真は、カノンが待ってると言って駅ビルの中に入っていった。上層2階がレストラン街になっていて、下はファミリー向け、上は少々高級志向となっている。藤真は迷わず上に向かう。
「またカノンが奢ってくれるの?」
「いや、あの車の持ち主が」
「誰」
藤真に手を引かれて目的の店にたどり着くと、は面食らった。とてもじゃないが、高校生だけで入店するような雰囲気ではないスペイン料理の店だ。昼間だというのに店内が暗い。スーツの藤真はいいだろうが、3年間着倒した制服姿のは少し恥ずかしい。
「遅かったな。事故ってんのかと思ったよ」
「工事に引っかかっちゃって」
「卒業おめでと!」
「あ、ありがと……てかカノンもすごいねそれ……」
本日のカノンはお嬢様スタイルである。頭にはリボンが付いているし、ガサツな言葉遣いがおよそ不似合いなベージュに黒ラインのワンピース姿である。黙っていれば強烈な美少女である。さすがの兄も霞むほどだ。
「ま、一応金出してもらってるから、スポンサーへのサービスってことで」
「だからどうなってんの」
「前に話さなかったっけ。私が中学の時にマジで告ってきた40代のバカがいたって」
具体的には何もされていないというが、とんでもない話だ。16歳になったら結婚してくれと言われたらしい。
「まだ諦めてないの?」
「諦めないというか、私の奴隷でいいとかいうから、使ってやってる」
兄はまた無表情だし、は苦笑いしか返せるものがない。
「で、健司が海南まで迎えに行くっていうから、車貸せ、服用意しろってね」
「……ここの払いも?」
「もちろーん! ふたりを待ってる間一緒にお茶したから、追加でいいもの買わせたし!」
そう言ってカノンはバッグの中からカード状のものを取り出してに手渡した。は目を剥いて藤真とカノンを交互に見たが、兄はまだ黙っているし、妹は得意げだ。
「これってテーマパークのパスポートじゃん」
「私しばらく行ってないんだよね〜。春休みの間に行こ!」
「だけど私はそんなことしてもらうような……本人はそれでいいの?」
「今トイレ行ってるから、帰ってきたら聞いてみなよ」
13歳のカノンに結婚を申し込むような人間と一緒に食事しなければならないのかと思ったは、また冷や汗が出てきた。パエリアおいしそうだけどそんなの我慢するから帰らせて欲しい。だが、冷や汗のの背後から「おまたせちゃ〜ん!」という陽気な声が聞こえてきた。
「ああ、早かったね、健司くん。そちらが彼女かな?」
「車、ありがとうございました」
なんとなく顔を見たくなかったは藤真の方を向いて俯いていたが、そうもいかない。意を決して顔を上げ、カノンの隣に座ろうとしている女王様のしもべに目を向けたは、また目をひん剥いて口をポカンと開けたまま固まった。車の鍵を返した藤真が気付いて手を取ったが、まだ固まっている。
「どうした、大丈夫か」
「ん? どしたの」
「この人……」
「えっ、僕のことかな?」
今日はカノン主催の兄の彼女の卒業祝いだと聞いていたから、一応大人しくしているつもりだったしもべさんは急に視線が集中したので照れている。だが、その顔のど真ん中には人差し指を突きつけた。
「翔陽のダンス部を優勝させて、私たちをボロカスに酷評した審査員、その顔、覚えてる」
の静かなる憤怒の表情に、藤真とカノンは息を呑み、しもべさんを見る。
「えっ、何の話?」
「毎年10月にこの辺りで行われるダンス大会の審査員、してるじゃないですか」
「えーと、ああ地域の高校生の大会かな? いやあ、そういうのたくさんやってるか――」
「そこで今一番推してるアイドルを拾ったでしょう! ミニスカで腰振ってただけの女の子を!」
しもべさんは一気に顔色が悪くなる。おそらくのことなど記憶にないだろうが、自分が発掘してきたアイドルのことならわかる。確かにこの辺りのイベントで拾った翔陽出身の子だ。
「大会参加規定にアイドル発掘なんて項目はなかった。ダンスはフリースタイル、性別も関係ない。なのに、ダンス大会なのに集団でフラフラ踊って歌った翔陽が優勝、そのほとんどが元チア部と体操部で構成されてた私たちのダンス部は最下位、その上見た目が悪いだなんて観客の前でへらへら笑いながら言ったでしょう!」
しもべさんはいよいよ真っ青、の話が進むにつれて、藤真とカノンの顔も険しくなってきた。
「そ、そうだったかな? そういう大会はたくさん――」
「私たちのことなんか覚えてないだろうけど、心当たりはあるはずでしょ、それを毎年やってるんだから!」
「……あんたそんなことしてたの」
「あああカノン、違うんだよ、そんな目で見ないで、僕の仕事は知ってるだろ」
「ああ、ろくでもない仕事ね」
怒りに震えるの手を藤真はきつく握り締める。
「色々手を尽くしてもらって何ですが……僕たちは失礼させて頂きます」
「何言ってんの健司、帰るのはこっちの方! 自分が何したか、よく考えなよ」
しもべさんは大いに焦っているが、カノンに睨まれると途端に萎れた。女王様に嫌われるのだけは何とかして回避したい、そんな顔をしている。慌てて財布から札束を取り出すとカノンの手に握らせ、「僕を信じて欲しい」などと猫なで声で言いながら、しもべさんは席を立つ。それに向かって藤真は言い放つ。
「……あなたのような人がいるから、長い間傷ついて苦しむ女の子が後を絶たないんだ。あなたはカノンやアイドルの女の子を愛して大事にしてるつもりかもしれないけど、そのためにつらい思いをしてる女の子がいる以上、あなたのしてることは身勝手な暴力と同じです。見えないところに傷をつける、最低の行為だ」
さすがにしもべさんは怒りの表情を見せたけれど、カノンにどやしつけられるとまた愛想笑いと猫なで声を繰り返し、そそくさと退席していった。カノンは金を数えると、半分ほどの量を取り分けてに突き出した。
「ほい、の取り分」
「そんなお金――」
「何に使っても誰から出ても金は金。ひとりで使うのが嫌ならダンス部全員で使いなよ」
兄に分けるつもりはないようで、カノンは残りを財布に仕舞いこむと、オーダーベルを鳴らしてコースを始めてもらうように言いつける。はちらりと藤真の方を見てみたが、彼もそっと頷くので、とりあえずはバッグの中にしまった。確かにカノンの言うように、落ちこぼれ部や藤真、米松先生と使ったっていい。
「、すまん。気分悪くさせて」
「えっ、健司は何も悪いことしてないでしょ」
「だけど、3年間あのことがあったせいでずっと苦しんで来たんだろ」
そして藤真が「大っ嫌い」と言われるに至ったわけだ。それを思うと彼も胸中穏やかではない。
「……それはそうなんだけど、だけど、結局、取れたよ」
「取れた?」
「あの時、負けてボロクソに言われて悔しかった気持ち、引きずってた記憶、取れちゃった」
はぼんやりした顔をしている。冬の予選で瀬田さんを目の前にした時の藤真と同じだ。
「なんでだろう、あんな人だったからなのか、健司とカノンが加勢してくれたからなのか、それはわからないけど、だけど今私は苦しくないし辛くないし、だけどあの人は健司にあんな風に言われてもカノンの前では気持ち悪い喋り方するしかなくて、何もしてないけど、なんか勝っちゃったみたいな感じがして……」
気持ち悪い喋り方と言ったところでカノンは勢いよく吹き出した。
「、任せときな。絞りとるだけ絞りとって捨てたるから」
「いやそこまでしなくても」
「いいのいいの、あいつバカみたいに金持ちだし、兄貴が怖いし」
放蕩次男のしもべさんはカノンと兄貴に見捨てられたら生きていけないレベルだそうだが、何しろその兄貴が怖いそうで、カノンがプロポーズされた時も、その兄貴の方に告げ口したので難を逃れられたらしい。
「そんなことは気にしないで、おいしいもの食べよ! ご飯に罪はない!」
もやっと緩んで笑顔になった。とうとうの欠けていた心も元に戻ったのだ。埋めてくれたのは藤真ではなかったけれど、彼女の心を長く苦しめていた原因と直接対峙し、一応言い負かしたことで、やっとつかえていたものが取れた。
もちろん藤真ではないと言っても、彼と一緒にいなかったら実現しなかったことだ。
「健司、私、やっと元に戻った」
「……取り戻せた?」
「うん、健司のおかげ、ありがとう。本当にありがとう」
そういうことは帰ってからやれとカノンに突っ込まれたふたりは、ようやく気楽な表情になり、存分にコース料理を堪能し、目一杯遊んでからマンションに帰った。藤真の転居が近いので彼の部屋は段ボールで溢れかえっていたが、遠からず今度はの部屋となる場所だ。ふたりはまた静かに寄り添って眠った。
窓を開ければかすかにサイレンが聞こえる部屋には、少しだけ暖かな風が吹き込み、たくさんキスしてたくさん触れ合って火照ったふたりの肌を優しく冷やした。
もう落ちこぼれも負け犬も、遠い過去の話だった。
「カノン、食べないの?」
「……無理〜」
卒業から4ヶ月、とカノンが暮らすマンションには、いつかのように暑い夏が到来していた。土曜の午前中、一応食事を用意しただったが、期末テスト明けのカノンは死んだように眠っており、の記憶が確かなら、一昨日の夜から風呂にも入っていない。起きた時には無残なむくみ顔になっていることだろう。
とカノンの生活は、まさにルームシェアといった様子で、それぞれ学業にも熱心なので、平日などは顔を合わせないままということも珍しくない。また、はアルバイトを始めたので、居候条件である最低限の家事はやっているが、カノンと遊んでいる暇はなかった。
けれど、そのくらいがちょうどいい。あくまでもは藤真と付き合っているのであり、カノンはその妹に過ぎないし、カノンの方も友達付き合いにするつもりはないようだった。
の家は離婚の方向で話が進んでおり、やっと海南から解放されたナナコは部屋を出てくるようになり、長男が就活中だというのに一生懸命面倒を見るので、母親も少し肩の荷が下りて楽になったと言う。最近では時間を見つけてはと出かけるようにもなった。
重症患者が快方に向かったので胸を撫で下ろしているのは米松先生も同じで、今年も既に大量の「落ちこぼれ部員」が発生しているらしいが、元気にお腹を揺らして走り回っているらしい。というかがこのマンションに入ってから、たまに遊びに来るようになった。本人は「アフターケア」だと言い張っている。
藤真が帰ってくると聞きつけて、米松先生はいそいそと遊びに来た。カノンにも気に入られた先生だが、おそらく目的は恋バナだったはずだ。から米松先生が来ると聞かされた藤真は、それなら一緒に、と瀬田さんを連れて帰ってきた。ここで事件が起こる。
カノンが瀬田さんを好きになってしまったのだ。
人を好きになるとは思えないと言っていたカノンだが、コロリと落ちてからは早かった。おろおろする瀬田さんと米松先生、瀬田さんに謝るばかりの兄、また苦笑いしか出来ないをよそに、カノンはじわりじわりと押しまくっている。とりあえず兄と同じ大学に入るため、より一層勉強に熱心になった。
ということは、カノンが進学の際はまた新たに兄と暮らすことになるかもしれないのだが、それもカノンは「その時考えればいい」と言って譲らない。一応この居候は短期間になるかもしれないことはの母も承知しているし、現在の家は元々一家が暮らしていた家なので、の部屋もある。
もうすっかり海南のクラブ活動という呪縛から解き放たれたは、そういう日々の中で、淡々と暮らしていた。自虐することも不貞腐れることもない、Atmosphereにはたまに顔を出すけれど、辛抱強く誘っていたらナナコも行ってみたいと言い出したので、その時はカノンにも来てもらおうと考えている。
はカノンの食事を一旦引き上げ、時計を見上げる。
キッチンを片付け、ダイニングが散らかっていないことを確かめると、部屋に戻って窓を閉め、エアコンを付ける。カノンの食事を作っていて水が跳ねてしまったので着替え、髪を整える。そしてまた時計を見上げた。
の生活は一変したけれど、藤真との繋がりだけは変わっていないように思える。
もう過去の苦しみに溺れて傷を舐め合うようなことはしないけれど、今でもは藤真の、藤真はの一番の理解者で、自分を本当にわかってくれるのはお互いの相手だけだ、という認識はそのままだ。だから、何より大事にしている。
心などいつまた欠けてしまうとも知れないけれど、ふたりで一緒にいられれば、怖くない。
チャイムの音には立ち上がり、寝ているカノンを気遣って足音を立てずに部屋を出る。鍵を開け玄関ドアを開くと、夏の熱気とともに藤真が現れる。大学に入ってから、藤真は少し肌が焼けた。牧みたいにはなるなとは釘を刺す日々だが、本人はあまり気にしていない。
「おかえり」
「ただいま、時間通りだろ。カノンいるのか」
「テスト明けだから、爆睡してる」
「静かで助かるな」
靴を脱いだ藤真に、は両手を広げて見せる。
「……オレがいなくて寂しかった?」
「当たり前でしょ。健司は?」
「オレも。寂しかったっていうか、キツかった」
ぎゅっと抱きついてくる藤真の体が熱い。は鼻で笑って部屋にいざない、ベッドに倒れ込む。
「いつ戻るの」
「月曜の夜」
「それじゃ少しゆっくり出来るね」
「カノンが邪魔しなきゃな」
「お昼まだでしょ、シャワー入ったら一緒に食べよ」
藤真のこめかみの傷を指先で撫でていたは、そう言うと優しく唇を寄せた。
「シャワーも一緒に入りたい」
「それはカノンがいない時にね」
「……瀬田さん呼ぶかな」
はつい声を上げて笑った。一見物静かだが、兄の方も中々に手段を選ばない。の体を抱き寄せて、有無を言わさずに唇を重ねる。このまま愛し合いたいけれど、何しろ暑かったので汗をかいているし喉も乾いている。すぐに解放した藤真はを抱き起こしてにやりと笑う。
「続きはまた後で、な」
欠けた心は満ちて、そして今度はひとつに溶け合うのだ。
END