ルーザーズ&ラバーズ

Side-F 14

本戦への道を絶たれた翔陽3年生は冬休みを待たずに引退、期末が終わり、テスト休みが開けた頃に新体制へ移行した。だが、依然監督不在には変わりがなく、その点では幸いと言おうか、藤真が引退したので今度は監督に専念できる状態になってしまった。彼は引退から2週間ほどで、部に戻った。

しかし大きな大会は藤真の卒業後にしかないし、現時点では練習試合の予定もないので、新体制下でのチーム作りだの、練習メニューの再編だの、そんなことばかりやっていた。

「えっ、イヴも練習なん!? イヴに男だらけなんて、虚しくない?」
「別にパーティやってるわけじゃないんだから」

期末テストで学年3位を取ったカノンは、以来ずっと機嫌がいい。塾の迎えの時も、3回に1回くらいはジュースやら肉まんやらを奢ってくれる。今もカフェでココアを買ってくれた。歩きながら飲める熱さではなかったけれど、その代わり手が温かい。

はどうしたよ。引退したんだからふたりでクリスマスやればいいじゃん」
「うん……何か忙しいみたいで」
「なんだ、振られたのか、早いな」

カノンは言いたいことを言う。藤真は言葉に詰まり、少し俯く。

「やっぱりそうなのかな……
「いや知らないけど。だけどクリスマスくらい一緒にいたいもんなんじゃないの」
……普通は、そうだよな」
「断られたん?」
「あんまり連絡取れなくて」

と散々遊んだカノンだが、それは自分が暇だったからだ。を気に入って、兄貴の彼女と仲良し! なんていうつもりは全くない。ココアとクッキーを交互に口に運びながら話をしている彼女は、兄やを心配しているようには見えない。気になったから聞いてみただけ、という雰囲気だ。

カノンは、自身が小学生の頃に大人の中にいる時間が長すぎたせいで、同世代とのコミュニケーション法というものをまったく習得できていないと主張しており、そのため、特に同じ高校や塾の人間関係は浅く保つようにしているらしい。何より面倒くさいし、いつも一緒でベタベタな友達がいなくても平気なタイプである。

「何したん。無理矢理押し倒したとか?」
「そんなことするかよ。よくわからないんだ。何か気付いたら会えなくなってて」
「気付いたら、って何。別に今から会いたいとか言えばいいじゃん。女子かよ」

それはそうなのだが、一度タイミングを逃してしまったらものすごく言い出しづらくなってしまった。そんな状態にも関わらず、の方から会いたいとも言ってこないことが余計に不安をかきたてて、引退したというのに部に入り浸っている一方で、急に遠くなってしまったに対しては、逃げの姿勢になっている。

「てかあんだけベタベタしてて急に連絡取れなくなるとか、理由ないわけないでしょ」
「それが何なのか……
「わかってたらこんなことになってないよねえ」

カノンは楽しそうにココアを啜る。じっくり話を聞いて一緒に探ってくれたり、なんてことは期待するだけ無駄だ。

「てかさ、ふたりとも進路別じゃん? どうせ健司は部屋借りるでしょ。そしたらどうするつもりだったん」
「どうするって――特に何も考えてなかったけど。は海南大だし」
「まあ、だったらそろそろ潮時だったんじゃないの」
「そう、なのかな――

瀬田さんとの出会いですっかり心が晴れた藤真だったが、数日経ってその時の興奮が治まってなお、欠けたままの心が元に戻ったという自覚には至らず、今でも変わらずにとはお互いの過去を慰め合える心境なんだと思っていた。だからの変化に戸惑うし、原因もさっぱりわからない。

のことは好きだと思っていた。それはもうひとりの自分に対する愛情でもあるから、のスペック関係なく特別な存在としての意識は強かったし、だけでなく、関係も特別になりたかったことはもう間違いなかった。ただ予選で負けるまではそんな心境を肯定してしまうのが怖かっただけだ。

あまりはっきりした自覚はないけれど、藤真の心は元に戻った。新しく生まれたのではなくて、元に戻った。だから、その変化に対してはあまりに鈍感になっていて、の方が急におかしくなってしまったようにしか感じられなかった。

付き合いましょうそうしましょう、などと言葉で言い交わして彼氏彼女の関係になったわけでもないし、それでも「振られた」ことになってしまうんだろうか――藤真はぬるくなってきたココアを傾けながら、Atmosphereのある路地の方をちらりと見てため息を付いた。

そしてふいにカノンの言葉が蘇る。

をどうにかしてやりたいって思うなら、まず自分が本気になりな!

オレはに対して本気じゃなかったんだろうか。充分本気で接してきたと思っていたけれど、カノンにそう言われた時もわからなかったように、本当に一体オレの本気って、何なんだろう――

と藤真はメッセージのやり取りなどはするものの、クリスマスはもちろん、以前のように藤真のマンションにが泊まるだの、そんな話がまったく出ないまま冬休みに突入した。

藤真監督は翔陽の後輩たちの面倒を見つつ、予選最終日以来、瀬田さんと会う機会が増えた。また、朝から冬季特別講習に参加しているカノンの帰宅が早くなったので迎えの必要がなく、夜は自宅にいるか瀬田さんと出かけているか、もしくは引退した翔陽の仲間と過ごしていた。

そんな風にも藤真も、お互い静かに逃げ合っていた年末のことだ。

藤真は引退した翔陽3年生と3年間お疲れの意味を込めて忘年会に出かけていた。といっても高校生なので、早い時間から焼肉食べ放題をしたあとにカラオケに行き、さんざん騒いで22時頃に解散した。年が明ければ1ヶ月ほどで自由登校になるし、寮暮らしの仲間は実家に帰ってしまう。一足早いお別れ会でもあった。

少し寂しい気もするが、春からは対戦相手として再会することもあるのだし、あまり感傷に浸っても自分がつらくなるだけだ。仲間たちと別れた藤真は最寄り駅からの道のりを小走りで自宅まで急いでいた。

今年は両親が本宅に帰るというが、もはやどちらも一緒にいないのが普通の生活に慣れているので、藤真とカノンはマンションで年を越すことにした。本宅に帰っても落ち着かないし、両親はまたすぐ仕事でどこかに出かけてしまうだろう。それに付き合うのは疲れる。

ただし、自由登校に入ったら今度はマンションを出る準備をしなくてはならない。アパートの契約は父親が一緒に来てくれるというが、その後のことは基本的に自分でやらなければならない。

カノンがひとりマンションに残るが、こちらはそれを案じた祖母が今よりも頻繁に通ってくれるということなので、一応大丈夫ということになっている。カノンも本宅での生活は面倒くさいようで、このマンションで卒業まで過ごしたら出来るだけ遠い大学を受験して一人暮らしをするのだと鼻を鳴らしていた。

生活に必要なものの準備も父親や祖母に任せることになるだろう。家具家電類などは藤真も特にこだわりがないし、今のマンションの荷物だけ片付ければいい。どうせ部活ばかりで部屋で過ごす時間は少ないだろうし、3日以上の休みならカノンのいるマンションに戻ればいい。

自分のこれからの未来のためにも翔陽やこの街に未練を残してはいけないと考えながら、藤真は忘年会シーズンで混み合う街を行く。そうして、5分ほど歩いただろうか。Atmosphereの辺りに差し掛かった藤真は急ブレーキをかけたみたいに足を止めた。上半身がぐらりと前に傾く。

少し先に、がいた。男女合わせて十数人の集団の中で楽しそうに笑っている。藤真の部屋に来ていた時のような普段着ではなかった。Atmosphereに通っていた頃のような、少し派手で荒っぽい服だった。

集団はこれから移動でもするのか、車を何台も停車させていて、どの車も重低音を響かせていた。見ているだけで足が動かない藤真の目の前で、やがてはその中の1台に乗り込み、顔を出して残る人に手を振ったり握手をしたりして、別れを惜しんでいる。

そして、12月の夜の闇の中に、を乗せた車は去って行ってしまった。

ショックだった。

心の片隅には、またAtmosphereへ出入りするようになってしまったへの憤りがあったけれど、それよりも悲しさや無力感の方が勝っていて、藤真はよろよろと道を外れ、路地の入口にあった自販に寄りかかった。

に何があったにせよ、もうこんな風に夜の街で行き場をなくしたみたいにふらふらしたりなど、しないと思っていた。自分の気持ちが通じて、心から寄り添った時間がせめてを夜の街からは遠ざけることができていたと思っていたのに。

藤真はその場で瀬田さんに連絡を取り、米松先生に繋いでもらった。どうしても話したいことがある。どうしても話を聞いてもらいたい。大事なのことだから、先生、どうかオレの話を聞いて――

米松先生は連絡を受けると、瀬田さんに取り次いでもらって電話をかけてきた。車で行くからコンビニかなんかに入って待っててほしいという。藤真は、米松先生の車にナビがついていたことを思い出して、自宅に来て欲しいと頼んだ。そしてカノンに簡単に説明をして、先生に出す茶菓子だけをコンビニで買って、まっすぐ帰った。

藤真が自宅に到着してから20分ほどで米松先生もやってきた。もう23時近くなっていたが、米松先生は藤真を見るなり肩を擦ってくれた。白くてふわふわしている米松先生の手はそれだけで癒しの効果がある。藤真は米松先生をダイニングに通すと、キッチンでお茶を用意する。

「本当にすみません、こんな時間に」
「正直に言うね。実はちょっとこういうの、憧れてたの。だから平気だよ」

米松先生が落ちこぼれ部の面倒を一手に引き受け始めてから早10年ほどが経つ。その関係で不登校を起こした生徒の相手も幾度となくしてきた。だが、いくら落ちこぼれても元々は部活動に熱心に取り組む意欲のある生徒たちばかりなので、グレるとかひどく揉めるとか、そんなトラブルはめったに発生しない。

そんなわけで、米松先生の行動範囲といえば、校内とナナコのような完全ひきこもりの家庭訪問くらいで、こんな風に「先生、いますぐ話を聞いて!」なんていうシチュエーションは初めてだった。その上何しろ米松先生は恋バナが大好き。生徒たちの恋愛は全力で応援する主義だ。

「へえ、君たちもご両親と別居状態なんだね」
「はい。うちは仕事ですけど……
「それにしても手馴れてるね。普段君が家事をしてるの」
「妹は一切やらないので……出来ることだけですけど。後は祖母やたまにハウスキーパーを」
「偉いねー。僕が学生の頃なんかアパートはゴミ屋敷だったよ」

藤真は温かい緑茶と、帰る途中に買ってきた大福を差し出す。ショックを引きずったまま何がいいのかぼんやりコンビニで選んでいたら、目の前に白くてもちもちした大福が飛び込んできたので、それだけ買って帰ってきた。白くてもちもちした米松先生が大福を美味しそうに頬張る姿は想像通りで、藤真は笑うのを我慢した。

「それで……
「あの、先生、告げ口をしたいわけじゃないんです。だから、オレの話を聞くだけにしてもらえませんか」
「大丈夫、大丈夫。ああそうだ、君にも一応あげようね」

米松先生はバッグの中から例の「誓約書」を取り出して藤真に手渡した。藤真はそれに目を落とすと、お茶を一口飲んで、意を決したように顔を上げた。

「オレとが、その、親しくなったきっかけとか、聞いてますか」
「いや、何も。は詳しいことは何も話してくれなかったしね」

ふたりの関係について米松先生が知っていることはただひとつ、ベッドでくっついて眠ったことがある、ということ、そして、同じような苦しみの記憶を分かち合って、束の間の安らぎを得ていたということだけ。

……最初は、『翔陽なんて大っ嫌い』と言われました」
「1年生の時にちょっと嫌な思い、してたからね」

藤真は体育館の脇で話したことから遡りはじめ、カノンの迎えの途中でAtmosphereにいるに出会い、そしてこのマンションで一緒に過ごすようになった経緯を洗いざらい話した。くっついて寝ていたなんてことは言葉にしなかったけれど、それを弁解する気もないようだった。

「今にして思えば……が脳震盪起こしたあの時から、惹かれてたんだろうと思います」
「そうだろうね。君はを通して追体験をしていただろうし、は君よりもっと救いがなかった」
「一緒にいるようになって割とすぐに、のことを好きだなと思い始めたんですが」

しかしそれはへの気持ちが愛情に育ったからではなくて、ただ単に生理的な好意からだった。

「そういう自覚がありました。だから、何もしてません。したかったけど、出来ませんでした」
も同じだったんじゃないかな。どこにでもいる彼氏彼女という感じはしなかっただろうからね」
「予選で負けて、そのあたりからやっぱりオレはが好きなのかも、という気がしてきたんですが」

それも藤真の心が元に戻った余裕から来たものだ。米松先生は余計なことは言わずに頷く。

「あれ以来会えなくなってしまいました」
「そうか」
「何がいけなかったんだろう、何を間違えたんだろうって考えてました。だけど今日、を見てしまって」
「えっ、どこで?」
「ついさっきです。Atmosphereの友達と一緒みたいでした。車に乗って、どこかに行きました」

さすがの米松先生も難しい顔をした。未成年が22時過ぎに集団で車に乗ってどこかへ行ってしまった――それが自宅へ帰るを送っていくというものならいいけれど、さて藤真がこんな風に米松先生に話を聞いて欲しいと言い出すくらいだから、そんな風には到底見えなかったんだろう。

「とても身勝手な言い方だと思いますが……なんだかものすごくショックでした。心の傷が完全になくなることなんてないけど、せめて一緒にいることで、あんな風に夜遊びをしたって気持ちなんか満たされないんだっていうことを、わかってくれたんじゃないかと思っていたので……

藤真はテーブルの上の組んだ手に力を込める。

「やっぱりオレじゃ、だめだったのかと、思ってしまって」

そしてがくりと頭を落として言葉を切った。

米松先生は少し迷った。知る限りの情報で状況を推察してみても、は結局自分だけが負け犬だったことに押し潰されそうになって、藤真の元を逃げ出しているとしか考えられない。藤真はそのことに気付いていないし、何かをしくじったせいでにそっぽを向かれたと思っているようだ。それを言ってもいいんだろうか。

だってほら、君が瀬田さんに絶賛されてるの、隣で聞いてたんだよ。同じつらい過去を持つ相棒だと思ってたのに、君は手放しで褒められた上に、名門チームへ進学なんだよ。落ち込むのも無理ないと思わない?

だけど米松先生にとっては藤真もも、どちらもかわいい生徒だ。藤真に向かって、君がひとりで立ち直っちゃったからいけないんでしょ、なんていう身も蓋もない言い方は絶対にしたくなかった。

「藤真くん、今はどうかな」
「えっ、何がですか」
「最初は甘え合うだけの関係だったと思うけど、今はどう? のこと、どんな風に思ってる?」

米松先生は本日最大級の可愛らしく優しい笑顔で目を細めた。もう何年も海南の生徒の警戒を解き、心の鍵を開け、そして傷ついてボロボロになってしまった彼ら彼女らを癒してきた笑顔だ。これにはさすがの藤真も為す術なく、無意識に張り巡らせていた緊張が消し飛んだ。

……好きです」
「前と同じように?」
「違うと……思います。前は、真っ暗な道を一緒に手を繋いで歩いてくれる人だと思って、だから好きだと思ってたんだと思います。だけど、今は――道が暗くても明るくても、と手を繋いで歩きたい、そんな感じがするんです。昔のことを話しても話さなくても、一緒にいられればそれでいいというか――

真っ暗な道は怖いから、真っ暗な道が怖いもの同士で手をしっかり繋いで、怖いね怖いなと言いながら歩いてくれる相手だった。それは大事な相棒で手放したくない「安心材料」で、だからのことを好きなんだと思っていた――それは米松先生にも手に取るようにわかる。ふたりは怯えて身を寄せ合っていただけだった。

しかしひとりその恐怖を克服してしまった藤真には、もう怖くないから手を離して自分のスピードで歩きたい、暗い道に留まるのは嫌だからを置いて走り去ってしまいたいという気持ちは生まれなかったようだ。

米松先生は自分の教師としての「子供を見る目」を信じ、藤真に賭けた。

は未だ暗い道の真ん中で、行く先を照らしてくれる明かりを求めて立ち竦んでいる。前後左右もわからないのに、いいからさっさと正しい方向へ向かって歩けよと怒鳴る声に怯えて、だったら明かりを灯してくれと泣き叫んでいる。そのを、の手を取ってやってくれないか、藤真くん――

が君を癒やしたように、それが出来るのは君しかいないから。

「昔のことを話せなくても平気? もう大丈夫なの、怪我のこととか、予選のこととか」
「はい。瀬田さんにたくさんお話をして頂きました。おかげで目標も見えたし、過去よりも未来のことを――
「どうした?」
……瀬田さんに、言ってもらったので」
「うん、瀬田くん、すっごく褒めてたね。春から楽しみだって喜んでたよ」

米松先生はにこにこ笑顔を崩さずに、優しく相槌を打ちながら、藤真を追い詰める。

「いやあ僕はバスケのことは素人だからわからないけど、期待されてるんだなって思ったよ」
……はい、そう、言ってもらいました」
「今度こそ勝ちに行こう、だなんてかっこいいこと言うよね」
……はい、もう、負けたことは忘れようって、何度も」

頭がぐらりと傾き、藤真はテーブルに腕をついて頭を支えた。指を前髪に差し込み、ぐしゃりと握り潰す。

「先生、オレ、の手を離して、しまったのかもしれません」

米松先生は満足そうに微笑み、そしてまた優しく相槌を打った。藤真を信じてよかった、そう思いながら。