ルーザーズ&ラバーズ

Side-F 13

自宅ではと感傷に浸っていても、そこは一応3年間海南と首位争いをしてきた翔陽である。冬の選抜予選トーナメントを順調に勝ち抜き、対戦相手にまで一体IH予選は何をしてたんだと言われる始末であった。

そしてとうとう本戦出場の1枠をかけた決勝にまで漕ぎ着けた。相手は当然海南である。

「湘北と陵南は3年生引退してるしな」
「ああそうか、海南と翔陽はみんな残ってるんだね」
「さっさと引退すればいいのに」

はぼんやりした顔で吐き捨てた藤真の頭をよしよしと撫でる。予選が始まってからというもの、藤真は自宅ではこうしてぼーっとしていることが多い。余程疲れていない限りはカノンの迎えにも行くが、例え疲れていてもがいてくれた方が嬉しいというし、普段通りに生活していても気力の消費が激しいようだ。

今もシャワーで温めてきた体をばったりとベッドに投げ出し、半目で天井を見上げている。

「だけど、決勝前が湘北でよかった。もうあの時のチームじゃないとはいえ、雪辱は果たせたから」
「陵南と当たらなくてよかったね」
「バカ言うな、陵南相手でも勝ってたからな」

湘北も陵南も、どちらも重要なポジションにいた3年生を欠いた状態だった。逆に翔陽は主力3年生が全員残留、新体制による不慣れなチームとも違い、3年間ガッチリ組んできたメンバーである。

……、海南が負けたらどうする?」
「どうする、ってどうもしないよ。IHだって決勝では負けてるけど、別に……
「オレが牧に勝ったら、どう思う?」
「そんなの勝ってみないことには……

藤真は何か言葉を期待しているわけじゃなかった。だが、決勝を2日後に控えた状態での隣に横たわっていると、そんな疑問が湧いてきた。翔陽が勝利して、海南が敗北した時、はどんな風に感じるのだろう、何を思うのだろう。その時自分は、はどう変わるのだろう。まさか、何も変わらない?

藤真はじめ翔陽の3年生は絶対に勝つと決めているし、それは海南の方も同じだろうけれど、さてその中間に落ち込んでいるはどうなんだろう。翔陽にも海南にも特に執着はないわけだし、どっちが勝とうが勝つまいが、に影響はない。ただこの藤真との「甘え合う」関係だけが糸を引いている。

「ただ……こうして一緒にいると落ち着くし、安らぐし、幸せなんだけど」

ぼんやり天井を見上げている藤真に寄り添ったは、スッと息を吸い込む。

「だけど、取り戻して欲しいなと思う。私は取り戻したところでたかが知れてるけど、健司は違うから」

こうして近い距離で過ごす時間が増えれば増えるだけ、の中にあった翔陽への憎悪は薄らいでいった。もしこのことが同学年のダンス部員にバレたら何て言われるだろうと不安に思ったこともあったけれど、もう引退した身なのだし、関係ない。時間も残り少ないし、弾き出されるのは慣れている。

翔陽が勝利し、海南が敗北すればいいとまでは思わなかった。けれど、どんな形でもいいから藤真が過去の記憶から解き放たれて欲しいと願うようになっていた。

「そんなこと……。オレだってに取り戻して欲しいって思ってる」
「出来るのかな」
……出来てくれなきゃ困るよ」
「何で」
「キスできない」

は吹き出し、何も答えない代わりに藤真の腕を持ち上げて手首を噛んだ。

「あの時、脳震盪起こしたを見た時、これはオレだって思って……頭怪我した時の、湘北に負けた時のオレだって、思ってて……だから、自分も取り戻したいって思うけど、も同じように取り戻して欲しいと思ってるんだよ。ふたりで取り戻せなかったら、意味ないだろ」

寝返りを打った藤真はの頭を引き寄せて、静かに撫でる。

「オレは絶対に負けないから。もう負けないから」

だが、翔陽は負けた。

藤真は選手として監督として最後まで全力で戦ったけれど、及ばなかった。結果、藤真は一度も牧に勝てないまま、翔陽の3年生は海南に勝てないまま活動を終えることになった。もう、翔陽にあまり言葉はなかった。

そんな試合の後のことだ。帰り支度をしていた翔陽控え室に体育館職員がやってきて、藤真に呼び出しが来ていると言う。ロビーと控室を繋ぐあたりで待っているというので、後のことを花形に頼んだ藤真は急いで控室を出た。彼を呼び出したのは、米松先生だった。

「やあ、お疲れ様でした。感動しました。君たちはかっこいいね、本当に」
「先生……ご無沙汰してます」

色白でぼってりした米松先生は優しい笑顔で藤真を迎えた。両手を広げるその姿にはなぜか妙な魅力があって、そのお腹に勢い良く突っ込みたい気にさせられる。藤真も一瞬だけ抱きつきたい衝動に駆られたけれど、米松先生の隣にがいたのでぐっと我慢する。どういうことだ?

「僕が誘ったんです。藤真くんを見に行かない? って」
「だけどその――
「君たちのことは聞いてます。がぺらぺら喋ったわけじゃないよ。僕の勘がよかっただけ」

先生はお腹を撫でながらエヘヘと笑った。その仕草もかわいい。

も一度くらい海南のシンボルであるバスケ部の試合を見ておいた方がいいんじゃないかと思ったし、対戦相手は藤真くんだっていうし、海南の生徒だけど、もうそんなことは関係ないと思ったからね。それに、君に引き合わせたい人がいるんだ。長くかからないから、少しいいかな?」

藤真は頷き、ちらりとの方を見たが、彼女は少し俯いて黙っている。、どうしたんだ?

そこへロビーの自販機の影から大きな影が現れて、藤真たちの前にやってきた。はそれを確かめると米松先生に会釈してゆっくりその場を離れ、藤真は息を呑んでその場に棒立ちになってしまった。

「初めまして、瀬田と言います」

にっこりと笑うその人物の額は少し引きつれていて、笑顔なのに片方の目だけ怒っているような顔になる。藤真は両手を脇にビシリと貼り付けたまま、ぽかんと口を開け、ただその瀬田という人物と米松先生の顔を交互にきょろきょろと見ていた。

瀬田さんは、男子バスケット元日本代表で2年前に某プロチームを引退したばかり、そして来春から藤真が入学する予定の大学のOBであり、もっと遡ると、かつて海南の主将を務めた人物である。そう、瀬田さんはいつか米松先生の「落ちこぼれ部」設立に協力した、あの主将くんである。

「今日は惜しかったね。だけどいい試合でした。高校生の頃を思い出したよ」
「あの、ええと、ありがとうございます……
「彼は僕の友人でね。元は海南の主将だったんだよ」

元海南の主将とは知らなかったけれど、進学先のOBで元日本代表だということはよく知っている。藤真はまだ緊張が取れずに気をつけの姿勢のままだ。何でそんな人がこんなところに。

「最初はとふたりで行こうって話だったんだけど、直前に連絡貰ったからついでに」
「道々話を聞いたら、後輩になる予定だって言うもんだから、もうどっちを見ればいいやらでね」

少しいびつな表情だが、瀬田さんはそんなことを言って微笑む。そして、混乱している藤真に向かって言った。

「君は本当にいいプレイヤーだね。海南OBじゃなくて、大学のOBとして非常に楽しみにしてます。というか……春から大学に戻るんだ。コーチになります。君がとてつもない可能性を秘めている選手だということは間違いないと思う。ぜひ一緒に頑張っていこう」

唐突に襲い掛かってきたこの事態に、藤真はぼんやりと口を開けたまま、ただただ棒立ちになっていた。

「聞けば君はずいぶん苦労してきたそうだけど、もうそんな心配はいらないよ。今度こそ勝ちに行こう」

握手を求められても、米松先生に促されてやっと手を差し出せたくらいだった。

元日本代表の瀬田さんが、オレを褒めてる。春から通う大学のOBでコーチになって戻ってくる人が、オレを認めてくれてる。海南の主将だったのに、牧のところに行かないでオレのところに来て、勝ちに行こうと言ってる。負けたのに、結局海南には勝てないままだったのに、瀬田さんは、オレと話すことを選んだ。

しっかりと握手を交わしながら、藤真の視界はぐらりと大きく傾いた。

……はい、もう負けるのは嫌です、よろしく、お願いします」

高校で成し遂げられなかったことは、大学で。チャンスがなくなったわけじゃない、まだまだ未来はあったのだ。

もう藤真の中には頭の怪我も敗北も海南も牧も、何も残っていなかった。あるのは未来への希望、期待、それに膨らむ胸、心が沸き立って踊り出しそうな気持ちだけ。もっとやれる、自分の限界はまだまだ先、いくらでも強くなれる。なりたい。瀬田さんはきっと自分をそんな場所に導いてくれるはずだ。

この時、欠けてしまったまま戻らなかった藤真の心は、満ちたのだ。

のことは、思い出さなかった。

内部進学が確定しているので適当に済ませた期末が終わり、テスト休みに入ったは、また米松先生の来訪を受けた。一応ナナコの様子見ということなのだが、ナナコは相変わらず部屋から出てこないので、先に妹の方を訪ねることにしたらしい。も部屋で過ごしていた。

……余計なことしちゃったかな」
「別に、そういうんじゃないけど」
「じゃあどんな感じ?」
「だから、何も変わらないって」

は一人用のローソファにだらりと座って、ぼんやりとテレビを見ている。今日はベイマックスではなくて、バラエティの録画のようだ。部屋の中がずっと騒がしい音で満たされている。

、藤真くんはさ――
「その話はもういいよ」
「だけど
「別に付き合ってたわけじゃないんだし」
「でも好きだったんだろ」

身を乗り出した米松先生だが、お腹が邪魔なのですぐ元に戻る。はそれをちらりと見ると、またテレビに視線を戻した。の顔にテレビのチカチカした明かりが踊る。

……よくわかんない」
「ねえ、先生そういうの寂しそうな顔見てるのつらいよ」
「そんな顔してないよ」
「してるよ、予選最終日から何日経った? あれから一度も藤真くんと会ってないんだろ」

お腹が邪魔で身を乗り出せない米松先生は、正座に座りなおして手をつき、ににじり寄った。

を傷付けるつもりはなかったんだ。本当にごめん」
「いやだから、先生が悪いわけでもなくない?」
、思ってることあったら、話して欲しいな」

はだるそうに身を起こして首筋を掻く。どう話したものかと考えているようで、しきりと首を傾げては、髪をかきあげたり足を組み替えたりして、中々口を開かない。米松先生は辛抱強く待つ。早速足が痺れてきたけれど、可愛い生徒のためなら我慢できる。たぶん。3分くらいならきっと。

「うーん、なんていうか、あー、やっぱりなあって」
「何が?」
「ここんとこずっと一緒にいて、大事な相棒とか思ってたけど、やっぱり健司は普通にすごい人でさ」

無理もない。から見てもやはり藤真と牧は飛び抜けて上手く見えたし、観戦中、瀬田さんはいかに藤真が良いプレイヤーであるかを丁寧に説明してくれた。瀬田さんと一緒に観戦することになってしまったのはたまたまだが、にはいいことではなかった。米松先生は少し後悔している。

試合が半分を過ぎた頃にはもうは笑顔を失っていたし、藤真を呼び出している間も殆ど喋らなかった。藤真と瀬田さんの話が終わった頃にようやく気付いた米松先生は白い顔を青くして落ち込んだ。やってもうた。

「好きとか彼氏とか、そういうつもりあんまりなくて、気持ちが楽になるからつい一緒にいたけど、やっぱり住む世界が違うよなーって。ふたりでいる時の健司だけがちょっと変なんであって、その他の健司は全部、もっと高いところにいる人なんだなーって。……私といる時だけ、おかしいんだよ」

誓って藤真との関係はプラトニックなものであるとが言うので、その辺りについては深く追求していない米松先生だが、そんなことよりも、例えば依存関係にあるんじゃないかとか、妙な絆ができてしまってふたりだけの世界に籠もってしまうんじゃないか、なんていうことを心配していた。

その上、いくら同じ経験をした相棒だったとしても、元から藤真の方が評価は高い。大学の推薦だってとっくに決まっていた。それで癒やし合い甘え合う関係はバランスがとれているんだろうかと心配していたが、結局こうして藤真は瀬田さんの出現によって気持ちが晴れ、だけが取り残された。

米松先生は丸い頭で考える。

そうは言っても、藤真くんはと出会った頃にはほとんど過去を払拭できていたはずなんだ。怪我でIHをふいにして、翌年は新興勢力に敗北、けれどが脳震盪を起こした時、翔陽は、藤真くんは国体の神奈川代表のひとりだった。バスケットをしている神奈川の高校生のトップ16のうちのひとりだった。チームのことはひとまず措くとしても、本人は嬉しかったはずだ。

彼が再び過去に囚われることになったのは、がいたからだ。

突然現れたは落ちこぼれ部で冷遇されていて、だけど必死に頑張っていて、そこには自分たちのチームが重なっただろう。なのに、こともあろうには彼の目の前で脳震盪を起こし、そのまま引退する羽目になった。が傷つけば傷つくほど、藤真くんの傷も痛んだだろう。

鮮明な記憶とともに蘇る自身の苦しみが目の前で繰り返されて、けれど何の救いもないに惹かれてしまうのはしょうがないことなのかもしれない。苦しんだ自分自身を愛するように、を愛したかったのかもしれない。あの時の自分にはそういう人がいなかったから。

もそれでよかったんだろう。悪意のある言い方をすれば、負け犬同士、傷の舐め合いはとても気持ちのいいものだ。は気持ちが楽になると言うけれど、肉体関係がなかったとしても、僕たち辛かったよね、私たち苦しかったよねと言い合い甘え合うのは、殆ど快楽だったに違いない。

いやしかし、それはもう過ぎたことだ。ふたりはおそらくそんな風に快楽の中に浸っていたんだろうが、藤真くんだけが抜け出てしまった。だけが甘い痛みの沼の底に取り残された。それをは「住む世界が違う」と捉えているみたいだけれど、それは違う。

住む世界など元々同じじゃなかった。学校も違う、生活環境も違う、部活の種類も違う。それを同じ場所にいるかのように錯覚していただけで、最初からふたりは同じ場所になんかいなかった。そういう意味では対等であると言ってもいいかもしれない。評価云々は措くとしても、どちらも高校3年生であることには変わりない。

それをどう伝えたらいいだろう。藤真くんは過去の苦しみを払拭できてしまったのかもしれない。だけどそれは瀬田くんという偶然の成した結果であって、藤真くんが優れていてが劣ってるからなんていうことじゃない。

だけどに何て言えば伝わる? あれきり藤真くんとは会っていないと言うし、今も変わらず過去の苦しみとともにあるに、一体どんな救いがあるというんだろう。

ああ、藤真くんがの手を取って引き上げてくれたら――

米松先生がそんな考えに至ったところで、はずるりとローソファに体を沈めて丸くなった。

……健司にくっついてると、すごく幸せだった」
……過去形?」
「今、健司にくっついても、幸せな気持ちになれない気がする」

米松先生のふくふくした手がの頭を撫でる。はさらに体を丸めて小さくなった。

「私、健司のこと好きだったのかなあ……よくわかんないよ……