ルーザーズ&ラバーズ

Side-F 12

「もうすぐ予選なんじゃないの」
「ほんとにもうすぐ」
「どんな感じ?」
「どんな感じって言われても……

連れ立ってカノンの迎えに行き、帰りにはファミレスで食事を奢ってもらったので兄は機嫌がいい。ファミレスで満腹になったので、カノンは帰るなり部屋に入って寝てしまった。シャワーは翌朝に入るからいいという。夜食を作らなくていいしはいるしで、今日の藤真はすっかりリラックスモードだ。

部屋の明かりを落とし、枕元のスタンドライトだけの部屋はぼんやりとオレンジ色に染まっていて、テレビもつけていないので静かだ。その中にふたりの声がぼそぼそと響く。ベッドに横たわり、仰向けになって携帯を覗いている、藤真はその体に腕を回して目を閉じている。

「講じれる対策にも限りがあるし……国体の時に湘北や陵南の弱点を探ろうと思ってたんだけど、オレにすぐ看破される程度の弱点なんか想定済みだろうし、こっちだってそういうところ、見られてたわけだし」

一応データとして頭に入れておくけれど、それに囚われても仕方がない。番狂わせは起こるのだ。敵情視察は見る方の精神状態にも左右されるし、それで痛い目を見ているので過信は禁物である。

「ひとつずつ勝っていくしかないんだ。腹減らしながら、蹴落としていくしか」
「腹が減る?」
が頭打った後に、牧が言ってたんだ」

藤真は牧に聞いた話を繰り返した。勝てば勝つほど増す飢餓感、そしてそれが満たされるのは勝者のみ。

「実は……そういう経験はなくて」
「だけどIHには出たんでしょ」
「海南みたいに準決勝まで進んだことはないし……だけど予選はいつもシードだからな」

練習試合などを除けば、ここ数年の翔陽は公式戦がとても少ない。飢餓感を感じる前に山を下りる羽目になる。

「自分がどこまでやれるのか、それを限界まで試したいと思うんだけど、限界を感じる前に締め出されてる気がするんだ。もう一度勝負しろって思いながら、相手にしてもらえない感じがする」

しかし非公式な試合で勝っても、それはそれで面白くない。翔陽はたくさんの細かい矛盾を抱えている。

「相手にしてもらえない感じっていうのはわかるなあ」
「確かダンス部の他にもあるんだったよな、その――
「落ちこぼれ部ね。軽音とアウトドア部」
「アウトドア部って何やってるんだ」
「実は基本的にはスポーツならなんでもいいの。屋内競技でも大丈夫」

ただ、アウトドア部は実にそのほとんどが元バスケット部なので、屋内競技からは距離を置きたいという部員が多い。球技も人気がない。米松先生としても、例えば海南の駐車場とか、学校の外とか、元いた部が見えない場所で活動できた方がいいんじゃないかと考えていたので、自然とそういう活動になっていった。

「BMXが5台あるから、それやってる人が多いかな。あとはスケボーとか、スラックラインとか」
「へえ、BMXか。予算ないって言ってたのに、先生頑張ったな」
「ううん、それはなんか卒業生の寄贈とか何とか言ってた気がする」

でなければBMXなど購入出来る予算はない。スケボーやスラックラインも基本的に自費である。しかしどれにしてもただ練習しているだけで、ダンス部のように成果を出す場を求めてはいない。そこは文化部脱落者の多い軽音楽部と同じだ。こちらは人数が少なくて、発表どころではない状態。

……は元々何部にいたんだ」
「それが、最初は帰宅部だったの」
「え?」

驚いた藤真は目を開くとむくりと起き上がった。それじゃあ落ちこぼれでもなんでもないじゃないか。だったら、あの海南バスケット部の監督・高頭や顧問に食って掛かっていった熱意はどこから来たんだ。落ちこぼれてもいないのに、翔陽を憎悪していたあの目は何だったんだ。

「最初は部活やるつもりなかった。だけど、1年の……6月頃かな、同じクラスの運動部の子が見学に来ないって誘ってくれて。別に入部する気はなかったんだけど、断る理由もないから顔出したら勘違いされて、こんな時期に入部希望で初心者なんて、遊びじゃないんだって説教されてね」

遊びじゃない――それは自身や高頭も度々口にしていた言葉だ。藤真はまた枕に頭を落として、と手を繋ぐ。緩く握り返される指先は少し冷たかった。

「入部するつもりはないですって言い返したら、だったら邪魔しないで、って言われて」
「それって、部員が?」
「んーん、コーチとか監督とか、確かそんな人だった気がする」

は笑っているが、ふざけた話だ。藤真は頭を寄せて、目を閉じる。

「そしたら夏休み入る前に、その見学に誘ってくれた子が退部しちゃった。それで一緒にダンス部入った」
「じゃあ、あのアクロバットとかはそこから練習したのか」
「何しろ部員は既に元体操部とか元チア部とかたくさんいたからね。みんなで練習したんだよ」

だが、を部長にまで押し上げたのは別の理由だ。

「ナナコは――合唱部のお姫様だったのね。歌は超うまいし、可愛いし、1年の時からずっと部の中でも特別扱いされてた気がする。だけど、人に誘われてだったけど、何だったかな、確かカラオケチェーンの歌うまオーディションとかそんなんに応募しちゃったんだよね」

一次審査、二次審査、歌も上手く可愛いナナコは軽々突破して最終オーディションのエントリーまで進んだ。というところでそのことが部にバレた。隠していたわけではなかったが、ひとりでこそこそオーディションを受けていると思われたらしい。歌姫ナナコは急に仲間外れにされだした。

「それからまあ色々あって、結局ナナコは退部もしたし、部屋から出てこなくなっちゃった」
「大変だったな……
「ナナコに、約束したんだ。私はダンス部で頑張って、ナナコの仇、取ってあげるからって」
「お姉さん、なんて言ってたんだ」
……返事、なかった。だけど、私は負けたくなかった」

自分の体験と姉の境遇が合わさって、は落ちこぼれ部のエースになった。また運の悪いことに、が1年の時のダンス大会が、例の翔陽に負けた年である。の代の落ちこぼれ部が殺気立っているのには、いくつもの理由があった。

「絶対ぎゃふんと言わせてやるって、思ってたんだけどなあ」
、かっこよかったよ、あれ」
「グダグダだったって、あんなの」
「いや、そうじゃなくて――

首を捻って、は少しだけ藤真の方を向いた。今にも額や鼻が触れそうな距離だ。

「監督や先生に一歩も引かないで、IHだか何だか知らないけど偉そうに、って」
「だってそうじゃん。強い部は予算もガバガバつぎ込んでさ、私たちはいつもバカにされて」
「だけど、そういうのが辛くなっちゃった子たちの集まりなんだろ、本来的には」
「まあ一応……そういうことになるけど」
「だけどはそういう目をしてなかったから」

藤真はの体に巻きつけていた手を伸ばして、目尻に触れた。もそっと目を閉じる。

が勝つところ、見たかった」
……じゃあ、私の分も、勝ってきて」

そんな囁き声とともに、ふたりは横になったまま強く抱き合った。そんなことでしか、心を宥められなかったから。

予選が目の前の藤真は早朝から練習に出かけ、暗くならないと帰ってこない。翌土曜日、が目覚めた時には藤真の姿はなかった。のろのろと起き上がってダイニングまで行ってみると、ふたり分の朝食らしき用意ができていて、はつい吹き出した。

せっかくなのでゆっくりと頂いていると、これまたのろのろとカノンが起き出してきて、一緒に食べ始めた。平日は何日か塾に通っているけれど、土日は何も予定がなくて暇なんだと大あくびをしている。

「彼氏いないの?」
「私さ、すげー中二なんだよね。小学生の頃ほとんど遊んでなかったせいだと思うんだけど」

なので、よろず発想が「人と違うことをしたい」なのだと言ってニヤニヤしている。

「だけどさ、人と違うことしたいって言いながら流行の服着てるとかわけわかんないでしょ」
……まあね」
「だからさ、新しいこと探すんじゃなくて、時代に逆流すればいいわけじゃん」

彼氏がいるかいないかを聞いたはずなのだが、何の話かわからない。は首を傾げる。

「なので、私は彼氏いないのをこのまま続けて、高校大学と清い体を守り、いずれ見合いをする。んで、外で数回のデートだけで結婚すんの。結婚決まったら結婚式まで顔合わせないの。初夜はほんとに初夜なの。どーよ、ぞわぞわするくらいデンジャーでしょ!?」

カノンは楽しそうに興奮しているが、は青い顔をしている。人生ギャンブルか。

「まあ別に死ぬほど好きな人が現れればそれでもいいけどね」
「現れるとは思えないんじゃないの」
「よくわかるねー!」

そんなことを話しながら、カノンは食事を終えると食器を下げ、リビングのソファにひっくり返った。も食器を片付け、しかしカノンに倣って藤真に丸投げしていい立場ではないので、食器を洗っておく。それすら何だかたどたどしいような気がするのは、キッチンがきれいな割に、使い込まれているからかもしれない。

皿洗いが終わったら藤真の部屋に戻ろうかと思っていただったが、カノンがゲームしようよというので一緒に遊んだり、それが飽きるとコンビニ行こうよだのドラッグストア行こうよだの、結局カノンの休日に付き合うことになってしまった。それが嫌なわけではないけれど、何だか変な感じがする。

その日の夜、1日中練習で疲れて帰ってきた藤真は話を聞くなり呆れて肩を落とした。

「それで1日中遊び呆けてたのか」
「ご、ごめん」
は別にいいだろ。カノン、お前は洗濯とか掃除とかあるだろうが」
「週明けにばーちゃん来るからいいじゃん別にー。てか人の金で飯食いながら何を偉そうに」

遊んでもらったお礼も兼ねて、とカノンはまた食事を奢ってくれた。だが、食事のために遠くまで行く気力はなかったらしく、マンションの近くのファミレスである。土曜の夜で混雑していて、藤真兄妹は大変目立つ。

「てかあんたは明日も1日中練習じゃん。明日は映画行ってくるから」
「え、そうなん……
「たまたま見たいのがあって……

練習なのだから仕方がないとはいえ、藤真は少し寂しそうだし、もちょっと気まずい。

「映画の1本くらいいいじゃん。どんなに勝ったって年明けには必ず引退してんだし、それから行きなよ」
「いやオレは別に一緒に行きたいわけじゃ――
「映画デートとかいいねー! ラブシーンで手を繋いじゃったりね! フゥー!」

聞いてない。兄とは諦め、大人しく食事を御馳走になり、カノンの話を聞き、そしてまたマンションに帰ってきた。カノンは大あくび、に明日の時間を確認すると部屋に入ってしまった。

「悪かったな、1日付き合わせちゃって」
「いやこっちこそ……何かいっぱい奢ってもらっちゃって」
「そこは気にしなくていいよ、あいつ金稼ぐのも好きだけど使うのも好きだから」

は洗ってきた髪を藤真にタオルで拭いてもらいながら、吹き出した。本当に藤真ともカノンとも、友達のようでいてそうでもないような、一言で説明出来ない関係はなぜか可笑しくて、笑ってしまう。

「じゃあ引退したら、映画行く?」
「えっ、だからオレ別にそれが目当てなんじゃなくて、仲間に入りたいとかそういうことじゃ――

が妹と仲良くなってしまってヘソを曲げていると思われたくないのだろう、藤真は途端に慌てた。

「え、そうじゃなくて、ふたりで」
「あああ、そっか! そうだよな、別にカノンはいらないよな! それが普通だよな、そうだそうだ」
「落ち着きなよ」

また吹き出したの頭にばさりとバスタオルをひっかけると、藤真はタオルごとぎゅっと抱き締めてぐらぐらと揺らした。は笑い声を上げて足をばたつかせる。

「まだそんなに時間経ってないけど、どう? 戻ってきそう?」
「え、何が?」
……欠けたまま戻らないもの」

きょとんとしていた藤真はしかし、にそう言われると殊更きつく抱きついてきた。

……といると、忘れてる」
「何を?」
「欠けてること、なんで欠けたのかも、気付くと忘れてる。ひとりになると思い出す」

は腕から逃れるとバスタオルを外して藤真にばさりと被せ、同じようにタオルごと抱き締めた。

……取り戻せそう?」
「まだわからないけど、ひとりでいるよりは出来る気がする」

藤真も手を伸ばしてにしがみつく。

は?」
「私もわかんないけど、でも、忘れてる。部活のことも、怪我のことも」
「こうしてると?」
……うん、健司といると、忘れる」

ふたりはぐらりと傾いて倒れ込む。明かりを落とした部屋にベッドの音が軋む。

藤真の頭にかかっていたタオルが外れ、ベッドの上でふたりの髪が混ざり合う。額はほとんどくっついているし、互いの息が感じられる距離にある。静かな部屋、遠くのサイレンが風に乗って聞こえてくる。藤真はの頬に指を伸ばして囁く。

「キスするみたいな感じだな」
……したい?」
「したいけど……やめた方がいいと思う」
「何で?」
「今、のことすごく可愛いなって思う、キスしてみたいって思う」

キスまであとほんの数センチほどの距離、藤真の声が空気を震わせている。

「だけど……しちゃったら、二度と取り戻せない気がする」
「欠けたままで戻らない?」
「ずっと欠けたままでいいって思う気がする。もしが取り戻せたら、のこと嫌いになる気がする」

も手を伸ばして、藤真の髪を撫でた。

「嫌いになりたくないんだ。だから、しない方がいいと思う」
「うん、そうだね。私もそんな気がする」
……だけど、ほんとは、すごくしたい」

頭にあったの手を引き寄せると、藤真は甲の真ん中に音を立ててキスする。

「だから、いつか取り戻せたら、していい?」

は手を滑らせて藤真の頬に添えると、いたずらっぽく笑った。

「その時、私も取り戻せてたらね」
…………やっぱりしたい、つらい」
「あはは、ここで我慢しときな」

仰向けになって足をばたつかせた藤真に、は手首を差し出した。藤真はその内側に歯を立てて齧りつくと、にタオルを被せて起き上がった。

「明日、体育館開かなくて朝練ないんだ。今日は少し遅くまで起きてられるから、ゲームしようぜ」
「おおいいね。今日妹に結構負けちゃったからな。兄には勝ちたい」
……オレもカノンにはあんまり勝てないんだよな〜」
「腕は互角ってわけだな。手加減しないぞ」

本能が欲するままに触れ合って深い関係になるのは簡単なことだ。藤真自身は本当はそれを望んでいることもわかっている。けれど、一線を越えてしまったら良き理解者同士でいられる関係が持続できないという確信もあって、そんなことになるくらいなら我慢をした方がマシだった。

どちらにしても、目的は恋愛じゃない。欠けたまま戻らない心を取り戻したいから一緒にいる。何より互いを理解し合える唯一無二の相手で、それを失う方が怖かった。藤真はへ、は藤真へ、例え恋い慕う感情があるのだとしても、それは失ったものを取り戻してから確かめ合いたい。

いつか欠けた心を取り戻せたなら、その時こそ心だけじゃなくて全身で繋がりたかった。それまではこうして甘え合って、失ったものを取り戻すために傷を癒やしておきたい。

「望むところだ! 覚悟しろ!」

覚悟――そんなものはまだ到底持てそうになかったから。