ルーザーズ&ラバーズ

Side-F 09

しかしそれでの夜遊びがなくなるわけはない。むしろ藤真に遭遇しないようにもっと周到に立ちまわるようになって、しばらくは会うこともなかった。だがもちろん藤真の方もが大人しく家にいるようになったとは思ってなかったし、ずっと気にしていた。

その上、妹の言葉が頭から離れず、一体自分はに対してどういう思いがあるんだろうと考え続けていた。同じ苦しみを経験した者同士で、しかしはまだその深い沼の底にはまり込んでいる。そこから救い出してあげたいというのは少し大袈裟な気がした。そこまでじゃない。そういうことじゃない。

部活をやっている間はまだいい。バスケットをしていればそんなモヤモヤした思いに囚われることもない。けれど、家に帰り、カノンを迎えに行けば必ず思い出す。ボールを顔面に受けて倒れていく、動かさないように押さえていた彼女の頬の感触、憎悪の瞳。

藤真の方もそういうはっきりしない思いが少しずつ蓄積されていって、カノンの送り迎えになると苛々するようになっていた。姿が見えなくても、Atmosphereの中にいるのかと思うと、どうにかして引きずり出したくなる。それなのに、どうしても「なぜ」が見つからない。

見つからないけれど、を見つけてしまったら声をかけずにはいられなかった。

「もういい加減にしてよ」
……オレもこんなことやめたい」
「はあ? じゃあ今すぐやめればいいじゃん。頭大丈夫?」

Atmosphereの入り口脇の壁に寄り掛かると相対した藤真は、またパーカーのフードを目深にかぶって眉を下げた。こうして藤真が顔を隠しているのは、ランニングルートが繁華街なので万が一にも自分が翔陽のバスケット部の監督で主将であることがバレないようにするためだ。顎にマスクも引っ掛けている。

「だけど、どうしても放っとけないんだよ」
……頭怪我した同士だから?」
「それもある」

は明らかにげんなりしていて、腕組みのまま首を傾げる。

「早くそんなの忘れなよ。私に執着してたって何もいいことないって。冬の予選、もう少しでしょ。こんなことに気を取られてる場合じゃないじゃん。どうしても牧に勝ちたいんでしょ」

それはもちろんそうだ。けれど、24時間念仏のように打倒海南と唱えていても、強くなれるわけじゃない。藤真は一歩足を進めると、少し屈みこんで声を潜めた。

「このままじゃ……勝てない気がするんだ」
「私のせいだっていうの」
「そうじゃないけど……
「何をそんなにグズグズ言ってるのか知らないけど、それ、私は関係なくない?」

カノンの言うように、藤真がはっきりしないのでは伝わるものも伝わらない。は心底鬱陶しそうな顔を隠しもしないで、さっさとAtmosphereの階段を降りていった。夜の闇に薄っすらと漂う煙草の煙、背後を通り過ぎるお姉さんのきつい香水の匂い。藤真も苦しそうに顔をしかめた。

の寄りかかっていた壁にもたれかかり、空を見上げる。

体育館で先生や監督に堂々と渡り合っていたのことを思い出す。翔陽のダンス部のように、ダンスなんて楽しく元気に明るくやるものだと思っていた。けれど、は必死の形相で戦っていた。それも自分たちと重なる。海南に勝てない自分たちと、海南の中で負け犬にされているたちが重なった。

一緒にしないでとは言うけれど、藤真はあくまでも同類だと思っていた。

だからの気持ちがわかる――

藤真はがばりと体を起こすと、意を決してAtmosphereの階段を駆け下りた。

暗いフロア、体に響く重低音、ステージから射しこむ七色の光、揺れる人の波、触れ合う体、個が個にならない、音だけの空間。その中で無心で体を動かしていれば、やがて意識は遠退き、音と光と一体になる。

はそうすることで今にも爆発してしまいそうな自分を宥めていた。

ダンス部のことも、脳震盪のことも、藤真のことも、全部忘れたかった。頭を怪我した同士だからなんだっていうの。それだけの共通点で妙な執着を持たれても困る。冬の予選で牧に勝ちたい? 海南と当たるためにはそこまで勝ち上がらなきゃいけない。翔陽ならそのくらいは出来る。ほらやっぱり私なんかと一緒じゃないじゃん。

ナンバーワンになれないことと、落ちこぼれ部を一緒になんてされたくなかった。気持ちがわかるなんて、軽々しく言って欲しくなかった。だってそうでしょ、あんたが勝てないのはただ「牧だけ」。他のものには全て勝ってる。あんなきれいな妹までいるのに、私なんかにつきまとってる場合かよ――

カノンの堂々とした佇まいを思い出してしまったので、はそれを振り払いたくて、音に合わせて頭を打ち振り、髪を揺らした。セカンドインパクトは怖かったけれど、こうしているとその恐怖すらもいつしか麻痺していく。このままプツンと意識がなくなってしまえば、私は死ぬのも怖くない。そんなことを思った時だった。

ふらふらと揺れていた頭が何かにぶつかって止まり、フロアにいた人に衝突してしまったかと思ったは、手を上げて謝ろうと思った。声を出しても聞こえないので、ジェスチャで表すしかない。だが、振り返って顔を上げたは手を上げたところで止まった。藤真がいたからだ。

こんなところまで入ってきたの――が呆気に取られて目を丸くしていると、上げた手を藤真が掴み、はまた引きずられていった。爆音を背にフロアの人の波をすり抜け、バーカウンターの脇の壁際に押し付けられた。が顔を上げても、逆光とフードで藤真の顔が見えない。

暗闇に逆光を受けて浮かび上がる輪郭、表情の見えない影は息がかかりそうなほどの距離。

「本当にもうなんなの! 何がしたいの!」

言ってみたけれど、爆音の中でそんな声が聞こえるわけもなかった。藤真の腕と胸に手をかけ、押し返そうとしたは、今度は乱暴に抱き締められて息を呑んだ。そのまま壁に押し付けられる。やや中性的な顔をしていても、体は男だ。がもがいても、藤真の腕はびくともしなかった。

腹に響く重低音、渦巻く熱気、暗いフロアに踊る光がちらちらとふたりを照らしていく。

やがてが抵抗するのをやめると、藤真は抱きかかえるようにしてフロアを出た。ちょうど盛り上がっている最中だし、狭いロビーには誰もいなかった。チケットカウンターから死角になっているあたりに入り込むと、藤真はまた壁際にを押し付け、今度はゆるりと寄り添う。

「ごめん、どうしても忘れられない」
「なんでよ……どうして私なんか……

ぐったりしているの髪を撫で、藤真はまたぎゅっとを抱き締めた。

「同じだから」
「同じじゃないよ」
「同じなんだよ」
「どこが」
………………欠けたまま、戻らないから」

怪我の記憶、敗北の記憶、傷を負って欠けた心が元に戻らない。

「だけど、と一緒にいたら、取り戻せるような気がしたから」

が思わず顔を上げると、すぐ近くに藤真の顔があった。フードに隠れて暗かったけれど、今にも泣き出しそうな顔をしている――にはそんな風に見えた。何勝手に名前呼び捨てにしてるの、とか、何であんたのために一緒にいなきゃいけないのと言わなければと思うのに、違う言葉が出てきた。

「一緒にいたら、戻るの」
「わからない」
「戻らなかったらどうするの」
「それも、わからない」

もうの目に憎悪はなかった。互いの瞳の中に自分が見える。傷を持つ自分が見える。藤真は頭を落とし、の額にほんの少し触れたほどのキスを落とす。そしてまた強く抱き締めた。

「一緒にいたら、それもわかる気がするんだ。だから、帰ろう」

は何も言わずに藤真の体にしがみつき、やがてそっと目を閉じた。

「なんだその超展開は」
「頼む、協力してくれ」
「別にそれはいいけど……もうすぐ予選でしょ。気をつけなよ、色々」

を追ってAtmosphereに入ることを決めた藤真は、チケットを買うとカノンに連絡をして、今日はひとりでタクシーで帰ってくれと伝えておいた。先に帰宅していたカノンは、やけに暗い顔をしている兄が帰ってくるなり、を連れて帰ってきたと聞かされて驚いた。ずいぶんと衝動的になったもんだね、兄者――

「ねえだからさ、やっぱり好きなんじゃなくて?」
……たぶん」
「たぶんて。それ失礼じゃないか?」
「ちゃんと自覚もないのに好きな振りだけしてもしょうがないだろ」

カノンに手を合わせつつ、藤真はおにぎりを用意している。と自分の分を用意していたら、カノンも食べたいと言い出したので、追加で握っているところだ。ちなみには汗だくだったので風呂を借りていて、カノンが服をバスルームに置いてきたところだ。

藤真がすっかり夜食支度を終えると、が戻ってきた。カノンが用意した柔らかいパイル地のセットアップだった。上はパーカー下はショーパン、白とレモンイエローとベビーピンクのボーダーで、見ようによっては少々いやらしい。十中八九カノンはわざとそれを狙ってこのセットアップを選んだと思われる。どうよ兄者。

「うぃす! 久しぶり〜」
「え、ええと……
「私? カノン。よろー」

兄の方はいっそ堅苦しいくらいの時もあるのに、妹はずいぶんライトだ。ぴょこんと立ち上がると、カノンはの手を引いて自分の隣に座らせた。もちろんにとっても超展開には違いなく、心細そうな顔をしている。

は家大丈夫なん?」
「ああうん、今日は親いないから、別に」
「あれ、うちと同じだー」

言われてみれば、このマンションの部屋の中には藤真とカノン以外の人の気配がしない。今更ながらそのことに気付いたは、きょろきょろと辺りを見回し、そして藤真を見上げた。いないっていうけど大丈夫なの?

「うちは仕事が忙しくて。海外にいることも多いし、オレたちは残りたかったから」
んとこは?」
「うちは別居。私と姉が母親と一緒に出たんだけど、父がいないと兄がひとりになるから」

中々に複雑そうだ。カノンはうんうんと軽い調子で頷きながら聞いているが、藤真は言葉に詰まる。

「でも、親いないって気楽だよね〜。数日いないだけで寂しいとかいう子いるけど、信じられん」
「まあ、そうだね」
「だって、でなきゃもライヴハウスなんか入り浸れないでしょ?」

一応カノンはのふたつ年下だが、完全に迫力負けしている。

「ねーちゃんに連絡しなくて平気?」
「ああうん、それは、平気」
「ま、ねーちゃんも遊んでるかあ」

けたけたと笑うカノンだったが、はサッと顔を曇らせた。またおにぎりの支度を始めてしまった藤真はそれに気付かなかったが、カノンは敏感に察知して、との距離を少し縮めた。

……どしたん? 平気? ねーちゃん怖いの?」
「カノン、あんまりプライベートなことは――
「うちの姉、引きこもりなんだよね」

今度は、おにぎりを並べて箸を取ってきた藤真がサッと顔を青くした。

「えー、それは大変だ。いじめとか?」
「いじめというか……うちの合唱部だったんだけど、いられなくなって」

つまり、落ちこぼれ部行きな案件だ。気を取り直してお茶を入れていた藤真の手が止まる。姉妹揃って海南の一種異様なクラブ活動縦社会の構造から弾き出されたっていうのか。

「ほとんど部屋から出ないけど、誰もいないと自分で何か食べたりしてるし、平気」
「てか明日学校どうすんの」

何しろ藤真もも完全に勢いだし、今はもう23時になるし、その言葉には我に返った。踊って汗かいたから、とシャワーを借りたけれど、泊まるだなんて話はしなかったはずだ。改めて見ればカノンが貸してくれたセットアップはどう見ても部屋着、そしてパジャマな感じ。帰れる服がよかったんだけど……

「え、ええと、タクシー代、借りられないかな、後でちゃんと返すから」
「何言ってんの、泊まって行きなよ。親いないんだから大丈夫」
「それはマズくない!?」
「何でよ! ゆっくりしていきなって! 健司は練習あるけど、学校平気ならいてもいいんだよって話で」

学校があるけどどうするの、じゃなかった。学校行くの? それともサボってここにいるの? と言いたいらしいカノンは、藤真がやっと出してきたお茶を啜る。

「学校は――行くよ。急に行かなくなると心配して慌てる先生がいるし」
……マックス先生?」
「そう。姉のことがあるから家にもよく来るし、余計な心配されても困るから」

はちらりと藤真の方を見ると、力なく微笑んだ。

「んじゃ、寝ないとじゃん。ほらほら、食べよ。んでさっさと寝よ寝よ」
「これって――
「健司のおにぎりうまいよ。味噌汁はインスタントだけど」
「料理とか、するんだ」
「料理ってほどじゃないよ」
「おいおい、何だこのほのぼのした空気」

暖かいおにぎりと味噌汁、そしてお茶が、の体の真ん中を少しだけホッとさせる。カノンのお喋りに少し笑い、何かというとすぐにキッチンに立つ藤真に少し驚き、のささくれ立っていた心はゆっくりと解けていく。

おにぎりを食べ終えると、カノンは大あくびをし始めた。塾帰りは兄のおにぎりと味噌汁を食べ、その後に風呂に入って寝るという習慣があるので、おやすみスイッチが入ってしまう。食べている間は弾丸トークだったのに、目が半分閉じている。

「じゃ、私は風呂って寝るよ〜」
「服、ありがとう。おやすみ」
「換気扇かけ忘れるなよ」
「はいはい、おやすみ〜」

大あくびを連発しながら、カノンはダイニングを出て行く。彼女がいなくなっただけで、一気に静寂が襲いかかってくる。すっかり夜食を片付けてしまった藤真は、またお茶を淹れる。

……いつもこうやって女の子連れ込んでるの」
「失礼な」
「私、どこに泊まるの」
……オレの部屋」

打って変わって重苦しい空気だ。は無意識に胸元に手を添える。

「別に、そういうつもりじゃない」
「まあ、私じゃそういう気にはならないだろうけど」
……そういうの、やめろよ。そんなこと思ってない」

カノンがシャワーを浴びる音が聞こえてくる。藤真は立ち上がるとリビングとダイニングの明かりを落とし、キッチンだけ照明をつけたままにして戻ってきた。の傍らに立ち、スッと手を差し伸べる。その手をしばし見つめていただったが、藤真を見上げることもなく手を重ね、ゆっくりと立ち上がった。

すっかり落ち着いたけれど、それでもなぜこんなところにいるのかわからないし、手を重ねているのが藤真だというのもよくわからない。付き合ってるわけでもなければ、友達というほどでもない。つい数時間前までは強烈にうざったかった相手に、なぜ着いてきてしまったんだろう。しかも泊まるとは。

手を引かれたまま廊下を行き、藤真の部屋に入る。シンプルな部屋だった。学習机の脇の棚にバスケットのDVDやら雑誌やらがぎっちり詰まっているだけで、他に特徴がない。ただ、閉じたクローゼットのドアに、翔陽バスケット部のジャージがぶら下がっていて、それがとても不思議だった。

角に位置する部屋なので、この部屋の窓からは表の通りが見える。藤真は窓を開け、外の空気を入れる。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきて、すぐに遠ざかっていく。藤真がの荷物を学習机の椅子に置いたり、ベッドを整えたりしている間中、は翔陽ジャージを見つめていた。

「それ、まだ苛々する?」
「ううん、てかこのジャージ見たことないもん。ただ、……変な感じだなって」

隣に並んだ藤真は、腕を組んで軽く鼻で笑う。

「これでが海南ジャージ着てたら、もっと変な感じだろうな」
「あれは強い部だけのオーダージャージだよ。普通の生徒は普通のジャージ。今の3年は白ライン」
……お姉さんもだったのか」
「まさか姉と同学年になるとは思ってなかったよ」

カノンがシャワーを使い終えたらしく、ドアを乱暴に開け閉めする音が聞こえる。藤真はそっとの背中に手を添えると、少しだけ屈みこんで、Atmosphereの脇でそうしたように、声を潜めた。

「オレもちょっと風呂行ってくる。好きにしてて」

着替えを手に出ていく藤真の背を見送ったは、遠慮なくベッドに倒れ込む。荷物の中から携帯を取り出し、充電ケーブルも取り出し、テレビを付け、全身の力を抜く。スタンドライトの明かりだけが部屋をほんのり照らしていて、心も体も緩む。

こんなシチュエーション、普通は超ドキドキするもんなんだろうけど……しないな。

藤真はシャワーを浴びてくるのだろうが、彼と何かをするのだとは到底思えなかった。本人が言うように、そういう目的じゃない、そんな気がする。じゃあ何のために? はごろりと寝返りを打ち、窓の外から聞こえてくる車の音や救急車のサイレンを聞きながら、天井を見上げて目を閉じた。

欠けて失ったまま戻らないものを、取り戻せるかもしれないからだ――