ルーザーズ&ラバーズ

Side-F 17

「何その超展開」
「私もよくわかんないんだけど」
「最近は家庭事情複雑な子が多くて……ええと、藤真くんの妹さん?」

1月半ば、にとっては最後の米松先生面談である。

ノリノリのカノンがまずは親に確認を取ったところ、好きにしていいという返事が帰ってきた。元々藤真兄妹の親ふたりは仕事が忙しく、子供のことは祖父母に任せていたし、特にカノンであれば金銭面でのトラブルもないので、構わないということらしい。

それに、兄の健司が彼女と同棲するとかいう話ならともかく、よろず普段の生活がだらしないカノンとなら、むしろ祖母の負担が軽減するので、まあいいだろうという判断でもある。カノンの予想通り、最低限の家事をこなしてカノンの面倒を見てくれるのであれば、家賃光熱費はいらないとのこと。

そんなわけで藤真家の方は割とあっさりとOKが出てしまった。そんなことより健司、ちゃんと新学期に間に合うように荷造りして引っ越しの準備をしておけと父親は釘を差してきたくらいだったそうで、カノンは「こうなると思ってたんだよね」とまた上機嫌になっていた。

「そしたらあとはん家の方か。どう、様子は」
「それがね、やっぱり兄貴がナナコと一緒にいたいみたいで、親父と決裂気味で」

だが、頑固な父親に似たの兄はやっぱり言い出したら聞かないタイプで、話がまとまり次第、ナナコと母親と同居の流れになっているという。ナナコ自身は兄などどうでもいいわけだが、海南を出られるのであれば構わないらしい。母親の負担も減る。

「そか、高卒認定試験か」
「それも込みで面倒見たいみたいでさ。親父の方が焦りだしてるよ」
「それでの件は何て言ってるの」
「とりあえず母親はいいよって言ってくれてる。何よ顔がいい方にしたの!? とか失礼なこと言って喜んでた」

米松先生はホットはちみつレモンを一口飲むと、背もたれに寄りかかる。

「藤真くんとのことは落ち着いたの?」
……正直、私の気持ちはあんまり晴れてない。モヤッとしたの、全然残ってる」

ただそれでも、は迫り来る未来から逃げたくないと思い始めていた。

「今は好きだけど、いつか別れちゃうかもしれない。カノンとだって、もしかしたら喧嘩しちゃうかもしれない。それでも、Atmosphereの階段の下で不貞腐れてた私のところに健司がまっすぐ駆け下りてきてくれた時、私もこの人と一緒にいたいって思っちゃって……って先生ちょっと!!!」

ぼんやりとあの日の夜を思い出していたが顔を戻すと、米松先生は涙目になってプルプル震えていた。

「先生恋バナ好きだけど、いい話には弱くてさ。藤真くんかっこいいなあ、何それ」

米松先生はマグをテーブルの上に置いてチーンと鼻をかむ。ついうっかりAtmosphereなんて言ってしまったが、要するに未成年の夜遊びである。詳細を話していいものかどうか迷っただが、まあもう卒業を残すのみだし、と思い切って全て話してみた。

「藤真くんはあ、高いところから見下すんじゃなくてえ、のとこまで落ちてきてくれてえ、それでを連れ出してくれたってわけだよねえ、愛だよねえ、愛〜!」

グズグズだ。の方は全部話してしまったので、気が楽になった。

「共に倒れるのが愛ってやつだねえ」
「ナニソレ」
「上から手を引いて連れ出すのはものすごくパワーのいることだし、それは中々出来ることじゃない」

米松先生はティッシュで鼻をぐいぐいこすりながらにんまりと頬を緩める。

「そういうことを出来る人は中々いないんだよ。それにさ、と藤真くんは同じ経験を持つ物同士なわけだし、泥沼にハマってもおかしくなかったわけでしょ。途中で藤真くんだけそこから抜けだしちゃった時も、普通なら後ろなんか振り返らないでどこかに行っちゃったかもしれない。だけど彼はのところまでもう一度落ちてくることを選んだわけでしょ。と一緒にいたいから。なんだよそのイケメン!!!」

鼻をグズグズ言わせているが、米松先生は楽しそうだ。最後の面談で思い切り恋バナが出来て、彼も満足だろう。ももう海南大附属高校に思い残すことはない。藤真が連れ出してくれたから、この落ちこぼれ連鎖の学び舎に未練や執着はないのだ。

の3年間は無意味で実りのないものだったかもしれない。けれど、は新しいステージへ進むのだ。藤真と手を取り合い、階段を登り切った先にはそういう未来が待っていた。

何だか妙な縁で彼氏ができた。と思ったらその妹の住むマンションに居候。しかもその彼氏は天敵だったはずの翔陽の華々しい活躍のあるバスケット部のエースで、春からはがしがみついていた落ちこぼれ部の創設に関わった瀬田さんの後輩になる。

には藤真くんが、藤真くんにはが、居場所になったって感じだね」
「ああ……うん、そんな感じ、する」
「無責任なことを言うのは嫌なんだけど、、いつか晴れるよ」

お腹をぼよんと揺らした米松先生は、柔和で可愛らしい笑顔だ。卒業することに何の感慨もないけれど、この米松先生と離れてしまうのは相当寂しいに違いない。は初めて卒業を思って気が重くなった。

「藤真くんといれば、いつかきっと晴れるよ。気付いたら雲なんかなくて、青空が広がってるはずだ」
「うん……それを待ってる」
「ていうか曇ってたことすら忘れちゃうよ、きっと。落ちこぼれ部だったなんてこと、ただの笑い話になるよ」

遠い十代の日々を思い出しながら、米松先生はお腹を撫でる。あの頃はこんなお腹なかった。

「先生、落ちこぼれ部って、虚しいことだと思う?」
「何でよ。先生が作ったんだよ。そんなこと思うわけないじゃん」
「私さ、ナナコより出来悪いし、親父や兄貴にも関心持たれてないし、だけどそれでよかったよ」

米松先生はの方から暖かな風が吹いてくるような錯覚を覚えて、お腹を震わせた。

「ナナコはお姫様だったけど、そのせいで落ちこぼれ部に入れなかった。プライド高いし、意地でもあんなところ嫌だって言ってたし。だけど私は落ちこぼれ部にいられてよかったよ。ナナコみたいにならずに済んだし、今はもうあんまり私なんかって思わなくなってきたし。先生と瀬田さんのおかげ」

米松先生はまた泣きそうになりながら、いつかの瀬田さんの言葉を思い出していた。逃げ場所なんかない、だから居場所が必要なんです、逃げてきたんじゃなくて、移動してきただけだって――

誰もがそんな風にコロッと意識を転換させられるわけじゃない。けれど、こうしてのように逃げ惑った先に出口を見出すことは不可能なことじゃない。誰かが手を差し伸べて引き上げてくれさえすれば。自分はその道標になりたい――米松先生はまた決意を新たにして、お腹をキュッと引き締めた。

「いつも言ってるだろ、『落ちこぼれ部』なんてクラブは存在しないんだよ! あるのはダンス部と軽音楽部とアウトドア部だけ! 人数少ないし、強くないけど、他のと同じ、ただの高校のクラブだよ」

今度こそは満開の笑顔で頷き、満足そうにお腹を揺らしている米松先生に抱きついた。

「先生、私、海南に入ってよかった。学校、楽しかったよ」

最後の面談から2ヶ月、晴れては卒業を迎えた。本日ナナコを長男に丸投げしてめかしこんできた彼女の母親も嬉しそうだ。何しろ3人の子供のうち、一番まともで手がかからないのがである。無事に卒業してくれてありがとう、と上機嫌だった。

しかしナナコの方も本年度を持って中退する運びになり、長男のゴリ押しもあって転居、高卒認定試験を受けるために勉強を再開することになった。なのでとその母親は実に晴れ晴れとした表情で卒業式に臨んでいる。米松先生もぱっつんぱっつんの礼服で、式開始前から既に涙目で家の事態の収束を喜んでくれた。

そもそもが強い部活ばかりで固められたような海南であるから、卒業式もそういう派閥がガッチリと固まり合い、やはり落ちこぼれ部は疎外され気味だったけれど、そこはそれ、別れを惜しみに来たがる他の生徒を押しのけて米松先生と過ごすことが出来たし、今年の落ちこぼれ部3年生は全員揃って卒業できた。

終わりよければ全て良し、米松先生の言うように「落ちこぼれ部」などなかったのだ。明日からはもう誰もたちを「落ちこぼれ部」などとは呼べない。ただの海南の卒業生だ。米松先生と別れるのは寂しいけれど、落ちこぼれ部は20歳になったら先生と優先的に酒が飲めると聞いて全員喜んでいた。

はいつ引っ越すの?」
「健司が引っ越さないと入れないから、けっこうギリギリになってから」
「お母さんたちは遠いんですか?」
「元々住んでた家に戻るんです。夫が追い出される形になりまして!」

こちらも長男主導で転居の準備が進んでおり、もしかしたらの引っ越しより先に今のマンションを引き払うことになるかもしれないと言っての母はにんまりと笑った。HRも終わって、正門前である。

「お母さん楽しそうですね……はどうするの、それじゃ二度手間にならない?」
「そう遠くないですし家具もほとんど必要ないし、一気に越さなくても平気ですから」
……お母さんなんかすごい上機嫌ですね」
「先生、ここだけの話、私、長男と長女がアレなもので、孫は一生見られないかと諦めていたんです」

だが、次女がいいオトコを捕まえてきたと言っての母はまたにんまり。はげんなり。

「何も藤真くんと結婚して欲しいとかそういうことじゃないんですけど、希望が見えた気がして!」
「しかしお母さんはポジティブですね……

が脳震盪を起こした時、病院に駆けつけた藤真と牧を見て「どっちがいいの、どっちもかっこいいじゃん」と言っただけのことはある。今日も華やかな色合いのスーツで浮き足立っている。そこへその牧が近寄ってきたので、の母は「キャハッ」とはしゃいだ声を上げて米松先生と脇にずれた。

「話してるところすまん」
「大したこと話してないからいいよ。どうしたの」
「いやその、例の事故の件、本当に悪かった」

何しろ海南バスケット部の主将なので、後輩たちをはじめ大勢にもみくちゃにされてきたらしく、牧は少しよれよれしているが、そう言うとにペコリと頭を下げた。

「ちょ、こんな時までやめてよ、もういいじゃんそれは。私だってゲロ引っ掛けてんだし」
「それも可哀想なことしたよな、変な噂になっちゃって」
「だからいいって。せっかくの卒業式なのに、そんな辛気くさい顔やめなよ」
「だけど、一度ちゃんと言っておきたかったんだ」

牧にもにもそんなつもりはないというのに、の母親と米松先生は少し離れた場所でニヤニヤを抑えきれないでいる。牧は何を言うつもりなんだ。まさかこのタイミングで告白とか来ちゃう!?

「もう、部活とか関係ないから、言っとけと思ってさ」
「まあなんだ、まだ関係なくない人が多いみたいだけど」

と牧が対峙しているのを見ているのは米松先生と母だけではない。あの牧が落ちこぼれ部に何の用? 頂点と底辺が何を話すっていうんだ? まあ、そういう視線の中をひとりでに声をかけてくるあたりが海南バスケット部の主将たる所以でもある。

「そんなことにしがみついてたってしょうがないのにな。今日で卒業するのに」
「あはは、どうせ来月からまた1年坊主になるんだもんね」
「その通りなんだよな。昨日の敵は今日の味方の世界だから」

だがとりあえず藤真と牧はまた敵同士である。はそれを考えると頬が緩んだ。

……よろしく伝えてくれ。また対戦するの、楽しみにしてるって」
「了解。私も楽しみにしてるよ。今度は見に行くから」

差し出された牧の手をは握り返す。がっちりとした握手だった。それを米松先生は感慨深げに見ていた。いつでも寄り添いたい気持ちがありながら、決して交わることのなかった頂点と底辺である。ほら、手を取り合うことは不可能なことじゃない。お互いを尊重しあうことさえ出来ていたなら。

米松先生がぱっつんぱっつんの礼服に包まれたお腹とぷくぷくの頬をぷるぷると震わせて感動していた時のことだ。がっちりと友情の握手を交わすと牧の向こうから、不穏な声が聞こえてきた。

「おいこら、人の女に勝手に触ってんな」
「は?」

固い握手をしたままのと牧は声のした方を振り返った。

「藤真!?」
「ハァ!? 何やってんの!? てかなにそれ!?」
「え、藤真くんなのそれ!?」

正門前が一気にざわつく。正門の向こう、海南大附属高校の正面に藤真が立ちはだかっていた。前髪は少し分けられて、なんだか着慣れていない感丸出しのスーツ、そしてどう考えても借り物の外車。顔の造作がいいおかげでそれなりに絵になっているけれど、なんとなく前時代的な印象がある。

……というのがや牧の正直な感想だったわけだが、米松先生と母、そして頂点と底辺の会談に興味津々だったギャラリー、特に女子は目の色を変えた。なんかスーツ着たイケメン来た!

「何って、迎えに来たんだよ」
……健司何その服、車」
「お前変なところでメンタル強いな……こんな衆人環視の中で」

呆れ気味なと牧だが、藤真はにやりと笑って進み出ると、の手を取って繋いで引き寄せた。

「オレは一昨日卒業したし、もう翔陽の人間じゃないからな」
「まあそうだろうな、今度は瀬田さんの手下」
「手下とか言うな! お前新人戦覚悟しとけよ」
「おう、またコテンパンに負かしてやるよ」

藤真は繋いだままのの手を持ち上げて、ふたつの拳を牧に突き出した。

「負け犬の底力なめんなよ。瞬きしないで見てろ」

牧は相好を崩し、拳を突き返してやる。

「ふたりがかりかよ、汚えな」
「3年間分のハンデだ、そのくらい余裕だろうが」

それを見ていた米松先生が鼻をグズグズ言わせ始めたので、牧は一歩後ろに下がる。藤真はまだ少し混乱気味のの手を引いて、今度は米松先生の方へ向き直った。米松先生は頬をぽよんぽよん弾ませながら頷いている。恋バナといい話だけでなく、友情話にも弱い。

「藤真くぅん、君はほんとにかっこいいねえ」
……先生、色々ありがとうございました。もう手を離さないようにします」

いい話のようだが何しろは母親もいるし衆人環視だし、顔が赤くなってきた。だが、の母はにこにこと嬉しそうだし、米松先生は真珠のような涙をはらはらと零している。

「本当に、先生は君たちの未来に、幸多かれと願っ――フブァハァァァ!」

我慢できなくなった先生は破裂した。嗚咽の勢いで礼服のボタンが弾け飛び、気を遣って少し離れてやっていた牧の顔に直撃した。これはつらい。も藤真も、の母も牧も、その場にいた全員が堰を切ったように笑い始めた。米松先生も泣き笑いだ。

涙目で引き笑いをしていたの母に近寄ると、藤真は姿勢を正す。

「あの、さんお借りしてもいいですか」
「もちろん。カノンちゃんにもよろしくね。また改めてご挨拶に行きます。、おめでとう」
「あ、ありがと」

そして藤真はの手を引き、正門へ向かう。

米松先生の破裂に沸いている正門前をすり抜けた藤真は、車の助手席のドアを開いて、をエスコートする。外車と言っても大仰な大型の車じゃない。コンパクトで可愛いそのデザインが藤真によく似合う。は現実感を失いつつ、背後に刺さるような視線を感じながら車に乗り込む。

藤真が運転席に向かう間に窓の外を見ると、背中に卒業生を従えた牧が立っていた。

海南の、そして県下最強のバスケット部の象徴である牧は自身の立場のように一番前に立ち、しかし自信に満ち溢れた表情で、ふたりを見送っていた。米松先生も少し後ろでにこにこしている。

、またな! お互い頑張ろうぜ!」
……うん、またね! 試合、見に行くから!」

そろそろと走り出す車、春の風に追い立てられたと藤真は牧に手を振り、海南大附属高校を去った。落ちこぼれ部の象徴であった、そして一度も牧に勝てなかった藤真は、その牧に見送られて駆け出していく。新しいステージ、新しい世界、何もかもがまた新しく始まる。

負け犬、落ちこぼれ、それはもうふたりを指す言葉ではない。そんなものは風に吹き飛ばされて消えればいい。

あとにはお互いを思う心だけがあればいい。恋人という言葉ひとつ、それだけでいい。