とはいえ、いくら米松先生や瀬田さんが話をしてくれたところで、コロッと気持ちを切り替えて「会いたい」などと連絡できるようなら、こんな風にこじれていないわけで、も藤真も相変わらずどうでもいい挨拶のみのやり取りを続けていた。挨拶、天気の話、体調の話。
他にもっと話すことがあるだろうが! と思いつつも、どれから切り出せばいいのかもよくわからない。
特にの方は自分の気持ちが定まらないので、いくら素直になった方がいいよと言ってもらっても、素直になったところで出てくるものがあやふやで形にならない。するとどんどんフラストレーションが溜まっていく。そして許容量をオーバーすれば、結局Atmosphereに行ってしまう。
いつものように爆音に身を委ねながら、はいつかフードに顔を隠した藤真が現れた時のことを思い出していた。暗いフロアに飛び散る光が藤真の肌に踊って、けれど彼の表情は厳しくて、少し怖かった。直後にバカじゃないのこんなところまで――と呆れたけれど、体の芯がじわりと痺れていた。
壁際に追い詰められて抱き締められた時は、焦った。焦って何とか抵抗を試みてみたけれど、藤真の腕はびくともしなかった。踊って熱くなっていた体が更に熱を帯びたような気がして、少し気持ち悪かった。
それでもいつしか絆されてしまったのは、そういう藤真の行動ひとつひとつが愛の言葉に匹敵するほどに本気だったからだ。あの時彼はを欲して、求めるままに手を伸ばして抱き締めた。
君が欲しいと言われたも同然だった。
何しろ落ちこぼれ部、家族の中でも弾かれ気味、そんな感情をぶつけられたこともなかった。自覚はなかったけれど、きっとそんな気持ちがどこかにあった、必要とされるのは気持ちがよかった。はAtmosphereのフロアで揺れながら、また体の芯が痺れるような感覚に襲われた。ぞくぞくする。
絶え間ないリズム、下っ腹に響く重低音、煌めくピアノ、ギターの悲鳴、は喘いだ。
落ちこぼれ部もバスケット部も揉めてる家も脳震盪も瀬田さんも、みんなくたばれ!!!
私の高校生活って何だったの、3年間やってきたことは一体何だったの、全部無駄だった、何も残らなかった何も成し遂げられなかった、誰にも認められなかった、誰にも褒められなかった、ずっと勝てなかった勝負すらさせてもらえなかった、私の3年間の最後は人にゲロ吐きかけて終わった。
自分の鼓動すら聞こえない音の中で、は咆哮を上げた。
そんなの歪んだ心を藤真はわかっていて、自分の心を癒すと同時に、の心も癒せたらと思っていたんだろう。けれど、の本心は別のところにあった。癒やしたかったんじゃない、優しく宥めたかったんじゃない、こうやってブチ撒けてしまいたかった。
藤真との時間が穏やかで緩やかで、ささくれ立った気持ちが落ち着いていくほどに、の中の怒りや苛立ちは小さくなって凝縮されて、いつしかどこかに隠れてしまった。それが今、爆発してしまった。
曲が終わり、束の間フロアにざわざわとした肌触りの良くない音が戻ってくる。息を切らしたは、よろよろとフロアを下がり、バーカウンターを通り過ぎ、再度爆音に満たされる空間から押し出されるようにして転がり出た。重い防音ドアのノブを押し込むと、熱い体に冬の冷気が吹き付けてきた。
見上げた細い階段は泥沼から抜け出せない自分、最初の1段があまりにも高くて、登る気すら失せていた。勢い任せに絶叫したせいでグラグラと揺れる視界、冷たい風に体を震わせたは、壁を背にしてずるずると崩れ落ちた。吠えても吠えても、月には届かない。なのに負け犬は吠えることしか出来なくて、息が続かない。
私、バカみたい――
また叫び出したくなったは、それを抑えこむために「恥ずかしいことをしているんだ」と自分に言い聞かせる。こんな自分に陶酔してるみたいなことやめて、マトモにならないと、もう子供じゃないんだから、オトナにならなきゃいけないんだから――
そんな風にして無理矢理顔を上げたは、そのまま凍りついた。
「健司……」
階段の最上段には、藤真が立っていた。やはりフードを目深に被って、厳しい顔で見下ろしている。
その時は、このまま藤真は立ち去ってしまうんだろうなと思った。底辺でへたり込む私を高みから見下ろす藤真は呆れて、厳しい顔をしたまま這い上がれない私から目を逸らしていなくなってしまうんだろうと思った。
細く長い階段はふたりの距離、どれだけ近くなったと思っても地の底と天ほどの差があって、傷ついても苦しんでも藤真の居場所はやっぱり天に近い場所、の落ちた場所は二度と出られない地獄の入り口。その間で束の間手を取り合ってみたけれど、手は離れてしまった。月は遠すぎて、もう届かない。
瞬間、は唐突に藤真を愛しく思った。夜空の月を美しいと思うのと同じように、胸が痛んだ。
しかし今更そんなことを思ってみたところで、どうなるというんだろう。すぐに心が冷めて、今度は諦めが一気に襲いかかってきた。米松先生は自虐こそもっとも恥ずべき行為だというようなことを言うけれど、だってしょうがないじゃん、私のことを愛してくれる人は私しかいなくて、それでどうやって自信なんか持てって言うの。
隙間なく触れ合って、頭を寄せあって、お互いの傷を優しく舐め合っていたあの頃、それは本当に幸せな時間だった。それをくれた藤真が恋しい。手が届かない距離にいて初めて、彼に手を伸ばして触れたくなった。けれど、は立ち上がる気力もなくて、階段を上るなんて、とても出来そうにない。
もうそっぽを向いてしまおう。地の底でずるずると這いずり回る長虫にでもなればいいや。がそんな風に肩の力を抜いた、その時だった。階段のてっぺんに立っていた藤真の体がぐらりと傾いて、には彼がそのまま転がり落ちるんじゃないかと思えた。
藤真は細く長く急な階段を滑り落ちてきた。1月の冷たい風に乗って、の元に駆け下りてきた。
そしての目の前に膝から崩れ落ちて、しゃがみ込むを引き寄せて強く抱き締めた。
「なん、何で――」
「、帰ろう」
もう何度も聞いた言葉だった。自分の本気どころか気持ちすらよくわからなくて、帰ろうと言うことくらいしか出来なかった藤真の精一杯。けれどそれこそが彼の本気だったのかもしれない。
「何で降りてきたの、こんなところ、健司のいる場所じゃ、ないのに」
「降りて来なかったら声も聞こえないじゃないか、手も届かないじゃないか」
「無視して、いなくなればよかったのに。ひとりで帰ればいいのに。置いていけば、いいじゃん、私なんか――」
鼻をグズグズ言わせながらしがみつくの頭を、藤真は撫で続ける。同じ傷を負った愛しい頭、愛しい人、大事な相棒、唯一無二の理解者、道が暗くても明るくても手を繋いで歩いて行きたい人――
「そうだな、なんか、大好きだから、そんなこと出来ないよ」
小さくか細い悲鳴とともには泣き出す。その頭を、肩を撫でた藤真は、泣きべそをかくの腕を引いて立ち上がると、力ずくで抱き上げ、遠巻きに様子を見ていたAtmosphereの客の視線の中、階段を登っていった。1段、また1段、がひとりでは登れなかった階段をゆっくりと。
「欠けたままならそれでもいいよ、だけど、一緒にいたいんだ。だから、帰ろう」
少し息を切らした藤真がそう囁く。は頷いて、ぎゅっとしがみついた。
マンションに帰り着いた藤真は、カノンにメッセージを送る。今日は迎えに行かれない。が来てる。夜食は用意しておくから、後は頼む。くれぐれも風呂場の換気扇だけは忘れるな。
も自宅へ連絡を入れていた。今日は母親がいるそうだが、ダンス部の友達のところに泊まると言った彼女を、疑いもしなかったようだ。寒いので温まってこいと風呂に入らされているを待つ間、藤真はカノンの夜食を作り、には紅茶を淹れておく。
部屋に戻り、床に散らばるダンボールを壁に寄せていたらが戻ってきた。
「何このダンボール」
「引っ越すから」
「引っ越すってどこに」
「大学の近く」
は藤真がバスケットで推薦入学するのだということを思い出したらしい。ああ、と手を打つような表情で頷いた。それを見た藤真はフッと吹き出し、ダンボールを蹴りながら立ち上がる。
「それ、やっぱり可笑しいな」
「私が貸してって言ったわけじゃ……」
「カノンが帰ったら借りるから」
「別にこれでもいいけど」
カノン様が不在の折、勝手に部屋に入ることは許されないので、はとうとう翔陽ジャージを着ている。さすがにサイズが大きいので、裾も袖もめくり上げられている。彼服状態だが、海南生であるがいつかダンス大会でひどい負け方をした翔陽のジャージを着ているというのは、いかにも可笑しい。
3年間着慣れた自分のジャージに身を包むを引き寄せると、藤真はまた笑った。
「翔陽の制服も着てみなよ。女子の」
「コスプレか」
「カノンに借りれば」
「死ぬほど罵られるよ」
半分本気で半分冗談だ。藤真は笑顔を引っ込めると、の頬を両手で包み込む。
「……置いていっちゃって、ごめん」
「そんなこと……心配かけてごめん」
「が取り戻せなくても、オレは」
「そんなに重く考えないでよ」
牧と話したこと、瀬田さんと話したこと、は以前に比べたらずっと欠けた心は戻りつつあると思っている。けれど、藤真のように雲が晴れるような一瞬の出来事ではないし、どちらにしても、ついさっきまでAtmosphereで不貞腐れて吠えていたのだ。
「焦っても戻ってくるわけじゃないから」
「だけど、その、取り戻したいだろ」
それでも、初めて藤真の部屋に来た夜よりは、希望が見える。は手を伸ばして同じように藤真の頬を包み込み、親指で彼の唇に触れる。触れた瞬間にぴくりと震えた唇が可愛らしい。
「キス、したいんでしょ」
「まあな」
「まだ私取り戻せてないからなあ」
「だから我慢してるんだろ。べったりくっついて同じベッドで寝るとか、拷問なんだからな」
今度はが吹き出す。そんなこと言われても。
「だけど、誓って最初の目的はそんなことじゃなかった。だから我慢する」
「今の目的は違うの?」
「……さっきも言ったろ。好きだから一緒にいたいだけだよ」
「いつからそんなことになったの」
「いつのまにか。……だけどたぶん、が頭打った時には、始まってたんだと思う」
また藤真はの頭を撫で、淋しげな顔をした。心は晴れてもつらい記憶だ。
「飛んで行くボールの先にがいるって気付いた時から、ずっと、ずっとのことが頭から離れないんだ。目の前に自分と同じ体験した人がいるからシンクロしてるだけだ、って言われたら、それも間違ってないと思う。それでもオレは一緒にいて幸せだったし、まだ一緒にいたいし、それは――」
ゆっくりと、けれど心の赴くままに言葉を吐き出していた藤真は、突然頭を掴まれて引き寄せられた。勢い余ってぶつかったようになってしまったけれど、気付くととキスしていて、藤真は目を白黒させた。
「……ええと、何、今の」
「キスだけど」
「それはそうだけど、何で」
「私がしたくなったから」
「はい?」
混乱してしまった藤真はそう言って顔を突き出した。はまた吹き出し、藤真の頬を撫でる。
「脳震盪のこととか、それはちょっと措いておいてもさ、それだけ口説かれたらさ」
「口説……まあそうだけど。ところでさん」
「何」
「オレ、『されたい』んじゃなくて『したい』んですけども。いいですか」
思わぬ返しにが答えあぐねていると、またキスが降りてきた。今度はぶつかったりしないで、しっかりと、だけど優しく、ゆっくり。やがて離れると藤真はの腕を引き、体を支えてやりながらベッドに倒れ込む。有無を言わさずに手のひらを重ね、指を絡ませ、また唇に食いつく。
「ちょ、健司、待っ……」
「やだ」
乱暴ではなかったけれど、強引に藤真はキスを繰り返した。の息が上がり、次第に体は力が抜けていく。
「……ごめん」
「これって、その、するの?」
ぐったりとしながら藤真を見上げたは、絡めた指をするすると撫でる。
「がいいなら」
「私が決めるの?」
「……オレはしたいけど、はそうじゃないかもしれないだろ」
「嫌だって言ったら?」
「我慢する」
「出来るの?」
「する」
そうは言うが、藤真は面白くなさそうだ。はくすくす笑いながら繋いだ手に力を込める。
「……嫌じゃないんだけど、ちょっと怖い」
「だから我慢するって言ってんだろ」
「だけど」
「往生際悪いぞ。いいって言ってんだからいいだろ。でも、キスはいいよな」
それは質問でも確認でもなく、ただの断りだった。はまた唇を塞がれ、ついでに足やら胸やらを緩く撫でられて、余計に慌てる羽目になった。確かにそれ以上のことは何もしなかったけれど、カノンがドタバタと帰宅してくるまで藤真は解放してくれなかった。
というところで、カノン様のお帰りである。
「おー、久しぶり! 何だよ、出てこなくてもよかったのに。イチャコラしてたんでしょ」
「は!? いやその別に」
「うちの兄、ヘタクソでごめんね。唇ちょっと腫れてる」
藤真はキッチンで咳き込み、は両手で顔を覆って仰け反った。やってもうた。
「健司ィ、女の子の皮膚ってのは思ってる以上に弱いんだよ」
「……以後気を付けます」
青い顔をした兄はお茶を淹れて戻ってきた。お茶請けは甘納豆。カノンはいつもの夜食。
「は春からどうなってんの?」
「海南大」
「あっ、そーか。なんとなく遠いな。どうせ健司はバスケばっかりだろうし」
「ちゃんと帰ってくるって」
「口では何とでも言えるからな」
ズズズと音を立ててカノンは味噌汁を啜る。
「私が遊びに行ったっていいんだし」
「まーね。健司、アパート決まったの?」
「一応。そこは親父に任せてるから」
「んじゃ心配ないな。、入り浸れるよ」
カノンは事も無げに言うけれど、はいそうしますとは言いづらい。
「……ってアレ? カノンここにひとり?」
「そう。翔陽出るまではここだね」
「大丈夫なの、健司いなくて」
「ま、ばあちゃんとかもいるしね」
いくら祖母やハウスキーパーに入ってもらうと言っても、これまでは基本的に毎日藤真が手を入れていたわけだし、カノンひとりでは汚部屋まっしぐらなのでは、とは心配そうな顔を藤真に向けたが、兄は諦めの顔でお茶を啜っている。自分はこのマンションを出るので我関せずなのかもしれない。
「が掃除しに来てくれてもいいんだよ。バイト代は出す!」
小金持ちカノンは親指と人差し指で輪を作り、ニヤリと笑った。兄は知りません。
「暇な時なら別にいいけど……」
「マジでー!」
「ちょ、」
「てかそうか、、ここにおいでよ! 健司の部屋空くから、ここに住みなよ!」
「ハァ!?」
今度こそ兄とは声を揃えて驚いた。が、カノンはしたり顔である。
「海南大でしょ。ここからだとドア・トゥ・ドアで1時間ちょいくらい?」
「あのな……」
「どうせここは買っちゃってんだから家賃もいらないし、ルームシェアだと思えば」
確かに海南大には遠くないし、交通の便もいいし、現在のの自宅からもそれほど離れていないし、そもそもここはオートロックのマンションだし、そういう意味でなら問題はない。だが、他の意味では問題だらけに思えて仕方ない兄とその彼女はポカンとしている。
「確かんとこ家がちょっと大変なんでしょ。ここにいた方が気楽なんじゃない? 家賃光熱費はこっち持ちでいいわけだから、食費だけ出してもらえればそれでいいし。私もそしたら退屈しないし、ここにがいると思えば健司も帰ってくるでしょ!」
そりゃあそうだけど。藤真とはそういう目で顔を見合わせた。
「も自宅で待つよりここで健司と過ごした方がいいんじゃない? まあ、私が翔陽出る時はまた考えなきゃいけないけど、その時はその時で。2年後も全て今のまま変わらず順調に、なんていくかどうかわからないんだし。どうよおふたりさん。悪くない提案だと思うけど」
またちらりと顔を見合わせたふたり、ひたと見つめ合いながら、藤真がぼそりと言う。
「……が、ここにいてくれたら、絶対ちゃんと帰ってくる」
「だけど……そんなのうまくいくのかな。親が何て言うか」
「それをここでグダグダ考えてもしょうがないじゃん、聞いてみようよ。話はそれから!」
上機嫌のカノンの向かい側で、藤真とは目が離せなくなっていた。私がここに住むの? がここに来るのか? 先のことなんか何も考えてなかった。ただ藤真はと一緒にいたかった、はそんな藤真の思いにすがった。春から生活環境がまるで離れてしまうことなど考えていなかったけど――
ふたりとも、遠いと思っていた未来が目の前に迫ってきたような気がした。