ルーザーズ&ラバーズ

Side-F 10

眠気はなかったが、は藤真のベッドの上でぼんやりしていた。ザッピングをしながら携帯を覗き込み、かと思えばごろごろと寝返りを打ち、ぴたりと止まっては窓の外の音に耳を澄ます。冷たい夜気が音もなく侵入してくるけれど、その冷たさが気持ちよかった。Atmosphereで熱された心が落ち着いていく。

しばらくすると、藤真とカノンがなにやら言い合っている声が聞こえてきた。シャワーを使ったら換気扇をかけろと言ったのに、またかかってなかったと兄が小言を言っているようだ。はついにやりと口元を歪めた。そしてドアが開き、藤真が戻ってきた。

「窓、閉めてよかったのに。寒いだろ」
「平気。クールダウンできたから」
……じゃあもう少し開けててもいいか」

携帯を手にごろりと仰向けになったは、藤真の方も見ずに「んー」と返事をする。藤真はタオルで頭をガシガシと拭きながら、ベッドに腰掛ける。

「てかさ、何でベッドこんな大きいの」
「親の趣味」
「海外赴任ていうけど……家族でここに住んだことあるの?」
「ないよ。本宅は別のところにあるから」
「もしかして金持ち?」
「親はな。小遣い使い放題なんてことはないよ」

またごろりと寝返りを打ったは、肩を起こしてニタリと笑う。

「すごいハイスペックだねほんとに」
「だけど牧には勝てないからな」
「それでバスケもトップだったらちょっと嫌味な気がするけど」

が言うように、藤真兄妹のベッドは大きい。家具調度品などはこのマンションを購入した時点で一緒に揃えられていたものだ。藤真はタオルを投げ出すとの隣にごろりと横になる。窓から冷たい風が吹き込み、ふたりの間をすり抜けていく。

「髪、乾かさないの」
「そのうち乾くだろ」
「ちゃんとドライヤーで乾かした方がいいって」
「カノンみたいなこと言うなよ……

だが、がしつこく乾かせと言うので、藤真は渋々ドライヤーを持ってきた。

「やったげようか」
「おお、頼む」

ベッドに腰掛けた藤真の後ろに膝立ち、はドライヤーを受け取るとスイッチを入れる。風になびく髪、はそっと指を差し入れ、風の当たる場所を細かく撫でていく。染めているのか地毛か、薄茶色の藤真の髪がサラサラと揺れて乾いていく。細くはないけれど、柔らかい猫っ毛だ。くせもないらしい。

……もう後遺症とか、ないの」
「傷跡だけ」
「セカンドインパクト、怖くなかった?」
「あんまり。あの頃はそれで死んでもいいから練習したいと思ってた」

同じだ。は返事をしなかったけれど、ふいに藤真の背中に抱きつきたくなった。

そこで初めては、藤真の言う「同じ」の意味がわかったような気がした。もちろん藤真の方はに比べて「勝ち」の数は多いし、評価も高いし、落ちこぼれ部のとは種類が違う。けれど、志やそれを砕かれた時の経験、そして這い上がろうともがくこと、それは同じなのではないだろうか。

すっかり乾いた藤真の髪を冷風で冷まし、ドライヤーのスイッチを切る。ドライヤーを傍らに置くと、は何も言わずに藤真の背中に寄りかかった。シャンプーの香りが漂う藤真の背中は外気に冷やされて冷たい。

……そういえば、名前、知らない」
「ごめん、言ってなかったっけ。健司」
「そっちで呼んでいい?」
「いいよ」

が寄りかかっていたけれど、藤真は何も言わずに立ち上がってドライヤーを片付け、窓を閉めた。途端に空気が籠もって重くなる。急に音が遮断されたので、余計に静かに感じる。

ベッドサイドのライトを点け、スタンドライトを落とした藤真はの隣にごろりと横になった。彼の両親が設えたベッドは大きくて、ふたりで横になっても密着しない大きさだ。携帯に充電ケーブルを差し、ベッドサイドのライトの下に置く。そして、の方へ向き直ると、静かに手を伸ばして繋いだ。

「セカンドインパクト、怖いか?」
「全然。Atmosphereで踊りながら死んじゃえばいいのにと思ってた」

も携帯を頭の上に投げ出すと、藤真の方を向いて手を握り返す。

「健司の言うように、同じだったね」
……少し訂正、していいかな」
「訂正って……何を?」

藤真は少しだけ目を逸らして握る手に力を込めた。

の気持ち、わかるって言っただろ。オレとは同じだって言ったよな。だからどうしても放っとけない気がして、カノンを迎えに行く度に気になって、がいれば声をかけずにいられなかった。まだきっと落ち込んでるをどうにかしてあそこから引き離したいんだと思ってた」

藤真はほとんど目を閉じたまま、囁くように話す。また遠くでサイレンが聞こえてくる。

「違ったの?」
「全部違うってわけじゃないんだけど、自分が何をしたかったのか、やっとわかったんだ」

友達でも彼女でもない、ことによったら嫌われているかもしれないへの執着の正体はちっとも掴めなかった。カノンにも「気持ちが見えない」と言われたし、そんなもの自分でも見えていなかった。

「オレはの気持ちをわからないかもしれない、だけど、オレの気持ちがわかるのはだけだ」

セカンドインパクト症候群、致死率50%、絶対安静、運動禁止、敗北、敗退――

「だから、一緒に――そばに居て欲しかったんだろうと思う」

そう言うと、藤真はゆっくりと長く息を吐いた。やっと自分の気持ちが見えたことによる、安堵のため息だった。

「カノンに言われたんだ。そんなはっきりしない気持ちで帰ろうとか言ったって伝わるわけない、をどうにかしてやりたいんならまずお前が本気になれよって。だけど、オレ、別にをどうにかしてやりたいとか、思ってなかった。オレが苦しんだあの時の気持ちをわかってくれるのはだけだから、それを分かち合いたいと思ってただけで。に、わかるよ、同じだねって言ってもらいたかった――

視線を戻し、藤真はの目を覗きこむ。

「傷を舐め合うとか、そういうこと?」
「否定はしない。自分では吹っ切れてるつもりだけど、記憶が消えるわけじゃないし」

そう、冬の予選はもうすぐだ。練習は変わらずにやっているし、チームの状態も悪くない。藤真は依然選手兼監督を務めているし、高校最後の試合、何としてでも海南に、牧に勝ちたい。そういう意欲は消えてない。けれど部を離れて気持ちが緩むとのことを思い出す。恐らく自分を理解してくれるただひとりの人――

「普段はそんなこと考えもしないのに……たまに不安になるんだ」
「セカンドインパクト?」
「いや……また負けるんじゃないかって。オレは一度も牧に勝てないまま終わるんじゃないかって」

は手を伸ばして藤真の前髪に指を差し入れ、傷跡の辺りをなぞる。

「そうだね、私なら『そんなことないよ、頑張れ』なんて、言わないもんね」
……じゃあ何を言ってくれるんだ」
「えー、何も考えてないけど……そうだな」

傷跡を撫でるの手に、藤真の手が重なる。

「バスケなんかやめちゃえば?」

優しく微笑むの言葉に、藤真は吹き出した。それを見たも鼻で笑う。

「いいなそれ」
「でしょ」
……すごいよそれ、何度言われてもNOだ」

嬉しそうに微笑む藤真の瞼が途端に下がり始める。眠そうな顔で体を翻して明かりを落とすと、入口辺りの足元にぼんやりと明かりが灯っているのが見える。

は、何か言って欲しいこととか、ないのか」
「そういうのも考えたことないけど……私も頑張れって言われてもなあとは思う」

体を戻した藤真は距離を縮めての体に手を伸ばした。カノンのふわふわパイルのセットアップに藤真の腕が絡まる。は肩でにじり寄って、頭を寄せた。傷を追った頭がふたつ、寄り添って髪をさらりと揺らす。

「頑張ったって時間は戻らないし、怪我もなくならないし、どう頑張ればいいのかも、もうよくわからなくて」
「だったらもう、頑張らなくていいんじゃないか」
「だから頑張らないでAtmosphereで不貞腐れてたんだよ」
「今度は、ここにしなよ」

それは偶然だったのかもしれない。けれど、藤真の唇がのこめかみに触れて、もまたゆっくりと長く息を吐く。体に絡まる腕に手を重ね、目を閉じた。

「うん……そうする。ここに、いる」

運動部の朝練は早い。藤真も中学に入ってすぐは眠くて仕方なかったけれど、そこから約6年、今では朝練だと思うと勝手に目が覚めることもある。薄暗い部屋の中で眠りから覚めた藤真は、ふわりと甘い香りが鼻についたので顔をこする。自分の部屋にある匂いではない。

瞼を開くと、髪の毛が見えた。自分の髪なわけはない。自分の髪は枕に広がるのが見えるほど長くない。というところで藤真は昨夜のことを思い出して、息を呑んだ。全て深夜のテンションでやってしまったことだった。やらなきゃよかったとは思わなかったが、誰かに知らてしまったらどうしようと思うと、少し不安になった。

だがそれも、漂う甘い香りの中に消えていってしまう。甘い香りの正体は目の前にあるのうなじだった。は藤真に背を向けてぐっすり眠っている。藤真は音を立てないように距離を縮め、その体に抱きつき、うなじに顔を押し付けた。甘くそして優しい、いい匂いだった。

こうしていると、不安も後悔も過去への苛立ちも全部消えていく。

のことはたぶん好きなんだろうとは思うが、今のところ普通の高校生の恋愛のような「好き」ではない気がしている。けれど、の頭が愛しかった。自分と同じようにダメージを負い、そのせいで簡単に消えることのない傷跡を持つの頭が愛しい。

こんな風に薄暗い部屋でくっついたまま、昨夜のようにふたりにしか理解できない話をだらだらしていたい。

しかしそれでも、「バスケなんかやめちゃえば?」と言われれば絶対NOなのである。

藤真は名残惜しそうにから離れると、ベッドを出た。まだスヤスヤと眠っているの肩に布団をかけてやり、音を立てないように部屋を出る。カノンはもちろん何もしないし、両親は不在、たまに祖父母や親の部下が手伝いに来てくれるけれど、毎日の簡単な家事は彼がやっている。行き先はキッチン。

それからどれくらい経っただろうか、衣擦れの音と軽い金属音には目を覚ました。彼女もまた自分の状況に違和感を感じて、しばらくぼんやりしていた。やがて全てを思い出すと、勢い良く起き上がって、部屋の中をきょろきょろと見回した。

「あ、起こしちゃったか、ごめん」
……何時?」
「5時半」
「寝る時間だ」

制服を着た藤真は、後はブレザーを羽織るだけの状態でクローゼットの前に立っていた。金属音の正体は藤真のベルトだ。目が上手く開かないがそう言うと、藤真は声を立てずに笑い、のすぐ隣に腰掛け、肩を抱いた。は眠そうに目をこすっている。

「カノンじゃないけど、が平気ならここにいてもいいんだぞ」
「ううん、学校は行く。親いないし、ナナコは寝てるし、帰るよ」
「ナナコってお姉さんか?」
「うん、奈那子」

ぼんやりしたままのは、携帯を引き寄せると少し操作し、また投げ出した。

「誰も何も気付いてないみたい。よかった」
「じゃ、着替え終わったらダイニングにおいで」
「ダイニングって、何かあるの?」
「何って、朝ごはん」

藤真は笑顔でそう言い残して部屋を出て行ってしまった。は寝起きのぼんやりと併せて色々オーバーしてしまい、またばたりと倒れた。一晩経ってもまったくドキドキしないし、藤真の匂いがするこのベッドは心が落ち着くけれど、学校は休みたくない。

ずるずるとベッドを這い出たは昨夜着ていた少し煙草臭い服に着替えると、ダイニングに向かった。

「簡単なものしかないけど……好き嫌いとかあるか?」
「これ、今用意したの」
「今作ったのはおにぎりとヨーグルトだけだけど」
「こんなの毎日やってるの」
「毎日じゃないよ。誰もいない時だけ。カノンはやらないし」

藤真は、カノンのことを言う時だけ、腐った食べ物の匂いを嗅いだような顔をした。はつい吹き出し、テーブルにつく。小さなおにぎりと味噌汁、常備菜がいくつか、バナナヨーグルト、そして暖かいほうじ茶が並んでいた。母親がいない時は食べない習慣のの腹がクルクルと鳴る。

「毎日じゃないって言っても、偉いね……
「完全に空きっ腹で練習ってのもつらいんだよな。少しでいいから入れて行きたくて」

藤真が食べ始めたのを見て、も湯のみを取る。暖かいほうじ茶が体に染み渡る。朝からこんな和食を食べるのは久しぶりな気がする。ご飯はなんとなく重いイメージがあって、しかもパンやシリアルの方が手軽で早くて、どうせ食べるならそういう食事の方がいいと思っていた。

「朝の味噌汁っていいね……なんか体に優しい感じがする」
「カノンが夏でも味噌汁ないと不機嫌になるんだよ。おっさんかっていう」
「フルイングリッシュブレックファストって顔してるのにね」

もちろんカノンはこんな早朝から起きてこないので、夏場以外はこうして朝食を並べたまま藤真は登校する。カノンがやるのは味噌汁を温めることと、食器を下げることくらいだと言って、藤真はまた渋い顔をしている。はまた笑って、うちのナナコも何もしないと付け加えた。自分もやらないことはわざわざ言わないでおく。

「そういえば、この間のタクシー代、少し出すよ」
「いいよそんなの。どうせカノンの金なんだし」
「お兄ちゃんそれどうなの」
「いいんだよ、あいつ小金持ちだから」

そこでは初めてカノンの経歴を教えてもらい、あまりに説得力のあるルックスなので、大きく頷いた。しかしやめてしまうとはもったいない。ダンス部に所属していたとはいえ、芸能関係には興味がないでも、宝の持ち腐れのような気がしてくる。

「割とガツガツした女だからな……勉強も好きだけど金も大好き」
「私もガツガツしてる方だと思ってたんだけど……カノンちゃんには負けるな」
「勝たなくていいよ、そんなの」

まだ明け切らない朝、少ない照明でぼんやりとくすんで見えるダイニング、ふたりは睡眠中のカノンを気遣ってぼそぼそと喋りながら食事を終えた。さて、藤真は朝練、は一度帰ってから登校である。

「オレは19時とか20時とかになることもあるけど、カノンは夕方には帰ってるから」
「一度帰ってきてから塾行くのか、大変だね」
「腹が減るんだと」

もう一度部屋に戻って支度をしながら、藤真はの荷物を差し出す。

「だから、また不貞腐れたくなったら、ここに来なよ」
……健司がいなくても?」
「カノンがいれば入れるし、オレの部屋にいていいから」
「カノンちゃんに悪くないの」
「あいつもどうせすぐ出かけるんだし」

荷物を受け取ったは、しかし昨夜のように「マズい」とは思わなくなってきた。何しろここは居心地がいい。傷を舐め合っているのかもしれないが、藤真とは誰にも出来ない話ができるし、カノンはオレ様だが、その分気を使わなくていい。自宅はもちろん安らぐけれど、この部屋にいる方が気持ちがいい。

は頷きながら藤真に歩み寄ると、無言で腕を伸ばして抱きついた。藤真も抱き返して、頭を撫でる。

……また泊まって行ってもいいの」
「そうしてくれると、オレも嬉しい」
「じゃあ、そうする」

カーテンが引かれたままで一層薄暗い部屋の中、ふたりは殊更ギュッと抱き合うと、静かに離れて玄関を出て行った。早朝の街は青灰色がかっていて、空気は冷たく、何もかもが目覚め切らないまどろみの中のように見える。そんな街の中を、と藤真は手を繋いで静かに通り過ぎていった。