エンド・オブ・ザ・ワールド

End of the World. supplement

春美編2

(2週間後、自宅にて。鉄男が仕事から戻る)
「おかえり〜」
「ただいま。今日昼間に松原先生から連絡きた」
「えっほんと!? なんだって?」
「当時はるの手術した先生まだいたらしくて、連絡してくれたらしい。で、はるに電話番号教えておいてくれたらしいんだけど」
「連絡きた?」
「それはまだ。今日はもうこんな時間だから来ないかもしれん」
(現在22時)
「そっか……見つかったのか……
「緊張してんのか」
「うん……だってさ、サトルは当時子供だったし、話は全部周囲の大人の話じゃん。だけどはるは自分の目であの現場を見てるわけだし、良和にとどめを刺したのもはるだし、てっちゃんが覚えてないあの家の中がどうなってたのか、正しく記憶してる人なわけでしょ」
「まあそうだな」
「てっちゃんは? 緊張、してる?」
「んー、それほどでも。はるの記憶自体があんまりねえしな」
「あ、そか」
……ミライ」
「んー?」
「服、買いに行きたいんだけど」
「えっ、うん、冬物?」
……いや、はるに会う時の」
「うん、そうだね。買いに行こう。もしはるが会ってくれるって言ったら、服買いに行く日を開けて決めようね」
「その時のは、選んでもらっていいか」
「そうだね。ヤンキー臭さが出ないようなのね」
「頼む」
「まかしとして。極力さわやかなてっちゃんをプロデュースしたるから」
「さわやかにはならんだろ」
「極力極力」
「お前の休みはええと……
「基本同じだけど、都合つけてもらうことは出来るよ。あとで代わればいいんだし」
「了解」
「ご飯食べる?」
「食べる。今日何?」
「クミさんに教えてもらった、絶対失敗しない炊き込みごはん〜!」
「おお、うまそうだな。クミさんあんなクソヤンキーだったくせに料理うまいよな……
「てっちゃんがクソヤンキーっつってたって言っとくね」
「いや、ちょ、それはおいやめろ、殺される」
「他にも色々教えてもらって作ってみるんだけど、これがなかなかクミさんクオリティにならなくてね〜!」
……悪いな、お前も仕事してんのに」
「んー、でもてっちゃんより全然時間短いし、まだ週4だしね。出来る間は出来るだけ。それでいいよね?」
「もちろん。てかオレも少し覚えねえとな……
「掃除から始めてみたら? それなら力任せでもいいし、失敗って言っても洗い残しくらいだし」
「そうだな」
「いやーしかしてっちゃんはいい旦那様です」
「そうか……?」
「よーしお味噌汁も温まったし、食べよー!」
「あれ、お前食べてなかったのか」
「うん」
「待ってなくてもよかったんだぞ」
「いえその、まだ素人なもんで時間かかって……実は全部作り終わったの1時間前くらいで……だからまあいいかと」
「そか、んじゃ食うか」
「てっちゃんお箸出して〜」

(数日後、春美の家に向かうふたり)
「あああドキドキする……
「オレはもう落ち着いてきた」
「うーん、やっぱりピンクの方がよかったかな」
「大丈夫だって、それもかわいい」
「うん、てっちゃんはそう思ってくれるかもだけど、はるはさ」
「大丈夫だろ、甥っ子の嫁くらい」
「だからだよ〜お姑さんみたいなもんじゃん〜! てかてっちゃん車の運転すごい丁寧なんだね、びっくりした」
「そりゃ車は免許取った直後から助手席に社長だったし車は社長の持ち物だからな。バイクと同じには」
「ああそういう……。私もそのうち取らなきゃ……って取れないんだ!!!」
……お前の戸籍、何とかならねえかな」
「うーん、何とかする方法ってあるのかな……
(メモを確認しつつ、小じんまりとして古びた家に到着)
「あ、ここだ。岩田さん」
「大丈夫か」
……OK」
「よし、押すぞ」
(インターホンを鳴らす)
……
……
(ドアが開き、中からすらりとした小顔の女性が出てくる)
「鉄男……
「はる……
「ほんとに、ああ、ほんとに鉄男だ、鉄男、こんなに大きくなって……
(思わず駆け寄り鉄男の頬に触れる春美、その手を包み込む鉄男)
「ずっと忘れてて、ごめん」
「いいの、こうして会えただけで、まさかまたあんたに会えるなんて思ってなかったから」
「はる、オレの奥さん」
「初めまして。叔母の春美です。よく一緒にいらしてくれたわね」
「は、初めまして、ミライと申します、よろしくお願いします」
「さあさ、上がって。今日は10年ぶりに甥っ子と会えるから帰ってこないでって言ってあるから遠慮なくね」
「結婚、したの」
「そのことも全部話すわよ」
「お邪魔します」
「それにしてもふたりともなんでそんなにおっきいのよ〜鉄男もでかいけどミライちゃんも背が高いわね〜」
「スポーツをやってました」
「あらそうなの? やだ今日一日で話し終わるかしら、あんたたちの話も聞きたい」
「別に1日で終わらせなくてもいいんじゃないの」
「やだそうよね、今度はふたりのお家に行きたいな」
「社長に借りてる事務所の2階だけど」
「その社長さんにもご挨拶したいもの。一度だけでいいからお邪魔していいかしら」
「はい、ぜひ。それまでにもっと片付けておきます」
「やだ、いいのよ、私、育ちはあんまりよくないからそういうの気にしないわよ〜」
「はる、これ」
(手土産を差し出す鉄男)
「んもう、気を遣わせて悪かったわね。やだおいしそう。一緒に食べようか」
「お手伝いします」
「じゃあそこの……そうそれ、そのカップを出してくれる? それと、ポットに水入れてかけて」
「はい」
「それにしても鉄男、こんなきれいな子どこで見つけてきたのよ〜! 私ね、昔長岡で何年もホステスやってたんだけど、それでもこんなきれいな子いなかったわよ」
「そ、そんな……
「友達同士が付き合ってて」
「そこは結構普通なのね。でも詳しく聞きたいからそれは後で聞かせてね」
「はい」
「社長さんに借りてるお宅ってどの辺なの? 医療センターの近く?」
「今は本町の方。スタンドの目の前」
「そっか、じゃあそうすると……
「今日は車で来たから30分くらいかな」
「悪いんだけど連絡先とかそういうの、書いていってもらってもいい? 今日は頭パンクしそうだもの」
「春美さん、これでいいですか」
「やだ、はるでいいわよ〜。じゃそれ出しちゃって」
「はーい」
「はるはいつからここにいるんだ」
「結婚してからよ。その話はちゃんとするから。というか今日は冷たいお茶用意としくべきだったわね……。喋りすぎて喉乾くわコレ」
「私買ってきましょうか。すぐそこに自販あったし」
「んじゃ鉄男も行って何本か買ってきて」
(急いで家を出るふたり)
「てっちゃん、大丈夫そうかな」
「良さそうな気はする」
……とても人ひとり殺してるようには見えないね」
……無理に明るくしてる感じも少しするけど」
「余計な口挟まないようにするけど、フォローが欲しかったらすぐに突っついてね」
「悪い、頼む」

(岩田家、四畳半ほどしかない小さな居間にて)
「どこから話そうか、記憶、戻ったんだよね?」
「事件の時の記憶と、あの当時あそこで暮らしてた記憶は戻ったんだけど、記憶飛んでこっちに来てからの1年くらいがものすごくあやふやで……それではるのことも覚えてなかった」
「少し前に、私がふざけて『心臓にずきゅーんて来る』って言ったことがあるんです。そうしたら、昔住んでた家に心臓を患ってた女の人がいた気がする、って言い出して……
「それがきっかけであれこれ記憶探しをして、それで」
「そうだったの……
「心臓はもういいのか」
「おかげさまで。医療センターで手術して、もちろん激しい運動は無理だけど、普通に日常生活送るくらいなら全く問題ないの」
「今はもうどこもお悪いところはないんですか」
「全然。他はありがたいことに健康よ。だけどその話は前後しちゃうから、昔の話から始めようか」
……ああ、そうだな」
「鉄男……あんた暗くなったわね?」
(ピュアな目で小首を傾げる可愛い仕草の春美)
「オフッ」
(つい吹き出すミライ)
「しょうがねえだろ……
「嫌かもしれないけど、そういうところ、お母さんに似てるわよ」
「えっ? お袋って暗いか……?」
「根暗とかそういうのとは違うわよ。お姉ちゃんは子供の頃からコンプレックスの強い人で、だけど愛想よく振る舞ったりするのが苦手だったのよね。それをよく大人から『可愛くない女だ』って嫌味を言われててね。そのせいか、就職して1年の間に彼氏が出来なかっただけで結婚を焦り始めて、見合いを勧めてくれる人もいなかったから、そこからどうにかして結婚しようとしてろくでもない男に何人も引っかかって」
「結局親父もろくでもなかったもんな」
「それが、結婚するまではそんなことなかったのよ」
「えっ」
「だから結婚したんだもの。知り合ったのは私が高校卒業して長岡のお姉ちゃんのアパートに転がり込んだすぐ後だったと思う。お姉ちゃんは当時印刷工場の事務所で働いてたんだけど、その工場に転職してきたのが樋口さんだったの。当時その町に大きな配送センターがあって、良和さんそこで働いてたんだけど、配送センターが取り壊しになっちゃって、失業しちゃったのよね。それで工場の方に再就職してきたんだけど、今思い返してもどっちが本当の良和さんだったのかなっていうくらい、その頃は普通の人だったのよ」
「じいさんとばあさんはなんて言ってたんだ」
「そこはほら、おじいちゃんと血がつながってなかったでしょ。あんまりそういう話は出なかったし、おばあちゃんは良和さんがどれだけグータラしてても何も言わずに顔をしかめてるだけだった。これは私の想像なんだけど、もしかしたら彼の父親がそういう人だったのかもしれないわよね」
「それでもその頃は普通の方だったんですよね?」
「そうなの。少なくとも当時18歳の私にはそう見えたのよ。私は最初隣の駅のレストランで働いてて、そこによくふたりで食べに来たり、休みになると私も一緒に連れて遊びに出かけたり、私もお姉ちゃんこの人と結婚すればいいのにって思ってた」
「まあ、結婚したしな」
「良和さんと付き合い始めてから結婚を焦るようなことはなくなったんだけど、いつ頃かな、事務所に新人の女の子が入ってきて、事務所と工場の独身だけで遊びに行ったことがあるらしいの。その時に新人の女の子と良和さんが仲良く喋ってるのを見て頭に血が上っちゃったのね。帰ってきてから良和さんに当たり散らして、結婚してくれないなら別れるって言い出して。だけどふたりはすごく年が離れてたし、良和さんの方もお姉ちゃんに逃げられるのはマズいと思ったんでしょうね、その勢いで結婚しちゃったの。
だけどおかしな話なのよ、籍を入れてすぐはお姉ちゃんまだ私と暮らしてたし、良和さんも工場の近くの下宿にいたままで、新居の話なんかしばらくまとまらなくて。だから私の方が先に痺れ切らしてアパートを出て、その何ヶ月か後だったかしら、別のアパートに引っ越したのよね。そこであなたを妊娠したんだけど、これがまた大変だったのよ。マタニティブルーなんていうかわいいものじゃなくて、お姉ちゃんは妊娠中精神的に不安定でどうしようもなくて、あんまり荒れるから私が何度も泊まりに行ったりもして、それで徐々に良和さんも参ってきて、そういう中であなたが生まれて、でも最初は良和さんも喜んだのよ。男の子が欲しかったんだってすごく喜んでた。だけど、お姉ちゃんの不安定はそのままずっと続いたの。私もまだハタチそこそこだったし、妊娠出産がどういうものなのかなんて知らないし、だからもう、ほんと大変だったのよ。働きながら毎日のように通ってお姉ちゃんと良和さんの間に入ってた」
「はるさんのお宅の方に行ったりとかはなかったんですか?」
「そこがお姉ちゃんもめんどくさいところでね。私もそれを勧めたんだけど、そうしたら良和さんが浮気するから絶対家は出ないって言い張って聞かなくてさ」
「親父その頃はまだ普通だったのか」
「今考えると、少しおかしくなり始めてたと思う」
「喜んでたのに、ですか」
「正直、まともな日常じゃなかったもの。それに当時の家なんて狭いアパートよ。逃げ場なんかなくて、お姉ちゃんと良和さんはお互いがお互いのせいでストレスを貯め続けてるような感じだった。だから、あんたが2歳くらいで良和さんが工場をクビになった時は、離婚するって騒いだのよね」
「今度はクビですか……
「クビでまだよかったのよ。会社の金庫からお金取ろうとしちゃったんだもの」
「はあ?」
「その頃、財布は完全にお姉ちゃんが握ってて、良和さんはお小遣いがほとんどなかったの。それで家ではお姉ちゃんが相変わらず不安定で、あんたはちっちゃい頃からすごく元気で暴れん坊だったから、要するに、『ムシャクシャ』したのね。だけど金庫をいじってるところを社長に見つかって、何も盗ってないから通報しないでやるけど、クビだって。そこからもう良和さんもマトモじゃなくなった。職はないし子供は抱えてるしで、ふたりはどうしようもなくなってあの良和さんの実家に転がり込んだの。
幸いあの借家は広かったし、当時はすぐに良和さんの職も見つかって、おばあちゃんがいたからあんたを預けてお姉ちゃんも働きに出られたし、それでお姉ちゃんのイライラも軽減して、そこから何年かは平和だったはずよ。お姉ちゃんも良和さんもふたり目は女の子がいいなんて漏らしてたくらいだったから。あんたも三年保育ですぐに幼稚園入ったからおばあちゃんの負担もそれほどでもなかったし、あの頃は近所に子供がいっぱいいたから、幼稚園帰ってきても近所の子と遊んでればそれでよかったしね」
「あの、すみません、はるさんたちのご両親は? ええとその、鉄男さんのおじいちゃんとおばあちゃん」
「ああ、うちは早くに両親なくしてたから、私とお姉ちゃんは肩身の狭い親戚の家で育ったのよね。だからどっちも高校出たら即家を出て、そのままよ」
「そういや、オレ親戚とかそういうのの記憶、全くねえな」
「良和さんはひとりっ子だったし、おじいちゃんも親戚づきあいには消極的だったしね。私も子供を設ける機会には恵まれないままだったから……そこは可哀想なことしたわね」
「いいよそんなこと……
「まあいいわよね、むしろあんたたちに子供がたくさんできるかもしれないんだし」
……もし生まれたら見せに来るよ」
「あっ、ぜひぜひ抱っこしてください」
「ちょ、やめてよツンと来るじゃない、あー、私あんたのことよく面倒見てたのよ。そーいうの思い出しちゃう。私がやってたのなんてただの手伝いだけど、必要ならお手伝いするわよ。てかやだあ、鉄男に子供なんて、あんたが子供だったのに、あんたがパパになるなんて、もー、私も年を取ったわね。これでも長岡のクラブでは稼ぎ頭のナンバーワンだったのよ」

「私は私でレストランで働いてる時に知り合った人とお付き合いしてて、だけどそれが気弱な人で、借金こさえちゃったのよね。だけどすごくいい人でまじめな人で、結婚するものだと思ってたから、そのうちレストランより高給なクラブで働き始めて、一緒に借金返してたの。だけど、またこういうのってタイミングいいのよね〜、借金返し終わったところで浮気してたことが発覚して、しかも相手の女性妊娠してたの。彼は善人でまじめだけど地味な人で、クラブのホステスになっていく私が嫌になっちゃったらしくてさ」
「ひどい……
「そりゃもう大喧嘩になったけど、その頃既に鉄男が生まれてたから、私その女のこと恨みに思えなくて、これからああいう赤ちゃんが生まれるんだと思ったら金返せって言えなくなっちゃって。けどまあ、クラブ勤めが順調なものだから、しばらくすると私は借金返済に取られない分、どんどん稼いで貯金は貯まるし、恋人もいないから仕事に精が出るし、とうとうナンバーワンになっちゃった。それが何であれ1番て気分いいのね。その頃はものすごく充実して楽しかったのよ〜」
「いつごろ体壊したんだ」
「えーと、あんたが6歳くらいかな」
「えっ、それじゃあ一緒に暮らしてたのって」
「そう、そんなに長い間じゃなかったのよ。結局私は都合5年くらいクラブにいて、ナンバーワンを2年以上やってたんだけど、まー、病気が発覚した時の店の冷たさったらなかったわね。馴染みのお客さんの方が優しかった。まだ神奈川にいい医者がいるなんて情報もない頃で、県内のいい病院いい医者を色々紹介してくれたり、唐突に収入がなくなったのを心配してゴースト社員として雇って年俸でお金くれた社長さんとかもいたのよ」
「どうしてそれで手術しなかったんだ」
「最初は病名がはっきりしなかったの。心臓が悪いんだってことがわかるのにも時間がかかって、最初は町医者、次に市の総合病院、次は県立の病院、て感じでどんどん病院の規模が大きくなっていって、お金はかさむばっかりだし、貯金はあったけど、いつ健康体に戻れるかもわからない状態ではどうしても出し惜しみしちゃって……。だからそういう援助でなんとか治療を受けられるところを探してたの。だけどその頃も彼氏がいたわけじゃないし、基本的にはなんでもひとりでやらなきゃいけなくて、心臓に爆弾抱えて病院巡りしてるのがつらくなってきてね。それをお姉ちゃんに話したら、治療を受ける病院が決まるまでいてもいいって言ってくれて。それで安心して手荷物だけで引っ越していったのよ」
「だけど治療は……
……もうその頃には、良和さんがほとんど働かなくなってて、お姉ちゃんの稼ぎとおじいちゃんたちの年金、全部合わせてみんなで生活してた。だけど私は貯金があったし、基本的には何も出来なくてじっとしてるだけだったから、食費光熱費を収めるくらいでよかった。それで病院を回って、なんとか病名が判明するまでこぎつけたのよ。そしたらうちの病院ではこの手術は無理です、設備もないし、手術経験のある医者がいません、ていうの。それでなんとか当たってもらって神奈川の医療センターに行き当たったんだけど、じゃあそこで改めて診察してもらって、すぐに手術しようってなって準備してたら、お客さんに助けてもらって貯めてた治療費、良和さんがぜーんぶ使っちゃったの」
「銀行に預けておかなかったのか」
「それが、当時私が使ってたのは地方銀で、神奈川に支店があるかどうか、あってもそれが医療センターに近いかどうかもわからないし、どこかに支店があっても入院しちゃったらひとりで行かれないでしょう。だから全額おろして持っていくつもりでいたの。いくらなんでも通帳ごとお姉ちゃんに預ける気はなかったし、自分で下ろしに行って、さあ新幹線の切符を買いに行かないと、ってなったらすっからかん」
「それで頓挫してしまったんですか」
「そうなの。幸い当時の私は一刻も早くしないと死ぬ、っていう状態じゃなくて、極力じっとしてればなんとか生きてられる、っていうものだったから、最終的にかかってた病院に泣きついて症状を抑える薬を出してもらいながら、あの家で延々寝てるだけの生活になっちゃった。それでも内職なんかをちょこっとやったりしたんだけど、薬代にもならなくて、結局ホステス時代の貯金を少しずつ使いながら生きながらえてたんだけどね」
「はる、あの時親父を刺したのは……お袋だったよな?」
「そうよ」
……なんで親父は包丁持ち出したんだっけ」
「その直前にあんたが一晩帰らなかったの、覚えてる?」
「思い出した」
「夜になっても戻らないから、バカよね、まず最初に友達の家に聞きに行けばよかったのに、焦ったおばあちゃんが警察呼んじゃったもんだから、近所がちょっとしたパニックになってね。あんたは翌朝ケロッとして帰ってきたからよかったんだけど、昔のことだから、良和さん警察に説教されたのよね。一番近い交番の人だったんじゃないかしら、初老の警官に『無職で子供が普段どこで遊んでるかも把握してないなんて、しっかりしなさいよ、奥さん働かせて恥ずかしくないのか』って。そこでもう火がついてたのよね。ええとそれでも当日はやり過ごしたんだけど、その翌日、事件の日、お姉ちゃんは仕事休んで菓子折り持って方々に謝りに行ってたの。あんたがいない間、近所の人が近場を探してくれてたから。だけどその間も良和さんはパチンコ、イライラしたお姉ちゃんが学校から帰ってきたあんたをガミガミ叱りつけてたところに有り金全部スッて帰ってきたのよ。お姉ちゃん、キレちゃって」
「まあそりゃキレるよな」
「そこからはまあ、いつものように喧嘩してたのよね。だけどあの時は……お互いエスカレートしちゃったのよ。良和さんはもうマトモじゃなかったし、その神経を逆なでするようなことをお姉ちゃんもしちゃった。包丁が出てきたのは……あの時が特別だったからじゃない、いずれああなるだけの土台はできてたの。私も……良和さんのせいで治療が受けられなくなっちゃったし、だけど働ける状態でもなくて、針の筵だった。クラブでナンバーワンホステスだったって話だけが独り歩きして近所の男性がわらわら寄ってきて、おかげでその人たちの奥さんに恨まれて、私がレストランでウェイトレスやってた頃も知ってるはずの良和さんまでそういう目をするようになって、動けないのをいいことに体を触られたこともある」
「それは……なんとなく記憶ある」
「そんなもの覚えてない方がいいのにね」
「はるが、庇ってくれたんだってことは最近思い出した」
「それも忘れたままでよかったんだけどね」
「あのあと、はるは死んだと思ってた。戻ってきたら顔が紫になってて」
「激しい運動できない心臓なのに興奮したし暴れたからね。だけど辛うじて息があったから、そのまま病院に担ぎ込まれて、正直私はその時のことほとんど覚えてないけど、その辺で逮捕されたんじゃないかしら」
「サトルの話じゃ一緒に神奈川に行ったって」
「サトルってあの一番仲良かった材木屋の子よね? そうよ、一緒にっていうか、新潟の病院にいる間に逮捕されたんだけど、私は起き上がれないしろくに喋れないし、そうこうしてるうちに目撃者が出たとか何だとかで姉と甥を庇った正当防衛てことで不起訴処分、で、神奈川の病院に移送されることになって、身内が姉と甥しかいないから一緒に行く、ってそういう流れだったはずよ」
「あの、てっ……鉄男さんの記憶がなくなったことに気付いたのって」
「私は病院にいたから正確なことはわからないんだけど、ずっとぼんやりしてたらしいのよね。あんまり喜怒哀楽の感情も出てこなくて。それで預かってくれてた近所の人が話しかけてみたら、何だか言うことが要領を得なかったらしくて。それで慌てて警察と一緒に私の入院してた病院に担ぎ込まれて調べたら、事件前後と家族や友達をすっかりさっぱり忘れちゃってて」
「だけどはるさんのことは覚えてたんですよね」
「それが未だに不思議なんだけど、私だけは覚えてたのよね。別にそれまでも仲良しだったわけじゃないんだけど」
「たぶん、オレの中ではるは事件に直結する存在じゃなかったんだと思う」
「そっか……それはあるわね。ほんとに不思議だったのよ、朝か夜に一言交わすくらいが普通だったんだもの。そうね、あなたの見てないところでならお姉ちゃんや良和さんとも色々あったけど、それはあんたの前では絶対見せなかったし、私はあの当時のあんたにとって食事時以外は奥の部屋で寝てるだけの人でしかなかったから」
「サトルさんの話では、ええと、引っ越す前に何日か学校を休んでたと」
「でしょうね。良和さんの葬式はしなかったそうだし、おじいちゃんとおばあちゃんは逃げるように親戚の家に行ったとかなんとかで、お姉ちゃんは鉄男を置いて神奈川にすっ飛んでって医療センターの近くにアパート借りてきて、その間あんたは確か近所の方が見ててくれたはずよ。私は不起訴処分になった時点で移送されたはずだけど、あんたたちはゴールデンウィークの間に越してきたんじゃなかったかしら。小さい、アパートでね…………
「はる?」
「だけど、全然、思い、出さなかったのよね、お姉ちゃんのこと」
……ああ、そうだな」
「だけど相変わらず私のことは覚えてて、『はるの病院行きたい』とか『はるはどこにいるの』とか、他人みたいにして聞くんだって。不慣れな土地で入院患者と自分のことを認識できてない子供をひとりきりで抱えて……お姉ちゃん、とうとう私にもイライラするようになって」
「それで連絡取らなくなったのか」
「そう。その後私は手術も成功したし、自由の身、だったはずなんだけど、何しろ手術費は借金だったの。莫大な治療費だったし、退院後3ヶ月は安静の上通院だったし、そんな状態でイライラしてるお姉ちゃんに頼れなくてね。それで地域の保健師さんとか、民生委員さんに相談に乗ってもらって、なんとか生活保護と公営住宅の入居を取り付けたのよね。だけど本当に半年くらいは家と病院と一番近いスーパーの間をウロウロしてるだけの生活だった」
……お袋その間どうしてたんだ」
「私の生活保護の申請が下りて、公団に引っ越した段階で連絡は取り合わなくなっちゃった」
「全部、庇ってくれたのにな……
……鉄男、私ね、その後一度新潟に帰ってるの」
「えっ?」
「何とか働けるくらいになって、生活保護を打ち切った頃だったかしら。お金貯めて、お世話になった人に手術成功しましたって報告しにいって、伊佐木のお墓にも行って、色々報告したりして。だけど、せっかく心臓が楽になってひとりで生活できるようになったのに、なぜかその時が1番疲れてて、気力という気力がなくなっちゃって、死にたくなっちゃったの。唯一の家族だと思ってたお姉ちゃんもあんたも失くして、毎日働いてご飯食べて寝るだけの生活、何が楽しいんだろうって。だけどあんたの顔思い出して、一回会ってから死のうかなと思ったのよね。幸いあんたは私のこと覚えてたし、お小遣いでもあげて、それで死んじゃおうと思って神奈川帰って……不思議よね人の縁て。その帰ったところで今の旦那に出会ったの」
「わあ、素敵」
「それがそうでもないのよ、うちの人元ヤクザだから」
「わあ」
「今は一応普通の人よ。ヤクザ時代も前科はないし。だけどこれも面白いことに、心臓悪くしてたの。横浜駅だったかしら、地下街でうずくまってる男の人がいて、ちらっと見たら顔が私と同じ紫でしょ。それで声かけて、病院着いていって、そしたらそこで母親が死の床にあってどうしても実家に帰りたいというのよ。やだ何それドラマみたいと思いつつ、一応病院で処置してもらって薬出してもらって、そしたら一緒に来てくれないかっていうのよ。命の恩人だから礼をしたいけど、時間がないからって」
……それ建前ですよね?」
「もちろんそう。まあ私も死ぬつもりだったから暇だったし、実家は山梨だって言うから美味しい果物食べてから死んでもいいかな〜なんて思って着いていって、そしたら当然のように老いたお母さんは私を嫁だと勘違いするし、お兄さんたちはチンピラになってしまった弟がいい嫁貰って……とか涙ぐんでるし、しょうがない、嫁のふりしたわよ。でも、一週間くらいいたかしら、無事にお母さんの最後に立ち会えて、神奈川に戻ることになったんだけど、その帰り道でいきなりプロポーズされたの。何もかも足洗うから結婚してくれって言われてね」
「最初からそのつもりだったんじゃないんですか」
「やだ〜そうなのよ〜」
「ふたりとも……
「まあしょうがないわよね、私腐っても元ナンバーワンだし。だけど、むしろ私の方が問題だったからね。帰ってきてから正座させて、事件のこと、話したの」
「でも正当防衛だったじゃないですか」
……いい機会だから告白するね。鉄男、あんたのお父さんを殺したのは、私なの」
…………お袋が刺したのは、思い出したよ」
「そうじゃないの。お姉ちゃんが刺した時はまだ生きてたのよ。あの時点で救急車呼んでたら助かってたかもしれない。だけど、これでこいつが助かったらお姉ちゃんも私も終わり、代わりにあんたがこの男のために働かされる、私にとって『家族』ってお姉ちゃんとあんただけだったから、そんなことになったら私たち家族は破滅だ、と思って頭に血が上って、だけどもうその時は私も意識が遠のきはじめてたし、どうせ死ぬならこいつだけでも道連れにしてやると思って、刺さってた包丁を深く差し込んで、とどめを刺したの。ああこれでもうお姉ちゃんと鉄男は大丈夫だ、よし、これでもう思い残すことはない……と思ってたら助かっちゃった」
……はる」
「だからまあ、お姉ちゃんとふたりで殺したようなものかしら」
「はる」
「なに?」
「ありがとう」
……あんたの、お父さんを、奪ったのよ」
「知ってるだろ。特にいい思い出はないよ。キャッチボールしてくれたこともない。ふたりだけの秘密もない。記憶は戻ったのに、もう一度会いたいと思うような思い出がないんだ。それに、はるが庇ってくれなかったらオレは新潟から出ることはなかった。こいつに、ミライに会うことはなかった。全部思い出したけど、オレは今のままがいい。だから、ありがとう」
……バカね」