熱帯夜

13

ツネ子おばさんが入院している病院は総合病院だが、リハビリ重視の施設のようで、入院患者は高齢者が圧倒的に多く、総合病院などあまり縁がない透は「まるで老人ホームだな」と思いながら病棟を歩いていた。消毒薬と籠もった体臭の交じる廊下は薄暗くて、妙な不安感を呼ぶ。

ナースステーションで訪ねたツネ子おばさんの病室は4032号室。6人ひと部屋で、ベッドがぎゅうぎゅうに詰まっている。その中の右手前がツネ子おばさんのベッドだった。半分閉められたカーテンの向こうで、テレビの明かりがちらちらと揺れている。

どうにも室内は排泄物の匂いがするような気がする。透は早くも見舞いに来たことを後悔しつつ、廊下に置かれていたマスクを拝借して引っ掛けた。マスクを掛けたくらいでは悪臭は防げないけれど、直接吸い込んでいるわけではない、と自分を誤魔化せる。

部屋に入り、透は壁をノックする。

「こんばんわ」

ベッドに横たわっていたのは、小さな体の老婆だった。白と灰色の髪は下半分が赤茶に染まっていて、上半分は地肌が見えるくらい少なく、薄いピンク色のパジャマを着たツネ子おばさんに、かつて透に「真実」を伝えてきた頃の面影はなかった。

ツネ子おばさんはイヤホンを引き抜くと目を細め、そして「あー」と掠れた声を出した。

「なんだっけね、貰いっ子の。そうだろ」
「そうです。透です」
「はあ、そんな名前だったっけね」

ツネ子おばさんはのろのろと体を起こしてベッドの上に横座りになった。透も壁に立てかけてあったパイプ椅子を開いて勝手に座る。見舞いの品などは持ってきていない。部活と勉強が本位の慎ましい学生の身、財布に余裕もないし、何を持っていけばいいかもわからないし、見舞いの証拠を残すこともない。

「どうした。こんなところまで」
「死にそうだって聞いたから、最後に話をしておこうと思って」

彼女に嘘をついても意味がないのだ。遠慮なく言う透にツネ子おばさんはにやりと笑った。

「ああそうとも、こう毎日暑くちゃ体がもたないよ。いつ死んでもおかしくないね」
「死ぬ前に、オレが養子じゃなくなったことを言っておこうかと思って」
「へえ、あの家を出たの」
「本来の家に戻ったよ」

透が養子縁組を解消したことは知らなかったらしい。もしくは、聞いていても記憶に残らなかったか。

「へっへっへっ、やっぱり貰いっ子なんかうまくいくわけないやね」
「残念だけど、うまくいかなくなって家を出たわけじゃないよ」
「おやそうかい、でも追ん出されたか、飛び出たんだろ」
「いや、ちゃんと話し合ってそれが一番いいって結論になったから」
「なんだい、つまんないね」
「そう言うだろうと思ったから、教えてやろうと思って来たんだよ」
「おっ、言うねえ」

今ならわかる。ツネ子おばさんは見栄を張った建前が嫌いなのだ。だから人間が持つドロドロした本音や、気遣いのない言葉が好きなのだ。口から出てくるものが汚ければ汚いほど喜ぶ。ほぅら、みんなあたしのこと意地悪だの性格悪いだの言うけど、人のこと言えた義理かい。

そういう快楽を引き出したければ、その人が「言われて一番嫌なこと」をぶつけるのが手っ取り早い。

なので透は遠慮なく言う。

……妹を好きになったんだよ。だから、家を出た」
「ははあ、いたね、女の子。お前さん妹に懸想したんかい。変態だね」
「だけどおばさんが他人だって教えてくれたじゃないか」
「あーっ、なんだい、言わなきゃよかったな」
「おばさんが教えてくれたおかげで、今その子と付き合ってるよ」
「ほんとかい。妹の方もおかしいのかい」

おばさんは楽しそうだ。最初はどんよりして半開きの目をしていたが、今はしっかりと瞼を開いて爛々とした目を透に向けている。

「ま、そうは言っても他人だし」
「だけど一緒に育った妹にムラムラ来たんだろ? こりゃすごい」
「血が繋がってないって聞いたのは8歳のときだからな」
「ひとつ屋根の下で暮らす妹を手篭めにしたんか。お前さんやるねえ」

ツネ子おばさんは力が入らない手をペチペチと叩く。入れ歯のないすきっ歯が覗き、ヒィヒィ言いながら笑っている。そういえばこの人は下品なネタが好きだって話だったな。

「もしあたしが貰いっ子だって教えなかったら、妹だと思ったまま好きになったんだろ」
「たぶんな」
「ああ、あんなこと言わなきゃよかったよ。そうしたらお前さん」
「どうだろうな、それでも結果は変わらなかったと思うけど」
「兄妹と知りながら乳繰り合ってたかもしれない、と」

おばさんは有頂天だ。顔を赤くしてベッドを叩いている。

……今は完全に他人になったから、自由にやってるよ。妹だった女だけど、オレは彼女を心から愛してる。いずれ結婚もする。そしたらまたオレを育ててくれたふたりと本物の家族になれる。おばさんが迂闊に本当のことなんか言うから、オレの人生は薔薇色」

ニヤリと笑いながら言う透に、おばさんは一転、苦いものを飲み込んだようなしかめっ面だ。

「あんたそれを言いに来たのかい」
「そう。今学生でひとり暮らしだし、暇さえあれば妹と布団で乳繰り合ってるよ」
……そんなのいつまでも続くもんかい」
「それだけじゃなくて、部活も勉強も順調」
「そんなに幸せばかりの人間なんているわけない。いつかしっぺ返しが来るよ」
「おばさんみたいに、か?」
「なんだと」

透は少し身を乗り出して声を潜める。

「おばさん、簡単に嘘をつける人間の方が好きって言ってたけど、そんなおばさんがうっかり本当のこと話したからオレは幸せになってるんだよ。おばさんはこれまで誰彼となくひどいこと言ってきて、たくさんの人を傷つけてきたっていうのに、たった一度嘘をつけなかっただけで親戚の子を幸せにしたんだ。オレには嘘を教えておくべきだった。ずいぶんなしっぺ返しを食らったね」

ぐうの音も出ないおばさんは骨と皮のような手でシーツをぎゅっと握り締めている。

「もう残り時間はあんまりないかもしれないけど、よかったら覚えておいて。おばさんが生涯でただひとり、真実を教えて幸福を授けてしまったのがオレだ。名前は花形透、血の繋がらない妹を愛してしまった男だよ。おばさんの人生における、汚点だね」

透は立ち上がるとパイプ椅子を元に戻し、体を屈める。

「じゃあね、おばさん。お大事に」
……余計なお世話だよ。二度と来るな」
「もちろん。これで最後だよ。次に会うのは葬式のときだね」
「来なくていいよそんなもの」
「それもそうだね。じゃ、さようなら」

透はしかし、ぺこりと頭を下げると、すきっ歯の隙間からスースー息を漏らしているおばさんをそのままにして病室を出た。廊下を足早に進み、ナースステーションで面会用のパスを返却すると、さっさと病棟を出る。エントランスまで来るとマスクを外してゴミ箱に放り込む。

両開きの自動ドアを出ると、むっとした真夏の熱気のかたまりが襲いかかってきた。

透はその重苦しい熱い空気を目一杯吸い込み、また一気に吐き出す。

おばさんは嘘がつける人間が好きなんだろうが、何ひとつ嘘のない時間だった。おばさんも言いたいことを言い、透も一切気遣いのないことを言ってきた。そこにあったのは限りなく透明に近い真実だけ。おばさんとはそういう関係でありたかった。

残り少ないかもしれないおばさんの人生に、そういう傷をつけた。それで満足だった。

だが、すっきりとした気持ちで病院を出た透は足を止めた。

……
「電話しても出なかったから、ここかなって」

いつかのような白っぽいワンピースを着たがひとり、佇んでいた。

いつも、暑い真夏の夜だ。

あふれる気持ちを抑えきれなくてを抱き締めてしまったのも、人の少ない翔陽の寮で絡み合って過ごしたのも、ツネ子おばさんにナイフのひと刺しのような置き土産をしたのも。

真っ暗な部屋にの白い肌がぼんやりと光っている。息苦しいほどの熱帯夜を静かに冷やす部屋の中で、透は長く息を吐く。

……おばさん、なにか言ってた?」
「悔しそうだったな。オレが不幸じゃないから」
「もし透が苦しんでたら、喜んだのかな」
「そりゃそうだろ。妹のことを愛した変態だって言って喜んだはずだ」

の肌をするりと撫でて、透は少し笑った。未だに透とが兄妹ではないと知らずにいて、けれど互いに恋心を抱いていて苦しんでいるなどと知ったら、おばさんはもっと喜んだに違いない。

「そりゃ実際には彼女の言葉がなかったらオレたちはもっと苦しんで、こんな風に付き合うなんて出来なかっただろうし、気持ちを捨てられなかったら二度と会わないようにするしか方法がなかったわけだから、そういう意味では唯一の希望だったと思うけど、おばさんが『お前は貰いっ子だ』なんて言ったのは、オレを苦しめたかったからでしかないだろ」

残念ながらおばさんはそういう人なのだ。そういう悪意に満ちた快楽で生きてきた。それは終わろうとしているかもしれないけれど、彼女に向かって「そんなあなたでもひとつだけ良いことをしたんですよ」などとは言いたくなかった。それは単なる結果論だ。

彼女の言葉はきっかけに過ぎない。今こうして透とがコソコソ隠れることもなく堂々と恋人同士でいられるのは、自分たち――両親や征夫氏を含めた人々が苦しみながら道を探したからだ。

わざわざ見舞いに行ってまでおばさんと話をしたのは、それを確かめるためだったのかもしれない。

……おばさんに言ってきたよ。を心から愛してる。いつか結婚もするって」

報告ではなくて、改めてに伝えたい気持ちだった。だが、は表情が変わらない。

……?」
「不思議なことに……私、それを疑ったことはなかった」
「疑う?」
「小学生の頃、結婚できるんだよって聞かされて以来、どこかでそれを信じてた」

それでなくとも兄とふたりで過ごす時間は多く、また兄は何でも出来る人だったので、は彼の言うことを疑ったことはなかった。自分たちは血の繋がりがないと知る前にはもう、「兄の言うことはいつも正しい」と思うようになっていた。

兄より勉強ができる男の子はいなかった。兄よりスポーツが得意な男の子はいなかった。兄より自分に優しく接してくれる男の子はいなかった。誰よりも自分を愛してくれるのは、いつも兄だった。

男兄弟がいる友達にはやはり「兄はキモい」と言う子が多かった。自分も血を分けた父親にはある種の嫌悪感を強く持っている。けれど、兄にはそういうものを一切感じなかった。

「それくらい、私にとって透を好きなことは自然なことだった」

そう言うとは体を捻って透にぎゅっと抱きついた。

……だけど、やっと他人になれたって言うのに、だからなのかな、今の方がいつか透と別れなきゃいけないんじゃないかって思う時がある。もうちゃんと他人で、付き合ってても結婚してもいいはずなのに、そこはもう問題ないのに、自分たちはいつか壊れるんじゃないかって」

血縁はなくても戸籍の上では兄妹、という重い重い足枷が取れた。自由の身になったらもう何も心配することはないと思っていた。だが、そこにあったのは、ただ「相思相愛の男女」というだけの関係で、気付けば惚れた腫れたで揉めては付いたり離れたりしている身近な同年代と変わらなくなっていた。

自由になって初めて自分のいる世界が見えた。そこには将来の展望も結婚の約束もなかった。

……きっと大丈夫、なんていう気休めは言わないけど」
「そういう風に感じること、ない?」
「オレはないよ」

見上げてくるの頭を撫でて、透は息を吸い込む。

「可能性に怯える必要なんてない。奇跡も長く続けばただの日常になるよ」

の気持ちはわからないでもないけれど、もう十数年一緒に暮らしてきたわけだし、何年もかけて気持ちを捨てようとしたけれど、無駄だった。それに逆らうことは無意味だし、逆らっても覆ることはないし、自分たちはすぐ近くにある奇跡を拾っただけだ。

「毎日朝から晩まで同じ家で暮らしてた、あの頃に戻りたい」
……そうだね」
「だけどそれは『兄妹』としてではなくて、別の形がいい、それだけ」

それも言ってみれば「紙の上だけの関係」である。兄妹であろうが、全く別の何かであろうが、ふたりで同じ家に暮らして寄り添って生きていかれるだけでいい。

ひんやりとしたエアコンの風がの素肌に吹き付ける。透はその肌をゆっくりと手のひらで感じながら、窓の外の赤い月を見ていた。真夏の夜にあでやかな赤は燃えるような日差しの名残り、いつまでも下がらない気温はを求めることに飽きない心のようだ。

それはも同じだ。透はねだるように首筋に吸い付いてくる彼女の唇に応えて、素早く組み敷く。両腕の下で潤んだ瞳をしているへの渇望は決して癒えないのではないかという気がする。

それがほんの一時の興奮に過ぎないというなら、一生をかけて証明してやる。

他の全ては嘘でも構わない。への想いだけが真実であれば。

END