熱帯夜

11

透たち翔陽3年生はインターハイを逃したことで引退時期を延ばし、12月に行われる冬の選抜の本戦出場を目指して練習を重ねていた。予選が目の前に迫ってからは透ものことを忘れるくらいに没頭していたし、進路が決まっている部員たちは期末もほとんど捨てていた。

だが、結果として翔陽は予選敗退。ひとつしかない神奈川代表枠を争って決勝まで進んだのだが、そこで沈んだ。今度こそ透の翔陽での3年間は終わり、最後まで残っていた3年生も引退の運びとなった。

一応寮は運動部専用とはいえ「学生寮」なので、引退したら即退寮という規則はない。予選のあとは期末テストだったし、翔陽の自由登校は1月の半ばから始まるため、さっさと退寮してもいいけれど、まだ通う必要がある。退寮期限は3月末日。

この年も透は帰省しないつもりだった。というか急ぎ実家に戻る必要がない引退後の3年生は最後の年末年始を寮で過ごす者が多い。部活もないし受験もないし、たまには遊ぶか! という残留組が毎年一定数現れる。なので透もそれに付き合おうと考えていた。

しかし、それに先駆けて透は12月24日に実家に戻った。その日は何食わぬ顔をして1日過ごし、夜になってからはとたっぷりいちゃつき、また夜中まで話をして、翌朝を迎えた。

土曜の朝である。

透はを伴い、朝食を終えてのんびりコーヒーを飲んでいる両親に声をかけた。

「どうしたの?」
「ちょっと話、いいか?」
「なんだよ、ケーキならもう残ってないぞ」

ふたりはダイニングテーブルに並んで座り直し、透とは対面の席に腰を下ろした。そして、透が1枚の紙を差し出すと、ふたりはウッと息を呑んで固まり、見る間に顔色が蒼白になっていった。戸籍謄本である。透が中学生の時に入手して以来大切に保管されてきたものだ。

「これについて、話をしたいんだけど、応じてくれるか?」

ダイニングは耳が痛いほどの静寂に包まれている。

「実は花形の家にはもう行ってきた。でも、ふたりからも話を聞きたいし、その上で聞いてもらいたいことや、相談したいことがある。どうかな」

透の声は喧嘩腰ではなかった。ふたりがこの話には応じない、何も話したくない聞きたくないと言うなら、また考え直さねばなるまいが、とにかくまずは透を養子に取り育てることになったふたりの記憶を知りたかった。その他の全てはそこからだ。

すると、細いため息とともに父親ががっくりと肩を落とし、隣に座る妻の背中を撫でると、頷きながら戸籍謄本を手に取った。

「オレたちはこのことを話さなかったはずだけど、どこで知ったんだ?」
「ツネ子おばさん」
「そうか。あの人は一体なんであんなに性格が悪いんだろうな」

ツネ子おばさんと聞かされた父親は遠慮なくしかめっ面をし、コーヒーをぐいっと飲む。そしてに全員分のお茶を入れてくれと頼むと、また肩を落とした。

「それで気になって謄本なんかもらってきたのか」
「それをもらったのは中学生の時で、自分ひとり誰にも似てないと思ったせいもある」
「そうなんだよな。お前は花形さんにそっくりだから」

とうとう父親の口から「花形」という言葉が出てきたので、は急須を取り落としそうになった。しかもこの口ぶりでは、互いをよく知る間柄のようではないか。

「でも、もう花形さんのところには行ってきたんだろ。全部聞いたんじゃないのか」
「一応は。でもふたりからも聞いておきたいんだ」
「まあ、そうだな。自分自身のことなわけだし」

がお茶の入ったカップを差し出したところで母親の方も深い深呼吸と共に両手で顔を拭い、くにゃりと背中を曲げた。疲れてまっすぐ伸ばしていられないという様子だ。

「何を聞きたいんだ?」
「ピンポイントじゃなくて、全体像」

既に「花形征夫」という人物からは話を聞いているのだし、それを補いたいのだろうか……と父親は考えたらしい。だが、透の言葉に母親が顔を上げた。

「あんたは頭がいいから、感情的な話をしたいわけではないのよね。だから、私たちの、花形さんとは違った視点の顛末を知りたいんじゃないの? どういうことだったのかっていう」

透が頷くので、父親も息を吐きながら頷いた。感情的な話をするつもりがなくても、感情についての話をすることには変わりがない。妻の言うように透は頭脳明晰で冷静な性格だが、そんな人物にも地雷がまったくないというわけではなかろうし、それは少ししんどい。そんな顔をしていた。

「まあもう聞いてるだろうけどいいよね、私たちは長く子供が出来なくて、結婚自体も早い方じゃなかったし、子供が出来ないまま2年が過ぎた頃から親戚中に突っつかれ始めてね。それで逃げるようにしてこっちに引っ越してきたんだけど、それがあのペンギン公園の近く」

むしろこの具体的な話が初耳のの方がハラハラしている。親戚と言うけれど、それはどっちの親戚なんだろう。曾祖母始め父方は一見仲が良さそうに見えるが、ツネ子おばさんというモンスターが潜んでいたりもするし、母は一体誰に子供が出来ないことをなじられたのだろう。

「そのアパートは古くて、専用のゴミの集積所がなかったの。だから地域の集積所に混ぜてもらえることになってたんだけど、朝お父さんがゴミを出す時に、花形さんとよく会ってたのよね。それで花形さんが産科医だってことを知って、つい聞いたのよね、お父さん」

なかなか子供が出来なくて肩身が狭いんだけど、どうしたものかと打ち明けた父親に、花形氏は一度ふたりでいらっしゃいと勧めてくれたそうだ。だが、検査の結果、特にどちらも異常らしい異常が当時は見つからず、しかしふたりは仕事が忙しかったので、たまに診察を受けては花形氏の指導の元、様々な妊娠法にチャレンジしていた。

「まあ、今となってはどっちも疲れとストレスでとてもじゃないけど健やかに子供を育める状態じゃなかったんじゃないかな、と思うけどね。だって結局は授かったんだし」

母親はお茶を啜りながら鼻でフンと笑った。きっと子供が出来ないことであることないこと素人考えで「アドバイス」をたくさん受けてきたんだろう。だが、結局そんなものは何の役にも立たずにを授かった。花形氏の指導は実を結んだと言えるかもしれない。

……でも、また『その頃』はちょうど忙しい時期に突入したもんだから、私も自分の体のことなんか気にしてる余裕がなくて。家は近いけどしばらく先生のところに顔出してないな、と思いつつ、時間がかなり空いたのよね。その間に、あんたのご両親は亡くなってた」

事故だったそうだ。花形征夫氏は透の祖父で、戸籍に名のある両親は既に他界していた。祖父に当たる征夫氏が産婦人科の開業医なので、透の両親はよく息子を預けていたという。まだ歩けもしない息子を預けて車で外出したふたりは、歩道から飛び出てきた自転車を避けようとして反対車線にはみ出し、そこに大型車が突っ込んできた。透の両親だけでなく大型車の運転手も死亡、飛び出してきた自転車の主は今でも不明だということだ。

「じゃあどうしてうちで引き取ったの……?」
……その時は、いっぺんに色んなことが起きたから、ほんとに大変で」
「うちにご縁が出来たのはたまたま、なんだけどね」

つい口を挟んだに、ふたりは苦笑いでお茶をすすった。

「そのあたりの詳しい事情は聞かないままなんだけど、透の母親の実家の方はどうも古くて格式のあるお家だったとかで、引き取り手がなかったらしいんだ。でも幸い花形さんは奥さんに先立たれてたけど開業医だし、医院には女性がいっぱいいたし、おじいちゃんが育てることになったんだけど、その時既に花形さん、ガンでね」

はまたつい「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。

「なもんで、さあどうしよう、透を育てながら自分の治療なんてどうすればいいんだろうって花形さんは途方に暮れたんだけど、実はその頃『さくらやま産婦人科』には奥さんに先立たれてた花形さんを長いこと慕ってた看護師さんがいてさ」

彼女は、すわこれは私の役目だ、先生を支え、透ちゃんを育てるのは私しかいないと思ったらしい。

「その人は、付き合ってたわけじゃないんだよな?」
「やっぱりそこんところは詳しく聞いてないか。そう、つまりただの片思いだな」
「だけど自分が慕ってるのは知ってるはず、プロポーズしてくれるはず、って思っちゃったらしくて」

当時花形氏は既に孫がいるような年頃だったわけだが、医院に勤務していた看護師の女性はそんな夢に取り憑かれてしまっていた。だが、もちろん花形氏がそんなことを考えるはずもなく、彼は勤務医だった頃の同期のつてで開業を目指している産科医を何人か紹介してもらい、自分が治療に専念する数年の間、練習と思って医院を引き受けてくれないか、と頼んでみた。

すると、その中のひとりが、いずれは実家の医院を継ぐつもりだが、父親がまだまだ現役で勉強になりそうもないから、修行と思って引き受けたい、と言ってくれた。なので花形氏は安心して医院を預け、また治療は知人を頼って融通を利かせてもらい、例の老婦人が話していた菊田さん他、医院に勤める「子育て経験のある」人に透の子育てを手助けしてもらうよう、話をつけたのである。

夢見る片思いの彼女は子育て経験がなく、完全に蚊帳の外だった。

「そのお向かいのおばあちゃん覚えがあるなあ。私も話しかけられたことあるけど、確かその頃息子が単身赴任で中部の方までよく通ってたとかで不在だったんだろうし、あとでご近所の人にも教えてもらえなかったんじゃないかしら。言いふらすような話じゃないし。でも大変だったのよ」

プロポーズも結婚も透の子育てもないと知った片思いの彼女は、キレた。そして医院の中で暴れた。

「表の看板ボロボロに壊れてたでしょ、あれ彼女がブッ壊したのよ」
……暴れるってレベルじゃないじゃないか」
「花形さんが休憩中に庭で素振りしてたゴルフクラブがあったんだよ」

さくらやま産婦人科はパニック、昼間のことで近所にも男性がおらず、医院の周囲もパニック。そんな中、医院に勤める女性たちは医院の中にいた母子を守らんと必死の抵抗を続けた。おかげで外来含め怪我人はゼロだったのだが、正気を失った彼女の憎悪は最終的に透へ向いた。

「たぶんその菊田さんじゃないのかな、お前を抱えて逃げたんだよな」
「あの人も当時はもうそれなりの年だったはずだけど、花形さんの家まで走って逃げてきたのよね」

途中、少し道を逸れれば派出所もあったし、消防署もあったわけだから、そういうところで助けを求めればよかったのだが、菊田さんもパニックだったので、とにかく透を安全なところにと思うあまり、全国大会に出るようなバスケット部員の高校生が30分かかる距離を赤ん坊を抱えたまま大爆走、1時間とかからずに逃げ帰ってきた。

「そこでたまたま体調不良で休んでた私と鉢合わせ」
「外来で見たことあるし、院長の個人的な知人だと知ってた菊田さんは透をそのままバトンタッチ」
「参ったわよね、あの人そのまま走って帰ったんだもん」

母親は腕を組み、下を向いて肩を震わせて笑った。時に母性は恐ろしい力を発揮する。

「慌てた母さんから連絡が来て、具合が悪いのにどこの子だかわからない子をどうしたらいいんだって泣きつかれて、オレも慌てて帰ったんだよな。で、警察に連絡して、医院の事件のことを聞いたんで、ひとまず赤ちゃんは預かっておきますってことになったんだけど、つまりその時お母さんはを妊娠してたんだ。だから体調不良を感じて休んでた」

だが、そうとは知らずに透を預かっていたのだが、状況は関係者が考えていたより悪かった。まず医院はゴルフクラブでメッタ打ちにされたせいで殆どの医療機器や器具等が破壊され、診察不能状態に。花形氏は事件について警察に事情を聞かれている傍ら、なんとか医院を存続させようとしたのだが、彼自身にタイムリミットが迫っていた。みんなすっかり忘れていたけれどガンだった。

医院の後始末はスタッフが全力であたってくれたおかげですっかり片付いたのだが、気付けば花形氏は手術を終えて抗癌剤治療に突入していた。そもそも彼の妻、透の祖母に当たる人物は既に亡く、息子夫婦も他界したばかり、彼もひとりで戦っていた。

「やっぱりそれを支えていたのは医院に勤めてた人たちだったそうだけど、それぞれ家庭があったし、医院が廃業になってしまったことで勤務先も変わって、おそらく家が近所だっていうんで勤めてたその菊田さんしか残らなかったんじゃないかな。彼女は確か事務のパートさんで」

誰も透を引き取れる人がいない。そういう状況だった。

……正直言うと、半ば勢いだったんだ」
「だろうな、それじゃ」
「まさかその時既にがお腹にいるとは思わなくて」
「いつ気付いたんだ」
「事情が事情だからトントン拍子にあんたを引き取る手続きが進んでね」
「で、養子縁組が完了した数日後にこの人倒れたんだ」

今度は父親がパニック。だが、慌てて救急車を呼んだらまさかの妊娠である。

……正直言うわね、さあどうしようって思って血の気が引いた」
「そりゃそうだ……
「だけどまさか妊娠したのでやっぱり引き取れませんとは言えないだろ」
「初めての妊娠なのに並行して赤ちゃん育てるの!? って私もパニック」

ふたりとも薄笑いだが、よほど大変だったのだろう、うまく笑えていない。

「それ、どうしたの」
「おばあちゃんが手伝ってくれたのと、オレたちの会社がどちらも見かねて助けてくれたんだ」
「だから私たちは定年まで社に尽くすと決めてるの」

母親の方の産休は問題なく取得できたし、その上養子である透を産んだとみなしてもうひとり分産休を上乗せしてくれた。さらに父親の方の会社はちょうど積極的に育休を取ってもらおうという活動中だったこともあり、社内報の取材やインタビューに応じることを条件に期間を増やしてくれた。

「だけど花形さんの家が近かったから、引っ越そうって話になって」
「引越し先は花形さんにも知らせないことにして、あのアパートを出たんだ」

それが同じ地域の中の引っ越しだったのは、どうしてもこの土地がふたりの通勤に便利だったからである。そうしてあのペンギン公園の記憶は透の頭の中だけに残った。は覚えていない。

さて、これでふたりが幼くて記憶にない頃の話は終わった。透が一体どこから来た養子だったのか、なぜ引き取られることになったのかということは全て説明がなされたと言えよう。だが、問題はここから。というか透との本題はここからの方なのだから。

ふたりが血の繋がりのない男女であることは証明された。とはいえそれを盾に恋愛関係にあることを認めろ、と詰め寄りたいわけではなかった。既に深い関係であり、そのためにこうして透の出自を明らかにしようと決めたのだし、許可は求めていない。

父親と母親が許そうと許すまいと、ふたりはもう兄妹に戻る気はない。それをどう伝えたものか、それを悩んだだけだ。すると、さてどう話を切り出そうか、と躊躇っていた透との目の前で、母親がゆったりと微笑んだ。

「これでこっちの話は終わり。今度はそっちね。あんたたち、付き合ってるんでしょう」

ここからが正念場だぞ、という意気込みとともにお茶を口に含んでいた透とは、ふたり揃ってそれを吐き出し、は飲みかけていたお茶が気管に入ってしまい、激しくむせた。

なんでわかったんだ!?

「いつかこういうことが起きるんじゃないかと思ってたけど、やっぱりね」
「や、やっぱり……!?」
「これでも18年間お前のこと育ててきた親だからな。そんな気はしてたんだよ、昔から」

吐き出したお茶の始末で慌てる息子と娘を見ると、ふたりはまるで微笑ましい子供のいたずらを見つけた時のように、鼻で笑った。不愉快に感じているようには見えなかったけれど、さりとて軽い気持ちで歓迎するつもりもないようだ。透の鼓動が早くなる。

「だから他人になりたくて、こんなことした。そうでしょ」

それはどちらかというと、安堵の表情だった。透は布巾を手にしたまま、頷いた。

「ああ。オレは……花形透に、戻りたい」