熱帯夜

7

インフルエンザで一時帰宅をした透だったが、寮に戻って以降またぷっつりと連絡を絶った。

翔陽でも一応保護者を交えての進路相談というものがあるわけだが、透の場合は既にバスケットの強い大学から推薦の打診が来ているし、部活漬けだというのに成績は良好で、もしスポーツ推薦が叶わなくても進学するだけなら何の問題もないですね、で終わった。

というか面談の日でも部活はあるので、練習着にジャージを羽織っただけの透は父親とはさっさと別れて体育館に戻る。父親の方も透の進路に関しては特に口を挟むつもりもないようで、もし推薦の話が立ち消えたら、その時には改めて話そうか、とだけしか言わなかった。

そりゃそうだろうな、もし特待が取れたら学費が何割か、うまくいけば全額免除になることだってあるかもしれない。そしたら寮費と生活費だけでいい。その結果オレがどんな大人になろうと、構わないんだろうな。どうせ他人だし。

そんな風にまた気持ちが腐ってしまった透は、高校最後のインターハイをかけた予選なのだから、の一点張りで、たまに父親から着信があっても応じず、後でメールで「忙しくて出られない、何の用?」と返すだけという日々が続いていた。

去年も一昨年もインターハイには出場したが、1年生2年生ながら納得の行く結果ではなかった。自分が3年生の今年はそうはいかない。インターハイの前にどうしても県予選で優勝したかった。腐る心もへの思いも、全部頭の片隅に押し込めて、今はバスケットのことだけを考えていなければ。

だが、そう意気込んだ透、そして翔陽高校は、実に十数年ぶりとなる予選敗退となった。

予選の次のステージである決勝リーグも、インターハイを控えた部にだけ許されるテスト期間の練習も、夏休みの課題の一部免除もない。夏休みに入ったら一応合宿には行くが、その内容は毎年必ず行われてきたインターハイ対策ではないだろう。

透たち3年生の夏は、始まる前に終わってしまった。

さしもの透もこれには参ってしまい、こっそり観戦しに行っていた父親が心配して翌週末に無理矢理連れ帰ってきた。透の方も部や寮では平静を装っていられたけれど、実家に戻ってきた途端に辛うじて保っていた気持ちがバキバキに折れてしまい、強制送還された金曜の夜は部屋から出てこなかった。

翌土曜日には慰めるつもりなのか両親が昼から焼き肉食べ放題に誘い出し、また透は「昔と何も変わらない穏やかな家族4人」に陥っていた。とも普通に話せる。

「でも別にインターハイ行けなかったからって推薦が飛ぶわけじゃないんでしょう」
「それはどうかな。実績がないものを特別枠に入れるとは思えないけど」
「チームの実績と個人の能力はまた別なんじゃないのか?」
「だといいんだけど」

大学の推薦は無理かもしれないと言い出した透に、両親は代わる代わる慰めるようなことを言ったけれど、その言葉には多分に「だとしたら進路はどうなるんだ」とやきもきしている気持ちが滲み出ていた。そんなのオレだって知りたい、と透は思いつつ、全て濁した。

どんな話も、3年生の成績如何では、という前書きがついていた。それは今年の主将で監督の部長でも同じことだった。個人単位では飛び抜けて優秀なプレイヤーでも、特別枠に迎え入れるには説得力というものが必要だ。彼の推薦が消えることはなくても、透以下今年の主力の3年生は今とても危うい立場にある。万が一全ての話がご破算になったとしても、そこから志望校に合格できる可能性があるのは透だけだろうし、そういう意味でも今年の翔陽は屋台骨が崩れてボロボロになっていた。

ふた晩やそこら実家で休んだからとて、そういう不安定な状態は何ひとつ解決しないわけだが、ひとまず焼肉ランチから帰った午後は両親と今後の可能性について話し合いができたし、状況によっては年末の大会まで引退しないということも説明できた。

そういうわけで透は翌日曜日の午後に寮に戻る予定になっていた。父親が送ってくれると言うし、また母親が保存の効く食材などを用意してくれたので、それを持って帰る予定。インターハイもないことだし、久々に期末で本気出してみるか……と考えていた。

その日の夜、透はと一緒に居間でゲームに興じていた。最初は確か母親も一緒にやっていたのだが、彼女は久々にゲームに熱中するあまり、酒を飲んでしまった。息子と娘をコテンパンに負かして飲む酒のなんと美味いことよ。そしてその息子にお姫様抱っこで寝室へと搬送された。

「なんでビール飲むの止めてくれなかったんだ……
「気付いたら飲んでたんだもん、しょうがないでしょ」
「もう寝ちゃったからブレスケア飲めないじゃないか。まったくもう」

この夫婦、母親の方は酒好きだが父親の方が下戸な上に酒の匂いが苦手。缶ビール一杯でも臭うと言って、彼は3畳ほどしかない書斎という名の物置に引っ込んでしまった。入梅目前だが肌寒いくらいの気温が続いていたし、今日はそこで寝てしまうという。

「ふたりとも、どう慰めていいのかわかんないんだろうね」
「そんなに気にすることないのに」
「放ったらかしてるような気がしちゃうんでしょ。子供の頃は平気で放置してたのに」

そんなわけで、リビングに残されたふたりはまた白熱したゲームに戻り、レースゲームでが2勝上げたところである。何でもそこそこ器用にこなす透だが、実はゲームはそれほど上手くない。も熱心にやるタイプではないので、本来的には腕は互角。

「今考えるとよくあんな小さい子残して外に出てたよな」
「そりゃお兄ちゃんがちょっと特殊だったからでしょ。私だけだったら無理だよ」
「そうか?」

透にとってそれは、の面倒を見たいがためにこなしていたことである。自分がしっかりすればとふたりで留守番ができる。そうしたらその間はずっとと遊んでいられる。が甘えてくるのは自分だけ。独占欲が故のしっかりもののお兄ちゃんだった。

「だから、私たちがいなくてもきっと大丈夫なんだろうなって、思っちゃうんだよ」
……どういう意味?」
「お兄ちゃんが困ったり、迷ったり、失敗したりっていうことが、本当に少なかったから」

自分の人生なのでピンと来ないが、確かに他人と比べるとそつのない子供時代を送り、この高校競技にとって1番大事なシーズンである3年生の夏を逃すという大きな敗北に見舞われるまで、挫折らしい挫折はなかったかもしれない。

強いて言えば自分だけが血の繋がらない家族で、養子で、それを未だに隠されていることくらいだろうか。おかげで妹に恋心を抱いて苦しむ羽目にはなっているが、これは失敗や挫折ではない。

「そういうのって結局自分自身の心の問題だったりもするからな」
「まあ、そういう人だよね、あなたは」
「他人がなにか一言言ったくらいですぐに浮上出来るくらいなら、そもそも落ち込まないよ」
「それはそれでめんどくさい人だね」

はへらへらと笑ってジュースのペットボトルを傾けた。ピンク色の液体が音もなく流れ込んでいく。それを視界の端に入れながら透はコントローラーを投げ出して顔を逸らした。携帯を取り上げて意味もなくメッセージアプリを確認する。

そういう人、あなた、めんどくさい人。まるで大人の女の口ぶりだ。ピンク色の液体が唇に残ってリップグロスのように光る。ペットボトルを持つ手の指先に少し伸びた爪は柔らかい桜色で、唇の色に映える。それはまるで自分を欲情させるための演出なのではと疑心暗鬼になってしまう。

……進路、自分ではどう考えてるの」
「どうって?」
「高校の結末、どんなだったら一番良かったの?」

疑心暗鬼にざわつく心がピタリと止まる。高校3年間の結末って……

「そりゃ……予選で優勝して、インターハイに出て、そこでも優勝して、推薦が決まって、だから引退しなくても良くて、国体にも出て、冬の選抜にも出て、それも優勝して」

言いながら、透はぼんやりと思い描く夢想の中で栄光に包まれた自分を見ていた。そしてその隣に音羽東ではなく翔陽の制服を着たがいた。歓喜にはしゃぐの手を取り、抱き寄せる。は恥ずかしそうにはにかんで、頬にキスを――

「だけどそんなの、ただ自分に都合のいい妄想でしかないだろ」
「そういう妄想と現実を比較したとき、納得できる妥協案は?」
「妥協? どうしたよ、理屈っぽいな」
「お兄ちゃんは感情以前に理屈で納得出来ないことは受け入れられないでしょ」

挫折にささくれ立つ心にの言葉がチクリと刺さる。ずっとそういう人間だった。自分の感情だけで喚くだけの人間はあまねく小馬鹿にしてきた。根性論で事が成る時代はもうとっくに終わっている。

だがどうだろうか、負けてしまったことは覆らないし、何をどう分析しても敗北した試合の対戦相手は「理屈に合わない」状態だった。もちろん録画で試合を振り返りながら敗因を探ったけれど、自分たちはまっとうな試合をしているようにしか見えなかったし、対戦相手の方はどうにも挙動不審で正体がつかめない。何度か試みたところで透たちは分析を諦めた。だめだこりゃ。

自分たちの判断やプレイに明らかなミスでもあれば納得できるのも早かっただろうが、特に透の場合の言うように、事象は「1+1=2」にしかならないわけで、それが1だの3だのになるような事態に直面すると飲み下すのに時間がかかる。

透はそれに思い当たると、少し背中の重さが取れたような気がした。

そうか、こういうのがオレの頭の固さってことなんだろうな。

「妥協、なあ。チームとしてはもう一度チャンスがほしいけど」
「それは冬の大会?」
「そう。国体はまあ、また海南が行くんだろうけど、12月の大会だな」
「てことは受験があったら無理な大会だね」
「そう。だからこの際自分が納得できるような所じゃなくても推薦がほしい、かな」

納得できるようなところではなくても、という前提がある時点でまさに「妥協」なわけだが、そのあたりで手を打たないともう他に自分と折り合いをつける方法がなさそうだ。

「お兄ちゃんの場合今引退しちゃえば充分受験に間に合うと思うし、そうしたら納得の大学でバスケできるかもしれないけど、それでも翔陽のチームでリベンジする方を取るの?」

――そうか、別にどうせ高校生の間だけのチームなんだし、その先のバスケットのためにさっさと割りきって切り捨てることより、今この翔陽のチームで戦いたいという感情の方が強いのか。「理屈」で考えたらもう引退してバスケット名門校を一般受験でもすればいいはずなんだろうけど……

……自分ひとりの栄光よりも、チームで勝ちたいと思ってるのかも」
……変わったね、お兄ちゃん」

無意識に顔を上げると、の横顔がゆったりと微笑んでいた。

それはお前の方だろ? いつの間に理屈でしか物事を受け入れられなかったオレの感情が落とし所を見つけられるように誘導なんて、するようになったんだ。理屈ばかりになりがちなオレの中にある「理屈じゃない」感情を探し当てて、優しく引っ張り上げてくれるなんて、そんなことどこで覚えたんだ。

こういうこと、オレじゃない他の誰かにもやってるんじゃないだろうな。

「将来は何になりたいの? プロのバスケ選手?」
「えっ、いやそこまではまだ何も……
「そういうのよくないかもしれないけど、もしバスケ選手になれなかったらどうしようかとか」
……まだ、そういうのは」
「ほら、それも変わったよ。昔だったらそういうのを最初から用意してたと思わない?」

言われてみれば。それはいかに小学生の頃の透が頭でっかちだったか、ということでもあるのだが、確かにそういう「先を見据える」ということを翔陽に入ってからはすっかり忘れていたような気がする。毎日は目の前にあるバスケットだけで目一杯、のことも忘れたくて別の女に逃げてばかり。

でも、今の目の前のことしか見えない自分も結構好きだな。そう思っていたら、

「なんかちょっと寂しいな〜! もう私の知ってるお兄ちゃんじゃないみたい」

そんなの言葉に「理屈じゃない感情」は勝手に透を動かした。

膝を抱えて揺れていたの腕を掴んで引き寄せ、背中に腕を差し入れる。背骨の1番深く沈んでいる場所を支えると、勢いは体を反らす形になる。まるで古典的なプリンセスストーリーのワンシーン、は驚いて目を見開いた。

けれど、は驚いた目をしていたけれど、それでも瞬間的に兄を突き飛ばして「何すんの!」と言わなかった。ただ透の腕に添えられた手がぎゅっとTシャツを掴んだだけ。

理屈じゃなかった。

戸籍謄本を見てしまったあの日からずっとずっと押し込めてきた強い感情だった。

変わってなんかいない、お前の知ってるお兄ちゃんは、ずっとこうしたかったんだよ。

透はそのまま頭を落としてにキスをした。

無音の世界、蛍光灯の明かり、そこにあるのは唇に感じる温かさだけ。

ほんの数秒のことが永遠の時間に感じられた。ふたりとも息を止めてしまっていたので、今度は離れるなり顔を逸らして荒く呼吸を繰り返した。息を止めていただけでなく、そうでもしないと頭が爆発しそうだ。激しく脈打ちすぎて、心臓が壊れそうだ。

それが少し落ち着くと、透はを放り出し、くらくらする頭を押さえて膝を立てた。

……ごめん、やっぱり無理だ、変わってない、無理だよ」

突然キスされて突然放り出されたもぐったりと横座りになって頭を押さえている。

「買い被りすぎだ。オレは将来のことなんか何も考えてない。感情に振り回されてばっかりで、その度に理屈を理由に逃げてるだけ、自分の感情が怖くて理屈で縛り付けてるだけだ。本当は何ひとつわかっちゃいないし、コントロールできてないし、そんな程度の、どうしようもない、男だから」

への思いに気付き、それが血の繋がりのない他人への感情だと判明してから今に至るまでの、心からの本音だった。先を見据え、将来を先読みし、漠然とでも人生の計画を立ててしまったら、そこにはがいられないことを認めてしまうことになる。

子供の頃はもっと単純だった。いつか家族でなくなれる方法を探して、そしてと結婚しようと思っていた。真っ白なウェディングドレスを着たをお姫様抱っこしてキスをしよう。そう思っていた。それはしっかりものの自分なら出来ると思っていた。

けれど、実際本当に血が繋がっていなくても、果たして兄妹として育てられた男女が恋愛関係になることを、世間は無関心に流してくれるだろうか。透にもにも、まだ高校生のふたりにも「知り合い」というものは少なくない。

まるでどこにでもいるカップルのように手を繋いでくっついて、地元駅を歩けるか?

その時壊れるのはふたりだけじゃない。父も母も、近い関係にある家族も、みんな壊れるのだ。

いくらお兄ちゃんの方が養子だからって、赤ちゃんの頃からずっと兄妹だと思って暮らしてきた相手のこと好きになるなんて、ちょっと普通じゃないよね。てか異性のきょうだいのことなんて「いいな」とか思う? 普通キモいよねそんなの。無理無理、変態じゃん。

お父さんとお母さん、可哀想に。ふたり揃って親不孝者なんて、ほんとに可哀想。

好きな人を好きだと思うことは、悪魔の所業だった。

「ほんとに、ごめん。もう、帰って、来ないから」

泣きそうだった。人を想うという幸せな感情を全て否定しなければならない運命を呪った。

「二度と、お前の前に、現れないから、忘れてくれ。どうせ本当は他人なんだし、兄貴なんかいなかったって、一緒に育った兄妹なんかいなかったって思って、そう、思って、忘れてくれ」

そう言うと、透は携帯を掴んでリビングを出ていった。部屋に戻り、真っ暗なままベッドに潜り込んで携帯の電源を落とし、枕の下に頭を入れて目を閉じた。

やがてズルズルと引きずるような音とともに隣の部屋のドアが閉まる音がした。も部屋に入ったらしい。そこからは、再度無音の世界だった。

よかったんだ、これで。今こうして壊れておけば、もう大丈夫だ。そして早めに独立の道を探してと、父さんと母さんの前から消えよう。それが1番丸く収まるはずだから。には可哀想なことをしたけれど、でももう終わる。全部終わるから。

そう自分に言い聞かせた透はしかし、ツネ子おばさんに「あんたは貰いっ子なんだよ」と聞かされてから10年間の思い全てが詰まったたった一度のキスの余韻に体中が幸福を感じていた。あれを、ファーストキスだと思って、生きていこう。その他のキスはキスじゃない、たぶんジェスチャーか何かだ。

翌日、透が目覚めたときにははいなかった。どうしたと尋ねたわけではなかったが、母親が友達に呼び出されて出かけてしまったと言って呆れていた。これでいい。もうこれでいい。

そうして寮に戻った透は憑き物が落ちたように穏やかになり、特に近い関係の部員からは少々怪訝そうな目を持って迎えられたけれど、月末には自分たちが出場できなかった決勝リーグを観戦できるまで回復した。目の前の現実を受け入れられるようになってきた。

期末テスト、夏休み、合宿、練習、練習。目の前のことだけで精一杯だ。

また帰省しないままのお盆休みを迎えた透は、帰省で静まり返っている寮で淡々と課題をこなしていた。今年同じクラスになった女子に遊びに行こうよと誘われたが、とてもそんな気分にはなれなかった。適当な言い訳をこしらえてそれを断ると、また少し気が楽になった。

インターハイ出場が飛んだ今年は課題の免除はなし、既に2年間免除されてきてしまった経験のある3年生は全員呻いていたが、期末テストで学年1位を奪取した透に死角はない。この日も朝から課題を片付けにかかっていて、そろそろ日が暮れようとしていた。真夏のきつい西日が窓の外の世界をオレンジ色に染めている。

すると、ドアをノックする音が響いてきた。

誰だよ、課題の手伝いならしないぞ。そう考えながらドアを開くと、息がしづらいほどの熱風と夕焼けのオレンジを輪郭にまとった外廊下に、やけに小さい人影が佇んでいた。

眩む目を細めた透は息を呑み、思わず口元を手で覆った。

……私も、無理だよ」

オレンジ色の夕日の中で悲しそうに笑っていたのは、だった。