熱帯夜

4

兄の透が進学で家を出ると聞かされた時、はみぞおちの辺りが下の方にぎゅっと引き下ろされるような錯覚を覚えて血の気が引いた。

お兄ちゃんが、いなくなっちゃう。

その言葉だけが頭の中を渦巻き、兄にとって1番の存在であるはずの自分に何の相談もなく、何の言葉かけもなく、完全な事後報告で家を出ると決められてしまったことに絶望した。いつの間に兄は私をそんな風に蔑ろにすることを覚えたのだ。

そりゃあこれまでも兄は何かと言うと妹に相談して決める、という人ではなかった。自分のことは自分で決めてきたし、そこに妹の意思は関係なかった。けれど、例えばミニバスをやりたいと思っていた時も「バスケやりたいんだけどお母さんがいいよって言わないんだよな」なんていう日常的な報告はあったのに。少し遠い高校を考えてる、くらいのこと、なぜ教えてくれなかったんだ。

もし話せば私が反対するから? 私が反対しても兄は一度決めたことを翻したりはしないはずだ。

つまり兄にとって進学と同時に家を出るということは、妹には事後報告で済ませばいい程度のことだったというわけか。は兄の心がぷっつりと自分から離れていってしまった気がして、報告を受けてから数日は足元が覚束なかった。それまで自分を取り巻いていた兄の愛情というものがなくなってしまって、体がフワフワしているような気がした。

中学3年生に進級したは空っぽの兄の部屋の静寂に耐えながら、受験生になった。高校受験の時は兄に勉強を教えてもらうものだとばかり思っていたので、自室でノートを開くのですら寂しくて仕方なかった。

家を出てしまった兄は高校生活が楽しいのか、連絡を寄越すことも激減し、たち家族は彼が夏にインターハイに出場したことすら後で知る始末だった。本人に言わせると「まだ1年生でベンチにも入れないし、会場に着いていっただけだから」だそうだが、そういう問題だろうか。

その上、夏休みは帰省しないと言ってきた。寮が閉まるわけでもないし、先輩と海に行ったり寮生仲間で花火を見に行く予定があるから帰っても家にいないし、と説明されたが、そんな兄の言葉にはまた疑問を感じた。そういう問題だろうか。

お盆休みで練習が休みになる数日間、全て帰省して過ごせなんて父も母も自分も言ってない。だけど1日くらいは帰宅して家族と過ごし、高校生活のことや部活のことを話してくれてもいいじゃないか。私だって、どの高校を受験しようと思ってるとか、そういう話、したいのに。

これには両親の仕事が忙しいことが災いして、まあ寮にいられるっていうならそれでもいいか、親や妹より友達と過ごす方が楽しいだろうし、なんと言っても高校生、青春真っ盛りだからね――と親は気楽に受け止めていた。普段の透の生活態度が問題ないので余計に信頼してもいた。とうとう透は年末年始も帰省せず、家を出たきり一度も自宅には戻らないまま2年生に進級した。

そういうわけで、この中学3年生の1年間はにとって「暗黒時代」となったわけだが、ともかく兄のいない1年間を耐えて無事に志望校にも合格、真新しい制服を兄に見てもらうこともないまま、も高校生になった。

高校生活が無味乾燥――というほどではなかったけれど、兄のいない生活が寂しいことは変わらず、さてこの兄への思慕から抜け出せない自分をどうコントロールしていこうかと悩ましい日々を送っていた。1学期末には再度「誰?」という男子から付き合ってほしいと言われて、しかし兄への思いを捨てるべきなのかと悩むは返事を保留していた。

そんな時のことである。もすっかり忘れていたのだが、父方の田舎の曾祖母が97歳の大往生で、お盆休みに親戚一同で法要を兼ねて集まろうという予定になっていた。そこに兄もやって来ることになった。というか父親に小言を言われて渋々やって来るらしい。

聞けば今年もインターハイに出場するらしいのだが、また本人は「基本ベンチ、出場するかどうかはわからないし、飛行機の距離だから来なくていい」だそうで、に電話を替わることもなく話は終わってしまった。

そんな兄とは実に1年数ヶ月ぶりの再会となるわけだが、ずっと慕ってきた兄に会いたいという期待と、もう以前のような兄ではないかもしれないという不安の両方がの胸のうちに渦巻いた。

顔を合わせるなり携帯を取り出してSNSの画面を表示し、ろくに会話もしてくれないような人になっていたらどうしよう。話が出来たとしても、バスケ部は順調で彼女がいて毎日楽しいなどと聞かされたらどうしよう、だけど会いたい、兄に会いたい。

兄と会えることが決まってからというもの、の心には兄しかいなかった。真剣な顔をして「オレとは結婚できる」と言っていた兄に、会いたかった。

そしては返事を保留していた男子に謝罪とともに断りを入れた。

ごめんなさい、どうしても忘れられない人がいます。だから、付き合えません。

田舎と言っても県内で、より内陸部の自然が多い地域のことでしかないのだが、曾祖母の家はそんな地域でも珍しくなった田舎家で、都市部に暮らす彼女の子孫たちはすっかり旅行気分で集まってきた。かつて養蚕業を営んでいたこの家はとにかく大きくて、7家族が集ってもまだ部屋が余っていた。

「横浜の港が開港してから、神奈川は養蚕が盛んだったのよ。この辺りも一面の桑畑だったらしいんだけど、戦後しばらくして生糸が売れなくなっちゃったのよね。それでどんどん廃業する人が増えて、この家も私が子供の時分にやめて、それっきり。私の父もはなから家業を継いでなかったしね」

は久しぶりに会う祖母からそんな話を聞きながら、しかし心ここにあらずであることを悟られないようにしていた。朝早くに自宅を出発して昼前には到着していただったが、父によれば兄は寮から直接やって来るとのことで、電車とバスと徒歩なので時間がかかっているらしい。

努めてソワソワしないように気をつけつつ、7家族分の昼食作りの手伝いをしていたは、その途中で母親に引っ張り出されて、手を合わされた。悪いんだけどバス停までお兄ちゃん迎えに行って! という。の心臓がギクリと軋んだ。

きっと兄はこの家までひとりでたどり着けると思ったんだろう。だが、も兄もこの曾祖母の家には車で直接乗り付けたことしかない。バス停を降りたところでその先がわからなくなって母親にヘルプを寄越したのだろうが、生憎現在昼食の準備で大人たちは手が離せない。

バス停からの道を知らないのはも同じだったのだが、昼前にやはり電車とバスと徒歩コースの親戚一家を祖母と迎えに行ったばかり。だからもう1回お願い! というわけだ。それに8月の炎天下、出来れば外に出たくない。若いの行ってきて!

ずっと兄を慕って過ごしてきた過去があるので、今さら嫌だとも言えず、急展開に緊張して冷や汗をかいてきただったが、それでも騒がしい家を出てバス停へと向かった。

住宅街から少し離れた曾祖母の家の周囲は桑畑から梅林になり、バス停の付近は今も少し残る農家が果物や野菜を育てているという。ひっきりなしに車が駆け抜け、各家庭から吹き出すエアコンの室外機の風がいつでも吹き付けるような住宅街で生活しているには、空気が澄んでいて爽やかな匂いが交じるような気がする。

兄に久しぶりに会うのだと思ったら、Tシャツに短パンにゴムサンダルなんていう服では我慢できなくなってしまい、は裾に刺繍の入ったオフホワイトのワンピースと、母親が目くじらを立てない程度のヒールのサンダルを買ってきた。

夏休みに入ったからさっぱりしたい、と美容室もねだり、小遣いをはたいてトリートメントをしてもらった髪は夏の風にサラサラと揺れている。化粧品メーカー勤務ながら母親は10代の肌に化粧を施すことには厳格なポリシーを持っており、に許されたベースメイクは日焼け止めのみ、その他はマスカラと薄付きのリップグロスのみ。それでもないよりはいい。

お兄ちゃん、変わったかな。変わってないかな。

私は変わったかな、お兄ちゃんの目にどんな風に映るだろう、きれいに映えるだろうか。

梅林を抜けたは、バス停に佇む巨大な人影に思わず足を止めた。

お兄ちゃん、また身長伸びたのか。一体いくつあるのあれ。だけど頭の形とか、肩の線とか、変わってない。背がまた伸びただけで、変わってない。子供の頃からサラサラで少し量の多い髪もそのままだ。

――いつから私はこんなに兄に臆するようになってしまったんだろう。子供の頃はもっと簡単だった。お兄ちゃんと呼んで、振り返って両腕を広げてくれる彼の胸に飛び込めばそれでよかった。今でもそうしたい。走っていってあの広い背中に抱きつきたい。

でも、出来ない。

世間の目があるからとか、高校生には相応しい振る舞いでないとか、の足を引っ張っている要因はいくつもある。けれど、その中でも1番の重い足枷は自身だ。子供の頃のようにじゃれついて、それを拒否されでもしたら。子供じゃないんだからふざけるなと引き剥がされたら。

そんな事態を考えただけで、恐怖に全身が冷たくなってしまう。だから、やらない。

は深呼吸をし、リラックス出来るように肩を上下させ、意識的に軽い足取りで兄の背後に迫る。

「おまたせー! 日陰がないから暑かったでしょ!」

その声に振り返った兄の顔を見た瞬間、の目の奥がグッと熱を持って、そして喉が詰まった。お兄ちゃん会いたかった、と言ってきつく抱き締めたかった。それを堪えていたを見た兄もまた、少し戸惑ったような表情をしていた。無理もない、約1年半ぶりだ。

……途中で水が尽きたけど、自販すらないって」
「あっちの通りを行くとすぐに大きな通りに出るらしいけど、ここ奥まってるからね」
「思ったより時間かかったし、Suicaの残額ギリギリだし」
「ご愁傷様、今日は小遣い一切なし協定が結ばれているようです」
「電車賃くらいは請求させてくれよ……
「交渉次第だろうね。思ったより人数多くてお父さんあんまり機嫌よくない」
「言わんこっちゃない」

と透はそんな風にとりとめもないことを話しながら歩き出した。久しぶり、とか、元気だったかとか、そんなあって然るべき言葉のやり取りはなく、まるで昨日まで同じ家で暮らしていたかのような、それはもはや少しわざとらしいまでの無意味な会話だった。

「ていうか私知らなかったんだけど、うちらのハトコって、激しいのが多いんだね」
「えっ、そうだったか? ほとんど会わないからなあ」
「お祖父ちゃんの告別式にも来てなかったし、その頃はまだ子供だっただろうし」
……ちょっと面倒だな。オレたちのこと詳細に説明されてないだろうな」
「そこは手遅れです」
「ダメか……

そしてさっさと他人の話に切り替える。曾祖母の子供に当たるの祖母たち世代がまず4家族、その下のたちの親世代の家族が3家族来ている。それで計7家族だが、その中にたち曾孫世代はふたりを含めて8人。全員未成年で、1番年下はだった。

厳密に言えばたちのハトコにあたる人数はもっと多いのだが、本日都合がついて集まった分だけでも8人。が見た限りでは、その中の4人ほどがヤンチャそうなファッションをしていた。うちひとりは左手首の内側に彫り物入り。

対すると透は少々毛色が違う。兄の方はバスケットで進学してインターハイ出場選手であり、成績も良好。妹の方も県南部の進学校。劣等感の強い大人がわざとらしく褒め称えたりしなければいいが……と透は危惧したのだが、そんなものは朝イチでブチ撒けられ済みである。

実のところ透の本来の偏差値はともかく、本日集まった曾孫世代の中で1番偏差値の高い学校に通っているのはである。なので早速それをイジられた。まあー、ちゃん音羽東に入ったの!? すごいじゃない! うちのなんか高校入ってから机に向かってるのすら見たことないのよ!

そして芋ヅル式に透の近況まで吹聴され、ふたりはすっかり「デキの良い兄妹」にされた。父親の方は無関心なようだったが、母親はどこか自慢げだった。

なので、到着早々透はハトコや親のイトコにあたる人々に取り囲まれた。透ちゃん、何か体が巨大化する薬でも飲んだの!? 普通の人間の大きさじゃないよ!?

「でもまだ2年生だから、試合にはほとんど出ないんですよ」
「そういうものなの?」
「うちは人数も多いし、オレの世代は背が高いのがたくさんいるので、そう簡単には」
「神奈川であとバスケ強いのってどこだっけ、えーと」
「海南ですか?」
「あっ、そうそう、そことかあとなんだっけ、武里なんかも強かったよな」
「武里は勝ったことあります。オレは見てただけだけど」

成績優秀でインターハイ出場選手、という看板だけで心を踊らせていた女性陣は、透があまりにも大きいので逆に気後れしてしまい、その代わり今度は男性陣に囲まれた。最近の県内の勢力図はどうなのよ? だいたいが県内出身の人ばかりなので、会話も弾む。

7家族分の昼食は、茹でても茹でてもおかわりを要求されるそうめんと天ぷら地獄、というブチギレ寸前の女性陣の奮闘によってなんとか終わった。夜は仕出しを発注してあるそうで、午後ナカには酒屋から大量の酒も届いた。そこにジュース類はなく、飲酒が出来ない曾孫世代はそもそも宴会の参加人数にカウントされていない模様。

それを不服として「つまんなくね?」と言い出したのは、曾孫世代最年長の19歳のハトコだった。

「てか別に酒くらいみんな飲んでるだろ」
「うるせーのがいるし、まあ、ツネ子ババアに絡まれても面倒だけどな」

酒なんか飲みませんよ……と苦笑いのと透だったが、ハトコ諸氏は酒宴の席から「子供」という理由で締め出されようとしているのが面白くない様子だ。だが、透と同学年のハトコが言うように、酒の席に混じればツネ子おばさんと同席することになる。それはちょっと嫌だ。

「てかうちのババアなんつったと思う、みんなでお庭で花火やんなさいよって、ガキか!」
「てかいつ頃から宴会なん」
「さあ、暗くなってからじゃねえの」
「今19時過ぎないと暗くならんだろ」
「したらオレらだけで出かけね? 確かバス通りとは反対の方は店多かったろ」

はどうやって口を挟もうかとハラハラしていた。いや、私とお兄ちゃんはそういうのいいです、とどう言えばいいんだろう。1番年下なのに。てかお兄ちゃんも黙ってないでなんか言いなよ!

だが、どんどん話を進めていくイトコたちに透は一切口を挟まず、曾孫世代は全員宴会が始まり次第徒歩でお出かけすることになってしまった。当然と透もだ。はそっと身を引いて声を潜め、兄に囁きかけた。

「どうすんの、これ」
「悪いこと出来る場所もないし、こっちの宴会よりはいいと思う」
「えっ、じゃあ着いていくの」
「何か遊ぶような店、あったか? 飲酒も喫煙も犯罪行為もやらなきゃ問題ない」
「大丈夫かな……

いまいち信用しきれないだったが、透は宴会に参加してツネ子おばさんの餌食になるよりはハトコたちと遊びに出かけた方がいいと考えているらしい。

「ね、ねえ、遊びに行くってどこに行くの?」
「ちょっと歩くけど大きなパチ屋があって、ゲーセンがくっついてんだよ」
「げ、ゲーセン……
「プリある?」
「前に行った時は何台かあったと思う」
「ねーねーちゃんプリ撮ろーよ!」

もうこれ以上ないくらいの「ギャル」である透と同い年のハトコに腕を取られたは、その迫力にカクカクと頷き、まあこうして女の子もいることだし、お兄ちゃんも一緒なら怖いこともないか……と納得した。

大人たちもゲームセンターの方なら構わないよと咎めなかったし、やはり一部では「透ちゃんがいれば大丈夫でしょ」と謎の信頼を寄せられていた。そもそも今回の曾祖母を偲ぶ会では親戚の子にお小遣いはやめよう協定が結ばれているので、子供たちは基本的に懐も寂しいし、既に社会人の最年長が財布を開くとは思えないので心配していなかった。

「お義兄さんによれば、パチンコ屋の方はともかくゲームセンターは夜になると人がいなくて閑散としてるそうだよ。隣にコンビニがあって、むしろそっちの方が若い子が集まるって言ってたから、そこだけ気をつけなさいね。行くなら必ずお兄ちゃんとふたりでね。あとジーンズ履いていくこと」

こちらも息子とは暫く振りである母はそう言いつつ、「まさかあれに喧嘩売ろうっていう人がいるとも思えないけどね」と言って笑っていた。この集まりはの父方の親戚筋ということになるが、あまり背の高い人はいない。自分たちの父親も含めてみんな中肉中背である。

当然、もいつか透が勘繰ったように、兄が養子かもしれない件を思い出す。お兄ちゃん、誰にも似てない。お兄ちゃんの他に背の高い人がひとりもいない。ハトコたちはもちろん、勉強得意な人が、ほとんどいない。お兄ちゃんだけ、異質。

これは母方の方を辿ってみても同様である。しかもそんな「誰にも似てない子供」がいる時の鉄板である「お母さん誰と浮気したの」というネタを誰ひとり口にしないのだ。他のことでならいくらでも下品な冗談を言うのに、それだけは聞いたことがない。他人は言うが、親類は言わない。

それはやはり、冗談にならないことだからなのではないだろうか。

曾祖母の思い出話に花を咲かせている大人たち、なにか共通の話題はないかと雑談に興じるハトコたち、縁側から見える梅林の向こうには住宅街、そして遠くに黒々とした山が見える。連なる山に影を落として沈みゆく夕日は赤く、夜は未だ遠い。

その中でと透だけが黙々と景色を眺めていた。

話したいことはいくらでもある。だけど話せることはひとつもなかった。

広大な居間の角に置かれたテレビでは、夕方のニュースの合間に天気予報をアナウンスしている。

今夜も気温は下がらず、寝苦しい熱帯夜となりそうです。

熱帯夜、その言葉がの肌にまた汗を滴らせた。

温度が下がらず、苦しい。私はもうずっと、熱帯夜のままだ。