熱帯夜

1

東京の下町に住むツネ子おばさんは、親戚中から煙たがられている人だった。

服装が派手でだらしなく、酒と煙草と男と賭け事が大好き。その上、人の悪口が大好きで、ほとんど面識のない人でも些細なことをバカにして囃し立てるのが好きな人だった。どういうわけかこのツネ子おばさんは人の性格や癖や好みを見抜くのに長けていて、なので余計に嫌われた。

「おばさん」と言っても、透にとってツネ子おばさんは「父方の祖母の姉」であり正しくは大伯母にあたる。だから普段は親しくすることもなかったし、親戚中が彼女を避けていたので一対一で話す機会などあるわけもなかった。

だが、透が小学2年生の時にその機会はやって来た。透の祖父が急病で倒れたのである。この祖父は父方の祖父で、ツネ子おばさんから見ると、妹の夫にあたる人だった。この人もツネ子おばさんの次に嫌われているという人で、入院中家族に当たり散らしては担当医にまで説教されるという始末。そこに透が家族で見舞いに訪れると、偶然ツネ子おばさんも見舞いに来ていた。

大声でわがままを言ってはベッドの上でじたばた暴れるので、祖父は個室に入れられていた。孫が見舞いにやって来たというのに、その目の前で祖母に物を投げつけ、罵詈雑言を吐く祖父を見た透の両親は、慌てて子供たちを廊下に出した。

祖父を宥めて祖母を引き離したいけれど、子供が――ふたりはそういう顔をしていたんだろう。ツネ子おばさんがニヤニヤしながら「あたしが見ててあげるから、あのジジイどうにかしておいで」というので、背に腹は代えられない両親は焦って子供ふたりを預けてしまった。

ツネ子おばさんは透とその妹を連れて病室を離れ、ナースステーションの近くにある談話室でジュースを買ってくれた。談話室の片隅には小さな本棚があり、妹はそこから絵本を引っ張り出して眺め始めたが、透はさてどうしようかと間を持て余した。

生来勉強が得意な透は絵本などとっくに卒業してしまって、興味もなかった。最近読むのは「対象年齢小学校中学年以上」とか「対象年齢小学4年生以上」とか、そんな但し書きのある本だ。ひとつ年下の妹も勉強は出来ない方ではないけれど、可愛らしい絵柄の絵本は眺めているだけでも楽しいんだろう。

そんな風に透が絵本を眺める妹を眺めていた時だった。お茶を啜りながらツネ子おばさんが話しかけてきた。彼女はなぜかずっとニヤニヤしていて、その赤紫色の唇の間からは黄色っぽい歯が覗いていて、透は顔に出さないように努めながらも嫌悪感を抱いていた。その上タバコ臭い。

聡明な透はしかし、ツネ子おばさんの酒焼けの声に臆することなくきちんと受け答えをした。やれ学校の成績はどうだの、お母さんは毎日手作りの料理をつくるかだの、お父さんは休みの日になると何をしてるのかだの、賢い透には彼女が何を聞き出したいのかすぐにわかるような問いかけばかりだった。

自分はいつでも100点を目指して頑張っている。お母さんの料理はとてもおいしい、ハンバーグと煮物が特に上手。お父さんは休みの日になると朝食を作ってくれるから、お母さんにはゆっくり朝寝坊をしてもらっている。透はにこやかにそう答えた。ツネ子おばさんは「ふぅん」と言ってにんまり。

実際のところ、両親は共働きで、母親はのんびりハンバーグなど作っている暇がない。父親も休日出勤が多いし、休みでも日曜の朝はふたりとも死んでいるので朝食を作るのは透の役目だ。そんなことは透の親の事情を知るツネ子おばさんにはお見通しだったはずだ。

それでも、透がそういうツネ子おばさんの意地悪さを見抜いた上で嘘をついているということが伝わればいいのだ。何を知りたいのか知らないけど、僕は家族の味方だからあなたが聞きたがってることは何ひとつ教えてあげないよ。それが伝わればいい。

ツネ子おばさんの「ふぅん」は、透がとても聡い子であることを知った感嘆のため息だった。

「あたしはね、嘘が嫌いなんて綺麗事を言う人間より、簡単に嘘をつける人間の方が好きなんだよ」

そう言うとツネ子おばさんはますますにんまりと笑って、お茶を啜った。

「よく覚えておいで。嘘をつかない人間なんかこの世にひとりもいないんだよ。誰でも必ず自分に都合のいい嘘をついて、人を騙してる。そのくせ人に嘘をつかれるのは大嫌い。あたし嘘つきは大嫌い、なんて文句を言いながら、1分後には自分でも嘘をついてる。そんな人間ばかりやね」

透は「そうですね」と相槌を打ち、ジュースを口に含んだ。ツネ子おばさんの言っていることは、なんとなく意味がわかる。自分の両親も、嘘をついてはいけないと教え、嘘をつけば怒るが、自分たちの嘘は決して認めない。だからおばさんの言っていることはわかる。

「簡単に嘘をつける坊やみたいな人間は、きっと嘘を見破るのが得意だろうね。お父さんやお母さんや、学校の先生が偉そうにつく嘘がすぐわかっちまうだろ」

言い方は気に入らないけれど、図星だった透は黙って少し目をそらした。ああ、この人嘘ついてるな、そう思ったことは一度や二度ではない。特に意図的に嘘をつく大人はわかりやすい。むしろ何も考えずに嘘をついている同級生の方がわかりづらい。

そういう透のちょっと過敏な感性で見ると、つまりこのツネ子おばさんは、嘘をつかない人間なのだった。言い方は悪いし、興味を持っていることは卑しくて失礼だが、それでも彼女は透が非常に賢いことをすぐに看破し、嘘をついてもどうせバレると理解しているので、嘘はつかない。

だから、この芯から意地悪なツネ子おばさんの一言は、透に「限りなく透明な真実」だと思わせる説得力があった。どんな大人の言葉より、この性格の悪いツネ子おばさんの言葉だけが、長く透にとっては真実だった。それだけが、拠り所だった。

「知ってるかい、あんたは貰いっ子なんだよ。親とも妹とも、血が繋がってないんだよ」

透が自身の出生の秘密を知ってしまってから1年半が過ぎた。祖母に暴力的に当たり散らす祖父は退院することなく憤死。祖父が息を引き取ったと連絡が来た時は親戚中がほっと胸を撫で下ろしたくらいだった。葬儀で涙を流さない家族に参列者は陰口を叩いていたけれど、透は事情も知らないくせに勝手なことを言うもんだな、とそのさまを眺めていた。

そんな祖父の一周忌の法要が営まれた週末、4年生になっていた透と3年生になっていた妹のはふたりで留守番をしていた。祖父とは親しくなかったし、またツネ子おばさんが来るだろうし、子供に法要は退屈だし、透がしっかりしているので何も心配せずに両親はふたりだけで出かけていった。

4年生と3年生と言ってもまだ小学生、そんな不用心なと人は眉をひそめるかもしれない。だが、妹のはともかく、兄の透は平均的な10歳の小学4年生ではなかった。

そもそも彼は疲れて寝坊したい両親に代わり、1年生になったときから週末の朝食を作ってきた。自宅のキッチンはIHヒーターなので火の心配はない。安定した踏み台を使い、鍋に水と卵を入れて茹で、殻を剥いたらボウルに入れて潰し、マヨネーズとじっくり混ぜて食パンに乗せれば完成である。夏はそれに麦茶を汲み、冬はポットのお湯でカップスープやココアをいれる。

そういうことを慎重に安全にこなせてしまう、それが透だった。

なのでそれから4年、透はひとりで一晩留守番をさせても心配がないくらいの10歳になっていたし、また妹のがこの兄を盲目的に慕っていて、兄の言うことなら何でもよく聞くので、それも心配がなかった。昼食を終えたふたりは子供部屋に戻り、それぞれ好きなことをして過ごしていた。

最近透は地域のミニバスチームへの所属を親にねだっていて、既にチームに入っている友達から借りたバスケット雑誌を眺めていた。透は身長が高く、今も学年で一番高い。授業でやるバスケットでは敵なし、実は勧誘は3年生の時から受けていた。

の方は漫画を読みつつ、最近クラスで流行っているという男性グループの音楽を聞いていた。つい先月までは全く興味がなかったはずだが、突然熱心に聞くようになった。

「最近それ好きだな」
「うん、流行ってるからね」
「好きじゃないけどみんなに合わせなきゃいけないからか」
…………なんでわかるの」
「だってそういうの興味なかったじゃん」

兄に言い当てられたは音楽の再生を止め、べたりと机に突っ伏した。

「私こういうのより、きれいな声の女の人の歌の方が好きなんだけどさ」
「ああ、そうだよな。なんだっけ、母さんの好きな」
「エンヤ? あれも好きだけど、本当に好きなのはアリアナ」
「アリアナかわいいよな」
「だよね!? かわいいよね!?」

最近は髪を伸ばしたいと母親にねだっていたな――と透は思い出す。そうか、あのアリアナ・グランデの特徴的なポニーテールヘアがやりたかったのか。微笑ましいけど笑ってはいけない。

「でもみんなが好きなのはこのグループ……
「そういうの、どこかでやめないとずっと続くぞ」
「えー」
「母さんだってそういうの困ってるじゃん。大人になってもあるんだよ」
「やだー」

は机に潰れたままジタバタと足を動すと、今度は勢いよく体を起こして椅子にもたれた。

……なんで人に合わせなきゃいけないんだろう」
「いけないってことはないけど、合わせろって騒ぐやつがいるからな」
「だから、なんでみんな言うこと聞いちゃうの?」
だって合わせてただろ。なんで合わせたんだ?」
「だって、仲間外れにされたくないもん」
「はい、答え出ました」
「やだあー!」

が求めているのは「他人に合わせなくてもいい合理的な正当性」の解答だったのだろうが、それはあくまでも多数派に迎合したくない側の理屈であって、それを示したところで「空気を読んで多数派に並ぶべき」と考える手合には何の意味もない。透はそれがわかるので突き放した。

「そのグループが好きな子が強いのか?」
「強いっていうか、お金持ちで、可愛いし、みんな逆らえないんだよね」
「運が悪かったな」
「音楽も、服も、好き嫌いも、みんなその子に合わせないといけないの」
「最悪」
「ほんと最悪」

さらには椅子の上で膝を抱えると、つまらなそうに言う。

「それに、最近恋愛の話ばっかりでウザい」
「それはオレもわかる……
「どういう男の子がいいとかそんな話ばっかりで、だけどそれも合わせなきゃいけないし」

恋愛話の面倒臭さは透にも覚えがある。男同士でもそういうのは面倒だ。勝手にやってろよと思う。

だが、透は1年前のツネ子おばさんの言葉を思い出して、つい口を開いた。

……は好きなやつとかいないの」

これまでの口からどこの誰が好きだとかいう話は聞いたことがなかった。幼稚園でも小学生になっても、は芸能人でもアニメでも女の子の方が好きなようだったし、唯一言葉にして「好き」と聞いたことがある「男」はハリー・ポッターくらいだ。

「好きになれるほどかっこいい男の子がいないよ!」

だからこの答えは想定内だったわけなのだが、

「みんなバカだし乱暴だし意地悪だし、お兄ちゃんの方が全然いいもん」

これを聞いた透はまたツネ子おばさんの言葉が頭の中をぐるぐる駆け回るので、思わずゴクリと喉を鳴らした。慌てて机の上に置いてあったペットボトルのお茶を飲み、静かに息を吐く。

「ていうかお兄ちゃんより頭いいとか絶対無理だし、運動もお兄ちゃんの方ができるし、ご飯とかお菓子も一緒に作ってくれるし、お兄ちゃんよりすごいなって思う男子、日本にひとりもいないんじゃないのかな。兄妹じゃなかったら私お兄ちゃんと結婚してると思う」

は賢い子だが、早熟ではなかった。天真爛漫で邪気がなく、透の感覚で言うと「まず嘘をつこうという発想がない」という、わりとお気楽な思考をしていた。なので単純にハイスペックな兄と比較して身近な男子が物足りないと感じたに過ぎないわけだが、それでも兄と妹は結婚できない、という知識は持っている。兄妹でなければ兄が1番すごい男の子なんだけどな。その程度の。

しかし、対する兄の方は全てにおいて成長が早く、もう彼の思考は平均的な10歳の子供ではなかった。

ツネ子おばさんの意地悪なニヤニヤ笑いは嫌悪感と同時に真実の光である。

……結婚、できるよ」
「えっ、お兄ちゃん知らないのー? 兄妹は結婚出来ないんだよ」
「知ってるよ。だけどオレとは結婚できる」
「なんで?」

はきょとんとした顔で兄の方を見ている。兄はその視線には向き合わずに、自分の指先を見つめていた。言ってはいけないことだとは思わなかったけれど、父と母は望まないだろうと思うと、胸がドキドキした。もしかしたら今日を境に家族が壊れるかもしれない、そういう緊張だった。

だが、不安はなかった。恐怖もなかった。高揚と、期待と、緊張のドキドキだった。

「オレとは、血が繋がってないから」

は「えっ?」と間の抜けた声を上げて目を丸くしている。

「兄妹が結婚しちゃいけないのは、同じお母さんのお腹から生まれた人間は結婚しちゃいけないからだ。でも、オレはお母さんのお腹から生まれてないんだよ。だから、本当は結婚できる」

透は気が抜けてのように椅子にぐったりともたれかかった。とうとう言ってしまった。自分だけこの家族とは血の繋がりがないということを、に教えてしまった。

「じゃあお兄ちゃんはどのお母さんから生まれたの?」
「それは、知らない」
「なんで私のお兄ちゃんになってるの?」
「それも、知らない」

は事態がよく理解できないのか首を傾げたり唸ってみたりしているだけで、ショックを受けた様子はない。透はそれに安堵してまた水を飲んだ。この分ならよくわからない兄の告白としてしばらくは理解するまでに至らないだろう。

「でも、これは母さんたちには内緒な」
「えっ、そうなの」
「今はまだ家族だから、ふたりには内緒。もちろん学校にも、親戚にも、友達にもだよ」
「そうなんだ、わかった」

何もわかっていない、という顔をしては頷いた。これでいい。は兄の言いつけには絶対服従状態で、約束を違えたことはない。秘密は誰にも漏らさないだろう。

せっかくの休日、よくわからないことを追求するのは疲れるだけだ。はまた漫画の本を手に取り、開き直ってアリアナ・グランデの曲を聞き始めた。それをちらりと見た透は、体の真ん中がぼんやりと温かくなっているのを感じて思わず頬が緩んだ。

そう、オレたちは結婚できる。

はオレよりいい男なんか日本中探してもいないんじゃないか、なんてことを真顔で言い出す。

だから結婚できる。

どうやったら兄と妹でなくなれるのか、それは大人になるまでに調べよう。そして大人になったら兄妹をやめて、結婚しよう。ウェデングドレスを着たをお姫様抱っこして、キスしよう。

透の体の中はどんどん温まっていく。

彼は、幼稚園の年長さんの頃から妹が好きなのである。妹としてではなく、女の子として。