熱帯夜

2

兄は文武両道、妹は兄ほどではないものの明るくて元気で努力家、そういう兄妹だったふたりは、秘密を分け合ったことなどすっかり忘れてしまったかのように数年を過ごした。

兄があまりに大人びているので置きっぱなしにしていても何の心配もないものだから、母は出産と子育てで離れていた仕事にどんどん邁進し、透が中学1年、が小学6年の時には勤め先である化粧品メーカーの神奈川支社営業二課の課長に昇進した。

時を同じくして父親の方も大きなプロジェクトに関わることになったとかで、兄妹はますますふたりで過ごす時間が増えたが、兄は中学で念願のバスケット部に入り、は英会話教室に通い始めたので、それぞれが忙しい毎日を送っていた。

だが、は通い慣れた学校の休み時間が憂鬱であることは3年生の時から変わらなかった。当時からクラスに君臨し続けるボス女子は依然同じクラスの女子を掌握していたし、小学5年生の頃から私立受験予定がちらほら現れると、今度は志望校の偏差値で格付けを行い始めた。

は兄の透は当然私立受験をするものだとばかり思っていたのだが、彼は近所の公立を選び、入学以来学年1位を保持しながらバスケット部では期待の新人となっていた。なのでも当然その公立中学へ進むわけなので、私立受験組のギスギスした関係にも辟易していた。

兄によれば、彼の学年は7クラスあるそうで、近隣の小学校5校が集まった中学に入ればあの子と離れられる。はそう自分に言い聞かせて毎日愛想笑いをしていた。

しかし、6年生になったにはまた新たな悩みの種が生まれた。

最上級生になった途端、この6年生が終われば次は中学校が待っている――ということを強く実感し始めた一部の早熟な子らが、つい前年度まで気軽に呼びかけていたひとつふたつ年上を「先輩」と呼び始め、なおかつわざとらしいまでの敬語で話すようになった。

それを兄に漏らしたところ、彼は鼻で笑って「マイルドヤンキーだな」と言っていた。

それを携帯で調べてみたけれど、意味はよくわからなかった。だが、が困っているのはさらにその先だ。3年生あたりから始まった恋愛話は学年が上がるごとに加速し続け、5年生の時に性教育を受けてからはそれが具体的になり始めた。

そんな中、と同じクラスの女の子たちが「透先輩ってかっこいいよね」と言い出した。

確か5年生までほとんどのクラスメイトたちは透のことを「のお兄ちゃん」と呼んでいたし、友達の兄のことなど興味ない様子だったのに、急にそんなことを言ってくるようになった。

背が高くて頭いいし、バスケうまいし、がすごく優しいって言ってたし。

ボス女子の手前控えめにではあったけれど、それでもにとって透は自慢の兄だったので、のお兄ちゃんどんな感じ? と問われれば「頭良くて運動もできて優しい」と正直に答えていた。だって透はその通りの人だったから。

だが、慣れ親しんだクラスメイトの艶っぽく光る眼で見つめられながら耳にする「透先輩」という言葉には戦慄した。そして、しばらく経つと今度は気持ち悪くなってきた。

自分はほとんどの場合、兄のことは「お兄ちゃん」と呼んでいる。なのに突然第三者が彼を名前で呼び始めた、それもの許可なしに。それが不愉快だったのだ。

だというのに、クラスの早熟な女子たちはの反応が薄いのをわかってか、兄のプライベートなことを知りたがるようになり、食べ物の好き嫌いや音楽の好みなど、根掘り葉掘りに聞いてきた。そしてとどめに「透先輩の好きな女の子のタイプは?」と聞かれた。

は一瞬で頭に血が上ってしまった。あんたがもしお兄ちゃんの好みだったら付き合うつもりなの? それでうちに私の友達としてじゃなくお兄ちゃんの彼女として遊びに来るの? 私の友達がお兄ちゃんと手を繋いで歩いたりキスしたりするの?

マジ無理、ほんとやめて、気持ち悪い。

しかしそう正直にブチ撒けられるはずもなく、は「そんなこと知らない」と誤魔化して帰宅、遅れて帰ってきた兄に八つ当たりをした。私の友達と付き合うとか絶対やめてよ!

「なんでオレがお前の友達と付き合うことになってんだよ……
「好みの子がいるかもしれないじゃん」
「申し訳ないけどオレもお前の友達と付き合いたいなんていうつもりはないよ」
「そうして」
「だからそんなにカッカするなよ。付き合ってもいないのに」

兄の中学進学を機にふたりの部屋は分かれた。というかに初潮が訪れたときにはその話が出ていたのに、家族全員が忙しいことでどんどん先送りされてしまっていた。しかしそれでも親が不在の自宅では兄妹は一緒に過ごすことが多く、今もは兄のベッドに胡座をかいて文句を言っていた。

「お兄ちゃん、なんかずいぶん人気なんだよね」
「へえ」
「なんで急にそんなこと言い出すんだろう」
「そういう時期だからだろ」

兄はジャージのまま机に向かい、教科書やらを積み上げている。兄の特殊な脳は復習がいらない。授業で習ったことはその場で頭に入るので、帰宅してから彼が行うのは予習。ある程度教科書を先に進めておいてから授業に望むと、わかっていることとわからないことが明確になるので、それを後で職員室で質問すれば塾で補う必要もない。たっぷり部活に勤しむことができる。

「お前はまだいいなと思うやつとか出てこないのか」
「べ、別にいいでしょ、同級生たちなんかもう6年も一緒で親戚みたいな感じだよ」
「オレも7年目だからそんな感じだな」

兄が食事までに予習するというのでは部屋に戻り、服を脱いでハンガーにかける。薄い壁を挟んだだけの隣の部屋にいる兄を、友達は「かっこいい」と言う。それが実に気持ち悪かっただが、兄の言葉にもうひとつの可能性を見つけて鳥肌が立った。

中学には、兄の同学年には、7年目で親戚のようにしか感じない女子の他に、他の小学校から進学してきた「まだ数ヶ月」の女子が大量にいるのだ。それらを親戚のようには感じないだろう。目新しくて、どこかよそよそしく感じて、親戚のようにしか感じない女子より魅力的に映るだろう。

あれ? お兄ちゃんそういう子と付き合ったりするのかな。

同級生に「透先輩かっこいいよね」と言われるよりも気持ち悪かった。

確かに兄はかっこいいのだ。何しろ文武両道、背が高くて落ち着いていて、しかし冗談も通じない堅物ではなく、女子にも失礼な物言いはせず、男子とはふざけてはしゃげるという、よく出来た13歳だった。そういう兄が「かっこいい」ことには、も自覚がある。

だが、それが誰か知らない女の「占有物」になることは、受け入れられない。

遠い記憶の中に閉じ込めていた兄の言葉が蘇る。

オレとは結婚できる、オレとは血が繋がってないから――

兄のパートナーとなる「資格」だけなら、だって充分にあるのだ。もしあの時の兄の言葉が真実で、自分たちは本当に血縁がないのなら、自分はどんな女よりも兄の理解者であり、良きパートナーであるはずだ。だってもう10年以上一緒に暮らしているのだから。

の目は学習机の傍らの棚に置いてある生理用品に吸い寄せられていった。

初潮を迎えたに、母親は「大人の女性の第一歩なんだよ」と教えてくれた。そして、化粧品メーカーに勤務している彼女は、唇がほんのり色づくリップクリームをプレゼントしてくれた。

だけど私、まだ子供だよね。お兄ちゃんも子供だよね。

恋愛っていつからすればいいんだろう。いつからしていいんだろう。どこから始まってどうやって終わるんだろう。赤ちゃんがどうしたら出来るのか、それは前に保健室で教わったけど、本当にみんなあんなことしてるの? つまりお父さんとお母さんもそうしたってことでしょ。

私、誰とそういうことするの? お兄ちゃんは、誰とそういうことするの?

血が繋がってない私とお兄ちゃんなら、そういうこと、してもいいんだろうか。

全身に鳥肌が立ってきたは頭を振り、勢いよく部屋着を被ると、そっと自分の胸に触れた。自分にしかわからない程度に膨らみ始めたその胸はこのところ少しぶつけただけでも強烈な痛みが走る。

いつか誰かの手が私の胸に触れるんだろうか。それは――

ぼんやりと頭の中に浮かぶ輪郭に背筋が痺れたは慌ててジーンズを履くと、携帯を掴んで部屋を出た。今日はが夕食の下準備の当番である。だから兄はさっさと予習を始めていた。お母さんが帰ってくるまでに準備しておかなきゃ。

部屋を出たは、静かな兄の部屋に引き寄せられていく意識を引きずるようにして、階下に下りていった。兄を慕うことは禁忌、3年生の時はわからなかったけれど、今ならわかる。血が繋がっていなくても、私たちが家族である以上は、やっぱり兄と私は「兄妹」のままなのだ――

やがても兄の後を追って中学に進学、すっかり有名人になっていた兄の妹ということで、しばしの元には猫撫で声の先輩女子が足繁く通ってきたものだった。何をしに来るかと言えば、やっぱり兄のプライベートなことを知りたがり、結局最後は好みのタイプを聞いてくる。

はこの頃になると対策を考えていて、基本的には「聞いたことがないから知らない」と返し、引き下がらない場合には「シャーリーズ・セロンが好きみたい」と言っておく。大人だし、日本の中学生からはだいぶかけ離れているので参考にしようがないだろう。

それらは2ヶ月ほどで鎮火したけれど、今度は入れ替わりに別の小学校から進学してきた同学年の女子に「お兄ちゃんそんなにかっこいいの?」と食いつかれる羽目になった。その時は思わず濁してしまったので、はっきりと答えない妹よりは実物を見ればいい、と透先輩見学ツアーが組まれてしまった。

結果はものの見事に数人が陥落、しかもよせばいいのに「ねえねえ、私が透先輩と付き合ったら怒る?」と上目遣いで聞いてくる始末。怒るというか、気持ち悪いので兄に怒ります……とは言えないので、苦笑いの上「本人が決めることだから私は別に」と言うしかなかった。

噂では早まった猛者がひとりかふたり透に告白し、「その前に、誰?」と返されたらしい。兄はそんなことがあったなどには話さなかったし、妹の方も噂を真に受けて問い詰めたくなかった。なので噂のまま有耶無耶になっているが、とにかく透先輩は後輩にも人気の男子になった。

それと並行して、はなんと入学早々ふたりの男子に「付き合わない?」と声をかけられた。まさに兄と同様、「誰?」であった。しかもひとりは透と同学年。先輩だった。

「なんで私が竹なんとかとかいう先輩に告られなきゃならないの」
「オレが知るかよ」
「去年同じクラスだったんでしょ。私のこと話したの?」
「何ひとつ話してないはずだけど」
「だったらなんなの……話したこともないのに付き合わない、とか何考えてんの?」
「だからオレが知るかよ」

透は誰に告白されただの何だのという話を一切にしないけれど、あまりに腹立たしいのでは部活帰りで疲れている兄にぶうぶう文句を垂れた。それにその竹ナントカ君、まるで素敵な男の子には見えなかった。どう考えても兄の方がかっこいい。

「中学に入った途端みんな誰と付き合うだの付き合わないだの、そればっかり!」
「それには同情するけど、たぶん世の中なんてずっとそんなもんだと思うよ」
「もう男と服とメイクとブランドの話飽きた……SNSもやめたい……
「SNSはなんとかなるだろ」
「なんかいい方法ある?」
「あるある、アカウントあるのか?」

手招きされたはベッドに腰掛ける兄の隣に腰を下ろし、携帯を差し出す。メッセージアプリ以外には主なSNSアカウントを一通り作成していて、しかし投稿はまばら、タイムラインには友人たちの自撮りばかりが流れていた。

、趣味は何ってことになってる?」
「趣味? ええとだから、洋楽とか、お菓子作りとか、そんな程度」
「そこにバスケ加えてもOK?」
「どういう意味?」

透はの方を見ずにサクサクと画面をスクロールし、クローズなリストにたくさんのアカウントを登録していく。見れば半分以上が外国語。

「ここにリストアップしてるアカウントを少しずつフォローしていって、プロフ欄は好きなものの羅列にしておくこと。こんな、どこの中学だなんて個人情報は書くなよ。アイコンも顔はやめろ。で、少なくとも2日に1回はリストの方を覗いて、気になるものをこまめに拡散する」

淀みなくSNS充偽装の方法を指示している兄の声を聞きながら、は不意に彼の横顔を見つめた。いつの間にかフェイスラインが直線的になって、首に筋が見えるようになってきた。よく見れば顎の先端にはヒゲが生えているし、唇の色がずいぶん落ち着いた色になっている。

それがどうしてか気恥ずかしくなり、彼の操作する自分の携帯に目を移したのだが、今度はすっかり骨ばった兄の手指が見えた。お兄ちゃんの手って、こんなだった? いつからこんな大人の男の人みたいな手になったの? 背が高いだけじゃなくて、指も長いなあ……

そう思った途端、はいつか自分の胸に触れて考えたことを思い出して、顔が燃え上がったかのように熱くなった。やめようよそういうの……そりゃ私たちは家族のふりしてる他人かもしれないけど、それでも世間的には兄と妹だし、もう無闇にベタベタしても怪しまれない年齢ではなくなっちゃったんだから。まだ大人じゃないけど、子供でもないんだから。

――画像は加工よりフィルタを……聞いてるのか
「えっ、聞いてるよ。私自撮りも好きじゃないんだよね」
「だったら無理に出さなくていい。むしろ出さない方がいい」

写真画像投稿に特化したSNSでの楽しんでるふり偽装についてを語っている兄の隣で、はぎゅっと手を握りしめていた。お兄ちゃんは今、あの時の話をどう思ってるんだろう。血は繋がってないから結婚できるよと真顔で言っていたけれど、それについて中学2年生の兄は、どう考えているんだろう。

噂ばかり耳にして兄からは何も聞かされてないけれど、本当に彼女はいないんだろうか。好きな人もいないんだろうか。確かに兄は小学校高学年くらいからずっとバスケットに夢中で、今も部活が1番楽しいようだけど、女の子に興味はないんだろうか。

海外の女性アーティストの音楽が好きなは、その流れで最近「多様性」という言葉を覚え、それに伴ってぼんやりしたイメージしか持たなかった「同性愛」や「性転換」についてもざっくりとどういうことなのかという知識を得た。

もしお兄ちゃんが女の子に興味なくて、男の子の方が好きだったら、むしろその方がいいかもしれない。ヘラヘラ笑って私に媚びてくるような先輩とお兄ちゃんが付き合うくらいだったら、男の子の方がよっぽどいい。だってそれなら、私はずっと「1番の女の子」でいられるじゃん。

はっきりとした自覚には至らないの心の中では、兄にとって自分より優先される女性が存在することが許せなくなってきていた。母親もダメだ。自分が1番でなければ。だって女は世界に何億人もいるけど、お兄ちゃんの妹は私だけ。お兄ちゃんの1番でいていいのは私だけのはずなの。

「ま、こんなところでいいだろ。どうせやるなら匿名で匿名の人と楽しめよ」
「そうだよねえ。なんで毎日学校で会う人とSNSで付き合わなきゃいけないんだ」
「どうせ高校に入ったら誰とも会わなくなる」
「そういうものかな?」
「高校でまた新しく出会う人がメインになっていくんだよ」

透は携帯をの手の中に戻す瞬間、少しだけ妹の手を包み込むように指を縮めた。それに気付いたはうまく笑顔を作れていない気がして、俯いたまま携帯を無意味に操作する。

お兄ちゃんもそうなのかな。中学、高校、大学……そうやって学校が変わるたびに新しく知り合う人と仲良くなって、いつか女の子を好きになって、そうやって大人になったら、結婚するのかな――

私と結婚できても、他の女の子を選ぶのかな……

確かなことは何も知らないというのに、漠然とした不安だけがの背中に重く伸し掛かっていた。1番大事な妹がいるっていうのに、彼女が出来たらどうしよう。そんな想像だけで、不安を掻き立てられた。兄が何も言わないので、それが余計に怖くて。

翌年、不安を抱き続けていた妹をよそに、兄はバスケット目的で高校進学をすることを決めた。

何しろ透の選んだ高校は古くからバスケットの強豪校であり、そこで活躍することが出来れば大学もバスケット強豪校へ推薦で入れるかもしれない。過去の進学例を見ても、普通に有名私大が並んでいた。私立高で寮に入るとなると負担は大きいが、これまで家と妹をよく面倒見てきてくれた感謝の意味も込めて、両親は透の希望を全面的に受け入れる決断をした。

不安に苛まれたままの妹を残して、兄は高校から家を出る。

は何も言わなかった。

透も、何も言わなかった。