熱帯夜

3

確かに進学先をここと決めた理由はバスケットだった。バスケットの強い高校として有名で、インターハイにも出場していて、活動方針も悪くない。進学先である翔陽高校は透が望むバスケット環境として申し分なかった。自宅からもそれほど遠くない。

だが、彼はこの翔陽が特定の運動部に限り寮完備であると知ってからは、何が何でもこの学校に入りたいと心に決めていた。正直自宅からでも通えない場所ではなかったけれど、それでも早朝の朝練ということにでもなったら始発でもギリギリか、あるいは間に合わないというような距離だったし、しかも寮はマンションタイプの個室。至れり尽くせりだ。

理由は簡単、もうこれ以上と同じ屋根の下で暮らせないと思ったからだ。

中学3年間はそれでもなんとか耐えたのだが、進路を考えていた頃ですら、壁一枚隔てた向こうにいる妹のことを思うと、理性のコントロールを失いそうになるのを感じていた。マズい、このままでは手の届く場所にいることが余計に自分を狂わせる。そう考えていたので、寮完備は渡りに船だった。

には何も相談せずに決めてしまったので、突然高校進学と同時に家を出ると報告した時はずいぶんショックを受けていたようだったが、彼女は特に変わったことは言わなかった。何しろ兄は小学生の頃からひとりで一晩置いていっても心配ないくらいの少年だった。ひとりで寮生活くらい、なんてことはないはずだ。そう思えば、励ましも応援も無用に思えただろう。

最終的には冗談めかして「勉強がわからなくなったとき困るな」と言って笑っていたけれど、やっと見つけた気軽な茶化しネタだということは透でなくともわかっただろう。

特待生枠にもチャレンジしてみたかったのだが、この年運動部の特待枠は既に埋まっていて、しかし透の学力なら翔陽は安全圏内もいいところ。のんびり受験生をやって余裕で合格、入寮開始日である4月1日には名残を惜しむことなく家を出た。

翔陽の運動部専用男子寮は一見して一般的なマンションに似た建物で、旧来の学生寮に比べると開放的に作られていた。部活自体の活動時間の都合もあるので、遠征などの特別な理由がない限り門限は22時と余裕があり、男子寮だからか、家族の出入りは自由、朝も5時から門の施錠が解かれる。

また、泊まり込みの管理スタッフはおらず、スタッフ不在の間のセキュリティは全て民間の警備会社に委託されていたし、食事も外部のサービスが夕食だけ準備に入り、朝と昼は自分でやるというシステムになっていた。その代わり、寮でトラブルを起こした場合は程度にもよるが即退学だという話だった。

透はこれから3年間暮らす部屋の前に立ち、鍵を開けた。寮の部屋は全て外廊下から入るようになっていて、ダイニングや談話室とは完全に分離されていたし、なんと全戸シャワー・トイレ付き。その代わり掃除は入寮者の責任で行うものになっており、学期末ごとに入る点検で不可を出されると、最悪退寮ということになっている。

つまり、昔に比べて自由度が高くプライバシーの確保に重点を置いているけれど、掃除などの生活管理は自分でやりなさいよ、出来なかったら出ていってもらうからね、というわけだ。これで人件費もだいぶ削減できているらしい。

そんなの楽勝だな。透は鍵を開けて既に荷物が届いている部屋に入る。自由度の高いプライベートルームだが、とにかく狭い。トイレとシャワーブースがあるだけの部屋はキッチンもなく、洗面所を兼ねた水道が壁にへばりついているだけ。もし煮炊きをしたければホットプレートなどを持ち込んでも構わないらしいが、各部屋のアンペアは最低限なので、ハイパワーのものを使うとブレーカーが飛ぶらしい。

部屋の奥がベッドルームで、作り付けの長いベッドは運動部の身長が高い生徒用であることがわかる。これなら布団からはみ出すような体でも眠れる。それにドアのない収納と、作り付けのデスクが置かれている。洗濯はランドリールームでやるのでベランダはなく、物干しが窓の外に差し渡してあるだけ。

斜めがけにしたバッグを放り出した透は、そのままベッドに寝転がった。

やっとひとりになれた。そんな安心感が体中を満たして、透は長く息を吐いた。

正直、が隣の部屋にいるという環境で生活をするのは苦しかった。彼女への思いを24時間押し込め続けているのに疲れた。そして中学3年生の夏にとうとうの体に触るという夢を見てしまった。大量の汗をかいて目覚め、もう限界だと思った。

透が「自分は養子」だと思うきっかけは、当然あのツネ子おばさんの言葉であったのだが、それ以前から妹のことが大好きだった。せめて思い出せる一番古い記憶はまだ言葉もろくに喋れない頃のだ。おそらく自分が3歳、妹が2歳。

お母さんがお掃除してる間、が泣いたりしたらお母さんに教えに来てね、と言われてリビングに置いていかれた。透は妹が可愛くて仕方なかったので、喜んでその役目を仰せつかった。甘えっ子の妹は何かというと抱っこして欲しがり、透にぎゅっと抱きついてきた。それが可愛いので、足が痺れても妹を抱っこしていた。

ふたりはが生後8ヶ月の時に保育園にまとめて入れられたので、そうした機会は週末にあるだけだったが、むしろ保育園でも透は妹の面倒を見たがり、よく「偉いお兄ちゃんだね」と褒められていた。が兄を盲目的に慕うのには、こうした日々があったからでもある。

長くは兄のことを「おにいたん」と呼んでいて、にこにこ笑いながら「おにいたん」と呼ぶその声が愛しくて仕方なかった。そんな気持ちは父にも母にも感じたことはなくて、どうしてもだけが特別だった。

それはやがて小学生になった透に違和感を覚えさせた。妹がいる男の子の友達はみな口を揃えて「妹なんか可愛くない」と言った。たまに面倒見のいい兄貴タイプの子もいたけれど、それはかなり年が離れていて、自分の感情とは異なる気がした。

そんな違和感を抱えたまま学年が上がった透の身近に、が辟易したような恋愛話をしたがる同級生が現れたのは、小学3年生の時だった。そこに来て透は「妹を可愛いと思うのは、おかしいことなのかもしれない」と思い始めた。自分はおかしいのかもしれない。

しかも、ツネ子おばさんの「真実」である。

嫌われ者で意地悪な人かもしれないが、自分は異常ではないかもしれないという希望を投げかけてくれたのはツネ子おばさんだった。透の感覚で言えば、もしおばさんが嘘をついていたとして、それはおばさんにとっては何のメリットもないことだった。

子供をいびるのが好きなのであれば、ターゲットは透ではなくにすべきだ。透なら「これは意地悪をして楽しんでいるな」と気付く。透が気付くことはツネ子おばさんならわかる。透に嘘を吹き込んでも効果がないのだ。

その人が何に1番動揺して不快感を示すのか、ツネ子おばさんはそれを嗅ぎつけるのが異常に上手い人だった。だから、透には「真実」を吹き込んだ。彼を揺さぶり、壊れなくていい家族を壊すかもしれない真実を教える、その方が面白いから。

おそらくツネ子おばさんは透が聡明であることに気付いた上で「真実」を吹き込んでやることを思いついたのだろう。賢く、ためらいなく嘘をつける少年に真実を吹き込んだとき、果たして彼はその「真実」をどう扱うか……それもある程度予測がついただろう。

その通り、透はおばさんの言葉を拠り所に、事実関係を調査し始めた。

おばさんの言葉を聞いた翌月くらいに、偶然自宅でひとりきりなった。チャンス到来、透は急いで両親の寝室のクローゼットに潜り込み、自分たちが子供の頃の写真を漁り始めた。そして、自分が新生児の頃の写真が一枚もないことを確かめた。のものはあるのだ。

これを親に問いただせば、間違って捨ててしまったとか何だとか、「嘘」が返ってくるだろう。

今度は母親のドレッサーの中を検める。母親のドレッサーは大きく、化粧品以外のものもたくさん詰め込まれていて、その引き出しを開けようとすると厳しく叱られた。よほど小さな頃には鍵をかけられていたけれど、が小学生になった頃から施錠をやめている。

引き出しを漁ること10分、目的のものを見つけた透の心臓はドキンと跳ねた。の母子手帳だ。自分の母子手帳は、見つからなかった。この家は火事になったことはない。が生まれる前に引っ越しをしたこともない。写真と母子手帳、どちらかだけ存在しないのなら「間違って捨てた」でも通るだろうが、どちらも存在しないのはあまりに疑わしい。

またひとつ確信を得た透はそうやって少しずつ少しずつ、自分が養子かもしれないということの「証拠集め」を長い時間をかけて進めていった。小学校高学年に突入して自分の身長がにょきにょき伸びてきた時も「やはりな」と思った。父方にも母方にも、高身長の人間がいないのだ。

体も、心も、個性も、なにひとつ近しい家族に似ていない。自分が生まれたばかりの頃の記録を示すものが、家の中に存在しない。親にも、妹にも、血の繋がりを感じたことがない――

そして中学3年の夏、の体に触れるという夢を見てしまった透は、勇気が出なくて先送りにしていた戸籍謄本を手に入れるに至った。秋に家族旅行に行くためパスポートを作りたいと言うと、役所の担当者は何も咎めたりはせずに謄本の写しを出してくれた。

そこには、自分の欄には、現在の両親の名はなかった。にはある。と両親は本物の家族だ。だが、透には見たこともない名前の両親が記されていた。それによれば、透の本当の名は花形。花形透という名であった。

もしや自分はやはり血の繋がった妹に恋愛感情を抱く異常者なのではと疑う気持ちはずっと持っていた。だから、もし戸籍謄本を取り寄せて自分が養子ではないことが確認されれば、自身の異常性が証明されたことになると思っていた。それを認めることで、に対する興味、子供から大人の女性になっていく妹への特別な感情を「異常」という言葉で縛り付けることが出来ると思った。

だが、やはりツネ子おばさんは嘘はついていなかった。透は養子だった。

その瞬間、透は「もうこの家にはいられない」と思った。

妹とは他人であることが証明されてしまった。妹への興味に正当性が生まれてしまった。戸籍上の家族であると言うだけで、全くの他人、哺乳類の雄が雌に抱くような感情を持っても問題のないことが、確実となってしまった。無意識の夢の中では、彼女に手を伸ばしていた。

これ以上同じ家に生活をし続けていたら、いつ理性を失って妹に手を触れてしまうかもしれない。子供の頃は妹も「学校の男の子は好きになれない、お兄ちゃんの方がかっこいいから」というようなことを言っていたけれど、彼女も中学2年生、もうそんな気持ちは持っていないかもしれない。

そんな彼女が、未だに兄が自分に対して世間一般平均値以上の愛情を抱いていると知ったら――

それに、両親は透が他人の子であることは百も承知のはず。それが妹に懸想していると知ったら、一刻も早く無関係な他人になりたいと思うのではないだろうか。そんな風に決定的な亀裂を作って二度とと会えなくなるなら、せめて偽りの家族という繋がりだけでも残しての前から消えたい。

透は寝返りを打ち、静かに深呼吸をする。

のいない生活は生まれて初めてだ。これまで自分の体を一杯に満たしていたへの思いは、すぐ近くに暮らしている妹へのものだった。離れて暮らし、という存在のない毎日を過ごすことで、もし彼女のことを忘れられるのなら。翔陽は共学、女子はたくさんいる。

への思いは、思春期の勘違いかもしれないのだから。

への思いから離れたいあまり、透は部活を理由に帰省をしない生活をしていた。幸い寮は自主性を重んじるシステムであり、生活全般に必要なことはスタッフ任せではなく自分でやらねばならない。それにセキュリティは24時間365日隙間なく有効。帰省せずに寮に残っても問題がない。

寮に入って一月ほどで透は帰省は不要だと思い始め、帰省なし生活を円滑に送るためにことさら真面目な生活を心がけた。仕送りは節約して無駄遣いはしない、部屋は清潔に保ってだらしない生活はしない。それが周囲に浸透すれば、より「帰省しなくても大丈夫」だと説得力が出る。

そういう中では当然のように実家と急速に疎遠になり、家族より友達と一緒にいる方が楽しい10代を演じ続けていた。への気持ちを振り切りたいので、練習がないときには積極的に遊びにも出かけた。男子だけでも男女混合でも、とにかく妹を忘れる時間を作りたかった。

さらに周到な透は入寮してすぐに翔陽の職員室に乗り込み、新たに1年生の学年主任になるという先生に取り次いでもらい、自分が養子であることを説明し、現在の家族とうまくいっていないので養子になる前の名前を名乗りたい、と申し出た。

昨今名付けによるトラブルで改名を望む中高生は多く、学年主任も2年前に一度、通名実績を作りたいという相談を受けていた。透の場合は通名実績があっても養子縁組の解消には何の意味もないわけだが、うまくいかない家族の名を名乗ることが既に苦痛なのかもしれない、と先読みをして相談を受けてくれることになった。

そういうわけで、透は高校入学から「花形透」と名乗ることになった。

そんな花形透は入学の時点で既に身長が185センチに到達していて、1年後2年後が有望なセンターとして期待をかけられ、かと思えば定期考査では常に上位をキープ、物腰の柔らかな落ち着いた性格で男女の別なく好かれ、また同学年の特待枠が大変な美少年だったので、相乗効果でずいぶんモテた。

以外の女に興味が持てるかどうかを試すいいチャンスだった。

しかも寮は自主性を重んじるゆる〜いシステム。先輩たちによれば、静かに清潔にしていれば彼女のひとりやふたり連れ込んだところでバレようがないと言う。門限も遅いし、それまでに帰すか、泊まらせて朝イチで帰すようにすれば、不可能ではないと言う。

なのでこの頃、透は気が合いそうな女子、特に先輩を選んで部屋に連れ込んだ。そして、への思いを振り払うのだと自分に言い聞かせながら、彼女たちの体に手を触れてみた。相手は恥じらいながらも喜んで制服を脱いだ。事は思ったよりも簡単だった。

だが、への思いは消えなかった。

心と体は別物で、まだ妹のことが好きなのかよと自己嫌悪に陥る度に先輩の女の子を誘い、こそこそと事に及んだ。しかし透の方に真剣な気持ちがないことはすぐに悟られ、彼女たちはすぐに去っていった。稀に「酷いことをされた」と吹聴する子がいたけれど、それも「先輩がどうしてもって言うから……」と断れずに付き合っただけの後輩を演じると、大抵の人は透の方を信じた。

そんなことが実に1年半も続いた。

透はバスケットに没頭しながら、ではない別の女に逃げるという日々を繰り返していたのだが、彼の中から妹への思慕が消えることはなかったのである。もう1年以上も会っていないのに、天真爛漫な笑顔を浮かべて「お兄ちゃん」と呼びかけてくる彼女の姿や声が脳裏にありありと浮かんだ。

どんな女の子に触れても、キスしても、抱いても、それでも心は常にの方を向いていた。

そしてそんな矛盾した自分に押し潰されそうになって、何度も吐いた。

もしかしてこの子なら好きになれるかもしれないと思っても、結局は彼女たちの裸体にを重ねてしまう、そんな苦痛でしかない関係をズルズルと続けていた。

そうして高校2年生の夏を迎えた透は、去年と同じように帰省せずに寮に残ろうと考えていた。それに、最近親しくなった軽薄そうな女子が「親がいない日が多いから泊まりに来ていいよ、エッチも好きなだけOK」というので、何日か世話になろうかと思っていた。

だが、テスト休み中に父親から連絡があり、今年は田舎で法事があると言っておいたのに忘れたのかと叱られてしまった。例の透が小学生の時に憤死した祖父の、その母親、透の曾祖母が97歳の大往生で、既に火葬は済んでいるそうだが、祖父と違って親戚中に愛された彼女を一同で弔うのだとか。

透はため息とともにちゃんと帰ると約束をして電話を切った。

これは無理だ。避けて通れない。ツネ子おばさんもやって来るのかと思うと気が重いが、遠い記憶の中でも曾祖母は優しくて楽しい人だった。透が勉強が得意で妹の面倒をよく見るということを褒めてくれて、きっと将来は偉い人になるよ、善い人になるんだよと言ってくれた人だった。

1年以上も避けてきた、どうしても心の中から消えていかない存在、それと対峙しなければならないのは少し怖かったし、正直逃げ出したい気持ちでいっぱいだったのだが、それと同時に高校生になったは一体どんな女性になっているだろうという抗いがたい興味もあった。

お兄ちゃん久しぶり、私彼氏出来たの! と聞かされる可能性はもちろんある。だが、それならそれで今度こそ諦めが付くのでは、という淡い期待もあった。

遠くに蝉の声が聞こえ始めている7月、インターハイを控えて練習漬けの透は久しぶりに夢を見た。

が笑っていた。他愛もないことを喋っていて、楽しそうに笑っていた。

目が覚めた透は幸せな夢の記憶に身を捩り、枕をぎゅうっと抱き締めた。

が好きだ。どうしても、が好きだった。