熱帯夜

8

翔陽の運動部専用男子寮はその大半が「入寮者任せ」のシステムで、生活に必要な作業はほとんど自分でこなさねばならない。寮がそれよりも重きを置いているのはセキュリティの方で、民間の警備会社による24時間態勢の監視がある。

しかし、それはあくまでも安全上の問題であって、いちいち男子生徒が友達の部屋に遊びに来る程度のことを外部が監視しているわけではなかったし、それも翔陽の制服であれば日中勤務しているスタッフは声をかけて止めもしなかった。

さらにそれをかいくぐって女の子を連れ込むことも難しくないし、それで問題を起こしたら寮も学校も追い出されると耳にタコが出来るくらい聞かされているので、寮生たちは特に慎重に気を配って上手く「やりくり」してきた。

そしてこの寮は男子寮ということもあって、「家族は出入り自由」なのである。

……私も、無理だよ」

そう呟くに、透はたっぷり数秒は何の反応も出来ず、片手で口元を覆ったまま固まっていた。

「本当は他人だなんて、ちゃんとした証拠もないのに、言わないでしょ。何か、知ってるんだよね? 私たちが、やっぱり本当は血が繋がってないって、わかってるんだよね? だから止められなかったんじゃないの? 1年前の夜も、そうだったんでしょ?」

ドアを開け放したままなのでどんどん室内の冷気が逃げていく。の髪を揺らす熱風が吹き込み、透の前髪をも翻らせた。は意を決したように頷いてから顔を上げる。

「だから来た。私も無理。おに…………透のこと、好きだから無理」

透が口元にあてていた手がだらりと落ちる。そしてその手がゆっくりと伸びていって、の頬に触れる寸前、は自ら透の胸に飛び込んできた。その後ろでバタンと大きな音がしてドアが閉まる。

真夏の夕日に焼かれたの体は熱く、エアコンで冷やされた部屋にいた透の肌は冷たかった。身長差のせいで歪みながらもしっかりと抱き合ったふたりはやがて、遠ざかる西日に暗く沈んでいく玄関ドアの前で何度も唇を重ね合わせた。

前回のような荒い呼吸はなかった。優しく、ゆっくりと重ね合わされる度に、静かに呼吸し、それ以外のことは何も考えられなかった。

……後悔、しないか?」
「してもいいの。もう無理だから」
「色んなものが壊れてもか?」
「どうせいずれ壊れるものだったんだもん。私たちずっと頑張ってきたけど、限界だったんだよ」

の頬を撫でた透はもう一度優しくキスをすると、ドアに鍵をかけ、彼女の手を引いて奥の部屋へといざなう。自動運転になっていたエアコンが冷風を勢いよく送り出す。透はが肩にかけていたバッグを取り上げるとデスクの上に置き、ベッドに座らせる。

「喉乾いただろ。今ちょっと水しかないんだけど」
「ありがとう、ほしい」
……もう少し早く来ればよかったのに。とんぼ返りじゃないか」

しかもちょうどお盆休みである。両親とも夏季休暇は一般的な8月半ばの一週間程度だったはずだ。透はペットボトルのキャップをひねってからに手渡す。よく冷えた水が勢いよくの喉に流れ込んでいくその様ですら、透の心を幸せな気持ちで満たした。

……いないから」
「えっ?」
「ふたりとも、田舎行ってる。またみんなで集まってから、温泉行ってくるんだって」

ハーッと大きく息を吐いたはペットボトルのキャップを閉めると、気が抜けたように猫背になり、すぐ隣に置いてあった透の手に指を絡める。

「1年前のことがあってから、自分で色んなことがよくわからなくなっちゃって、家にいると透のことばっかり考えちゃうから友達の家によく逃げてた。その友達もバイト先の社員と不倫してて、つらいよねって言いながら、無意味に慰めあってた。ふたりが田舎と温泉行くっていうから、私はもうそういうのいいやって、友達のとこ行ってるからって言って残った。だから、いいの」

ということは、どんなに少なくとも今夜は帰らなくても構わないということになる。これまで何度も女の子やら友達やらを泊まらせてきたので、それは問題ない。家族ですと学生証か何かを見せれば問題にもなりようがないし、それでなくともお盆休み、人がいない。

だがそれより問題は――

「こんな狭い部屋だけど」
「邪魔なら帰るよ。駅まで送って」
……そんなこと言ってないだろ」
「だったらグダグダ言ってないで、覚悟決めてよ」

は透に向き合う。少し瞳が潤んでいるように見えたが、暗くてよくわからない。

「私はもう二度と透のこと兄だと思わない。家族とも思わない。もうずっと、そんな風に思えなかった。透もそうだったよね? だから、今日から私は透の彼女になるから、透は私の彼氏になって、もう、これまでの人生のことは全部忘れて、明日からのことだけ、考えて」

透はが言葉を切ると立ち上がり、デスクの引き出しから角がよれた封筒を持ってきた。封筒の中身を取り出し、に差し出す。四つ折りにされた薄いブルーの紙だ。

「見てごらん」
「何、これ……こ、戸籍?」
「ここ、オレの欄、見て」
……花形」

透の指の指し示す場所には、の苗字である「」の文字はなかった。

「花形透、それが本当の名前なの?」
「そう。役所で出してもらったものだから、間違いない。オレたちは他人」
「ただ、こうして紙の上だけの、家族、なんだね?」
「そうだよ」

透はの手から戸籍謄本を取り上げると、彼女の両手を取った。

「だから、好きだよ。ずっとのことだけが好きだった」

の頬に、ひとしずく涙がこぼれる。

……どこにでもいるカップルみたいに、一緒にいよう、

長く尾を引いて暮れゆかぬ夏の夕を窓の遠くに僅かに残し、部屋は青灰色に染まっていく。透はの体を抱き上げて膝に乗せ、その体をきつく抱き締めた。ようやく冷えてきたの腕が首に絡まり、ふたりはゆっくりと安堵のため息をついた。

やっと自分の気持ちに正直になれた。今初めて、長い夢から醒めたような、そんな気がした。

心の中に長くしまい込まれていた気持ちを全てさらけ出したことで安心したのか、ふたりは急激な眠気に襲われてそのままベッドで眠ってしまった。ふたりで寄り添って眠るなど、が小学校低学年以来のことだ。運動部仕様で縦に長いベッドだが横幅はシングル程度なので、ふたりはぴったりと寄り添ってぐっすりと寝ていた。

透の携帯が鳴ったので目覚めると、部屋の中は真っ暗。窓の外にグラデーションを描いていた夕日もすっかり沈んでしまい、ふたりは携帯のバックライトが眩しくて目を細めていた。

「荷物、少なかったけど大丈夫なのか」
「何日いていいの」
……そっちはいつまで平気なんだ」
「いつまででもいいけど」

瞼がうまく開かないはそう言うとニタリと笑って透に抱きついた。確信はあったけれど、万が一透に拒絶されたときのために荷物は最低限のものしか持ってきていない。

ちゃんと答えなかったは脇腹をくすぐられて身を捩る。

「着替えはまあ、いいよ。透のTシャツ貸して。外に出るときだけこれ着るから」
「パンツはあるんだろうな」
「今すぐお兄ちゃん脳から彼氏脳に切り替えなさい」
「てかその前に食い物とか何もないぞ」

透は起き上がってメガネをかけると大あくびをした。正直このまま二度寝ができるくらい眠気は残っていたが、せっかく思いが通じ合ったというのに、ぐうすか寝ているだけではもったいない。透は冷蔵庫の前にしゃがんで中を覗き込んだ。基本的に液体しか入っていない。

「でもここキッチンとかないでしょ。どうしてるの、毎日」
「夜は食事が出る。共用スペースにキッチンがあるから、朝とか昼とか自炊したければそれ使うんだよ」

共用スペースは24時間出入りが可能で、入寮者向けキッチンは全てIHになっているので、いつでも好きなときに自炊ができるようになっている。だが、特にここは男子寮で、朝も昼も自分で作って食べて片付けてという生活を選ぶ者は少ない。朝は買い置き、昼も食堂というのが一番効率的だ。

「残念、透に私の手料理食べさせてあげようと思ったのにぃ」
「インフルの時にシチュー食べたよ」
「あの程度じゃ作ってあげた気にならない」
「それはまた今度な。今日はもう外で食うか」

背中に覆い被さって耳やら頬やらにキスを浴びせてくるを捕まえ、透は首筋にチューチュー吸い付く。しかしイチャコラしていても冷蔵庫の中の液体は食材にはならない。パンツはともかくシャンプーがないとが言うので、ふたりは食事がてら買い物に出ることにした。

帰省している寮生が多いので、外廊下は静まり返っている。共用スペースの方を避けて階段を降りても、駐輪スペースに自転車がぎっちり詰まっているだけで、人の影も見えない。

「これじゃ確かに友達とかが来ててもバレないね」
「そもそも翔陽の生徒くらいなら、入っちゃダメという規則もないんだよ」
「んじゃ彼女とか連れ込んでても平気なの?」
「それで問題を起こさなければな。本当に必要があって入る時もあるわけだし」

セキュリティカードが必要な門を出ると、透はの手を取って繋ぐ。

「これも、いつ以来かな」
「やっぱり小学生の時じゃないか。あの頃は転んだり迷子になったりしないように、だったけど」
「今はそうじゃないから、こうしないとね」

言いながらは指を絡めて恋人繋ぎに直す。間違っても共に育った自宅周辺では出来ないことだ。自宅から遠く離れたこの町だから出来ることで、暗がりにぼんやりと浮かぶふたりの白い手がしっかりと繋がれている様子はくすぐったかった。

「何食べたい?」
「なんでもいいけど、予算大丈夫なの」
「普段節約してるし、その分こういう時に使わないとな」
「でも透のお腹が一杯になるとこって言ったら……
「食べ放題だろうな」

以前予選で敗北したあとに家族で焼き肉の食べ放題へ行った。その時の透はの軽く5倍くらいの量を平らげていて、いくら体が大きいからってよくその質量が体内に入るな、と全員を唖然とさせていた。それを思い出したの笑い声とともに、ふたりは歩き出した。

楽しい。あまりに楽しい。そして嬉しい。ただ手を繋いで歩いているだけなのに、胸がときめく。さっきからもう散々しているけど、キスしたかった。少し歩いたら立ち止まって抱き合ってキスしたかった。そしてまた手を繋いで歩きたい。

そんな気持ちでまずは駅近くの焼き肉食べ放題へとやってきたのだが、そもそもお盆休みである。店内は家族連れで満杯になっており、一時間待った。しかしそれも待ち合いの席でくっついて座り、顔を寄せ合って携帯でも覗き込んでいれば苦にならなかった。

たらふく食べて店を出ると、今度はのシャンプー。ディスカウントショップとドラッグストアが並んでいるので、またそこでああでもないこうでもないとウロついてしまい、やっと帰路につくと23時を回っていた。

だが、お盆休みの折、街は普段より人出が多く、23時を回っていても駅前は賑わっていた。その雑踏の中をふたりは手を繋いで寄り添って歩く。すれ違う人々は誰もふたりのことを奇異な目では見ない。ふたりを兄妹だとも思わない。ただちょっと彼氏の方が並外れて身長が高いだけ。

日が暮れてからずいぶん経つというのに街はまだむせ返るような熱気で満たされていて、湿度も高く、今夜も熱帯夜になりそうだ。その息苦しいまでの暑さに1年前の記憶がよみがえる。

……男の方が多かったろ」
「女の子は私を入れて3人しかいなかったもんね」
「あれは誰だったかな、ふたりくらいに言われたんだよ。妹かわいいじゃん、て」
「え」

祖父母世代がきょうだい、という繋がりの「ハトコ」は近親だという感覚も薄いのだろう。10代の頃はなぜ近親がタブーなのかということではなく、単に「イトコは結婚できる」という認識が先にくる。そうしたフィクションも多い。ハトコならもっと問題ない。

いきなりそんなことを聞かされたは目を丸くして肩をすくめた。

「それが腹立ってな。オレは完全に他人なのにダメで、ちょっとだけ血縁があるお前らはOKなんて、理不尽すぎるって。その上ゲーセンで遊んでる時にも平気で肩とか背中とか触ってて、夏で薄着なのに」

女の子のハトコたちにずっとベタベタくっつかれていたにそういう認識はなく、むしろ親戚のおじさんおばさんとはちゃんと話せるのに急にだんまりになってしまった透を不自然に感じていた。

「それで機嫌悪かったの?」
「外に遊びに出てからはな。その前は単にお前が可愛いかったから直視できなかった」

片手にフラッペドリンクで飲みながら歩いていたは思わずむせた。

「大丈夫か」
「あれはねえ、私、透が可愛いって思ってくれるかなって、わざわざ用意したの」
「それをあんな大人数のところで着るからバカが寄ってくるんだ」
……あの時ね、実は私、告られたあとでね」

雑踏の中、いきなりそんなことを聞かされた透はつい足を止めた。はその手を引っ張ってまた歩き出す。テスト休みが明けた頃、やはりほとんど面識のない男子に声をかけられ、付き合ってる人がいないならどうかと言われた。

「だけど、お盆休みに透に会えるってわかってから、その人の顔も思い出せなくなって、名前も忘れそうになってきて、全然ドキドキしなかったし、ぎゅってしてほしいなって思わなかったし、だけど、透にはそういう気持ちがあったから、断った。どうしても忘れられない人がいるから、って」

同じクラスや両隣のクラスになったこともなく、今でも顔は思い出せない。ただ中肉中背で、優しそうな人だったというくらいの印象しかなかった。対する透にはいつでも鮮烈な思いがあった。子供の頃に真面目な顔で「血の繋がりはない」と聞かされた記憶がそれに拍車をかけた。

「小学校高学年くらいかな、友達が急に透のことかっこいいって言い出して、きっと中学にもこういう女がいて、それに透がなびいちゃったらどうしようって、あの頃は本気で頭にきてて、もしよくわからん女と付き合ったら許さないと思ってたよ」

寮へと続く道のり、ふたりは橋の上に差し掛かった。の髪が熱風にひらりと舞い上がり、繋いだ手の中は汗をかいていた。川面にネオンの光が揺らめいて、は歩く速度を落とすと、橋の欄干に手をかけた。流れの緩やかな夏の川は少しだけ悪臭が漂う。

「だから、あの神社で抱き締められた時、思った。私たちはもうとっくにお互いのことが好きだったんだなって。そうか、お兄ちゃんも私のことが今でも好きだったんだ、って絶望したよ。そんなの、苦しむだけだと思ってたから」

透の方は今日の夕方までの方にも恋愛感情があるとは思っていなかったので、そうした相思相愛に絶望するなどという感覚になったことはなかった。だがは自分も兄が好きで、兄も自分が好きなのだという過酷な現実に1年間も耐えていた。だから、もう無理だったのだ。

……でも今、すごく嬉しい」
「ああ、そうだな。やっと自由になった気がする」
「ねえ、透」

橋の欄干から川面を眺めつつ並んでいたふたり、は昨日まで兄だった人を見上げた。

「やっぱり透より好きになれる人なんか、いないよ私。透が一番好き」
……帰るなら、まだ間に合うぞ」
……そうだね」

汗ばむ手をまた繋ぐと、透は風に前髪を揺らしながら背中を屈める。

「だけど……部屋の中に入ったら、もう帰さない。引き返すなら、今のうちだぞ」

それが何を意味するのかは、もう充分わかっている。血が繋がっていないから結婚できるよ! ふーん。で終わっていたあの頃とは違う。ぼんやりとしていて実態の見えない性教育を保健室で受けた頃とは違う。は深呼吸をしてしっかりと頷く。

「帰らない。私もずっと、そうしたかったから。透じゃないと、嫌だから」

そして一歩足を進めて声を潜めたは、小さい頃はずっと一緒にお風呂入ってたけどね、と言って笑った。それももう、10年近く前の話になる。透に任せておけば安全なので、は幼稚園の頃から兄とお風呂に入る毎日だった。

だが、もうそういう日々の記憶は捨てるのだ。兄と妹であった過去はいらない。ただ純粋に相手を愛するという気持ちだけを持って向き合う、花形透とになるのだ。この熱帯夜に肌を重ねることは、ある意味ではそれを確かめ合うふたりの儀式でもある。

二度と過去に帰らずに生きていくのだという覚悟をするための、決別の契りなのである。

ふたりはまた雑踏の中を歩き出す。まるで、どこにでもいるカップルのように。