熱帯夜

6

「夏頃から急に不安定になったというか、まあそういう時期なのかもしれないけど」

冬の大会の予選を控えていた11月、透は練習と並行して地道に期末の準備をしていたのだが、そこに父親から電話がかかってきた。今年も年末年始は帰らないのか、と確認してきたついでに、最近の様子がおかしいと言い出した。

そりゃおかしくもなるだろうさ、兄貴に愛の告白まがいのことをされたんだからな。

「お前は何か聞いてないか。友達とか、その、彼氏とか」
「うーん、聞いてないし、いないと思うけど」
「でもあの子も高校生になったし」
「中学の頃からそこそこモテてはいたんだけど、その気がないみたいなんだよな」
「へえ、そうだったのか」

父親としては心中複雑なのだろう、恋愛に積極的ではないと知ると、ちょっと声が弾んだ。

「おかしいって具体的にどうおかしいんだ」
「反抗的というほどでもないんだけど、考え込んでることが多くなって」
「まあそこは彼氏じゃなくても色々付き合いがめんどくさいんじゃないか?」

透は遠い記憶を引っ張り出し、が小学生の頃には既に「なんで他人に合わせなきゃいけないの」とげんなりしていた――というエピソードを聞かせてやった。父親本人は全般的に平均値を出ない人で、流行のものは良いものだから流行するのだろうし、それに乗っておけばハズレがない、というタイプの人なので、理解できないけど気持ちはわかると言って笑った。

「急にそんなことになったもんだから、お母さんが気にしすぎてて」
「でもあんまり干渉すると余計に殻に閉じこもるんじゃないか」
「そう。だからこのところずいぶん外泊が増えて」
「それで男を疑ってたのか」
「同じクラスに仲良しの子がいて、その子の家なんだけど、ついな」

そりゃあ兄と暮らした記憶だらけの家で母親に心配されてはストレスが溜まるに違いない。いっそ家を出て友人の部屋に転がり込んでいる方が安らぐ。の気持ちは手に取るようにわかる。だから自分も家を出たし、帰りたいとは思わない。

「自ら望んで音羽東に入るような子がそう簡単に堕落しないと思うけど。進学率100パー近いだろ」
「まあ確かに成績は落ちてない。そこは頑張ってるよ」
「だったらほっとけよ。余計な干渉はあとに遺恨として残るぞ」
「お前がそういうのないからわからないんだよ」
「真面目に生きてるオレが悪いみたいに言うなよ」
「だけどここ2年くらいのお前のことはよくわからんからな。そっちこそどうなんだ」

透はスッと息を吸い込んで腹に力を入れる。最近は嘘をつく機会が減ってしまって、子供の頃のように息をするようにスラスラと嘘をつけなくなってきた。あの頃は時間をかけて考えなくても、今この場で最適な嘘、というものが勝手に口から出てきたものだが、もうそんな嘘はつけなくなっていた。

「彼女作って遊んでる暇は正直ないんだけど……その辺はまあ、適当に」

父親は「なーにが適当にだ、お前もモテてんじゃないのか」と楽しそうに笑っていたが、とんでもない。あの夏の抱擁以来、透は女遊びをやめてしまった。やめてしまったというか、とうとう気持ちどころか体も反応しなくなってしまった。

だが、あの熱帯夜に両腕に抱き締めたの感触を思い出すと胸が締め付けられる。顔がカッと熱くなり、ドキドキしてくる。それは無意識の自然な反応で、止めようもなかった。

「もうすぐ世代交代だし、そうしたらオレ副主将だからな。来年の翔陽はもっと強くなるぞ。遊んでる暇なんかほんとにない。勝負の年なんだ。それによって大学も変わってくるかもしれないし」

既に都内の某大学から来年度の成績如何では推薦考えてみないかと打診を受けているので、出来ればそれを確実にし、その上でもっと高い評価を受けたいと考えている。インターハイはもちろん、そこではもっと上位を狙いたいし、本音を言えば優勝したい。それは嘘ではない。

だから、透はまた腹に力を入れて嘘をつくのだ。

「帰れそうな時は帰るようにするから、こっちのことも心配しなくていいよ」

頼むから、ほっといてくれ。実家のことは思い出したくないんだよ。

2年目の年末年始も寮で過ごした透は副主将として新たなスタートを切っており、この年の主将が監督を兼任していた事情もあって、コートの中のことは彼が請け負ってきた。また地道に積み上げてきた実績により校内ではその名の通り花形選手扱いをされ始め、またモテるようになった。

が、本人が遊ぶ気をなくしていたのと、卒業を控えた3年生が学校に来なくなったので年上の先輩がいなくなってしまい、透はすっかり女子から遠ざかっていた。これで4月に進級すれば最上級生、余計に校内の女子と関係を持ちたいとは思えなくなっていた。

それに、あの夏の夜から半年以上も経つというのに、やっぱりへの気持ちは冷めていなくて、いつかこの感情が消えてなくなれば家族に戻れるかもしれない、なんていう淡い期待は今のところ実現しそうにない。家族なんかもうどうでもいい。

育ててくれた父母に対して感謝の気持ちがないわけじゃない。どういう事情か幼い自分を引き取って今まで面倒見てくれたことには恩を感じるし、血を分けた子でもないのにと別け隔てなく育ててきたふたりを人間としては尊敬できる。

だが、そこまでだ。家族というものに、親愛の情を感じない。どうしても自分だけ異質な気がする。特に去年の夏、を抱き締めてしまって凹んでいた透は父母と同じ部屋で寝ていたのだが、彼らの近くにいると、その自然臭が鼻についてしまった。育った家の匂いのはずなのに。

まるで同じ寮生の部屋に入ったときのような、違和感を感じる匂いだった。

きっと実家に帰ったら違和感を感じる匂いで落ち着かないに違いない。そんな場所では安らげもしないし、隣にがいると思えば余計に心が騒ぐだろうし、に言ったように、帰る意味がないのだ。家族は他人、実家も落ち着かない、疲れるだけ。

父親も父親だ。たまに心配そうな声で電話をかけてくるが、どう考えてもあんたはオレが他人の子だって、わかってるはずじゃないか。そんなに心配しなくてもはちゃんとした子に育ってる。勉強も頑張ってるし、そりゃちょっと動揺して友達の家に逃げ込んでるかもしれないけど、そのくらい誰だってあることだ。そのままほっとけば高校卒業くらいまでにはケロッと治ってる。

実家……そう、あの家は、実家という名ばかりの、他人の家だ。

――と、透が実家に対する悶々とした気持ちを抱えていた3月のことだ。土曜に県内の高校との練習試合を行い、圧勝で気分良く週末を過ごした透だったが、月曜日の朝に高熱が出て病院送りになった。季節柄すぐに検査したところ、インフルエンザに感染していた。試合に勝ってウィルスもらってきた。

風邪くらいならともかく、インフルエンザは部屋に監禁、もしくは帰宅。それが翔陽運動部男子寮のルールである。十数年前に寮生全員が一斉にインフルエンザに罹るという事件が起こって以来の、絶対的ルールだ。なので透は大人しく部屋に籠ろうと思ったのだが、学校から連絡が行ってしまったらしく、父親が車で迎えに来てしまった。

すぐに治療薬が処方されて、それは薬局で受け取った直後に服用済みだが、数時間で高熱が下がるわけもなく、透は体温39.8度の朦朧とした頭で理路整然とした対応が出来ず、あれよあれよという間に車に詰め込まれて寮を後にしていた。

そしてテスト休みで自宅にいたに介助されて、2年ぶりの自分の部屋に押し込まれた。

「でも練習試合でウィルスもらってきたんなら、寮生みんな感染してるんじゃないの?」
「インフルエンザウィルスの潜伏期間は1日から2日だから、今日発症しなきゃ大丈夫だよ」
「だからお兄ちゃんは今朝熱が出たのか」
「で、さっき薬飲んだから、まあ戻れるのはどんなに早くても3日後くらいだろうな」
「へえ、そんなんで戻っていいの」

頭上でそんなやり取りをしていると父親の声を聞きながら、しかし透は高熱と寒気と頭痛と悪心と咳と鼻水でいっぱいいっぱいになっており、何も頭に入らないし、が近くにいるのはわかっていても、正直それどころではなかった。インフルエンザは小学生の時に罹って以来。しんどい。

「ま、薬はもう飲んだし、いずれ熱は下がるから大人しくしとけよ」
「これ水分ね。なくなったら連絡して。買い置きあるから」
……わかった」
「起きててもいいけど、消耗するからほどほどにな」

透は枕元に並べられたペットボトルを取り上げてキャップを開け、一気に流し込む。と父親はそれを見るでもなく、インフルエンザの症状についてをああだこうだと話し合いながら部屋を出ていってしまった。振り返りもしなかった。

高熱が出ていてぼんやりしているせいもあるが、透は一気に気が抜けてしまってベッドに倒れ込んだ。

あれ? なんか言うほど違和感ないな……

2年も離れていたというのに、自分の部屋は寮の部屋と同じ自分の匂いがした。我を忘れて抱き締めてしまったは心底心配しているようにも見えず、父親の方も、学校から電話きちゃったからしょうがなく迎えに行ったけどオレ仕事だよ「花形さんちお子さん高校生だったよね……?」みたいな目で見られちゃったよなどと言いつつ苦笑いだ。

なんか、何も変わってないな。

それに安堵する気持ちが少し、ひとり悶々としていたのが馬鹿らしくなる気持ちが少し、そして、オレが2年も帰らなくても何も変わらないのは、やっぱりオレが他人だからなんだろうな、と納得する気持ちが少し。それらを全部抱えたまま、透は眠りに落ちた。

透が眠ってしまったのは午後3時くらいのことだった。体力はあるが、そもそもそのせいで体調不良とはあまり縁がないので、突然の高熱はしんどかった。なので、ハッと目が覚めると夜中の1時だった。正直まだ眠れる気がしたが、昼から飲まず食わず、薬も飲んでいない。

だが、熱はだいぶ下がっているような気がする。腕を突っ張って起き上がり、枕元に置いてあったペットボトルの水を流し込むと透は立ち上がってみた。途端に視界が歪み、目眩に襲われてベッドに尻餅をついた。こんな高熱、小学生の時以来だもんな――

思考もずいぶんクリアになった気がしていたけれど、壁一枚隔てた隣の部屋でが眠っているということも思い出さないまま、透はマスクをかけて部屋を出た。空腹感は感じないが、消耗してるなら少しは補給せねばならないし、薬も飲みたい。

足音を立てないようにそっと……ではなく、熱でフラフラしているので力が入らず、滑るようにして階下に降りていく。寝起きで目が腫れぼったいが、電気をつけなくても迷うことなくキッチンにたどり着く。何も変わらない、見慣れたキッチンだった。

冷蔵庫を開けるとよく冷えたスポーツドリンクがあったので、水とともに引っ張り出しておく。そしてラップにくるまったクリームシチューと苺を見つけた。おそらく透用に残しておいたものだろう。それらも出して、シチューはレンジにかける。レンジも指が勝手に温めのボタンを押す。

他人の中に紛れ込んだだけの家族だっていうのに、この家はどうしてもオレの「実家」なんだな。

冷えて固くなったシチューが温まっていく様子をぼんやり眺めていると、背後でドアが開く音がした。

「あら、起きたの? 熱計った?」
……母さん」
「それシチュー? 苺もあるでしょ」
「あ、ああ、見つけた」
「それで足りる? 私去年インフルやったんだけど、ほとんど食べられなくて」

主に透を心配して電話をかけてくるのは父親だった。だから、母とも昨年の夏以来となる。一瞬緊張してしまった透だったが、風呂上がりらしい母親は事もなげに後ろを通り過ぎると冷蔵庫から炭酸水を取り出してゴクゴクと飲み干す。

「ほら、体温計。寝てて薬飲んでないんでしょ」
「今起きた」
「寝てるだけでも体の中は大戦争状態だからね。ちゃんと食べて寝るのが早道よ」

ダイニングテーブルに寄りかかって熱を測る。アラームが鳴ったので体温計を取り出してみると、38度ちょうどだった。早くも熱が下がり始めているらしい。

「寮は金曜日になったら戻っていいって話だったよ。またお父さんが送ってくれるって」
「ごめん」
「それまでちゃんと寝てなさいよ。今週昼間はいるから何かあったら頼んで」
「わかった」
「シチュー足りなかったらまだあるはずよ。冷蔵庫ん中探してね」
「えっ、これ母さんが作ったんじゃないの」
「それは。私も年度末で忙しいのよ」

母親もことさらベタベタと労るわけでもなく、洗面所に髪を乾かしに行ってしまった。それでなくとも既に深夜1時、明日も仕事の彼女はさっさと休みたいだろう。透はふらつく体でダイニングテーブルに座り、温まったシチューを口に運ぶ。

母はが作ったものだと言うけれど、透の口には慣れた「家のシチュー」の味しかしなかった。は母に教わってシチューの作り方を学んだのだろうし、それは何もおかしなことではないはずなのだが、なぜだかそれが少しだけ透の胸をチクリと刺した。

昔みたいに、と差し向かいになって飯とか食いたいな。テレビの話とか、友達の話とか、そういうどうでもいいこと喋りながら食べて、またテレビ見て、風呂入って、ゲームして、並んだベッドに寝て、豆電球の明かりの中で、おやすみって言って眠りにつく。

シチューを平らげた透はきちんと皿を片付けると、またヨロヨロしながら部屋に戻る。そこでやっと鍵もかかっていないドアの向こうにはが寝ているのだと気付いたけれど、今は発作のように押し寄せる強い感情が湧いてこなかった。

を恋しいと思う気持ちはなくならないけれど、それがあるために離れるしかなかったともう一度子供の頃のように過ごしたいと思った。以前のように、出来るなら。

透の熱は薬を飲んだ翌日にはすっかり平熱まで下がり、そこからは日に3度のタイミングで薬も服用したので症状も落ち着き、木曜日頃になると多少のふらつきを残すだけになった。金曜になったら寮に戻っていいと言われているのでもう一晩実家だが、なんとか心穏やかなままでいられそうだ。

「えー、いいなあ乾燥機」
「しかも業務用みたいなでっかいやつ」
「ええええ、いいなあー。コインランドリー遠いんだよなあ」

その日の夕方、洗濯物があればまとめておいてほしい、とがランドリーバスケットを持ってきた。両親とも仕事が忙しくて不在であることが多いので、その分がかなりの割合で家事を担当しているらしい。寮には乾燥機完備だと言う透に、はむくれた。うち乾燥機ない。

「運動部は特に試合で汚したものとか放置しとくと落ちなくなるからな」
「ふぅん、自分で洗わなきゃいけないってのはいいね。ママの苦労がわかる」
「残念、オレらは室内競技」

普通だ。あまりにも普通に話せている。まるであの息苦しいほどの熱帯夜に起こったことなど夢幻だったかのように、透はと普通に話している。は洗濯済みのバスタオルやTシャツを机の上に積み上げ、それはずるい、と笑っている。

「あ、そうだ、お母さんがスポドリとか買っておいたから持ってって、って」
「いいのに、そんなの」
「お母さん今ほんとに忙しくて――あれ、まだなんか顔赤いけど大丈夫?」
「えっ、熱は平熱なんだけど。まあ、多少のふらつきは――

諸症状はすっかり落ち着いたが高熱が出ていたときのような浮遊感がまだ抜けていなくて、明日には帰れるのだとしても練習に完全復帰できるのはもう少しかかるかもしれないな、などと考えていた透だったが、いきなり額にの手が触れたので、弾かれたように顔を上げた。

「うん、もう熱くない、けど練習はもう少し様子見た方がいいかもよ」

はそんなことを言いながらうんうんと頷いている。透はその手を素早く掴んだ。

「えっ……

か細く、薄っぺらな乾いた声だった。いきなり手を掴まれたは勢い身を引いて怯えた目をしていた。透の大きな手で包まれた指が強張っている。

透は透で、ほぼ無意識に掴んでしまったので愕然としていた。の手が、指が額に触れた瞬間、穏やかでいられたはずの心が騒ぎ、心臓は痛むほどに跳ね、やっと楽になってきた体に火を付け、胸がぎゅうっと締め付けられる。

やっぱり、ダメなのか。

透はの手をぽいと放り出し、わざとらしく俯いて携帯に目を落とす。

……そうする。もう、大丈夫だから」

はまた消え入りそうな声で返事をすると、そのまま部屋を出ていった。

透は頭を抱えた。ちっとも大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。

熱なんか、これっぽっちも下がっていない。